(12/22-1)356経典『太陽の法』を読む 太陽のメッセージ―愛の力・神秘の力5―私をなくして天を思う

『太陽の法』を読む

91 年齢(とし)をとっても、いつも、さわやかであれ。そして、颯爽(さっそう)としていることを心掛けよ。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。本日22日(日)エル・カンターレ祭の最終日です。
10時、13時、19時にエル・カンターレ祭を開催いたします。皆さまご参集ください。
また、最終日の本日、14:00から16:00まで、エル・カンターレ音楽祭「神は詠う2024―地球の心」を開催しますので、皆様ご参集ください。

主に心から今年一年の慈悲と知恵とご指導へと感謝と、さらなる報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

エル・カンターレ祭では、大宇宙を創り、生きとし生ける者を創り出され、永遠の愛を与え続けておられる「創造主の愛への感謝」を深め、主 
大川隆法総裁先生より、この一年間に賜った数々の御慈悲を振り返り、心からの感謝・報恩の念いを捧げさせていただきます。そして、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、エル・カンターレ祭版「復活の祈り」を執り行います。

さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

今日からは経典『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】

また、後半では、本日より経典『復活の法』第三章より『永遠の法』講義として賜りました御法話「天国に還る方法」を学んでまいります。
経典『復活の法』をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税抜き1800円】
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太陽のメッセージPart1
第3章「愛の力・神秘の力」
21 存在の愛について

「存在の愛」は、幸福の科学では有名な理論の一つになっています。この「存在の愛」についても、小さな「存在の愛」というものも、もちろんありえるのです。その意味ではみなさん一人一人がその可能性を持っているわけです。自分の置かれた環境のなかで、小さな世界のなかでの「存在の愛」ということはありえます。

「幸福の科学」で勉強されているみなさんであれば、心の構造が四次元領域から九次元領域まであって、中核は十次元につながっているという、たまねぎ型の理論を学んでいることでしょう。このような心の構造と同じように、たとえば、全体として「愛する愛」の段階にある。あるいは「生かす愛」の段階にあるということを判定されたとしても、そのなかには、もちろん「存在の愛」の部分を含んでいて、その部分が発揮されることもあるということなのです。

けっきょくはどういうことかと申しますと、「存在の愛」のなかには、「生かす愛」も「愛する愛」も入っているのです。逆に「愛する愛」のなかにも「生かす愛」のかなにも、「存在の愛」はもちろん入っているわけです。しかし、トータルで見たときにその人のどの部分がいちばん活性化しているのか、愛という物差しで計ったときに、いったいどこがメインであるのかということを問われているのです。

ですから、自分が「存在の愛」に達したということで、まわりにいる人と全然仲良くすることができない、ということであってはやはり問題があるわけであって、「存在の愛」のなかにはほかの愛も含んでいなければならないのです。やはりまわりの人ともうまくいき、人を活かすこともでき、そして許すこともできる。そのようなことができながらも、燦然と光を放ち続けているという、これが「存在の愛」です。ですから、一つできれば他の愛ができなくてもよいということではありません。そういうふうに考えることが大切です。

あと、この愛の四段階説からはずれる部分といたしまして、たとえば、四次元の愛などがあります。「本能の愛」ともいいますが、この「本能の愛」であっても、なんとか、間違いまでいかない部分として、幽界のなかの精霊界の部分の愛もあります。それと地獄界に属する「堕落する愛」、「破滅の愛」の部分もあります。このへんもよく教訓として学んでください。また、「存在の愛」のうえには「救世主の愛」があります。これはひと言でいえば、、すでに「神の愛」に近いものだと考えていただいてよいであろうと思います。

22 愛と反省法の融合

八正道と愛の探究の両者についてさらに詳しく語ってみますと、八正道は日々の修行のほうにウエイトがあり、これに対して愛の発展段階説は日々の生活に端を発しながら、ある程度中・長期的な目標をも合わせ持っていると、このような説明がなりたつと思います。なるほどそのようなこともいえるのかと思っていただければよいのです。

このように八正道と愛の探究の間には、時間的な差はありますが、両方とも合流する部分があります。そこであえて八正道と愛の段階説をくらべてみると、以下のように引き当てができるかもしれません。

