(9/4-2) 66『仏陀再誕』を読む―忍耐と成功―成功への道―心の神秘

『仏陀再誕』を読む

73 山姥(やまんば)の変化形としては、いったんつかまえた男を、どこまでも追いかけてくる「ろくろっ首」も妖怪である。首を長くしてグルグル巻きにしてくる点、「安珍・清姫」の、「清姫」にも似ていて、男への執念のため、巻きついて火を吹いて焼き殺す、大蛇のような女の執念が妖怪化してくるのである。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

31 生前、ホラを吹いては逃げていた男が、ヒキガエルとなって、騙された恨みから青大将になった女に丸のみにされることろを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正精進】神仏のお心への精進
〇悟りを維持していくことこそ、いちばん難しい

「正精進」は「正道に精進する」ということです。仏教では、この「正しく道に精進する」ということを非常に重視しています。

第3章の「正思」においても、「自助努力の姿勢」ということを述べておきました。重なるところもあるかと思いますが、正思のほうでの自助努力は一般的な面であるのに対し、正精進のほうは、もう少し具体的、個別的になります。「真に悟りを求めている者たちにとって必須の心掛けとは何か」ということが問われるわけです。

この正精進は、あくまでも「道への精進」と考えていただきたいと思います。単なる「商売での精進」というようなことではありません。「神仏の方向に向かっての精進」ということになります。仕事の面で生かすとすれば、「その方向性がユートピア建設へ、神仏のお心の実現に向いている」ということが大事です。これが正精進の前提条件となりましょう。

さて、この「正しく道に精進する」という場合にも、幾つかの判断基準があるであろうと思います。

みなさんは、「正しく道に精進しているかどうか」を、いったい、どのように判定しておられるのでしょうか。どのように判断しておられるのでしょうか。

ここで、私は修行そのものの意味を、みなさんに考え直していただきたいと思うのです。

『釈迦の本心』という本の最終章に、「人間完成の哲学」というものを挙げておきました。このなかでは、「悟りへの道が、いかに難しいものであるか」ということを書いたつもりです。

可能性はすべての人に開けている。そして、瞬間的には、ある程度のところまで達することも可能とされている。しかし、維持することが難しいもの。これが悟りです。
「悟りの要諦は、実は、この維持のところにある」と看破しなければならないのです。もちろん、悟りに入っていく過程も難しいのですが、「悟りを維持していくことこそ、本当はいちばん難しいことなのだ」ということを知らねばなりません。

それは、一時期、一瞬あるいは一日や二日だけ悟った人がいくら出たところで、世の中がよくならないのと同じです。十年、二十年と続いていって初めて、自分の血となり肉となっていくものなのです。

したがって、「悟りにおいて安易なものは許されない」という考えを持っていただきたいのです。

【大川隆法『真説・八正道』第7章「正精進」228pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第五章 忍耐と成功 
○成功への道

さて、さらに私は、あなたがたに言っておくとしよう。
あなたがたは、成功というものに惹かれているにちがいない。
日々、成功というものに惹かれているにちがいない。
日々、成功とは何かを考え続けているにちがいない。
しかし、成功とは、
あなたがたが考えているものとは、
遥かに隔(へだ)たったものであるのかもしれない。
あるいは、成功とは、
実はすぐあなたがたの間近にあるものであるかもしれない。
その成功の意味について、定かな定義があるわけではないであろう。
しかし、私はあなたがたに言っておこう。
真に成功したと言えるためには、
どうしても外してはならないものがあると思える。

①常に穏やかに
成功の条件として、
心が乱れるような成功であれば、これは成功とは言わない。
心は、常に穏やかで落ち着いていなければならない。
心は、常に平静で、とらわれがないものでなければならない。
成功することによって、とらわれが増えてゆくならば、
その成功は真なる成功ではない。
私は、そう思う。
成功することによって、
心ますます穏やかとなり、
心ますます平静となり、
心は常に豊かさを含み、
多くの人々のことを考えることができる時に、
成功は本物となる。
私は、そのように思う。

