(12/23-1)357経典『太陽の法』を読む 太陽のメッセージ2―悟りとは何か、その極致とは1―如来の条件

『太陽の法』を読む

92 コロナパンデミックも、戦争も、いつかは終わる。その先の未来の建設を考え続けよ。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。本年も残すところわずかとなりました。
主から本年一年に賜りましたご指導に対して、心からの感謝を捧げます。「エル・カンターレへの感謝・報恩研修」は年末まで開催しています。個別対応もいたしますので、ぜひ受講ください。

「エル・カンターレの感謝・報恩研修」の趣旨は以下のとおりです。

①「エル・カンターレの感謝・報恩研修」では、本年の「大川隆法総裁先生 
復活の祈り」や、信仰の純粋化シリーズの公案研修、御法話研修、御法話セミナー、原曲研修等の学びを振り返り、改めて、主への感謝を深め、報恩の思いを共に固めます。

②仏法真理をお説きくださる主への感謝を深め、3500 回を超える御説法や、3150 書を超える経典、450 
曲を超える楽曲、さらに祈願、精舎修行等の価値をあらためて実感していただくことで、御法話拝聴者や経典・楽曲普及、精舎修行参加者の増大につなげます。

③「大川隆法総裁先生 
復活の祈り」において、主が根本仏であられ、造物主であられることへの理解を深める。そして、純粋な信仰心によって、主のご復活への祈りを捧げ、主が願われる信仰者へと新生することを誓います。

さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日からは経典『太陽のメッセージ』part2を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】

また、後半では、本日より経典『復活の法』第三章より『永遠の法』講義として賜りました御法話「天国に還る方法」を学んでまいります。
経典『復活の法』をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税抜き1800円】
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太陽のメッセージPart2
第1章「悟りとは何か、その極致とは」
1 悟りの奥行き

「悟り」について語ってまいりたいと思います。これは幸福の科学の教えではメインの部分に近いでしょう。奥行きもそうとうありますから、ほんとうはいくらやっても終わりはありません。やはり一章ぐらいの講義ではとても終わりそうもないといいう感じがいたします。なぜならば、この『太陽の法』の第4章「悟りの極致」あたりに書いてある悟りの内容といっても、まだまだ入り口であるからなのです。ひじょうに初歩の段階であって、このあたりは私としての講義を早めに終わらせ、講師のほうに譲っていきたいと思っているのです。そして足場をつくり、さらに次の段階へと進んでいきたいと思っています。

本のスケールもだんだんと大きくなりますし、『観自在力』という本を読み返しておりまして、もう少し大きな創世記といいますか、地球創造の物理学のような、何かそのようなことをテーマとして本にしたいなというイメージが、インスピレーションとして降りてくるのです。はたしてどのように地球ができたのかということも興味深い本になるだろうと思います。(※1988年末時点)それを本にしようと思えばすぐにできるのでありますが、単に一つのイメージだけが降りてくるのではなく、あっちからもこっちからもいろいろとイメージが出てくるものですから、肉体人間の限界というものを非常に感じています。

やはり、三次元存在でありますと、能力がずっと落ちてくるのはどうしようもないようです。そのような霊肉の葛藤というものは、私自身にもありますし、おそらくみなさん方自身にもあると思うのです。

『観自在力』のなかでは、この霊能力のことを、神の光がまゆのなかに宿っているようなものだという説明をしております。まゆのなかに豆ランプのようなものが入っていて光を出しているのです。光を出してはいるけれども、いかんせんまゆがあるために、なかなか光が外へ漏れてこないのです。それで多少光が漏れてきたあたりの人を霊能者といっているのであって、本来の光そのものはなかなか出てくることができないのです。このような感覚を私自身もひじょうに感じています。

2 観自在力への三次元的な歯止め

観自在力といっても、これはほんとうにきりがない内容で、私自身が今どの程度まで観自在力を使っているかということを考えてみたのでありますが、現段階、どうみても持っている能力の一〇パーセント以上は出していないのです。平常使っているのはだいたい二、三パーセントくらいだと思います。そして、マックス(最高値)にしても一〇パーセントぐらいであると思えるのです。これ以上出せば人間ではなくなってくるのです。ですから、それ以上はこの能力を出すことができないわけなのです。

