(12/8-2)342【降魔成道記念日1985年12月8日】経典『太陽の法』を読む 太陽のメッセージ―いま真理の太陽が昇る1―孔子の働き

『太陽の法』を読む

77 和して同じず。チームワークの中心に、経営理念を一本通せ。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)

本日は12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ 
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。

12/8(日)~10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致します。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。

主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。

さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日からは『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】

また、後半では、『永遠の法』も少しずつ読んでまいります。『永遠の法』は、エル・カンターレの空間論についての教えです。
経典をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税込み2200円】

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太陽のメッセージPart1
第一章「いま真理の太陽が昇る」
1出発点

「幸福の科学」の基本的な考え方として、真理というものが、唯一のものから出てきているということを前提にしています。諸教、諸宗派、その形は違っても、出ている源は一つであって、その現われ方が時代と地域によって変わっているのだという前提を出しているわけです。このことは、かなりの数の「幸福の科学」の本を読まれた方がたはもはや当然と思っておられるかもしれません。しかしながら、ほかのいくつかの団体や教えに属している人から見れば、これは当然のことではないのです。むしろ、意外な感じを受けているといってもよいと思います。

地上に降りた人間の認識力というものは極めて低いものであり、自分の見える範囲、聞ける範囲、接することができる範囲でしか世界をつかむことができないという悲しい現実があるのです。トータルで真理というものをとらえ、仏教も、キリスト教も、他の宗教も、元をただせば根源なる意志が、さまざまな人格的な高級霊を通して現われてきている姿にすぎないという考えか方は、世界的に見たならば、ごくごく少数派であると考えてよいと思います。このような考え方自体が、一般的には受け入れられるものではないのです。

霊的なものを信ずる人が、日本人のうちに五十%いるとして、それらの人が何らかの団体に所属しているとしても、このような考え方をストレートに受け入れられるかどうかといえば、やはり非常に難しいと言ってよいでしよう。したがって、みなさんが真理の縁に触れられて、この真理というものが唯一のものから出てきているという前提を常識と考えられて、これを当然だと思い、他の人に押し付けようと思っても、なかなかそう簡単に通るものではないということであります。

たとえば、キリスト教関係の方にこのような話をしたとしても、まずこの最初の前提からして納得がいかないと思います。彼らは、イエス様を通して述べられた教えこそが真理であって、歴史において他によいものもあったかもしれないけれども、それは教えとして認められていない、ということで頑固に頑張られるのがその筋であろうと思います。

また仏教の方においても似たような考え方はありましょう。仏教で僧侶をしておられるご本職の方が、もしこのような考え方を公式に持っておられるとするならば、やはり僧侶しての仕事がやりづらいというのが現状であると思います。

しかし、真理は真理であります。世のみなさま方が、あるいは過去の人々が認めようが認めまいが真実は真実であります。ここに私たちの立脚点、およびその出発点があるということを確認していただきたいと思います。

また「神や仏があるというならば、何ゆえに宗教があれほど醜い姿をさらしているのか、争いが絶えないのか。」という無神論者、あるいは知識人たちの批判にこたえるとするならば、「真実はそうではなかった。一時期、太陽が雲の間に隠れることはあったとしても、けっして消えることはなかった。その証明として、過去いろいろな光の天使たちが現実に地上に降りてさまざまな教えを説き、数多くの偉業をなしてきたのだ。」と、言うことができます。この光の天使たちの活躍の詳しい説明は『黄金の法』のなかに述べられているとおりであります。

したがって、世界が光を欲しているときに、真理の太陽が昇らないことはなく、また、神は人びとが欲しているときに救いの手を伸ばさなかったことはない。このような前提があるということをまず押さえていただきたいと思います。

2神を知る手がかり

神とは何かということについて述べてみたいと思います。いわゆる神の存在証明の問題についてであります。これも世の知識人あるいは、このような考え方について批判的な人々に対する、反批判あるいは強烈な一撃として出された考え方です。

無神論者たちの考え方は「神などと言っても、その存在証明ができた人はいないではないか。見たこともないものを、どうやって信じることができるのか。」というものであります。真理に触れられた方の多くも、いろいな人に真理を説こうとして、まったく同じ壁にぶつかってられたのではないでしょうか。

