89 信者とは、長年のリピーターのことである。宗教の本道とは、経営の王道につながる。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。15日より、エル・カンターレ祭が始まりました。22日(日)までエル・カンターレ祭を10時、13時、19時にて連日開催いたします。皆さまご参集ください。
主に心から今年一年の慈悲と知恵とご指導へと感謝と、さらなる報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
エル・カンターレ祭では、大宇宙を創り、生きとし生ける者を創り出され、永遠の愛を与え続けておられる「創造主の愛への感謝」を深め、主
大川隆法総裁先生より、この一年間に賜った数々の御慈悲を振り返り、心からの感謝・報恩の念いを捧げさせていただきます。そして、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、エル・カンターレ祭版「復活の祈り」を執り行います。
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
今日からは『太陽のメッセージ』を引用しながら、幸福の科学の基本書である『太陽の法』の大切さを共に学びます。本書は1998年の年末に『太陽の法』の講義としていただいたものです。【現在は絶版となっています】
また、後半では、本日より経典『復活の法』第三章より『永遠の法』講義として賜りました御法話「天国に還る方法」を学んでまいります。
経典『復活の法』をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税抜き1800円】
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太陽のメッセージPart1
第3章「愛の力・神秘の力」
14 愛の定義
さて、愛について、いくらかの定義とその解説をしてみたいと思います。
「愛は戦車です。愛は丘を登り、谷をくだり、川をわたり、川をつきぬけ、悪の要塞をものともせず、突き進んでいく戦車です。
この意味は、愛そのものの行動力、実践力をいっているのです。愛は行動に伴うもの、実践に伴うものです。それゆえに実践なき愛は愛にあらずといっているのです。
愛の定義について語ったときに、最初に”愛は戦車です”という言葉が出たことの意味を考えてみてください。この”丘を登り、谷をくだり、川をわたり、沼をつきぬけよ”というのは三次元世界における愛の実践の難しさをいっているわけです。障害の多さをいっているのです。この世にはいろいろな妨げがあります。その愛の実践を妨げようとするさまざまなものが存在します。
しかし、それらをすべて、ものともせず、突き進んでいくのが愛であり、それだけの駆動力を持ったものが愛であるのです。そうした戦車のごときものが愛であるのです。
そうであれば、あなたがたも愛を実践していると思うならば、みずからを戦車だと思いなさい。
みずからが戦車であるならば、たとえ目の前に丘が現われても、山が現われても、谷が現われても、川が出てこようと、これを乗り越えてゆかねばならない、ということです。これが最初の言葉です。
「愛は光です。愛は闇夜を照らし、過去を照らし、現在を照らし、未来を照らす光です。天井を照らし、地上を照らし、人の心を照らす光です。この世のいかなる悪をも限りなくやさしくつつみ、この世のいかなる悲しみをも、かぎりなくあたたかくつつみ込む光です。」
これは愛の光の側面を語ってみました。それは愛あるところ、やはり明るさというものが広がっていくからです。地獄界でいちばん欠乏しているもの、それは光でありますが、同時にその光は愛でもあります。
地獄界にいる人たちは、愛欠乏症の人たちばかりです。愛が欲しくて欲しくてしょうがない人たちばかりです。このように愛というビタミンが、あるいは愛という食料が欠けていて、飢えている人たちばかりが地獄にいるのです。彼らは一番この愛を欲しているわけなのです。そして愛があるところに何があるかというと、明るさがあるわけです。愛がないところには暗さがあり、冷たさがあるということです。
「愛は生命です。すべての人は愛を糧として生き、愛を力として生き、愛を生命の炎として生きているのです。すなわち、愛はすべてだからです。愛なくして生なく、愛なくして死なく、愛なくして道なく、愛なくして希望なし、愛はすべてのすべてにして糧にして生命です。」
