(10/30-1)303経典『太陽の法』を読む 28愛の大河―愛と八正道む―高貴さについて

『太陽の法』を読む

38 どんぶり勘定は、「家族経営のお店」までである。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
本日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)

11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から38年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。この聖なる日に仏弟子相集い、心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。

さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとしている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。また、後半では、『永遠の法』も少しずつ読んでまいります。『永遠の法』は、エル・カンターレの空間論についての教えです。
経典をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税込み2200円】

本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。今、永遠の神秘が明らかにされました。伝説と神話のベールに覆われていた、地球系霊団の最高の秘密が明らかにされたのです。世界全宗教の統合、超越の悲願を掲げて、本書を世に送り出します。【『永遠の法』まえがきより】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第3章 愛の大河
8愛と八正道

私は、第2章で、真説・八正道を説きました。そしていま、愛の発展段階説を論じました。そこで、これからこの両者の関係について話してみたいと思います。

真説・八正道のなかでは、人間として正しく生きてゆくための八つの道があることを話しましたが、これもまた、日々の悟りの材料であり、悟りへの道なのです。一方、愛の発展段階説では、修行の対象として、「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」「存在の愛」の四段階があることを説きました。

この両者をくらべてみると、八正道のほうは、日々の修行であり、日々の悟りを重視しているのだといえます。そして、愛の発展段階説は、日々の生活に端を発しながらも、ある程度、中期、あるいは、長期的な目標もあわせもっていることが指摘できると思います。

八正道による悟りへの道を、あえて愛の発展段階説による悟りへの道とくらべるならば、つぎのことがいえるでしょう。

一 正見、正語は、愛する愛に通じる。
二 正業、正命、生かす愛に通じる。
三 正思、正精進は、許す愛に通じる。
四 正念、正定は、存在の愛に通じる。

そこで、それぞれがどういうことかについて、その意味を説明していきましょう。

まず、なぜ正見、正語は、愛する愛に通じるといえるのでしょうか。愛する愛とは、自分が当然関心を持つべき対象に対する愛です。そこで、相手に対して、適切なる好意をもつためには、まず、正しい信仰に照らして、相手を正しく見ることからはじめなければなりません。ものごとの正邪を見分けることが大事です。また、相手が、いま、何を欲しているのか。いま、相手がこまっていることはなんなのか。それを先入観を排して、ありのままに正しく見ることです。正しく見ることができたら、今度は、正しく語ることです。つまり、相手に対して、有害な言葉ではなく、適切なアドバイスをする。相手の心をあたたかくするような言葉、こまっている相手を立ち直らせるような適切な言葉を使うことです。

つぎに、正業、正命は、生かす愛に通じます。正業とは、正しく行為すること。釈迦の時代には戒律を守り、身体が罪を犯さぬようにすることを意味しました。

つまり、人間を含め、生き物を殺したり(殺生)、ものを盗んだり(偸盗・ちゅうとう)、夫あるいは妻以外の異性と色情関係をもつこと(邪淫・じゃいん)を戒めていました。現代に翻訳するなら、暴力、盗み、不倫等を避けて、社会人としての倫理性を高めることです。また他人の人の人権や人格を十分に尊重して行動することです。自己の社会人としての品性を陶冶していくことによって、他の人々をも啓蒙していくことができます。

正命とは、自らの生命を正しくまっとうすること、すなわち、正しく生活することです。仏法真理に反する、自らを堕落させるような職業選択(暴力団、犯罪性を帯びた風俗営業、無用の殺生を生業とすることなど)を避け、大酒、賭けマージャンなどの賭博行為、競馬や競輪への狂奔、麻薬、健康を害する喫煙等からも遠ざかるべきです。多額の借金生活を余儀なくされ、サラ金等に追われる生活も、正しい生活とはいえません。また人間は、自分ひとりだけで生きてゆくことはできません。さまざまな人に助けられて、さまざまな人とともに、共同生活をし、生かしあっております。すなわち、正しい生活、つまり、正しい信仰生活のなかにこそ、生かしあいがあり、生かす愛の実践の場があるのです。お互いに導きあうべき場がある・
・です。言葉をかえれば、家庭ユートピアづくりに励む人、つまり、正命実践者が増えれば、増えるほど、この世は天国に近づくのです。かくして、正業、正命は、主として、生かす愛の段階にあるといえます。