なぜ人間ではなくなるかといいますと、たとえばある人のほうを向いて、ぱっとその人の意識をみると一秒単位で連続して、百万年ぐらい前からのその人の姿や過去の記憶などが全部見えてきてしまうからなのです。一人だけではなく、まわりにいる人のことも同時に見えてきたりします。このようなことをしはじめますと、当然ながら人間としては生活していられなくなるのです。

したがって、この意味で、これは歯止めをかけなければいけないのです。絞りをかけなければ、この世とひじょうに遊離してくるのです。そして十年後に起きるようなこともあたかも明日起きることのように感じはじめるので、この世的な発言とはひじょうに違ってくるわけです。

そうして絞りをかけていても、やはり多少は出てくるのです。たとえば、職場で社員が働いているのを見ていましても、どうも遅く見えてしかたがないということがあります。何かどうもかたつむりがはっているように見えてくるのです。ですから本来の能力を全部開放すれば、いったいどのようになるのかといえば興味はありますが、やはりそれをするわけにはいきません。人間として生活ができなくなってきますので、どうしても押さえが必要なのです。

この押さえの部分のことを、漏尽通力というのです。これはもうすでに『漏尽通力』などで勉強されている方もいらっしゃると思います。この観自在力を押さえている漏尽通力の絞り、あるいは縛りというものをはずせばどうなるかという観点があります。

悟りということも霊的能力としての観自在力とひじょうに関係がありますので、その話を進めていきたいと思います。

3 悟りの道標

ここでは、悟りとは何かという話からはじめていきたいと思います。悟りということについては、哲学的悟りと道徳的悟り、あるいは教育的悟り、それから宗教的悟りという違いがあると思いますが、まず出発点をあきらかにする必要があるわけです。そこで宗教的な悟りにおいては、神仏との関係において悟りが語られるという点を抜くわけにはまいりません。哲学やその他のものであれば、このあたりをなしに語られることが多いでありましょう。科学などでも、ある意味では、悟りを求めているのです。

現代化学においても、あるいはサイエンスのほうの科学にしても物理学にしても、真理を追究しているのです。この真理を得るということも、ひとつの悟りのかたちであることは事実です。ただ、その奥に神仏とのかかわりというものがはっきり出てこないがゆえに、宗教的な悟りとはならないということになるわけです。

私は『太陽の法』において、「悟りとは、神仏のつくられたこの世界の原理を究明しながらも、自ら自身が神仏に近づいてゆくといことです。そういう意味では、悟りには、限界がありません。つまり、『悟った』ということは、永遠にありえないことなのです。」と定義しております。ただ、一定の段階を考えたときに、その段階に応じた悟りということは考えることができますし、またそのような程度の問題としてありうるということです。

これは何の世界においても言えることでありまして、たとえば英語が上達することには限界がありません。けれども、英語の達人とはいっても、どの程度の達人であるのか、やはりレベルに差があるのです。これは考えてみればわかることでありますが、日本語の達人といっても、その差はもちろんあるわけで、完成した日本語の達人というものはありえないのです。また、どのあたりのところまでいけば最高の日本語といえるのかどうか、ということがわからないのです。

同じように、宗教的悟りにおいても段階があり、究極とまでにはなかなか達することができないのです。ただ実力が上であるという感じは明らかにあって、一定のラインをひくことはできるのです。そして、このラインについては、いろいろな角度でお話をさせていただいているわけなのです。

したがって、本書の前提となっている『太陽の法』自体が、一つの「悟りの書」でもあると考えます。それも、かなりレベルの高い悟りであるといえるのではないでしょうか。この一冊の本に盛られた内容については、これだけの悟りが過去にまとまったかたちでだされたということはなかったと思います。その意味で、この一冊を学ぶということは、過去の時代において、如来格で出た人たちでさえも到達していない内容のものを学ぶということなのです。如来といえども明らかに到達していなかったといえる、そのくらいの内容であります。

ただ、これを読んでどこまで行くことができるかは、学ばれるみなさま方しだいでありまして、ひじょうにばらつきが出てくることでありましょう。残念ながら地獄界でとどまる方もあれば、ずっと上のほうまで登ってゆく方もいらっしゃることと思います。そのような差はあるということです。