これは真理を実践して生きていますと、まことによくわかることなのです。
イエス様も比喩によって、この点をよく語っています。自分の愛、肉体、イエスに現われた愛のあり方をパンにたとえたり、ぶどう酒にたとえたり、いろいろされています。引き裂かれたパン、飲み干されるブドウ酒です。そのよう自分分の肉体を通じて現れる愛の姿をよく語っておりますが、真実、真理に生きている人はほんとうにこの愛が生命だということ、愛が糧であるということがわかってくるようになります。
みなさんには食欲というものがあるでありましょう。一日、一定の時間になるとお腹が空いてくると思います。ちょうど、それと同じように、真実、真理に目覚めてこの道を歩んでいこうと決意した人は、この愛という糧を吸収しないでは生きていけなくなるのです。ほんとうにそうです。手ごたえです。愛なき、この”むなしさ”のなかでは生きていけないのです。
人に愛を与える。そして、その残りの香を、あるいは余香を自らも楽しむ気持ちです。この愛を楽しむ気持ち、これを経験しはじめるとこれを食べないではいられないのです。愛そのものが、あいの行為そのものが、愛の行為に伴うこの魂の歓(よろこ)びが、その歓びの余韻が生命の糧となるのであります。そしてこの糧を得ないで生きていくことができなくなってくるのです。
【※「愛は病です。~」の論点は、改訂版の『太陽の法』では削除されています。追加された論点として、「愛は情熱です。」があります。詳しくは『太陽の法』p137を参照ください。】
「愛は勇気です。愛なくして、人はふるいたつことあたわず、愛なくしては、人は死と立ち向かうことはできないのです。愛は真理の導火線に火をつけるたいまつであり、迷妄に対して解き放たれた一本の矢なのです。」
愛を勇気として捉えてみました。これもそのとおりです。けっきょく、世に多くの事業をなしてきた人を見てまいりましても、愛というものがその背後にあったのではないかと思われることがあります。愛ゆえに偉業をなした方、それは夫婦愛においてもありましょう。師弟愛でもありましょう。親子愛でもありましょう。あるいは、それを超えた愛であることもありましょう。神への愛、神からの愛、こうしたもののために生きている人もいるでしょう。しかし、真実、愛というものは人間世界、人類の歴史をつくるときにこの勇気の原理になっているということを私は感じます。
先日、「マザー・テレサ」という人の映画を観てまいりました。まさしくマザー・テレサの生き方を見ていますと”愛は勇気です”ということの意味が分かります。あれほど小さな体の人です。年も、もう八十代に達しているのに、(※1989年説法当時)あの人はなぜあれほど強いのか、あれほど情熱的に生きられるのかと思うときに、この”愛は勇気です”という言葉が胸に浮かんできます。やはり神への愛、神からの愛をもちろん実感しておられるし、その愛ゆえに、あれほど強くなれるのです。勇気が出てくるのです。戦時下のレバノンにも乗り込んでいくくらいの人ですから、爆弾には勝てないと思うのですけれども、当たらないそうなので行くのです。そういう方ですから大したものです。
「愛は誓いです。人びとは愛の名のもとに、ともに暮らし、ともに語らい、ともに歩んでゆきます。もし愛という名の絆がなければ、人々は途方にくれ、夕暮れを待つばかりです。」
これも感じます。特にご夫婦の場合、あるいは恋人同士の場合、親子、あるいは子弟の場合にも、この”愛は誓いです”というのが、やはりあるような気がいたします。ご夫婦の場合はもちろん誓いそのものでありましょうし、恋人の場合であっても、やはり近いでしょう。愛は誓いであります。
また、師弟愛の場合で、はやり先生にこれだけ愛されたから、自分の愛は何かというと、やはり先生の愛に応えるために、恩返しとして、りっぱな人間として生きていって、多くの人たちのためにならなければないけないと思うことです。このように考えますと、やはり愛は誓いを含んでいます。このように愛のなかには誓いの部分もあるのです。その誓いゆえに人は怠惰に流されることもなく、堕落することもなく、真一文字に向上していくことができるわけです。
これもだいじな部分であると思います。
「愛は言葉です。言葉なくして愛なく、愛なくして言葉ありません。愛はよき言葉であり、よき想いであり、よき波動であり、よき調べです。神は言葉にて世界を創ります。そして、愛は言葉にて人をつくるのです。」
これも大事な部分であると思います。
