45 田は分割したら、収穫が少なくなる。しかし、事業は分割したら、それぞれに大きくならなければならない。
【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から38年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。この聖なる日に仏弟子相集い、心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。
さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。
基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。また、後半では、『永遠の法』も少しずつ読んでまいります。『永遠の法』は、エル・カンターレの空間論についての教えです。
経典をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税込み2200円】
本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。今、永遠の神秘が明らかにされました。伝説と神話のベールに覆われていた、地球系霊団の最高の秘密が明らかにされたのです。世界全宗教の統合、超越の悲願を掲げて、本書を世に送り出します。【『永遠の法』まえがきより】
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第4章 悟の極致
5観自在
如心というのは、霊界の秘義に通じた菩薩の境地だといってもいいでしょう。それは如来界へも通じるものがあります。如心にも、やはり段階があるのですが、通常、阿羅漢の上の如心というと、菩薩の境地を意味します。これは、なにも地上界で悟りをひらいた方のことばかりではありません。あの世、すなわち、実在世界でも、同じことがいえます。
ただし、あの世の霊だから、何もかもがわかるのかといえば、消してそうではありません。やはり、その霊の認識の高さ、悟りの高さによって、理解できたり、把握できたりする範囲は異なってきます。その典型的な例は、「予知」です。四次元以降の実在界の霊たちは、程度の差こそあれ、だれもが、将来起きること、つまり、未来の事件に関して、ある程度予知することができます。ただし、それが地上の三次元の人間に対してなされると、往々にして問題となります。というのは、時間的に、あるいは、場所的にズレることがあるからです。
もう少しくわくし説明すると、その理由は二点あります。第一点は、将来起きることにも、確定的事件と流動的事件があるからです。確定的事件とは、高級霊界において、決定済みのことで、これは、よほどのことがないかぎりくつがえすことが不可能です。しかし、流動的事件とは、このままでいけばこうなるであろうという予測的な段階にしかすぎません。ですから、これは、地上人の努力や、守護・指導霊たちの努力によって変更することが可能です。つまりは、天上界の霊の予言もはずれることがあるということになります。
第二の理由は、天上界の諸霊の意識の段階差と、得意・不得意の分野によって、予言の精確さに、程度の差が出てくるからです。一般的にいえば、霊格が高ければ、高いほど、予知がよくあたるのはもちろんです。予知を専門の職業としている霊もいるほどで、やはり専門家のほうがあたる確率が高いといえます。
さて、ここで、如心の段階の上にある、観自在という悟りの境地について説明しましょう。
般若心経というお経の最初に、「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」という文句があります。これをそのまま訳せば、「観自在菩薩の修行の境地がたいへん深まり、内なる潜在意識の宝庫をおひらきになったときに」という意味です。観自在菩薩とは、人の名前ではありません。修行が進んで、観自在となった菩薩の境地のことを意味します。
菩薩とは、一応、自分づくりという「小乗」の段階を通過して、「大乗」、すなわち、衆生済度に立ち上がり、人々を救おうという気持ちになっている魂の段階です。とはいえ、この菩薩の境地にいたってもまだ、人間的な悩み、苦しみがあり、いつもいつも神通力(法力)を発揮できるような状態ではありません。しかし、菩薩の心境が進み、菩薩界上々段階の悟り、すなわち、梵天の境地になってくると、少々の病気や事件、人間関係のできごとにおかまいなく、安定した神通力を発揮することができるようになってきます。つまり、観自在菩薩とは、梵天の境地であり、実在界では、菩薩界と如来界の中間、七次元とも八次元ともいえる霊域に達した魂のことをいうのです。
観自在菩薩は、インドの釈迦の時代には、アヴァローキタ=スヴァラ(サンスクリット語ではアヴァローキテーシュヴァラ
Avalokitesvara)と呼ばれておりました。観世音菩薩も同義語です。六大神通力とは、天眼、天耳、他心、宿命、神足、漏尽の六つです。ここで、そのそれれぞれについて説明しましょう。
天眼とは、いわゆる霊視能力のことです。生きている人間のオーラや憑依霊はもちろんのこと、あの世の世界、実在界までを透視する力があります。
