(10/28-1)301経典『太陽の法』を読む 26愛の大河―愛の発展段階説―魂の糧

『太陽の法』を読む

36 世間は常に正しい。しかし、ニュースは、バイアスがかかって、間違って伝えられることが多い。

【大川隆法 箴言集『コロナ時代の経営心得』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
本日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)

11月23日は初転法輪記念日です。初転法輪とは、今から38年前の1986年11月23日に、主エル・カンターレ大川隆法総裁先生が、東京・日暮里の地(現初転法輪記念館)にて、初めての説法をされて、法輪を転じられたことです。この聖なる日に仏弟子相集い、心からの感謝を捧げるとともに、たとえ何があろうとも、主の御名と主の教えを地の果てまでも伝えていく伝道の発願を捧げさせていただきます。

さて、ここからは、「幸福の科学」の原点に立ち返り、幸福の科学が全世界に広げようとし
ている教えを共に再確認させていただきます。幸福の科学に入会・三帰されて間もない方や、これから、新しい方を伝道するに当たって、幸福の科学の教えをどのようにお伝えしたらよいのか。ヒントになれば幸いです。

基本三部作の『太陽の法』を引用しながら、幸福の科学の教義を共に学びます。なお、経典『太陽の法』は、光とは何か。仏法真理とは何か。という問いに答える幸福の科学の教えの基本です。また、後半では、『永遠の法』も少しずつ読んでまいります。『永遠の法』は、エル・カンターレの空間論についての教えです。
経典をお持ちでない方は、ぜひ拝受ください。全国の書店や支部や精舎よりお求めいただけます。【税込み2200円】

本書は、『太陽の法』(法体系)、『黄金の法』(時間論)に続いて、空間論を開示し、基本三法を完結する目的で書き下ろしたものです。これでエル・カンターレの法の輪郭が見えてきたことでしょう。今、永遠の神秘が明らかにされました。伝説と神話のベールに覆われていた、地球系霊団の最高の秘密が明らかにされたのです。世界全宗教の統合、超越の悲願を掲げて、本書を世に送り出します。【『永遠の法』まえがきより】
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第3章 愛の大河
6 愛の発展段階説

〇愛の発展段階説【愛する愛】
愛について、いろいろと語ってきました。そして、真の愛とは、与える愛であり、無償の愛であるとも説きました。つぎに、どうやら私は、愛には発展段階があるという真実の教えに触れざるをえなくなってきました。

そうです。愛にも発展段階があるのです。しかし、地上の人で、この発展段階に気づいている人は多くないはずです。

愛の発展段階の第一段階として、まず、「愛する愛」があります。この愛する愛は、ある意味では、もっとも愛らしい愛だといえます。すなわち、それは親の子に対する愛であり、子の親に対する愛であり、男の女に対する愛であり、女の男に対する愛であり、友人に対する愛であり、さらには、隣人に対する愛です。もっとひろくいえば、社会に対する愛、共同体に対する愛も、この「愛する愛」にふくまれます。

「愛する」といっても、やはり、与える愛であることにはかわりません。つまり、愛する愛の基礎にあるものは、その人が当然関心をもってしかるべきものに対する愛だからです。その人が関心をもってしかるべきものに対して好意を与えるということが、愛する愛なのです。これはもっとも根本的、かつ、一般的でありながら、実際には、けっこう困難な愛だといえます。

地上世界が、この愛する愛に満たされたならば、少なくともこの世は、はっきりとした天国となるでしょう。愛する愛とは、すべての人に期待できる愛であり、すべての人が、愛する愛のすばらしさを生来的に理解することができます。つまり、人間は生まれつき、愛を与えることに関して、幸福感を感じるようにできているからです。しかし、問題は、愛する愛をつねに理解するだけでなく、それをいかに実践するかです。この愛する愛が真に実践されれば、地上は三次元でありながらも、そのまま実在界の五次元善人界へと変貌するはずです。つまり、この愛する愛の実現が、地上天国への第一歩なのです。

〇愛の発展段階説【生かす愛】
愛の発展段階の第二段階には、「生かす愛」があります。「愛する愛」は、だれにでも可能な愛であり、その実践だけが問題なのですが、この「生かす愛」は、誰にでも実践できる愛ではありません。なぜならば、人を生かすことのできる人とは、すぐれた人であり、自らの才能と努力とによって、人を導けるまでに自分というものをしっかりとつくっていなければ、真に人を生かすことはできないからです。