さて、このような考え方に対しての答えがここに一つあります。それは、「確かに直接証明として神の存在を説き、そして世に納得せしめた人はいないかもしれない。それはそのとおりであろう。しかし、神の間接証明に成功した人はかなりの数いるのです。」ということであります。

その間接証明とは、全知全能の神の存在があって、それにそば近き人間であればやはり、その神の能力に近き能力を発揮することができたという事実です。たとえば、「現象」がそうです。霊的現象を示してきた人は過去に数多くおりましたし、現在も数多くおります。私自身もそのような「現象」をお見せしていることにもなっていると思います。

そして、もう一つ、どうしても否定しがたい事実があります。釈迦、キリスト、モーゼというような三人の偉人が人類史のなかにおりますが、彼らは決してまだ伝説の人とはなっていないということです。ギリシャ神話の時代になれば、伝説の人だと思う方も多いかもしれませんが、この釈迦とキリストとモーゼは明らかに実在の人であったわけです。もちろん、あと二千年もすれば、キリストらも架空の人、伝説の人になるかもしれませんが、現時点で明らかに実在の人であったと信じられているということです。

そして、この実在の人であった三人の巨人が、いずれも神、あるいは仏と、言葉は違えども根源なるものを信じ、そしてそれを証明しようとして努力されてきました。このように数十年の人生を確かに生き、死んでいったという現実があるのです。釈迦やキリストやモーゼのような人類史の偉人たちが、今、神や仏のことを話す方々を馬鹿にしたり冷笑したりする人たちよりも、劣るような人かどうかをよくよく考えていただきたいと思うのです。

神仏や仏の実在を否定するような人たちに、「あなたは、イエス・キリスト以上の人格をお持ちですか。あるいは釈尊以上の知恵をお持ちでしょうか。もしそうならば、その証明をしていただきたい。できましょうか。」と問いかけたならば、納得がいくような説明ができる方はいらっしゃらないでしょう。逆に問いかけたならば、証明することができないわけです。人間として生きて、釈尊以上の知恵を持っていること、イエス以上の人格者であることを、証明することはできません。

なかには、「イエスは頭が狂っていて、神がいるなどという思想に取り憑かれて、気違いじみたことをやったにすぎない。」という方もいるかもしれません。このようなひとには「それでは聖書のなかに語られているこのイエスの語った言葉、これを見てあなたはどう思われますか。これがほんとうの絵空事だと思えるでしょうか。この言っていることに間違いがあるでしょうか。神とか霊とかいう言葉をはずしたとしても、その愛の教えのなかに間違いがはたしてあるでしょうか。また、釈尊が説き来たり説き去った言葉、すでに二千数百年の歴史を経ておりますが、その言っている内容に、何か常識人が見て、ほんとうに違っているということがありましょうか。思想家として見て、これ以上の思想家が出ていたでしょうか。どうでし・

�うか。」と問いかけることができるのです。

したがって、霊とか神とかいうものが信じられず、馬鹿馬鹿しいという方は、「釈尊、キリスト、モーゼといった歴史上の偉人たちは霊や神を信じていたけれども、かくいうあなた自身は、彼ら以上の認識力と知恵をお持ちであるということを証明でき、彼らを裁けるだけの人間であるということをほんとうに証明できましょうか。」と問われたときに、沈黙せざるを得ないのであります。

なぜならば、歴史の風雪に耐えた偉人の業績というものは、燦然たるものであって、少々の人々の批判では動かないからです。このような実績をつくるにふさわしい努力もまた、彼ら自身してこられたわけであります。

したがってまず、自称、無神論者、あるいは科学的と自認する人に対して問うとするならば、「歴史のなかにどれだけ偉大な人物がいたかということを知っていますか。歴史のなかの偉人たちのなかで、ほんとうに神仏を信じていた人はいくらでもいましたし、偉人の歴史を調べてみれば、その八割以上の人がやはり、なんらかのかたちで神というものとの遭遇を経験しているのです。そして、神を信じていた人は多いのです。そうした人たちが、ほんとうに物笑いにされるような人たちであったでしょうか。もしそうであるならば、人類の歴史そのものにいったい何の値打ちがあったのですか。その歴史そのものを疑ってかからねばなりません。そうではないでしょうか。」ということが言えると思います。