この”愛は言葉です”という意味がわかるということもだいじなことです。(※)言葉の創化力ということで説いています。言葉によって人を幸福にすることができる。また、世の中をユートピアにすることができるということを明確に(※)打ち出しています。それは一つな大きな悟りであると思います。
“愛は言葉である”と思ったときに、「そうか、与える愛というけれども、何を与えればいいのか分からなかった。」これが、言葉であると考えたときに、これなら自分でもいけると、みなさんは思われるはずです。手近な第一歩です。与えるといっても、いったい何を与えてよいのかさっぱりわからない、財布の中身は少ないし、すばらしいアイデアも出てこない、何を与えようかと思う方もいらっしゃいますが、与えるものがわからなれば、よき言葉を与える、ここからでもできるわけです。
「愛は調和です。愛ありてこそ、人はむつみあい、許しあい、生かしあい、すばらしい世界をつくるのです。愛の輪のなかには、怒りもなければ、ねたみも、そねみもありません。愛の輪のなかには、ただこれ、大調和があって、すべての人が、生かし合っているのです。」
昔観た映画のなかにドラキュラ映画というものがあります。ドラキュラというのは、昼間は姿を現さずに、夜になると現われてくるのです。人びとが夕暮れに集まって、大きな焚火を焚いて、そのまわりで手をつないで、歌ったり、いろいろしていて、その集まっているところへ、ドラキュラが入ろうとするのですが、ガラスのような壁ができていて、入ることができないのです。
もちろん映画ですから特殊撮影であったのでしょうが、まったく透明で何もないはずなのにどうしても近づけない。そのような心を印象深く見ていたことがあります。これはまさしくこの”愛は調和です”という部分を説明していると思うのです。この調和が一つの大円をつくったとき、人びとの間に輪がつくられたときに、魔が入れないのです。人びとが愛しあう輪のなかには、怒りも、妬みも、嫉みもないといいますが、魔も入れないのです。悪霊も入れないのです。これなどは、私もいろいろと経験があります。
一人ひとりの人間は弱いものです。ですから悪霊とか、サタンとか、このようなものに狙われたらひとたまりもありません。人一人の力は弱いものです。しかし、大勢の人の力はやはり強いのです。一人の人間であれば負けてしまうようなものであっても、みんなが手をつないで、囲みをつくって、愛の輪をつくり、調和の輪をつくったときにこのドラキュラが入れないのです。
家庭も同じです。家庭のなかで、調和ができているとき、愛があるときには、その家庭のなかには悪魔が入ってこれないのです。魔が入ってこれないわけです。ちょうどこれといっしょです。透明なガラスのようなもので、入ろうと思っても入れないのです。一人の人間の力では弱いが、複数になったときにこの愛の力は増幅されます。そしいて巨大なものになってくるのです。
また、アフリカにいるシマウマという動物がライオンなどの肉食獣から身を守る方法でも、やはりこれと同じように複数で輪をつくるのです。頭を中心に向けて輪をつくって、みんなでどこからかかられても後ろ足で蹴るのです。集団で対抗するわけです。ところが一匹だけであれば負けてしまうこととなります。
このような輪になるとライオンでもかかれないのです。それで、何とか小さい子供のシマウマであるとか、妊娠している牝であるとか、一匹ではぐれそうなものを探すのです。そしてはぐれたときに飛びかかってくるのです。集団防衛をされると、なかなかかかることができないので、ひじょうによく似ていると思います。ですから、魔のほうはどこか弱いところから、はぐれをつくっていこうと狙っているのです。このようなときに、みんなで、がっちりと手をにぎって守っていけば引きずり込まれないですむのです。
「愛はよろこびです。愛なくして真のよろこびはなく、愛なくして真のしあわせはありません。愛は神のよろこびの表現であり、地上の悲しみを一掃する魔法です。愛はよろこびであり、その喜びがまた愛を生み、その愛がまた、よろこびを生むのです。かくして、愛は円還であり、かくして、愛は循環なのです。」
愛をよろこびという観点からとらえたときに、また深みが増すように思われます。苦しみとしてのみとらえたときに、愛はネガティブなものとして写っていきますが、よろこびという観点からとらえていったときに、愛のあるべき姿が分かってくるのです。愛は与えるものか、与えられるものか、奪うものか、捧げるべきものかといろいろ議論をし、考える方もおられるであろうけれども、この”愛はよろこび”であるという定義から考えたときに、どのようなものが愛であるべきなのか、また違った視点が得られると思います。