第三に、正思、正精進は、許す愛に通じます。まず、正思―正しく思うということ、つまり、心の三毒(貪・瞋・癡)や六大煩悩(三毒に慢・疑・悪見を加える)に振り廻されず、人間関係を真実な眼で見て、調整しようという思いが、この正しく思うということなのです。相手の現象人間としての姿にまどわされず、実相世界の住人としての真実なる姿を心に描き、その人間との正しい関係の在り方を考えます。自分の心の内にまちがった考えがあればそれを反省します。そしてお互いに仏の子同士として、本来のあるべき姿を思います。そこにはともに導きあいつつ、大調和をめざす人々の姿があります。正しく思うということができれば、心は常に寛容で、あらゆるものをつつみ込むような、豊かな気持ちになれます。だから、この・
・地を磨き上げれば心は自然に、許す愛の境地へと高まってゆくのです。

正精進もまた、同じです。正精進―正しく道に精進するということは、仏法真理の獲得のために努力、邁進するということであり、誘惑を断ち、善念で心を満たした結果、日々に悟りの境地が深まってゆくのです。仏への道に対して、正しく精進するとき、徳力は倍加され、そこには怒りなく、そこには愚痴なく、そこには不平不満なく、そこにはねたみなく、文字通り「正思」の生活が実現し、ただ大調和の世界が地上に湧出するのみです。すなわち、心は、つねに不動心をたもち、罪ある人をも、清めるだけの力が出てくるのだといえます。ですから、正精進に磨きがかかれば、かかるほど、宗教的見識が一層深まり、まさしく、許す愛の境地はひろがってゆくのです。

そして、第四の正念、正定とは、存在の愛へ通じます。正念とは、正しく念ずること、つまり仏法真理の生活に心を集中させることです。心を落ち着けて正しく自分の未来設計をなし、正しき自己実現の姿を祈る。これが正念です。ところで、仏法真理を求めている者にとって、正しき自己実現とは、何を意味するのでしょうか。それは、仏の子人間としての完成した姿をあらわします。仏と一体の境地、すなわちこれ、如来の境地です。人間として最高の姿、そして、その人の存在自体が、世の人々の尊敬の対象であり、その人の存在自体が、世の人々に対する光明であるような人間となること。それが正しく念じるということであり、正しき人生目標の究極の姿だといえます。

また、正定―正しく定に入るということ、正しい瞑想状態に入ることは、宗教者として、仏法真理を求める者としては、最高段階の姿なのです。古来、宗教家たちはヨガだとか、座禅だとか、止観だとか、あるいは、反省的瞑想だとか、さまざまな精神統一をして、高級諸霊との交流を求めました。まず、正定には、日々の反省のなかに、自らの守護霊と交流する段階があります。さらに天命を遂行すべく、指導する霊との交流があり、最終段階として、上段階光の指導霊、如来界の人々と交信する段階があります。

生きている人間の心は、一念三千。如来の境地の悟りを得れば、正定のなかで、如来界の大指導霊との交流が可能となります。肉体をもった八次元の方で、上段階の光の大指導霊から、直接、あるいは、間接の指導を受けていない人はひとりもおりません。最低限であっても、インスピレーションを受けて、自らの天職を遂行している。それだけは、確かです。

結論としていえば、存在の愛の段階に到達するには、正しく定に入り、解脱すること、そして、正しい精神統一を完成するということが前提となります。

以上に述べてきたことは、言葉を換えていうならば、八正道には、修行としての段階があり、正見・正語→正業・正命→正思・正精進→正念・正定と四段階にわけて修行にはげむと反省がしやすいということです。これは釈迦の説いた八正道の順序とは異なりますが、初学者にとっては有効な修行順序です。

このことは、すなわち、愛する愛ができるようになったら、つぎに生かす愛の実践にはげみ、生かす愛の段階を経て、許す愛の段階にいたり、最終的には、存在の愛に達するというのと、同じだといえます。