4 何のために三次元世界で悟りを求めるのか

古い言葉ですが、「悟りの功徳」ということについて述べてみたいと思います。この「悟りの功徳」、すなわち何のために悟るのか、悟ってどうなるのかということについて、これをまず地上の人間の目標と使命という点から考えてみまょう。

天上界ではすべての人の心がガラス張りで、お互いの心がだれにでもわかるため、不調和な心ではいられないということを、すでに学ばれている方もいらっしゃることと思います。そして四次元以降の世界では、意識の差がありすぎると、同じところに住むことはできないのです。

しかし地上界では、これがおもしろいことに、この点がまったく違った感じになってきているのです。読者のみなさんのなかにもいろいろなレベルの意識の方がいらっしゃることでありましょう。すでに光が出かかっている人もいれば、今はまったく出ていないけれども、もしかすれば、まもなく光るかもしれないという人もおりますし、光る可能性が全然ないと思われる人もいて、いろいろなレベルにあるのです。どの程度の光の素質を持っているのか、また現に放ちつつあるのか、さっぱりわからないのです。だから、おもしろいのです。

ここに、三次元世界の意味のひとつがあるのです。ところが実在界においては、これがありえないこととなってくるのです。その意味で、魂にとっては、ひじょうに大きな経験です。お互いに多少、目隠しされた感じになっておりますが、このようなところでいっしょに切磋琢磨ができるのです。これは、むしろ悟りのレベルや魂の霊格において四次元・五次元レベルの人がひじょうに得ることが多いというだけではなく、如来や菩薩といわれる方であっても、このような玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の世界に出されるということは、ひじょうに魂の修行となるのです。これはもちろんそのとおりで、いろいろと学ぶことが多いのです。

5 悟りの武者修行

自分と同じような意識レベルの人とばかり話をしていますと、当然とばかりに思っていることがたくさんあるのです。共通認識で当然であると思っているけれども、実はこれが違うところへ行けば全然通じなくなることがあります。あとで、これはいったいどういうことであったのかと、根源からさかのぼって考え直してみなければどうしようにもわからないことがあるのです。

たとえばみなさん方の間では、幸福の科学に一年以上もいらっしゃる方どうしであれば、だいたい基本的な知識があるために話がよく通じます。しかし、それをよそに行って話をしても、全然チンプンカンプンなのです。これは外へ出て見なければやはり修行にならない部分であるのです。いつも同じ仲間とばかり話をしていれば、やはりその世界では当然のごとく、十四次元ではどうだ、十五次元ではこうだとやっているわけなのです。ところが、これが外へ行けばまったく通じないこととなるのです。これと同じように、やはり三次元に出るということを時どきやらなければ、全然違う世界のなかで浮いてしまうことになるのです。

ですから高次元の霊たちであっても、いったん地上に出て修行するということには意味があります。「オギャアと赤ん坊として生まれて、平等に人生をやり直す機会が与えられているのです。すなわち、悟りの功徳とは、人生のやり直しがきくというところにあるのです。」と『太陽の法』のなかに書いてあります。これを考えてみますと、ひじょうおもしろいことだと思います。やり直しがきくのです。

現に高次元に住んでいる人たちにとっては、果たして元のところへ戻てこれるのかどうかがわからないので、多少危険なところもあるのです。しかし、地獄からやっとはい上がってきたような人にとっては、いわば敗者復活戦でありますから、みんなはりきって「見ておれ、この次は」と思って出てきているわけなのです。このような人でもあとでまたストーンと堕ちたり、あるいは、うまく上がれたりするのです。このように同じリングに出してくれるというわけでありますからおもしろいのです。

この意味で、この三次元はチャンスと希望に満ちた世界です。地球上でもニューヨークなどは、いろいろな希望と期待をもってさまざまな人が集まってきており、過去百年くらいは人種のるつぼのようになってまいりましたけれども、そのような面が地上世界自体にもあるわけです。夢と希望を持ってみんなが集まるなかで、うまくいく人は大成功し、失敗する人は退廃して、スラム街などでもすごいところがありますが、あのような感じになったりするわけでありまして、けっきょく、よい面と悪い面の両方がありうるわけなのです。

そこで、私なりの悟りの定義をあげてみたいと思います。

「悟りとは、人生のやりなおしをする過程で、さらに霊性、神性を磨くことですが、その霊性、神性を磨く方法とはなんなのかを考えると、そこには、さまざまな可能性と無限の道が用意されていることに気づきます。」