天耳とは、あの世の霊たちの声を聞くことができる能力です。霊言能力なども、これにあたります。
他心とは、いわゆる読心のことです。マインド・リーディング、つまり、人の気持ちが手にとるように理解できる能力です。
宿命とは、単に自分の将来がわかるでけではなく、その人の想念帯を読みとれば、他人の運命、宿命が手にとるようにわかる能力です。もちろん、過去世のことまで分かってしまいます。
神足とは、いわゆる霊体離脱のことで、肉体を地上においたまま、霊界を見聞したり、テレポーテーションしたりする能力のことです。
漏尽とは、「心の欲する所に従って、矩を踰えず」と喝破した孔子の境地で、欲望に振り回されず、それを自由に超越する能力です。たとえ霊能力をもったとしても、たんねんに心の錆落としを続ける精進能力です。
【※(注)漏尽・・・通常、仏教の読み方としては「ろじん」を使う。「漏」とは煩悩を意味する名詞であり、「有漏・うろ」(心の汚れが残っている状態)、「無漏・むろ」(心の汚れがすべて滅し尽くされた状態)といった使い方をし、「漏尽通力」とは、煩悩を滅尽する能力と理解されている。ただ、煩悩を滅尽するには、日々の反省行が必要であり、霊能力というよりは、高度な智慧の力であるといってよい。なか、高度な霊能力を有しながら通常人と同じ生活ができる点に重点をおいて、過去に「ろうじんつうりき」という言葉を使ったが、今回から正統な仏教用語に戻すことにする。】
観自在菩薩とは、以上あげたこの六大神通力が何らかのかたちで身についてきた状態の人のことです。同時に多人数の人の心を読んだり、遠隔地の人の心が手にとるようにわかる「如心」よりも、一段と高い心境だといえます。
【大川隆法『太陽の法』第4章「悟りの極致」より抜粋】
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続きまして、経典『永遠の法』より、空間(霊界構造)に関する教えを振り返ります。
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第6章 六次元の世界
6ダイヤモンドの原石
「永遠の旅人」という話をしてきましたが、このことについて、さらに話を続けていきましょう
人間は永遠の旅人として、魂の進化を求めている存在です。ここで、多くの人びとの心に浮かんでくる疑問は何でしょうか。
なぜ高級霊と低級霊という区別があるのか。なぜ偉い人と偉くない人がいるのか。なぜ、光の指導霊といわれる霊と、そうでいない平凡な霊がいるのか。仏は人間を平等に愛しておられるはずなのに、おかしいではないか―。
こうした疑問が、ふつふつと心の底から浮かんでくるのではないでしょうか。それに対する答えが、本節の表題でもある「ダイヤモンドの原石」ということなのです。
人間は誰もが磨けば光るダイヤモンドとして創られているのです。このダイヤモンドは山から原石として掘り出されているのであって、それをどのように光らせるかということが各人に課題として与えられているのです。そして、この課題から逃れるとは誰もできないのです。
みなさんは光の指導霊とそうでない霊とを思い浮かべ、「光の指導霊はダイヤモンドであるが、自分たちは石炭や木炭、あるいは河原の石ころである」と考えてしまうかもしれません。しかし、本来はそうではないということです。
キラキラ光るダイヤモンドと河原の石ころとでは、その差は非常に大きなものですが、人間の本質は決してそうしたものではないのです。その証拠は、どのような人間であっても、磨けば魂から光が出てくるという事実にあります。
地上の人たちは、地獄霊や悪魔についての話を聴くと、「なぜ、そのようなものが存在するのか。そのようなものの存在は許せない」と思う気持ちがあるでしょう。「仏は、そうした悪霊たちを退治してしまえばいいではないか。この地上から追い払い、地獄からからも追い払って、宇宙の彼方にでも閉じ込めてしまえばいいではないか」という考えを持つ人もいると思います。
しかし、これはまだ魂の本質を知らないのです。みなさんの目には、地獄霊というものが、非常に醜く、常に人を不幸にしようとしている存在のように見えるでしょう。しかし、彼らも、あるきっかけを得て、立ち直ることがあるのです。
私は悪霊に取り憑かれている人に会い、その人に憑いている悪霊と直接に話をしたことも数多くあります。そのときに感じるのは、結局のところ、彼らはほんとうのことを知らないということです。
霊の本質を知らない。人間が肉体ではないことを知らない。善いことをしなくてはならないのだということを知らない。自分が地獄にいることさえ知らない―。こうした知らないづくしの地獄霊なのです。
ところが、彼らに真理を教えてあげると、彼らははっとわれに返ることがあります。悪霊といわれる霊たちも、「しまった。自分はいままで偽りの人生を生きてきた。このままではいけない。自分はまっとうな生き方をしなくてはならない」ということに気づくことがあるのです。
その瞬間です。真っ黒に見えていた霊体が光を放つのです。彼らの薄ぼんやりした頭の後ろに後光がさすのです。
なぜ後光がさすのでしょうか。彼らがもし河原の石ころであったならば、磨いても光はしないはずです。しかし、磨くと光が出るということは、悪霊やサタンといわれる者たちであっても、もともとはダイヤモンドであるということです。ダイヤモンドの原石なのです。だからこそ光が出るのです。