正見・正語なくして、正業・正命はなく、また、正思・正精進、正念、正定もありえません。同じように、愛する愛なくして、生かす愛も、許す愛も、存在の愛もありえないのです。いずれにせよ、まず、最初の段階がもっとも大切だということです。

【大川隆法『太陽の法』第3章「愛の大河」幸福の科学出版 より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続きまして、経典『永遠の法』より、空間(霊界構造)に関する教えを振り返ります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・
第5章 五次元の世界
9高貴さについて

次に、魂の高貴さについて述べてみましょう。
魂の高貴さ。あるいは、高貴なる人格、高く尊い人格―。高も貴も、「抜きん出ている」「より優れている」という意味です。つまり、「非常に値打ちがある高さ」ということが、高貴さの意味です。

魂の高貴さ、精神の高貴さは、どのようなときに感じられるのでしょうか。

たとえば、ある人が、プール付きの大豪邸に住む大金持ちの家に、長男として生まれたとしましょう。そして、召使いにかしずかれ、思うままに育ち、生まれつき頭がよく、美貌に恵まれ外見もよく、多くの女性に愛され、社会に出ても多くの光~愛され、優遇され、立身出世をして、一生を閉じたとします。

これだけで、みなさんはその人に魂の高貴さを感じるでしょうか。こうした環境の人を見て、その人を偉人だと感じられるでしょうか。こうした環境の人を見て、その人を偉人だと感じられるでしょうか。

私は、偉人が偉人として世に認められている理由として、なんらかの困難や艱難に打ち勝ったという事実があると思うのです。そうであってこその偉人ではないでしょうか。

たとえば、シュバイツァー博士のように、アフリカという環境の厳しいところで伝道を行った高級霊もいます。小学校を中退しただけという学歴でもって、世界の発明王になったトマス・エジソンの例もあります。貧しい家庭に生まれて苦学し、努力に努力を重ねてアメリカの大統領になったアブラハム・リンカーンのような人もいます。

あるいは、インドの独立の父であるガンジーのような人もいます。ガンジーもまた、国を背負う者として、大英帝国という巨大な権力に立ち向かった高級霊でした。

こうした人びとの人生を振り返って見たとき、苦難や困難というものの真実の意味合いが見えると思います。「苦難や困難は単なる障害物ではなく、その人の人生の道筋、軌跡を、より美しいものとするための方便である」ということに気がつくでしょう。

これは何も最近の人だけに限ったことではありません。古い時代の人であっても同じです。インドの釈尊にしても、王宮に生まれ、何ひとつ不自由のない生活を子弟ながら、二十九歳のとき、一大決意をして王宮を出て、悟りの道へと入っていったのではないでしょうか。

このように、より高度な目標のために、みずから苦難をものともせず進んでいくとき、魂の高貴さというものが輝いてくるのです。その高貴さこそが、のちの世の人びとをも照らす光となていくのではないでしょうか。

人類の歴史を振り返ったとき、キラ星のごとく光っている偉人たちが数多くいることに、私は大変ななぐさめを受けるのです。

私にも、あるいは本書を読んでいるみなさんにも、人生の途上において、さまざまな苦難や困難が降りかかってくることがあるかもしれません。実際、過去において、苦難や困難が降りかかってきた人の数は、枚挙にいとまがないほどです

ただ、そうした苦難や困難に押し潰されてしまった人は、歴史に名前が遺っていないということです。一方、それに押し潰されず、それをはね返していった人は、魂の高貴さというものを、勲章として得ているのではないでしょうか。

イエスにしても、苦難や困難だけの人生であったならば、彼の名は遺らなかったでしょう。そのなかにおいて魂の高貴さを発揮したからこそ、かれは、のちの世の人びとを導く大きな光となったのでは位でしょうか。

【大川隆法『永遠の法』第2章「五次元の世界」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
本日の学びは、日々の修行項目である「真説・八正道」と、中・長期的な修行項目である「愛の発展段階説」をつなぐ内容でした。