ここに世界的宗教、あるいは他の宗教への考え方というのが出されているわけです。これは『幸福の科学入門』などでも出されている考えでありますが、わりあい寛容な考え方を持っていますし、そうとう大枠でつかんで考えているところがあります。

6 人類の叡智に対する敬意

私の基本的な立場は、過去の教えのなかにもやはり学ぶべきものがあれば学ぶ、そしてそれぞれ特徴がある以上は長短がありますから、問題があると思うところは距離を取っておくという考え方です。何もかも自分たちで新しくやればよいというだけのものではありません。過去に神がいろいろな指導霊を出されて、そして教えを説いてきたわけでありますから、そのなかから学べるものは学び、そして修正すべきものは修正し、新たに創造すべきものは創造するという立場です。

これがやはり本当に足腰を鍛えながら発展していく道だと思います。自分たちだけでやっているような気持ちになっても、意外にもろいところというものがけっこうあるわけです。やはり過去集積された人類の叡智に対しては敬意を表して、さらにその上のものを目指してていくというのがいちばん賢明なやり方だと思っています。

7 宗教的対立を超えて、今

この意味において、根本的に他宗の避難・排撃はしないという立場をとっています。(※1989年時点)ただ、そのようにやっていく途中においてどうしても矛盾が出るのは、残念ながら避けられないようです。このときに、やはり何を守るべき利益として考えるかという余地があるわけです。あくまでも灰色にしておくのか、それとも真偽をはっきりすることがよいのか、こうした立場にあるかぎり、どうしてもこのような選択を迫られるところが出てきます。

イエス様は昔、「罪を憎んで人を憎まず」というような感じでとらえておられましたが、私の考え方としては、このいろいろな宗教の考え方にしても、間違いは間違いで、正しいことは正しいという真理のレベルで言えば真偽はあるけれど、それら過ちのなかにいる人たちも本来仏性、神性をもち、また魂の修行レベルにおいて、いろいろな段階差があることも事実なので、それらを一概に否定はできないと思っています。ただ私たちの考え方から言えば、このようなことが言えるのです。そして、もし言わなければならないことがあれば、言うということです。ですから事実の認識レベルで、いつも灰色にしておけばよいということでもありません。言うべきことは言う、ただ同じ土俵に立っていろいろなことをやり合う必要はないとい・
・考えです。

というのは、こうした一連の本を読んでこられたら、この教えのレベルがいったいどのへんにあるのか、、みなさんはお分かりだと思うのです。はっきりいわせていただくならば、他の教えと優劣を競うようなものではないのです。『観自在力』という本がありますが、二千六百年前の仏陀はここまで悟っていませんでした。イエス様も悟っていません。こういう内容のものが会がはじまってから二年ぐらいのうちに出てくるのです。ということはどういうことか、このあとに出てくるのはいったいどういうものなのかと考えていただければわかると思います。そういうことなのです。

ですから、先を見ればどこまで行くか、それを考えてみたときに、現在の枝葉のことであり真理考える必要はないということです。

【大川隆法『太陽のメッセージ』part2 第1章「悟りとは何か、その極致とは」より抜粋】
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続きまして、『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。
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6 如来の条件
菩薩の境地の上には如来の境地があります。

如来の境地には、かなり大きな内容があり、曰く言いがたいものがありまし、霊的能力の側面で見ても、そうとうなものがあります。

人間として如来を見たとき、「如来の条件は、いったい何か」ということを考えてみると、次の基準をあげることができるでしょう。

まず、「高さ」ということです。髙さのない如来はいません。

高さとは何かというと、「普通の人が見えないところまで見渡すことができる」ということです。これは、認識力の高さと言ってもよいし、悟りそのものの高さと言ってもよいでしょう。「同時代の人たちが見えないところまで見渡せる」という意味において、高さが突出しているのです。これは、如来であるためには、どうしても抜きがたい条件です。

次に、「深さ」というものがあります。如来のなかでも、深さには違いがあります。

深さとは、「実践行為を通じて、どれだけ多くの人を感化し、どれだけ多くの人に影響を与えたか」という、感化力、影響力のことです。

この深さにも無限の世界が広がっています。釈尊、イエス、孔子、モーセなどの九次元大如来や八次元如来たち、彼らの感化力や影響力の違いは、みなさんには分からないかもしれません。しかし、さらに高次元の目から見れば、その深さは明らかに差があるのです。