八正道の正見・正語というのは、比較的に始めやすいところです。自分が見るということと語るということは、非常にチェックしやすい日常的な部分での反省材料となるでしょう。これは「愛する愛」というような、自分が身近に接する人たち、あるいは日頃当然接すべき人たちとの間を調整するために、欠かせない部分といえましょう。

正業・正命、これは正しい仕事、正しい生活ということです。これは特に正業の方には生かす愛の部分がそうとう入ってきております。現代ではお金をもらうのが仕事だけではなく、仕事ということを通して、人間関係を大切にし、部下を動かし、上司に働きかけ、業者を生かす、ということを学んでいくということも、課題にされています。女性であれば、家事ということもありますし、育児・教育・御主人の世話ということも全部仕事のうちです。これが正業のなかに入っています。これが神の命を受けてちゃんとやれたかどうかということが問われているわけです。これも「生かす愛」の段階としてある程度認定できるのではないでしょうか。

正思・正精進、これは「許す愛」の段階であります。これもかなり難しいところです。正思というのは、正しく思うですから、ある意味では全体にかかっていることですから、あえて許す愛だけに置くことは難しいとは思います。許すという心の作用と対象に特に重点を置くとすれば、正しく思うこということ、道に精進するということが、宗教的な許す愛に引き当るであろうと思うのです。

すなわち人を許せないということは、どういうことかといいますと、心の中に葛藤ができて煮えくり返ったりしているわけです。これは心の中で正しく思う、思いを正すという努力のなかで解決していける部分なのです。反省の目標としては、正しく思うというところのチェック基準に、かなりかかわってくるのです。心の中に”しがらみ”や葛藤ができて、これをどうにも取れないで苦しんでいる人であるならば、とうてい人を許せる心境にはないということであります。

正進(※正精進)とは、正しく道に精進し、真理を学習しながら生きていくことです。常に学習し、自分が向上しているという手ごたえをしっかりと感じているときに人を許す気持ちがでてきます。これは不思議なことなのですが、停滞のなかにあるときには、許しの心が起きてこないのです。あるいは停滞だけでなくて、さらに言えば堕落、あるいは降下、自分が下がっているようなときに、人を許す気持ちになるのはひじょうに難しいのです。

けれども、逆に、自分が発展中であるようなときには、人を許すことはそう難しいことではないのです。それはなぜかといいますと、それだけ多くの光と多くの愛を私たちが受けているという実感がその時はあるからです。気持ちも大きく、心も豊かになり、人に貰い水を許し、与えるだけの境地が出てくるのです。発展中のとき、進化中のときには、明らかにそのような境地が出てきます。それゆえに、いっそう多く許せるようになるのです。

ですから、心に余裕が無いときには、人を許せないのではないでしょうか。自分自身行き詰っているとき、あるいは挫折しているときと同じで、難しいでありましょう。ですから、真理を学びながら、絶えず向上していくなかに人を許す道がある、ということにつながるのです。

正念・正定は「存在の愛」の段階であります。これもかなり極端な引き当てだと感じられるかもしません。他のところにもあるていどは正念・正定が入っているといえるでしょう。ただ、正しく念じ、正しく定に入るということは、これは、プロの宗教者としての領域です。あるいは悟りの段階において、一定の黒帯以上の段階です。

ここに入るためには、この正念・正定のところをマスターできなければいけないということです。ここをマスターすると何が出てくるかというと、平静心・および不動心というものがはっきりと出てくるわけです。そこで、はじめて常に与えきりの心が出てくるのです。自分の心が揺れないからこそ与え切りであることができるのです。

そうではなく、心が揺れているのであるならば、調子がいいときは与えることができるけれども、調子が悪いときは与えられなくなってきます。ですから、平静心・不動心というものはひじょうにだいじになってきます。このときに「存在の愛」といわれる名であらわされるように常に光を与え続けることができるということです。このようにして引き当てをすることができると考えてよいでしょう。

23 自己を知れば知るほど八正道が生きてくる。

八正道の順序はいろいろで、正見・正思・正語・正業・正命・正進(正精進)という順序をもってくる考えもあります。また、正見・正語・正思・正命としたり、いろいろとこの順番を入れ替える方法があります。修行の段階、目標として考えるときは、このような四段階を考えたほうが明確にとらえやすいということです。

実際の反省に入るときはどうかといいますと、個人差がありますから、必ずしもこの通りでなくてもよいのです。正見・正語はもちろん入りやすいのですが、次に、正思を反省の対象として、重点的に自分の心の思いというものを、総点検してみることも十分ありえますし、だいじな観点です。

