(9/8-2)70『仏陀再誕』を読む―転生輪廻とは何か―転生輪廻の思想―悟りへの第一歩

『仏陀再誕』を読む

77 蛇の妖怪としては、私は吉野山の花見に行って、「脳天大神」の祟りを経験したことがある。脳天を割られた三メートルもある大蛇が川を流れて来たので、村人がこれを小さな神社にまつって、拝んでいた。その晩、ホテルで、一晩、巨大大蛇を追い払う修法をやるはめになった。動物などを「神」としてまつったりすると、霊力を持った妖怪になることがある。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

27 生前、水商売や賭け事、性を売り買いする商売をしていた男たちや、女たちが、狐の姿になっているのをたくさんみた。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正念】未来を拓くための積極的反省
〇正念を通しての「ユートピアづくり」

この「正念」が、特に「愛」と関係があるならば、それは他者との積極的なかかわりというところに眼目があります。この点に求められるでしょう。

「念」というものは、自分の内側から外側に対して発射するものです。ですから、少なくとも、他の人の人生に何らかのかかわりを持つことになります。必ず影響を与えるのです。

したがって、この「念」というものの「性質」および「内容」について考えることは、実は「ユートピアづくり」ということと非常に関係があるわけです。ここを間違ってはいけません。

すなわち、反省のなかに、積極的な「未来づくり」、あるいは「社会づくり」、「国づくり」、また「人間関係づくり」などのいちばん大事な部分が入っているということです。

【大川隆法『真説・八正道』第8章「正念」244pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第六章 転生輪廻とは何か 

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
今日は、おまえたちに懐かしい話をするとしよう。

○転生輪廻の思想
転生輪廻の話は、過去幾度となく学んできたはずである。
しかし、この転生輪廻の思想が地上から廃(すた)れて久しい。
いや、地上から廃れるというよりも、
もはや過去の単なるたとえ話、笑い話としてとらえられている感がある。
そうして、嘆かわしいことに、
わが教えを継いでいるところの仏教の僧侶たちも、
この転生輪廻を真実のこととしてとらえているか否かは定かではない。
いや、むしろ、
それを信ぜぬ者たちのほうが数多く増えているのではないか。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちも、心して学びなさい。
今世、生れ落ちたおまえたちには、
それぞれの考え方があるであろう。
考え方というのは、
おまえたちの受けた教育や、
おまえたちの経験したさまざまな出来事によって、
成り立っているものだ。

しかし、私は言っておくが、
この世というものは、
おまえたちの悟りにとっては、かなり厳しい修行場であるのだ。
いつの時代も、私とともに地に降りてくるおまえたちは、
厳しい環境を選んで生まれてくる。
されど、今世のこの日本の地は、
以前のインドの地よりも厳しい環境下に置かれているかに見える。
インドの地においては、伝統的に仏神を尊ぶ風習があった。
また、死後の世界を信ずる風習もあったが、
この日本の地では、風習そのものは、いまだに遺ってはいるが、
その実態がないと言ってよい。
そうした死後の世界をあざ笑い、
人の生まれ変わりをあざ笑う人たちの多くは、
何ら自分から進んで知ろうといることなく、
生れ落ちてから後の、知識や経験のみで判定しようとする。
しかし、そのなかにいったいいかほどの真実があるのか。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私の言葉をよく聞きなさい。
あなたがたは、今世において恐れてはならない。
怯(ひる)んではならない。
おののいてはならない。
自らがどのように生きやすくするかを考えてはならない。
そのことを、あまりにも考えすぎてはならない。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちは、仏弟子であることを誇りに思うか。
おまえたちは、真実のために生きることを誇りに思うか。
おまえたちは、仏法真理のために生きることを誇りに思うか。
もし、おまえたちが真実のために生きることを誇りに思う心を、
いまだに失っていないのであるならば、
私の言うことをよく聞きなさい。

地上の人間たちは、死後の世界をあざ笑う。
そして、それを無視したがる。
また、口を開いて死後の世界を語る人あらば、
その人を狂人呼ばわりする。
あるいは、変わった者というふうに言う。
そこで、心正しく、心清くして、真実の世界のことを知っている人が、
この地上ではたいへん生きにくくなっている。
ある時はあざ笑われ、中傷され、非難され、罵倒される。