ただ、そのダイヤモンドの原石が煤で曇ったり、泥にまみれたりしているだけなのです。通常人の目には、ただの石ころに見え、捨ててしまいたくなるわけですが、川の水で洗えば、それはまた燦然と光を放ちはじめるのです。
こうしたところに無限の可能性があり、そして、無限の可能性が与えられているというところに、仏の無限の愛が表れているのです。
【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第3章「六次元の世界」より抜粋】
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悟りの段階にある「阿羅漢」の上の菩薩と如来の間に梵天があります。本日は八次元存在である如来の法力「観自在」について学びました。悟りの高さや救済力に応じた法力を授かるようになることもわかります。阿羅漢(6.9次元)→菩薩(如心・7次元)→如来(観自在力・8次元)と段階を踏むにつれて仏に近づいていくということです。
本日の教えでは、このようにありました。
『如心というのは、霊界の秘義に通じた菩薩の境地だといってもいいでしょう。それは如来界へも通じるものがあります。如心にも、やはり段階があるのですが、通常、阿羅漢の上の如心というと、菩薩の境地を意味します。これは、なにも地上界で悟りをひらいた方のことばかりではありません。あの世、すなわち、実在世界でも、同じことがいえます。』
また、このようにも説明がありました。
『菩薩とは、一応、自分づくりという「小乗」の段階を通過して、「大乗」、すなわち、衆生済度に立ち上がり、人々を救おうという気持ちになっている魂の段階です。とはいえ、この菩薩の境地にいたってもまだ、人間的な悩み、苦しみがあり、いつもいつも神通力(法力)を発揮できるような状態ではありません。しかし、菩薩の心境が進み、菩薩界上々段階の悟り、すなわち、梵天の境地であり、実在界では、菩薩界と如来界の中間、七次元とも八次元ともいえる霊域に達した魂のことをいうのです。』
さまざな高次元世界について学んでいますが、
私たちが目指すべきはまずは「阿羅漢」の境地です。
今世私たち伊勢支部の信者全員が「阿羅漢」になることをめざし、主の御手足として救世運動に参加してまいりましょう。『地獄の法』の年は、いよいよその救世事業本番の年であるということです。ともに精進を重ねてまいりましょう。
悟りの力がこの世とあの世の『地獄』を解消する大きな切り札です。『地獄の法』を深く学ぶためにも、悟りへの理解を共に深めてまいりましょう。
また、後半の『永遠の法』では、すべての人の心はダイヤモンドの原石であり、心の修業によって磨くことで必ず光り輝くことができることが説かれました。これは、仏教で言う『仏性』ということになります。この世界はすべて因縁果の連続体であり、原因と結果の法則のなかにあります。私たちの心にダイヤモンドの原石があるということは原因です。心の修業である反省による心の浄化や与える愛の実践など心の修業によつて、原石を磨くことが補助原因としての縁であり、その結果ダイヤモンドが光を放つことが結果として現れます。
本日の引用ではこのようにありました。
『霊の本質を知らない。人間が肉体ではないことを知らない。善いことをしなくてはならないのだということを知らない。自分が地獄にいることさえ知らない―。こうした知らないづくしの地獄霊なのです。
ところが、彼らに真理を教えてあげると、彼らははっとわれに返ることがあります。悪霊といわれる霊たちも、「しまった。自分はいままで偽りの人生を生きてきた。このままではいけない。自分はまっとうな生き方をしなくてはならない」ということに気づくことがあるのです。
その瞬間です。真っ黒に見えていた霊体が光を放つのです。彼らの薄ぼんやりした頭の後ろに後光がさすのです。
なぜ後光がさすのでしょうか。彼らがもし河原の石ころであったならば、磨いても光はしないはずです。しかし、磨くと光が出るということは、悪霊やサタンといわれる者たちであっても、もともとはダイヤモンドであるということです。ダイヤモンドの原石なのです。だからこそ光が出るのです。
ただ、そのダイヤモンドの原石が煤で曇ったり、泥にまみれたりしているだけなのです。通常人の目には、ただの石ころに見え、捨ててしまいたくなるわけですが、川の水で洗えば、それはまた燦然と光を放ちはじめるのです。
こうしたところに無限の可能性があり、そして、無限の可能性が与えられているというところに、仏の無限の愛が表れているのです』
大宇宙を創造した主は、被造物である私たち一人ひとりに仏性という名のダイヤモンドの原石を与えて、それぞれが最高に光輝くことを期待されているということを学びました。
ここに、主エル・カンターレの慈悲を感じます。主にあらためて感謝を捧げます。
そしてその感謝を形にすべく本日も、私たちの隣人に愛を与える一日を生きてまいります。
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史
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