見るということ。語るということ。考え、思い、心の中にわだかまりがなかったか、ひっかかりがなかったか、これを総点検してみて、その後に、やはり積極的なプラスの人生を生きていくための正業に向かい、自分の仕事、あるいは生活そのものを考えて反省し、つくり変えてゆく。

このように、まずマイナス要素を払拭してからプラスの要素を生み出していくという方法論もあるわけです。その意味では正見・正語・正思をまず先に行って、徹底的にマイナスの部分を消してから、正業・正命で積極的プラスの展開をはかる積極的反省の方法という考えが十分に成り立つわけです。これは正業・正命だけではなく、正進(正精進)のなかにも生きてきます。このような八正道をいろいろと使い分けをしてくだされば幸いであります。

24 文学と愛

「天使の愛」という考え方もありますが、この分類そのものは、そう大きな意味はありません。ただ、このように愛の境地、また愛としてもいろいろな要素があって、高次元にいくほど、多様な愛を求められるのだということを知っておいてください。愛というと、とかく男女間の愛が連想されますが、確かにそれも愛の一つの形態ではあります。しかし、高次元の愛というのは実際はそのようなものではなくて、いろいろな役割・要素を含んでいるということです。

文学者は、愛というものをここで説明しているようには全然とらえきれていないようです。文学の対象となる愛というのは、やはり本能的な愛のところまででほとんどが終わっています。たまに悟った文学者がおられても「愛する愛」(※五次元)くらいまで達していればよいほうです。たいてい四次元の愛のことを一生懸命に、連綿と書きつらねています。

最近では、”〇〇〇〇〇〇の森”という本がよく売れていたので、ベストセラーの研究のために読んでみました。愛の世界をいちおう書いているわけでありますが、やはり四次元の愛のレベル以上のものではないのです。どうしても四次元の愛から越えられず、五次元の愛する愛まで作者の心境がいってないのです。四次元の本能の愛のなかで、地獄領域と精霊界領域を行ったり来たりしているようです。するとなぜ何百万部も売れるのかといえば、やはりその対象となる人口が多いからなのです。

私は九次元の愛まで言及しているものですから、残念ながら読者人口がやや少ないのです。もう少し四次元の愛を大々的に説かないと読者層が増えないのですが、幸福の科学は難しくとらえるのかもしれません。

文学のレベルで、「愛する愛」、「生かす愛」のところまで書きおよんでいるのは数少ないと思います。それゆえに、だんだん真理を勉強すると小説が読めなくなってくるのです。作者の悟りが低いからなのです。実際に昔の愛読書であったものが読めなくなってくることがあります。読者の対象外へ落ちてゆきます。落ちていかないものはいったいどのような内容のものかと考えてみますと、たいてい宗教的な部分が含まれている本であると思います。「幸福の科学」で学ばれているみなさんが愛について語っている小説を読み、読書の対象から落ちないのはその部分にかかっているのだと思います。

たとえばジイドであるとか、女性であれば、曽野綾子氏や、三浦綾子氏のものとか、いろいろありますが、愛について宗教的な部分にまで触れて書いている人の本は、なかなか落ちないで残ってくると思うのです。れそは、やはり「生かす愛」から「許す愛」あたりを行ったり、来たりしていて、このあたりをテーマにしているので、なかなか落ちてこないのです。ところが「本能の愛」の世界というのはすぐに対象から外れます。読めなくなってくる思います。これは一つの指標になると思われます。

25 愛の大河

愛についての考え方のなかに、「愛の大河」というものがあります。霊的な目で見た実在界はどうかということです。私たちはともすれば天国と地獄という二大対立世界があって、悪の勢力には負けてはならない、頑張って天国を取り戻さなければないけないというように考えがちでありますが、ほんとうのところ、霊的な目で見たときにどうかと申しますと、地獄部分というのは、圧倒的に下流のところなのです。山でいえば、ほんの裾野の一角にすぎないということなのです。はるかなる神の世界から愛の大河が、とうとうと流れてきている。十次元、九次元、八次元、七次元・・・と大黄河のように流れてきているのです。