ですから、こういった人はまず、謙虚になる必要があります。過去の歴史において、現在の自分以上の知者も、現在の自分以上の人格者もいたという事実、これはをまず素直に認めなければいけないのです。そのような人がいて、そして神を信じているという事実がある以上、その事実について、あるいは彼らの思想について、もっと虚心坦懐に学んでみるべきではないでしょうか。学んでみて、学び尽くして、初めて批判するのはよいのですが、学んでもいないのに批判するのは甘いということであります。

「人生の探究は、どこかで必ず神の存在にぶつからざるをえません。神を知る手がかりは人生の随所にちりばめられています。」と『太陽の法』に書きましたが、そのとおりです。やはり、この問題と遭遇しないでは、本当に人生を生き切ったとはいえないのです。そこで私は、本書全体を通じて、この「神とは何か。神は何を考えておられるのか。神は何を意図しておられるのか。」ということを説明してみたいと思います。

3 釈迦の「存在と時間」

「存在と時間」についての基本的な考え方を述べてみたいと思います。

「存在と時間」と言いますと、きわめて現代的な響きでありますが、これが仏教の教説そのものなのであります。釈迦が説いていた教えは実はこういうことであったというと驚かれるかもしれませんが、実際に釈迦は、「存在と時間」について語っていたのです。これについての詳しい説明は、『釈迦の本心』のなかにも述べてありますが、(『釈迦の本心』第五章「縁起の法」)業の思想、縁起の思想、こうしたものは実はこの「存在と時間」にかかわる思想であったわけです。そして、この人類、あるいは地上に棲んでいる他の生きとし生けるもの、すべてにあてはまる法則があり、その法則こそ生々流転(しょうじょうるてん)の法則であり、それは普遍の法則であるということを説いています。

この生々流転の法則は人間であれ、動物であれ、植物であれ、鉱物であれ、微生物であり、全てそのルールのもとにあります。この地上のものには、誕生の時があり、成長のときがあり、衰退のときがあり、そして消滅のときがあるということです。人間にしても、誕生のときがあり、そして成人していく過程があり、老化する過程があり、そして必ず死去せざるをえません。物でもそうです。自動車でも、創られるときがあり、それがいろいろな人の使用に供されることもあり、そうして、やがて故障して、その姿を消していくのです。スクラップになって、ほかのものにまた変わっていくでしょう。

このような循環の法則があるということなのです。これが人生を貫き、またこの地上の様々な生物、すべての存在に対して、あてはまる法則であるわけです。別の言葉で言うならば、この三次元現象の存在はすべて変転の時間を内包しているということです。これはきわめて難しい哲学ん的な議論でありますが、存在のなかに時間が内包されている、変転の時間が内包されているということを言っているわけです。けっして静止した存在ではなく、全てのものは変転を前提として存在することが許されているのです。

この「存在と時間」に関する考え方は、ドイツの哲学者のハイデッガーという人も出しています。彼についても、『黄金の法』では述べておりますが、(『黄金の法』p90、p128)やはりこのハイデッカーに対して、インスピレーションはかなり降りていたわけで、そのインスピレーションを出していたもとはひとつで、同じ源から出ているのです。

このように、存在の定義としては、流転するという性質があり、時間を内包しているということ、このことを述べたいと思います。

4 変化するもののうちにある不変の理念

この「存在と時間」から霊魂の存在を推定させる説明が続いていくのであります。

たとえば、私自身の肉体、大川隆法と呼ばれていますが、これを構成している細胞の数は何十兆という莫大な数であるといわれております。その細胞の一つひとつは、何十日か何百日かたてば、すべて死滅して新しいものに代わっています。しかし、一年たとうが二年たとうが、私は私の個性として、実体として存在しつづけております。この実態を存在させているものがいったい何であるかということなのです。何十兆もの細胞があって、そのぞれが勝手に点滅するランプのようにできたり消えたりしているわけです。しかしながら、どのようなことがあっても、私自身は、私の個性として存在している。これはいったいどのようなことなのだろうかということなのです。