私の言葉を信ずるがゆえに、そのようになる者も出てくるであろう。
しかし、私はあなたがたに言っておく。
我がために傷つけられても、
その傷はやがて大いなる栄光となるであろう。
我がために辱(はずかし)められても、
その辱めはやがて大いなる天の報いとなるであろう。
我がためにたとえ地に倒れようとも、そのあなたの偉大な思いは、
やがて、天の諸天善神をして、
歓喜の涙をふり絞らせることになるであろう。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちは、世間体というものをあまり考えてはならない。
おまえたちは、恥ずかしいという思いをあまり持ってはならない。
おまえたちは、この地上において人びとの尊敬をうけようと、
あまりにも考えてはならない。
おまえたちは、喜んで人びとから尊敬されない立場に身を置け。
おまえたちは、喜んで人びとから冷遇される立場に身を置け。
ただ、一つの仏法真理のために―。
ただ、一つの仏の教えのために―。
おまえたちは、幾十回、幾百回、幾千回の転生輪廻の過程で、
いつも我が教えを受けてきたのだ。
そして、わが教えを得(う)るときに、
いつも数限りない苦難や困難をも通過してきたのだ。
そうした強いおまえたちであるならば、
いまさら何を怯(ひる)むことがあるか。
いまさらに何を恐れることがあるか。
いまさら何を、いまさら何を―。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私は、おまえたちがいとおしい。
私は、おまえたちが限りなくかわいい。
私は、おまえたちが苦しむのを見ていることができない。
私は、おまえたちが涙しているのを黙って眺めていることができない。
私の教えを守ることが、
おまえたちを、もし傷つけ、悩ませ、
苦しませることになるならば、
その時に、私はまたおまえたちと共に、悩み、苦しんでいると思え。
私は、必ずおまえたちの涙を見つけるであろう。
私は、必ずおまえたちと共に苦しんでいるであろう。
私は、必ずおまえたちと共に悩んでいるであろう。
私は、必ずおまえたちと共に、
大いなる苦しみを背負っていることであろう。

【大川隆法『仏陀再誕』第六章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第二章 霊的現象論
5 悟りへの第一歩

「霊道を開く」ということ自体が「悟りそのもの」であると捉える方は数多くいると思います。

これに対して述べると、それを「悟りへの第一歩」と考えてもいいのは事実です。平凡な人生で霊道を開いていくことには、「仏法真理に目覚める」「霊的人生観に目覚める」という意味で大きな意義があります。

その結果、その本人がどういう人生をその後生きていくにしても、「生きている肉の身のままで、霊的世界を垣間見た。神や仏の世界を垣間見た」という意味では、一歩の前進であることは事実です。魂にとっては一歩の前進なのです。そういう意味において、「悟りのへの第一歩」とは言えるでしょう。

ただ、この霊的現象、「霊道を開く」ということ自体を捉えて「悟りそのもの」と考えてはいないのです。これはあくまでも「悟りへの第一歩」であり、「悟りよすが」ではありますが、「悟りそのもの」ではないことを知らねばなりません。「霊道を開く」ということを「悟りそのもの」であると誤解すると、ここに大きな間違いが起きます。いろいろな霊の声を聞き、それをそのままに受けていると、いわゆる「言うなり」となってくるわけです。そして彼らに完全に支配されていきます。「自分は悟った」と思い、うぬぼれていると、そういう霊の声に操られて、あらぬ方向に行くのです。

したがって、霊道を開いて以後のチェックポイント、非常に心すべきこととして挙げられるのは、「高級霊の言葉であっても、あるいは守護霊や指導霊の言葉であっても、もう一度、八正道というフィルターにかけて聞いてみる」ということです。これが大事です。

そういう声が聞こえてくるのは、自分自身のなかに、それを強く求めているようなことがあるからではないのか。そういうこともありうるわけです。

だから、高級霊の声であっても、もう一度、八正道というフィルターにかけて考えてみる必要があります。そして、どうしても納得がいかないならば、しばらく期間を置いてみて、もう一度、それが正しいかどうか、自分の心に適うかどうかを考えてみるのです。こういう姿勢が大事です。

ただ、これも、行きすぎてはいけません。高級霊が何の霊示を送ってきても、「すべて自分で判断するのだ」ということで、全部、勝手に自分らやるならば、これは、そういう声がないのと同じです。神も仏もないのも同然であって、これでは「自分しかない」ということになります。

これは「我流で生きていく人」でしかありません。こういう人にとっては、霊的能力を持ったり啓示があったりすることは、何の意味もないことになってしまいます。このように、すべてを「自分が、自分が」という思い上がりでやってはいけません。

ただ、高級霊と思われる声であっても、いったんフィルターを通して聞いてみて、「この声に従って行動することは、本当に自分が向上する道かどうか」のチェックが第一点として大事です。