ですから、地獄界などと言っていますが、大黄河、あるいは揚子江でいえば、河口のそばで塩水と混ざっているあたりで、海か川かわからないで濁っているようなところが地獄にすぎないということなのです。実在界、天使の世界に還ってみれば、地獄などというのはほんとうに天使の世界と対立できるような世界ではないということなのです。このような認識を持っていただきたいと思います。これを知らないで、あくまで善悪が二元的に対立し、サタンと天使が対等の力関係で存在していると思うと心の安定を失いがちになります。

しかし、実際はそういうものではありません。ただ、この地獄の霊界は三次元に近いところにあるがために、三次元にはずいぶん影響を及ぼしています。それゆえに、わたしたち三次元の立場からいって、この影響を排除するためには地上ユートピア化が一日も早く求められているというわけなのです。これを知ってください。このようなパノラマの感じをつかんでいれば、心がそう揺れなくてすむと思います。ところが対等で存在しているような気持ちでいれば苦しいのは当然です。

そして地獄をつくっている要素はマイナスエネルギーです。これを要するに私たちとすれば消し込んでいけばよいのだということです。つまり妬み、嫉み、愚痴、不平、不満、主観的な心、このような心を一つ一つ消し込んでいく。摘み取っていくということを第一にすること、これが地獄部分から脱出する方法だということです。

したがって、人類救済の原理とは、「愛の本質は与えることだ」と悟ることであり、そのときはじめて、人々はほんとうに救われていくのだということです。そして、「与える愛」とは、まず感謝することから始まっていくということです。この感謝することから始まっていくということは、先ほどのたとえ話のところに戻るわけですが、人間が生かされていること、そして足ることを知ること、このあたりをつかめないとほんとうに与えいくことはできないということです。

神さまからすべて与えられている私たちであるからこそ、”奪うこと”を考えてはいけないのです。そして、ありがたいという気持が起きてくれば、自然に与える方向に向いていくのだということを忘れないでいただきたいと思います。

【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】
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続きまして、『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。
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5六次元から七次元へ
〇菩薩の心境―私をなくして天を思う
六次元の修業が終わると、次に菩薩の段階に入っていくわけですが、「菩薩の心境とは、いったい何であるのか」ということを述べたいと思います。

みなさんの一番目の目標が阿羅漢であるならば、二番目の目標は菩薩でなけばならないはずです。

今世は、ぜひ菩薩まで行ってください。「トータルでは、どうか分からないが、死ぬ間際の座標軸で切ってみたら、心根においては菩薩とそう変わらない」という”心情菩薩”までは行っていただきたいのです。「今回の人生で、ここまで修業を積んでおけば、この次は絶対に菩薩になれる」というところまでは努力していただきたいと思います。

そのためには、まず、人間としての原点の部分についての反省が大事です。「黄金律にかなった心で生きているかどうか」ということを、いつも反省することが必要なのです。

その次に、仏法真理の学習をし、さらに、それを実践のなかに生かしていかなくてはなりません。

この実践の部分には限界がありません。精神においては、「これ以上はない」という限界はあるでしょうが、実践において限界はないのです。この実践をどこまでやったかが大事なのです。

早めに仏法真理に辿(たど)り着いた人は、「幸いなるかな」であり、喜んでよいのです。早く辿り着いた人は、それだけ実践の機会を数多く持っているので、祝福されてよいでしょう。

年老いてから仏法真理に辿り着いた人もまた幸いです。もうすぐあの世に行くことになっているので、「地獄に行くすれすれのところで救われた」という人もいるでしょう。これもまた、「幸いなるかな」です。その後は、自らの経験を生かし、「危ないところにいるが、うまく導けば、自分のように何とか天国に行けそうだ」という同胞たちを、仲間意識を持って導くことも可能でしょう。

菩薩の修業では実践行為が大事ですが、実践に打ち込んでいく際には、「どれだけ仏の心を織り込むことができたか」という点が最も重要です。

世の中の役に立つ仕事はたくさんありますが、単に、それをこなして実績を上げればよいわけではないのです。「仏のお役に立つ仕事をしながら、そのなかに、どれだけ仏の心を織り込むか。どれだけ仏の心を盛り込むか。どれだけ仏の気持ちになって行うか」ということが大切です。自分の名誉や地位、満足感のためだけに行ってはいけません。

菩薩行をする際には、心を空しゅうして、「どれだけ仏の心になり、どれだけ仏の代わりとなってできたか」ということが大事なのです。

こういう心境においては、ある意味で、個性は、あってなきがごとしです。仏の手足の一つ、歯車の一つとなって、それに徹していきます。この菩薩の修業のなかに、無私の部分、「私をなくして天を思う」という気持ちが出てくるのです。