「愛は進歩です。ひとつの愛は、ひとつの進歩を生み、ひとつの愛はひとつの光を生む。愛ある日々は、進歩ある日々です。なぜならば、愛の行く手には、神がいるからです。愛の行く手には、数かぎりない聖霊たちがいるからです。愛のあるところに、退歩はありません。愛のあるところに、おそれはありません。愛には、ただ進歩あるのみです。あいには、ただ向上あるのみです。愛とは、ただ、神のもとへと飛んで行くことなのです。」
愛という名のもとに、退廃は許しません。堕落は許されないということです。愛とは人をよくしていくこと、人に優しくあること、育んでいくこと。ゆえに愛とは、神への旅立ちを意味するということなのです。それゆえに堕落は許されないのです。
「愛は永遠です。愛は過去にあり、現在にあり、未来にあります。ときのなかに愛なき時はなく、時代のなかに愛なき人はいないのです。愛はすべてのときをつらぬく、輝ける黄金の翼です。はるかなる天空をかけてゆくペガサスです。愛は永遠のときを生きる証であり、愛は永遠の今をつかまえる狩人です。」
昔、詩人になろうと思ったこともあったものですから少し詩的な表現になっています。この”愛は永遠です”という考え方によって、愛のなかに時間の概念も取り込んだわけです。これがやはり、神の愛や、高級霊の愛を知るために大事な考え方です。過去・現在・未来をつらぬく愛という観点もあるのです。
愛というものを、私たちは、ともすれば刹那的に考えてしまいます。現在ただいまの愛ということで考えがちでありますが、その現在ただいまの愛ということが一つの苦しみになったり、身動きできないような状況に自分を追い込んだりすることもあります。しかし、翻って考えれば、愛は永遠です。過去にあり、今にあり、未来にある。こういった観点から考えたときに、この愛の縛りが解けることがあるわけです。
現時点ではこれがほんとうの愛かどうかわからないけれども、長い目で見たときにはいったいどうなるのかということです。これは私などもよくやっておりますが、けっきょく、人を生かす道といっても、このように時間の観点から見ていかないと、真に人を生かすことができないのです。現在ただいま確かにそのようにしてやったほうが砂糖菓子を与えるように、その人の立場としてはいいのだけれども、果たして長い目で見てどうかということです。
この”愛は永遠です”という観点から、神は時に人間に試練を与えることもあります。高級霊たちにしてもそうです。私たちを試練にあわせることがあります。その試練を通りぬけることによって、いっそう私たちは強くなり、焼きが入って、鋼のごとく強靭になってゆくことがあります。こういう部分に愛の永遠性があるのです。時間の流れのなかで、不朽のものとしての愛がある。現在ただいまが幸福であればよいというのではない。
この永遠の愛のなかには、たとえば子供に先立たれる、親に先立たれる、あるいは妻に先立たれる、そのような不幸もあるでしょう。あるいは事業の失敗ということもあるでしょう。健康を害するということもあるでしょう。あるいは事業の失敗ということもあるでしょう。健康を害するということもあるでしょう。いろいろ試練がある。そしてヨブのごとく神を恨んでみたい気持ちになることもあります。
しかし、神は常に微笑んでいる。なぜ微笑んているかというと、永遠の観点からその人を見ているからです。この人の魂の修行というものを見ている。そして、試練が過ぎ去ったのちに、私と一緒に神が歩んでくださったのだ。」ということを思い浮かべることができるのです。
旧約聖書の詩編であったと思いますが、このようなくだりがあります。ある人がつかれて海岸をとぼとぼと歩いていたのです。そして、後をふり返って見てみると、不思議にも、海岸線には二人分の四つの足跡がずっと続いていたのですが、途中で足跡が二つになっているのです。そして、その後はまた四つになっているのですが、その人が不思議に思って「何であろうか。なぜ足跡が半分になったのであろうか。」と考えるわけです。それで、思い当たったように「ああ神よ、あのときは自分が試練のときだったのですね。あの足跡が減って、二つになったときには試練のときだった。あなたはあのとき、私を見捨てられたのか。私を見捨てられて、試練のなかに置かれたのか。」と、その人はそのように思ったのです。そのとき神はこ・
・ように答えられるわけです。「いや、その試練のときに、私はあなたを背負って歩いていたのだよ。」と。
足跡が二つしかなかった理由は、実はそのときに神がその人を背負って歩いていたのだということです。このような部分が旧約聖書のなかにあったと記憶しております。このようなこともあるわけです。