第二点は、「他人を害さない道かどうか」ということです。これがチェックポイントです。他人を害さないかどうか。

そして、第三点としては、「トータルな意味で神や仏の御心に適っているかどうか」と言うことが挙げられると思います。

実は、このあたりが非常に難しいところなのです。

例えば、ある人が就職したいとする。高級霊からの啓示が降りてきて、「こういうところに就職をしなさい」という勧めがあったとする。

そして、自分自身の心を考えてみると、そこに就職したいような気もするが、したくないような気もする。よく分からない。どうなるかは就職してみないと分からない。しかし、「そこに就職してみると、けっこういいかもしれない」という気はする。第一の関門を通過する。

第二の基準の検討に入る。他人を害さないかどうか。特に他人を害さないようではある。こういうことで第二の関門を通過する。

第三の関門。神や仏の心に適うかどうか。これも、考えてみると、確かにそのほうがユートピア創りにどうやら貢献するようである。こういう判定ができる。

そうすると、「第一、第二、第三とも、必ずしも完璧だとは言えないけれども、そこそこの水準を通過している」と思えば、もう、あとは全託をして、その道を歩んでいく。こういうことが可能なわけです。

ここで、人間心でもって、「やはり私は」と考え、「啓示を降ろしてきたのが高級霊であろうが、神だろうが、仏だろうが、やはり、自分が思ったとおりにするのだ。自分が思ったところに就職するのだ。自分が思わない会社へはいかないのだ」という考えでやっていると、これもまた自我我欲のままに生きていることになります。

そういうことで、一つひとつのチェックポイントを一応確認する必要はありますが、最後には、心を空しゅうしていき、「心むなしく神仏の声に耳を傾ける」ということも大事です。

この際に大事なことは、一つの「信頼感」です。全託する。信頼する。「最後には神や仏が自分を見て下さっているなら、そんな不幸な結果は起きない」という考えも大事です。

完全に「言うなり」になってもいけないけれども、最後には神や仏にお任せする。そして、どういうかたちであっても、自分が神や仏のために奉仕できるような生き方をしたい。そのように思っている人には魔は入り込めないのです。

「とにかく自分が利益を上げればよいのだ。自分の欲望が満足させられればよいのだ」という思いでやっていれば、いろいろな問題が起きますが、「最後には神や仏の役に立つ自分でありたい」という気持でいれば、魔は入り込めません。これが霊的世界の真相なのです。

ですから、霊道を開いて「悟りへの第一歩」を踏み締めた方は、よくよく謙虚に生きなければなりません。そして、「神や仏の使用人として、一部分として、ボランティアとして、自分はいているかどうか」という確認を、常々、行っていく必要があるのです。

「神や仏のボランティアとして生きている。そういう無量奉仕人として生きている」という自分を発見できたならば、あとは、その心に忠実に生きていくことです。

とにかく、「霊道を開く」ということは「悟りへの第一歩」であることは事実です。しかし、それで増上慢になってはいけません。うぬぼれてはいけません。「まだまだ先がある」ということを知らねばならないのです。

霊道を開くことの第二歩では、守護霊との後進だけではなく、より上位の高級神霊、指導霊たちとの交流が可能になってきます。

ただ、一般に言われているように、そういう高級霊との交流に際しては「人格のつり合い」が大事です。

例えば、日蓮上人の霊示を受けるためには、日蓮上人の霊示を受けるだけの器が要ります。それだけの人格が要ります。それだけの徳望が要ります。知力が要ります。慣性の煌めきが要るのです。悟りが必要です。

そのように、「高級神霊の通信を受けるためには、それだけの器が要る」という事実を知らねばなりません。

名前だけを語って、「自分は何々の神である」というかたちは数多くあります。これは日本国中にありますが、「霊示を受ける人と与える人とは、だいたい同じレベルである」ということを知らねばなりません。

ですから、やはり、生きている人の行動と実績に注目する必要があります。「それだけの人でなければ、それだけの通信はない」ということを知らねばなりません。

つまり、「最高級の指導霊の方が、あっちにもこっちにも出て指導することはない」ということを知らねばなりません。「それだけの実績があり、行動力があり、能力がある」と見られる人のところだけに出るわけです。

もちろん、これについても、判定には難しいところがあります。「われこそは、そういう人なり」と言う人は、あちこちにいるからです。したがって、これについては、やはり、客観的フィルターにかけ、「本当に世の中を納得させるだけの材料があるかどうか」という点で検討していけばよいと思います。

「霊道を開く」ということは、それに対する恐れ、恐怖感もありますが、これを通り過ぎたとき、さらに大いなる悦びを生むものですし、さらに大いなる人生観をもたらすものなのです。そういう道があるので、どうか、恐れずに生きていっていただきたいのです。

霊道を開いても、「日々、謙虚に努力する姿勢」さえ持っていれば、転落することはありません。勇気を持って、その道を突き進んでいっていただきたい。そのように祈念する次第です。

【大川隆法 『漏尽通力』第2章「霊的現象論」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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