つまり、生かす愛とは、すなわち、導く愛なのです。ですから、その愛の実践の前提として、まず、優秀な人格を築いておかねばなりません。なぜならば、盲人は盲人を手引きすることができないからです。

川の水が上流から下流に流れていくように、この生かす愛もまた、上流から下流に流れてゆく愛だといえます。生かす愛とは、知性の愛であり、理性の愛なのです。ですから、高き知性によって、人間と社会の本質を見抜き、すぐれた理性によって、その問題解決のメスをふるうことのできる人でなければ、真に人を導くことはできないのです。こうして生かす愛の体現者は、魂的に退化していこうとする者に対しては、「教導の怒り」を示して正しい方向に導くこともあります。そうしなければ、真に人を生かすことはできないからです。

この意味において、「生かす愛」とは、実在界の六次元光明界の愛だということができます。生かす愛を実践できる地上の指導者も、もちろんおります。しかし、その心は、すでに六次元世界に通じているということです。

関心をもってしかるべき人に好意をあたえる「愛する愛」。そして、すぐれた自分をつくって、人を導く「生かす愛」。それぞれに素晴らしい愛です。とはいえ、生かす愛だけではまだ不十分だといえます。なぜならば、単に人を生かすだけであるならば、才能の才があれば、あるいは、他人をうわまわる知性があれば可能だからです。しかし、愛には、才能や知性や、努力を超えた愛があるのです。すなわち、これこそが、第三段階の愛、「許す愛」なのです。

〇愛の発展段階説【許す愛】
「許す愛」の実践者は、おおいなる宗教的境地への飛躍を経験しているはずです。つまり、この許す愛とは、善悪を超えて、自己の使命に徹する者の境地だからです。というのも、この境地にある人は、三次元の物質界に生きている人たちが、霊的に盲目で手探り状態で生きていることを悟っているからです。そのためには、自らの愚かさに気づき回心したという、霊的覚醒の体験が必要です。自らの苦しみの中に光を発見したものこそ、相手の目にかかったウロコを見抜き、その真実の仏性を愛することができるのです。ですから、これはおおいなる度量と雅量をもってはじめて、才能を超えた徳をもってはじめて、出現する境地だといえます。

人間の本質をすべて仏の子として、神の分身と見ることができる人にこそ、敵と見えし者の本質に仏性を見ることができるのです。(般若の智慧)。すなわち、この許す愛の境地は、菩薩の境地なのです。ですから、この許す愛の実践者は、七次元からの使者であり、その心は実在界の菩薩界に通じているのです。

しかし、右に述べた、許す愛、すなわち、菩薩の愛は、断じて悪魔の活動を許し、その活動を助長する趣旨に解してはなりません。悪魔は神の人間に対する愛を阻害する者であり、その存在自体が、愛のアンチテーゼです。菩薩は、悪魔に対して、「信仰心」と「無我の怒り」、「空心の怒り」でもって戦うものです。仏(神)と敵対しても、とうてい勝てないことを悟り、はじめて「許しの門」をくぐる悪魔もいるのです。このように「許す愛」のかなにも、「能動的許し」が必要な場合があります。

さて、私は、さらにこれ以上の愛の境地があることを語ってゆきたいと思います。

【大川隆法『太陽の法』第3章「愛の大河」幸福の科学出版 より抜粋】
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続きまして、経典『永遠の法』より、空間(霊界構造)に関する教えを振り返ります。
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第5章 五次元の世界
7魂の糧

「悲しみや苦しみは迷いであって、本来なのだ。本来、悲しみ無し、本来、苦しみなし。それらは迷いの姿であって、実在ではないのだ」という考え方があります。しかし、これに対して、私は異議を唱えるものです。

根本仏は根本仏である以上、なんらの進歩、発展がないのです。根本仏は根本仏である以上、完全であり、無欠であり、また、自然であり、至愛であり、至福です。すなわち、究極の善であり、究極の真理であり、究極の美です。こうした存在である以上、根本仏は、なんらの進歩、発展、また、喜びを伴わないものなのです。