「愛は祈りです。愛なくして祈りなく、祈りなくして愛はありません。愛は祈りによりて、より積極的な力となります。愛は祈りによりて、すべてのものごとを成就するのです。祈りは愛を高める力であり、祈りは愛を深める秘法です。すなわち、神への祈りによりて、愛は成就し、神への祈りによりて、愛は実現するのです。神は愛なり、愛は神なり。愛をして神ならしむ力は、祈りなり。祈りによりて、人びとは生き、祈りによりて神を知る。かくして、祈りによりて、人は相の力を最大に発揮することができるのです。」
「幸福の科学」においては、反省を中心にして、祈りことはまだあまり強調しておりませんが、ほんとうは強力なパワーを秘めています。私などは、もちろんよく祈りをしています。地上に生きている人間の力は、やはり限られています。ほんとうに大きな力をもって人々のために生きようと思ったときには、やはり、この地上にない力、見えざる天上の力を受けざるをえないのです。
こうした大きな力というものは、これは人間の力をはるかに越えています。したがって、ほんとうに真なるものが思いのなかにあり、どうしても成就せねばならないときに、祈りというものは強力な力を発揮してくれます。
祈りの力によって危機を乗り切りることも可能です。この祈りにおいていちばん大事なことは、もちろん自分自身の危機を乗り切ることもありますが、その自分だけの危機を乗り切る場合よりも、世のため、人のためになるような大きな観点から見て、是とされる祈りであったほうがより強力であるということです。
この祈りのパワーについては、そのうち、段階が進んでいったときに教えたいと思っておりますが、そうとう強力なものです。それは明らかに地上の人間の力ではない力が現れてきます。それが本格的に出てきはじめれば、みなさんもおそらくそのことを実感されることがあると思います。
そして、”愛とは祈りである”ということは、祈りにってほんとうに神と一体になるという経験があるということです。これを経験されることがあるでしょう。私も毎日祈りのなかで、神様というよりは、イエス様や、他にいろいろな高級諸霊がいらっしゃいますが、こうした方々に祈ることが多いのです。もっと力をくださいと祈っています。”もっと私に体力をください。もっと多くの行動力を、もっと多くのエネルギーを。もっと多くの人びとを導けるだけの力を”というように祈っています。
徒労した場合には、”一日も早く回復して、ふたたび仕事ができますように。もっと多くの仕事ができますように。こんなことで倒れてしまわないように。もっともっとお役に立ちたい。今より一〇倍、二〇倍、一〇〇倍働きたいので、そのための力をください”と祈っています。祈れば、ちょうど公衆電話に降下を入れてダイヤルを回したのと同じように返答が返ってくることもあります。
【大川隆法『太陽のメッセージ』第3章「愛の力・神秘の力」より抜粋】
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続きまして、『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より「天国に還る方法」を学びます。これは、1988年11月20日に上級セミナーとして、『永遠の法』講義として賜ったものです。
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4善悪に対する考え方
〇善なるものにを伸ばし、真理価値に反するものを抑える
ユートピア創造という観点から見たときに、一元論・二元論の価値観は違った展開をしていきます。
ユートピア建設という価値観から見た、一元論・二元論の考え方には、二つの道があります。一つは、「善なるものを、もっと伸ばしいいこう」という観点であり、もう一つは、「真理価値に反するものを、できるだけ抑えていこう」という観点です。両者とも、実際にありうる考え方であり、また、なければならない考え方です。
このことを、教育に例を取って述べてみましょう。
子供のしつけや小学校の教育に関する考え方において、どういうものがあるかというと、一つは、「ほめる教育」を推奨する考え方です。もう一つは、「ほめるだけでは藤生である。子供は、ほめられてばかりいたら、いい気になって失敗することもあるので、子供を叱ることも大事である」という考え方です。
過去においては「叱る教育」のほうが多かったことは事実でしょう。しかし、ほんとうは、この両者とも必要なのです。