植物にしてもそうです。一本の花を花たらしているものは、いったい何でしょうか。毎日毎日、植物は伸びてゆき、やがては花が開いてゆきます。その姿は変化していきますが、やはり菊の花は菊の花として、水仙の花は水仙の花として、チューリップはチューリップとして、存在しているのであります。昨日と今日とでは姿が違っても同じ存在なのです。ここを統一しているものはいったい何なのでしょうか。

動物でもそうであります。いろいろと変化していきますが、その個性を統一しているものがあるのです。この個性を統一しているものこそ、魂といわれているものの正体であるということなのです。

【大川隆法『太陽のメッセージ』第一章「いま真理の太陽が昇る」より抜粋】
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続きまして、経典『永遠の法』より、空間(霊界構造)に関する教えを振り返ります。
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第六章 九次元の世界
7孔子の働き
これ以外に、変わった生命体として、中国に生まれた孔子がいます。すでに述べたとおり、この方は主として学問の神様のような方です。学問とは高きから低きへと流れていくものです。すなわち、孔子という生命体は、秩序というものを主として教えてきたのです。

秩序とは、調和を生み出すための一つの方法論だといえます。「進歩と知用和という二大目的をもって、人類は魂修行をしている」ということをのべましたが、調和においては特に秩序が大事です。

支配と被支配の関係、権力と服従の関係というものがありますが、「仏に近い者が上に立ち、そうでない者が下に立つという、仏の心にかなった形での秩序をいかにしてつくるか」ということのために、孔子は主として活動してきたのです。

「学問を通して、道というものを通して、いかに整然とした世界をつくっていくか。仏の心を心とした秩序世界をつくっていくか」ということが、孔子が主として考えていることなのです。

釈迦のように、頭脳として指揮命令系統を司ったり、人体に血管をはりめぐらしたりする役割もあれば、イエスのように、血液を送る役割の人もいる。また、孔子のように、秩序というものを設けて、人間相互の関係を調整していく人もいる。このようになっているのです。

人類の長年の歴史を見てくると、孔子の役割によって、非常に整然とした社会ができてきたことは事実です。天上界においても、上段階霊とそうでない霊とがあって、整然とした世界がつくり上げられていますが、こうした世界をつくり上げるにあたっては、孔子が非常に大きな働きを果たしてきたのです。

孔子はいまから一万数千年前にアトランティスに出て、オシリスと呼ばれたことがあります。その後、エジプトの地にさまざまな光の指導霊が出たときには、彼らをオシリスという名前で指導しました。

「何が善で何が悪であるか」「何が上で何が下であるか」ということをオシリスが教えたことが、「オシリスの秤によって、人が善霊と悪霊に分けられる」という伝説となり、ピラミッドのなかの壁画として遺っています。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第6章「九次元の世界」より抜粋】
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本日の『永遠の法』では、孔子様がアトランティスに転生していて「オシリス」と呼ばれていたという事実が明らかにされています。

また、『秩序とは、調和を生み出すための一つの方法論だといえます。「進歩と知用和という二大目的をもって、人類は魂修行をしている」ということをのべましたが、調和においては特に秩序が大事です。』という教えにおいて、秩序と調和の関係について学ぶことができました。このことを同じ紫系統の日本神道と考えると、孔子様が学問による知恵をもとに秩序による調和を図っているのに対して、日本神道は、同じ秩序を重んじるなかでも、知恵の裏づけが充分ではないのではないかと考えられます。

各時代、文明において、善悪、上下、価値観をしっかり整える役割が孔子様の役割として与えられているところが大変印象的でした。
孔子様の魂の兄弟は、江戸時代末に佐藤一斉として転生しており、このときも、時代の方向性に善悪の道筋をつけらてれいる印象を受けます。時代の変革時に神の計画を整えるために地上に下生しておられるようです。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史 

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