主から教えていただいた正しき心の探究としての心の修行は、八正道のほうは、日々の修行であり、日々の悟りを重視しているのだということ。そして、愛の発展段階説は、日々の生活に端を発しながらも、ある程度、中期、あるいは、長期的な目標もあわせもっていることを教えていただきました。

「八正道」と「愛の発展段階説」との関係については、やや難しい区分となりますが、このようになります。

『八正道による悟りへの道を、あえて愛の発展段階説による悟りへの道とくらべるならば、つぎのことがいえるでしょう。

一 正見、正語は、愛する愛に通じる。
二 正業、正命、生かす愛に通じる。
三 正思、正精進は、許す愛に通じる。
四 正念、正定は、存在の愛に通じる。』

そして、結論としてこのようにも説かれています。

『結論としていえば、存在の愛の段階に到達するには、正しく定に入り、解脱すること、そして、正しい精神統一を完成するということが前提となります。

以上に述べてきたことは、言葉を換えていうならば、八正道には、修行としての段階があり、正見・正語→正業・正命→正思・正精進→正念・正定と四段階にわけて修行にはげむと反省がしやすいということです。これは釈迦の説いた八正道の順序とは異なりますが、初学者にとっては有効な修行順序です。』

このように、現代の四正道のうちで、とくに、「愛」と「反省」を結び付けて毎日の宗教修行を行うことを主は私たちに勧めているわけです。ここは仏法真理の教学上とても重要な論点であると言えます。

以下、真理用語の解説を引用します。

●心の三毒と六大煩悩
仏性をけがす三つの悪しき精神作用(煩悩)を心の三毒といい、むさぼりの心(貪・とん)怒りの心(瞋・じん)、愚かさ(癡・ち)を代表とする。これにうぬぼれの心(慢・まん)、疑いの心(疑・ぎ)、種々の間違った見解(悪見・あっけん)の三つを加えて、六大煩悩とし、人間の正しき思いを迷わせ、地獄へ墜とす重大原因と考えるのが、仏教的正思の基準である。ただし、百八煩悩といわれるほどに、悪しき精神作用は多く、正思には無限の深まりがある。

このように八正道は、仏教の奥義とも考えられる重要な教えである一方、取り組むのが難しいところがあります。ぜひとも、日々の反省行は、『仏説・正心法語』の五番目の経文『仏説・八正道』を繰り返し読誦しながらともに取り組んでまいりましょう。

後半の『永遠の法』では、魂の高貴さについて
『こうした人びとの人生を振り返って見たとき、苦難や困難というものの真実の意味合いが見えると思います。「苦難や困難は単なる障害物ではなく、その人の人生の道筋、軌跡を、より美しいものとするための方便である」ということに気がつくでしょう。・・・

このように、より高度な目標のために、みずから苦難をものともせず進んでいくとき、魂の高貴さというものが輝いてくるのです。その高貴さこそが、のちの世の人びとをも照らす光となていくのではないでしょうか』

私達の人生の途上で出会う、幸福や不幸は、全て私たちを仏の下に導くための方便であるという重要な事実を本日学びました。あらゆる経験を仏への道を進むための悟りに変えていくことを仏は期待しており、私達もそれを目的に人生を生きています。仏は私たちを方便によって導いています。それを受け取るだけの魂の器を私たちは仏法真理の探究・学習・伝道によって形づくらなければなりません。そのための菩薩の修行が六波羅蜜多と呼ばれており、その潜在意識から湧き出でる智慧が般若波羅蜜として顕現したとき、私たちは、仏に生かさてれいる。私たちは生きているのではなく、生かされているという認識を心から持つことができます。

人生の苦難や困難は、人の魂を高貴なものへと昇華するという深い学びでした。
辛いことや悲しいことも人生のなかではありますが、それは私たちの魂を光らせるために存在する砥石のようなものであると教えていただきました。

人生に起こるすべての出来事に無駄は何ひとつありません。それは、すべて私たちの悟りへの道であることを知りまょう。今日も、仏から悟りのヒントを人と人との営みのなかでいただきます。主への愛と隣人への愛を本日も貫いてまいりまょう。

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
文責:蒲原宏史 

タイトルとURLをコピーしました