さらに、もうひとつ考えるべきことは霊的観点からの教育です。子供に対して、「あなたはよい子だ」「あなたは悪い子だ」と言うだけではなく、「人間は、本来、仏の子であり、霊的存在なのだ。その点において、人間には仏と同じような光があるのだ。人間はダイヤモンドの原石なのだ」という考え方を教える必要があるのです。
人間は、もともと、ほんとうに素晴らしいものなのですが、さまざまな現れ方をするので、それについて、けじめをつけさせるのが、人間としての教育なのです。これを教えなければいけません。
本来の輝きが、もっともっと出てくるように、導いていく必要があります。
そのためには、「輝きがある」ということを認め、その輝きを増す方向に導いていく方法と、輝きを邪魔しているもの自体を取り除いていく方法と、この両方があるのです。
一元論と二元論について、私は相対二元論に近い考え方を取っています。
それは、「比較的下のほうの次元においては、明らかに善悪の二元的である。しかし、高次元に上がっていくにつれて、しだいに善の一元になっていく。その途中においては、善悪二元的なものは時間の流れのなかで処理され、現時点で把握と思われることも、長い時間のなかでは、善に変わっていくこともありうる」という考え方です。
たとえば、「かつて大天使であったルシフェルが地獄に堕ちてサタンになっている」という現状を、現時点の座標軸で切ってみれば、これを善と見ることはできないでしょう。やはり、悪として現れているとしか見えません。
ただ、一億年という単位ではなく、もっと大きな時間の流れで見たときに、どのように見えるかというと、一概には言えないものがあります。九次元霊であっても、そう簡単には結論の出せない問題だろうと思います。
悪として表れているもののなかには、一つの大きな教訓があるように思えます。そして、「その教訓が存在するがゆえに、現在、そのような悪があるのではないか」と推定される面もあります。
これは根本仏の巧妙な教育法であり、「大天使が地獄に堕ちてサタンとなり、現在も地獄にいる」という事実自体が、実は八次元や九次元を強力に教育しているのかもしれないのです。
そういう観点から見たときに、何とも評価しがたい面があることは確かです。現象として見たときには、善悪が現れてくることはありますが、「究極のユートピアという観点から見たときに、さまざまな考え方が出てくる」ということだけは押さえておいてほしいのです。
【大川隆法『復活の法』幸福の科学出版 第3章「天国へ還る方法」より抜粋】
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本日の『永遠の法』講義「天国へ還る方法」も、極めて重要な教えでした。なんせ造物主の被造物に対する教育方法と教育方針が示されているからです。このようなことが、このように分かりやすい表現で私たちに示されていること自体奇跡であると思います。
主の教育方法には、低次元世界における二元論的考え方【四次元から六次元世界】と高次元世界における一元論的考え方【七次元から九次元】の両方を使う『相対二元論』という概念を教えていただきました。
『一元論と二元論について、私は相対二元論に近い考え方を取っています。
それは、「比較的下のほうの次元においては、明らかに善悪の二元的である。しかし、高次元に上がっていくにつれて、しだいに善の一元になっていく。その途中においては、善悪二元的なものは時間の流れのなかで処理され、現時点で把握と思われることも、長い時間のなかでは、善に変わっていくこともありうる」という考え方です』
これは、根本仏の魂の教育方針を示したきわめて重要な教えです。「天国と地獄」「天使と悪魔」という世界が二元論的に分かれているのも、さらにその先にある統一された実相世界が「生々流転の法則」とともに実現するためであることが分かります。
「なぜ地獄があるのか」「なぜ悪魔が存在するのか」という人類が抱き続けた問いに対する仏の答えがここにあるので、極めて重要です。これは魂をより仏へと近づけるための方便であることが分かります。ここは極めて重要です。
『ユートピア創造という観点から見たときに、一元論・二元論の価値観は違った展開をしていきます。ユートピア建設という価値観から見た、一元論・二元論の考え方には、二つの道があります。一つは、「善なるものを、もっと伸ばしいいこう」という観点であり、もう一つは、「真理価値に反するものを、できるだけ抑えていこう」という観点です。両者とも、実際にありうる考え方であり、また、なければならない考え方です。