現実に地上に肉体をもっている菩薩も数多くいますが、そういう人たちを見ていると、どこか崇高で気高い部分があります。どういうところが崇高で気高いのかというと、そういう人たちが、「自分というものをなくして、ほんとうに、仏のため、天のために殉ずる」という気持ちを持っているところです。

たとえば、坂本龍馬は、幸福の科学の講師にはなれないタイプかもしれませんが、それでも菩薩界に還っています。かれは、一見、型破りに見えますが、その心根において自分を空しゅうし、大きな道のために奉仕する人生を生きた人です。その生き方を真理価値で見ると、やはり六次元光明界の上を行っているのです。

かれは、過去世において、ほんとうは真理をいろいろと勉強しているのだろうと思います。今世は、幕末において回天の偉業をなすために、あのような性格で生まれてきただけであって、あれが彼の本当の姿ではないでしょう。

菩薩は、「自分が、自分が」という気持ちがあまり強いようではいけません。「自分というものを考えずに透明な時間が流れていく」、そういう透明な時間のなかで生きていく気持ちが大切です。

菩薩の世界に入ってくると、ある意味で、「修行」というものの影が薄くなってきます。六次元光明界では、「修行」であっても、菩薩界では「修行」ではなく「仕事」になってくるのです。「仏の心に近づき、仏の教えを実践する」ということを、修行として行うのではなく、自分の仕事、天職として行うようになり、「それを行うことが楽しい。自分の仕事は、それ以外にない」という感覚になってきます。こういう考え方がとても大切なのです。

【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」では、私たちの修業の目標の第一が阿羅漢であること、そして二番目は菩薩であることを教えていただきました。

『みなさんの一番目の目標が阿羅漢であるならば、二番目の目標は菩薩でなけばならないはずです。
今世は、ぜひ菩薩まで行ってください。・・・そのためには、まず、人間としての原点の部分についての反省が大事です。「黄金律にかなった心で生きているかどうか」ということを、いつも反省することが必要なのです。

その次に、仏法真理の学習をし、さらに、それを実践のなかに生かしていかなくてはなりません。
この実践の部分には限界がありません。精神においては、「これ以上はない」という限界はあるでしょうが、実践において限界はないのです。この実践をどこまでやったかが大事なのです。・・・

菩薩の修業では実践行為が大事ですが、実践に打ち込んでいく際には、「取れだけ仏の心を織り込むことができたか」という点が最も重要です。・・・

「仏のお役に立つ仕事をしながら、そのなかに、どれだけ仏の心を織り込むか。どれだけ仏の心を盛り込むか。どれだけ仏の気持ちになって行うか」ということが大切です。自分の名誉や地位、満足感のためだけに行ってはいけません。

菩薩行をする際には、心を空しゅうして、「どれだけ仏の心になり、どれだけ仏の代わりとなってできたか」ということが大事なのです。

こういう心境においては、ある意味で、個性は、あってなきがごとしです。仏の手足の一つ、歯車の一つとなって、それに徹していきます。この菩薩の修業のなかに、無私の部分、「私をなくして天を思う」という気持ちが出てくるのです』

阿羅漢と菩薩の違いについては、以下のように教えていただきました。
『菩薩は、「自分が、自分が」という気持ちがあまり強いようではいけません。「自分というものを考えずに透明な時間が流れていく」、そういう透明な時間のなかで生きていく気持ちが大切です。

菩薩の世界に入ってくると、ある意味で、「修行」というものの影が薄くなってきます。六次元光明界では、「修行」であっても、菩薩界では「修行」ではなく「仕事」になってくるのです。「仏の心に近づき、仏の教えを実践する」ということを、修行として行うのではなく、自分の仕事、天職として行うようになり、「それを行うことが楽しい。自分の仕事は、それ以外にない」という感覚になってきます。こういう考え方がとても大切なのです』

このように、修業が進んで、自分づくりという阿羅漢の心境から菩薩の境地に至れば、もはや私なるものはなくなり公の部分が強くなってきます。菩薩の仕事は御仏の御手足となり、ひたすら隣人を救い愛する奉仕行としての利他が中心になっていきます。この境地を目指してともに精進を重ねてまいりましょう。そして共に今世、本物の菩薩になってまいりましょう。


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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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