そこで、根本仏は、たとえば庭園をつくるような気持ちでもって、この大宇宙を創造したのです。まるで庭仕事のように、岩をすえ、池を掘り、そこに魚を放ち、小さな木や大きな木を植えたり、果実を実らせたり、ときには雑草を植えてみたりと、さまざまなことをして、庭の景観をつくるために努力したのです。

人間の目には不完全に見えるさまざまな物事も、実は、根本仏が一つの庭園を、つくるために醸し出した情緒にしかすぎないのです。少しは雑草もあっていい。背の高い木も低い木もある。うず高い小山だけではなく、池のようにえぐれた部分もある。こうしたさまざまなものがあって、根本仏の庭園ができており、根本仏はその庭づくりを楽しんでいるのです。

したがって、悲しみや苦しみは、実在とまでは言いきることができないけれども、ある一定の制約のなかで、その存在が許されていることは事実なのです。

すでに述べたように、喜びが不在となれば悲しみになるのかと言えば、必ずしもそうではありません。喜びが不在となれば、悲しみになるのかといえば、必ずしもそうではありません。喜びがなくなっただけでは、涙は出ないのです。涙が出るとき、そこには悲しみという積極的作用もあるということです。たま、楽しみがなくなれば、すぐに苦しみになるかといえば、そうではなく、苦しみには積極的な原因がある場合もあるのです。

このように、悲しみや苦しみも存在しますが、悲しみや苦しみが現にあるのは、それがよきものと思われているからではありません。この地上の悲しみや苦しみ、また、四次元界や五次元界における悲しみや苦しみは、大きな飛躍のためのものであることも事実なのです。

自分はこのようにしたいと思うことがなかなか実現しない場合は、それに悲しみや苦しみがつきまといます。また、自分の意図に反した結果が現れたときには、その結果しだいでは、それが苦しみとなったり、悲しみとなって涙がほとばしったりします。

しかし、この涙は、この汗は、決して、涙のための涙ではなく、汗のための汗ではなく、より高次なものを招くための涙、爽快感のまえの汗だということです。

したがって、この世の世界を、苦の世界、苦しみの世界、悲しみの世界と見てしまわずに、「苦しみや悲しみも、あることはあるけれども、それはより良き者のための砥石の役割をしているのだ」ということを知らなければなりません。

玉石混淆(ぎょくせきこんこう)という言葉ありがありますが、まさに石のなかで玉が光ってくるのです。またね揉まれ揉まれて成長してくるものもあります。お互いにゴシゴシとこすり合い、よくなっていくのです。

このように、悲しみや苦しみも用意されてはいますが、それがずっと続くことが予定されているのではありません。魂の糧としてのみそうしたものを経過することが許されているのです。そして、究極的には、喜びや楽しみの世界、常楽の世界、常夏の世界へと向かうようになっています。

したがって、「苦悩というものは、魂の糧としてのみ存在が許されている」と考えるのが最もよいのです。

【大川隆法『永遠の法』幸福の科学出版 第2章「五次元の世界」より抜粋】
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愛には発展段階があるという教えでした。つまり愛にはレベルの高低があるということです。まず初めに私たち信仰者が学ぶべき愛は「愛する愛」でした。

愛する愛は「五次元善人界」世界を貫く愛の形です。この愛が天国世界の原型ともなります。

メシアの法において、主におかれましては、「主なる神を愛しているという証明として、汝の隣人を愛せよ」と教えていただきました。メシアの法ではこのようにあります。

『ですから、逆に言えば、神を愛することが一番目ですけれども、「神を愛している」ということの証明が、「汝の隣人を愛している」ということです。そういう、利害関係がなくても愛していることを示すことによって、「神を愛していること」を証明していることにもなるのです。こういうことをイエスはいっているわけです』

よって、主におかれましては、地上のものに溢れた三次元世界を、精神性のある五次元世界へ導きたいと考えておられます。現在三次元世界は、地獄界に引っ張られる形で、地球人類の霊的人生観が低下しており、転生輪廻のシステム崩壊の危機にあります。この危機的な状況を打破すべく、説かれたのが『地獄の法』です。『地獄の法』は天国世界の逆証明として編まれた救世の法です。『太陽の法』・『永遠の法』・『黄金の法』とともに読み込みたい大切な経典です。