もう一つ、「広さ」というものがあります。

八次元世界は、仏の根本法が、いろいろなかたちで説かれている世界であり、仏の心が、ある程度、分かってくる世界です。そういう意味で、如来界は法の世界であり、いろいろな教えが埋蔵されている世界なのです。

広さとは、「多様な教えを、どこまで吸収し理解しうるか。また、それを、どこまで説きうるか」という、多様性の認識のことです。この広さが如来の条件の一つなのです。

菩薩には如来ほどの広さがまだありません。菩薩は、どちらかというと、一つの教えや一つの主義に殉じていきます。菩薩には特定の先生がいて、菩薩は、その先生の教えの世界に殉じていくのです。

そのため、菩薩は、宗教改革者として出る場合でも、もともとの先生である祖師の教えや経典を広げていくことに努力しています。これは菩薩特有のあり方であり、菩薩は、法の多様性を認識するまでには至っていません。

如来となるためには、やはり、広さが必要なのです。

魂の「高さ」「深さ」「広さ」の三つの総合点が、実は、如来としての格を分けるものになります。

高さという観点で、九次元の大如来である釈尊とイエスを比べてみると、ある程度、答えは出ます。「地上に生きていたときに、どこまで認識していたか」という、認識力の限界、悟りの限界を比べてみると、釈尊のほうがイエスよりも高いと言えるのです。

ただ、深さの面、すなわち、感化力、影響力で見ると、イエスの場合、深さはかなりのものがあります。あの強烈な伝道が、どけだけ人類の心を揺さぶったか、計り知れないものがあるのです。

釈尊は、現世から離れて、別世界をつくりました。釈尊は、真理の教団をつくって、高さを目指していきました。

イエスは必ずしもそうではありませんでした。イエスは、現世のなかに、自らの身を投じました。そして、のちの世に花咲くもののために身を捨て、みずからは”一粒の麦”となったのです。

このイエスの生きざまが人々の魂に与えた影響力には、すさまじいものがあります。深さは、そうとうなものです。

しかし、多様な法の認識という意味の広さを見ると、釈尊のほうがイエスよりも上なのです。

それでは、この三つでトライアングル(三角形)をつくると、トータルで、どうなるでしょうか。それは秘密の部分なのです。大如来たちも、幾転生のなかで、このトライアングルの面積を競っており、その面積が大きいほど、指導力が大きいことを意味するのですが、これは地上では答えが出ないことになっているのです。

【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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主におかれましては、1985年の夏に会社員として働きながら、霊言集を刊行されていたことや、翌年1986年7月に商社を退社独立したことが記されています。まさに空手にして立つ思いで、約束された出世への道や安定した商社マンとしての地位をすべて捨てて「幸福の科学」を1986年10月6日に立ち上げてくださっています。【立宗】

商社を退社されて、すぐに執筆されたのが、連日ご紹介しています『太陽の法』です。主におかれましては、『太陽の法』と続く『黄金の法』は、主の手書きによる執筆となっています。『永遠の法』は主の説法の口述を文字起こしたものとなっています。手書きによる経典は数少なく、『太陽の法』『永遠の法』以外では、『地獄和尚』や『鏡川竜二シリーズ』等一連の小説シリーズ等となっています。とても貴重ですので読み込んでまいりましょう。

また、手書きの著作としては、大悟される前や教団創設前の雌伏の時期に主が何を考えて、心の修行に励んていたかは、青春詩集「愛のあとさき」や詩集「Left 
over」などにおさめられています。主の悟りの軌跡をかいま見ることができます。ぜひお手にとってご覧ください。

後半の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、如来の条件として、魂の「高さ」「深さ」「広さ」の三つの総合点が、実は、如来としての格を分けることを教えていただきました。

また、この三つでトライアングル(三角形)のトータルの霊的力における面積が評価されているという秘密の部分を教えていただきました。大如来も、幾転生のなかで、このトライアングルの面積を競っており、その面積が大きいほど、指導力が大きいことを意味するとのことでしたので、如来においても、指導力と感化力の向上における九次元大如来への精進を重ねているということが分かりました。その点、たいへん貴重な教えであると考えられます。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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―天御祖神とともに―
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文責:蒲原宏史 

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