魂の教育には三次元的な方法論として「ほめる教育」と「叱る教育」の両方が必要であること、そして、それにもまして、高次元世界へつながる教育として「人間はみな仏の子である」という霊的事実による教育が必要であることを教えていただきました。
『さらに、もうひとつ考えるべきことは霊的観点からの教育です。子供に対して、「あなたはよい子だ」「あなたは悪い子だ」と言うだけではなく、「人間は、本来、仏の子であり、霊的存在なのだ。その点において、人間には仏と同じような光があるのだ。人間はダイヤモンドの原石なのだ」という考え方を教える必要があるのです』
『人間に許される最高の自己実現とは、神の御手足になることである』
この本当の自己実現を果たすために、根本仏は地球という「場」としての「ゆりかご」に、転生輪廻という「時間」をくわえて、魂の教育の場を私たちに与えてくださいました。私たちはその意味において、根本仏に日々育てられているということが言えます。この事実に気づき感謝を捧げ、報恩行として隣人を救い助ける活動が私たちは求められています。
『悪として表れているもののなかには、一つの大きな教訓があるように思えます。そして、「その教訓が存在するがゆえに、現在、そのような悪があるのではないか」と推定される面もあります。
これは根本仏の巧妙な教育法であり、「大天使が地獄に堕ちてサタンとなり、現在も地獄にいる」という事実自体が、実は八次元や九次元を強力に教育しているのかもしれないのです。
そういう観点から見たときに、何とも評価しがたい面があることは確かです。現象として見たときには、善悪が現れてくることはありますが、「究極のユートピアという観点から見たときに、さまざまな考え方が出てくる」ということだけは押さえておいてほしいのです』
この最後のお言葉に限りない主の慈悲を感じます。
前回の論点ですが、妖怪性の払拭に関する重要な論点なので再度繰り返します。
『簡単なことですが、意外に、行為と実相の区別はついていないのです。
善一元論と善悪二元論の違いを考えるときも、ここが、いちばん大切なポイントです。一元論の危険なところは、実は、ここにあるのです。
実相と仮相の区別が大事です。仮相とは言葉や行動など表面に出てくるもののことですが、「実相が善だから、仮相もすべて善である」と考えたなら、もっと大きな善を逸(いっ)することにもなりかねません。
小さな善人であることは結構ですが、小さな善を得ようとして、もっと大きな善を失うことがあるのです。小さな善を得るために大きな善を失っていくならば、それは、ユートピア建設にとってマイナスに働く力となります。
たとえば、子供が火遊びをしていて、このままでは家に火がつきそうな状況のときに、「子供は仏の子、神の子だから、間違いはないのである」と考えて、知らん顔をしていると、家が燃えてしまいます。そのときには、「何をするか」と言って、厳しく叱らなければいけません。
その場合、仮相の場合、すなわち、表面に表れた行動の部分について、善悪の基準を立てて判断し、叱っているのであって、決して実相を憎んでいるわけではありません。子供を悪人だと言っているのではなく、行為自体がユートピア価値に反するからいけないと言っているのです。この区別が分からないと、一元論・二元論の議論は、まったく空虚なものとなっていきます』
この論点は、日本神道系の神々や日本人の妖怪性の払拭に関して重要な示唆であると考えます。すなわち、「実相が正しければ仮相も正しい」とする一元論が変じて、「仮相が正しければ実相も正しい」となった場合、たちまちこの一元論が妖怪変化して、表面だけ正しく装えば、それは正しいかのように見える」という実質が伴わない実体論になります。これが妖怪性における生産性の無さを生み出しているとも考えられます。幸福の科学は、相対的二元論に近い考え方を基本的に取っています。安易な一元論、安易な光明思想は反省の法門をくぐることができず、結果的に悟りに至ることができません。この点をしっかり学んで、妖怪性の払拭に関する精進を共にさせていただきます。
私たちの目指す共通した自己実現の姿は、主の救済の助力者としての菩薩になることであり、主の御手足としてこの世において、あの世において働きをなすことです。その意味において、本日の学びは、すべてが重要です。繰り返し繰り返し味読してまいりしましょう。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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