愛には発展段階があるという教えでした。つまり愛にはレベルの高低があるということです。まず初めに私たち信仰者が学ぶべき愛は「愛する愛」でした。そして次の段階が「生かす愛」です。

生かす愛とは、一言でいえば「指導者の愛」と呼ばれています。自分自身が、神仏に臨まれる人格をつくりあげて、周りの隣人の成長や発展を促し、育てることができる人が六次元光明界の愛です。
この六次元の「生かす愛」について、主このように説いています。

『この「生かす愛」は、誰にでも実践できる愛ではありません。なぜならば、人を生かすことのできる人とは、すぐれた人であり、自らの才能と努力とによって、人を導けるまでに自分というものをしっかりとつくっていなければ、真に人を生かすことはできないからです。
つまり、生かす愛とは、すなわち、導く愛なのです。ですから、その愛の実践の前提として、まず、優秀な人格を築いておかねばなりません。なぜならば、盲人は盲人を手引きすることができないからです』

生かす愛として、人に与えるためには、それだけ魂の研鑽が必要であることが分かります。

愛には発展段階があるという教えでした。つまり愛にはレベルの高低があるということです。まず初めに私たち信仰者が学ぶべき愛は五次元善人界の「愛する愛」でした。そして次の段階が六次元光明界の「生かす愛」でした。そして、さらに次の段階が七次元菩薩界の「許す愛」です。

許す愛とは、「宗教的境地の愛」です。
本日の教えのなかで、
『人間の本質をすべて仏の子として、神の分身と見ることができる人にこそ、敵と見えし者の本質に仏性を見ることができるのです。(般若の智慧)』

とありましたが、
イエス様のことばに「汝の敵を愛せよ」があります。敵と見えしものにも仏性や神性を発見することで、「人を憎まず、その罪を憎む」境地にある愛といえます。

しかし、すべてを許すのが愛でないことも事実であり、主はこのように説いてくださっています。

『許す愛、すなわち、菩薩の愛は、断じて悪魔の活動を許し、その活動を助長する趣旨に解してはなりません。悪魔は神の人間に対する愛を阻害する者であり、その存在自体が、愛のアンチテーゼです。菩薩は、悪魔に対して、「信仰心」と「無我の怒り」、「空心の怒り」でもって戦うものです』

宗教的な愛の境地にも、「聖なる怒り」が存在することも教えていただきました。私利私欲を超えた無我の怒りによって天使や菩薩は悪魔と対峙しています。悪魔が天使や菩薩に対するアンチテーゼであるならば、「地獄」の存在も、「天国」のアンチテーゼなのかもしれません。

また、『永遠の法』においても、魂の成長についてどのように苦悩や悲しみを捉えるかという意味においては、人生において珠玉の教えを本日いただきました。最後のあたりの言葉に魂が震えます。

『しかし、この涙は、この汗は、決して、涙のための涙ではなく、汗のための汗ではなく、より高次なものを招くための涙、爽快感のまえの汗だということです。

したがって、この世の世界を、苦の世界、苦しみの世界、悲しみの世界と見てしまわずに、「苦しみや悲しみも、あることはあるけれども、それはより良き者のための砥石の役割をしているのだ」ということを知らなければなりません。

玉石混淆(ぎょくせきこんこう)という言葉ありがありますが、まさに石のなかで玉が光ってくるのです。またね揉まれ揉まれて成長してくるものもあります。お互いにゴシゴシとこすり合い、よくなっていくのです。

このように、悲しみや苦しみも用意されてはいますが、それがずっと続くことが予定されているのではありません。魂の糧としてのみそうしたものを経過することが許されているのです。そして、究極的には、喜びや楽しみの世界、常楽の世界、常夏の世界へと向かうようになっています。

したがって、「苦悩というものは、魂の糧としてのみ存在が許されている」と考えるのが最もよいのです』

私は、この言葉に触れただけでも、神の言葉だと確信を得ることができます。神様でなければ、ここまで、苦悩や悲しみの意味を喝破できないのではないかと思うからです。
本日の学びも一生大切にしたい教えでありました。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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