②妬みをかうな
成功の途上において、
さまざまな葛藤をつくり、とらわれをつくり、
恨みをかい、妬みをかうようであっては、
真の成功であるとは言えない。
ゆえに、生有このための第二の条件として、私は言っておこう。
人びとの妬みをかってはならない。
いまだかつて、人びとの妬みをかって大成功した人はいない。
一見、成功したかに見えても、妬みをかった者は、
多くやがて没落の淵に沈んでいるようだ。
そう、人びとから妬みをかうということは、
あなたがたの成功が、
実は他の人びとの頭の上を押しつけた成功であるということなのだ。
他の人びとの肩の上に乗った成功であるということなのだ。
他の人びとに重荷を押し付けて、
そして後の成功であったということなのだ。

もし、あなたがたの成功が、
他の人びとの荷物を持ち、他の人びとの生活を楽にし、
他の人びとを幸せにしてゆくためのものであるならば、
あなたがたの成功は、
決して他の人びとの妬みをかうことはないであろう。
しかし、万一もし、あなたがたの成功を妬む者が、
一人でもあるとするならば、
まだまだ徳が足りないと思わねばならない。
まだまだ徳が足りないのだ。
徳が足りないということはいかなることか。
それは、あなたの成功によって、
損をしたと思っている人がいるということだ。
あるいは、あなたの成功を
不当なものであると思っている人がいるということだ。
あるいは、あなたの成功を
承認しがたいと思っている人がいるということだ。
そのような成功であってはならない。
真なる成功は、自然しぜんに、まわりの人によって、
押し上げられてゆくような成功でなければならない。
真なる成功は、
自ら意図するものでなく、
自然しぜんにその結果が出てくるようなものでなくてはならない。
真なる成功は、
ほんとうに多くの人々に感謝されるものでなくてはならない。
多くの人びとから感謝されることなくして、
真なる成功というものはないと思わねばならない。
私は、そのように思う。

③悟りの香りを
成功の第三の条件についても述べておくことにしよう。
心の平静と人の妬みをかわない態度が大事であると述べてきたが、
それ以外にも、成功のためには大切な心構えというものがある。
それが何であるかというならば、
あなたがたの魂の輝きが増してゆかねばならないということなのだ。
魂の輝きが増してゆくということの意味が分かるであろうか。
それは、悟りの香りが漂わねばならないということなのだ。
悟りの匂いが漂わねばならないということなのだ。
悟りの香りとは、魂の光とは、いったい何であるか。
それが、あなたがたにはわかるであろうか。
私はあなたがたに言っておく。
悟りの香りとは、得ようとして得られるものではない。
奪おうとして奪えるものではない。
決してそのようなものではない。
悟りの香りは奪わずして得、
得んと欲せずして得るものである。
ちょうどあの蝶が、
手に入れようとて網を持って追いかければ、
空高く逃げ延びてゆくが、
何もせずにじっとしていると、
自然と降りてきて、肩の上にとまりて憩うようなものである。
このように、悟りとは、
本人の意図には反して、ごく自然しぜんに、現われてくるものである。
そして、芳醇(ほうじゅん)な香りによって、
その人とその人のまわりとを潤してゆくのだ。

そのことの意味を、私は違った角度から話をしてみよう。

【大川隆法『仏陀再誕』第五章「忍耐と成功」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第二章 霊的現象論
1心の神秘

本章では、いわゆる「霊道現象」に関して話をしていきたいと思います。

最初に「心の神秘」ということについて語ってみたいと思います。

人間の心は非常に神秘的な存在です。心に関しては、長い間、いろいろなかたちで言われてきましたし、それについて考えられたことも数多くあるでしょうが、「心の正体はいったい何なのか」ということを突き詰めて説き明かした方は、そう多くはいないであろうと思います。

読者のみなさんのなかで、「あなたの心とはいったい何か。心を定義せよ」と言われて、即座に答えが出る人はいないのではないでしょうか。禅宗のお坊さんのように、「心とは何ぞや」と問われて、誰もまったく予期しない言葉で答えても、そういうことで解決がつくものでもないと思います。

心は古くから人々の耳になじんできた言葉ではありますが、残念ながら、「その正体はいったい何か」ということが分からないでいたわけです。

これは、たとえてみれば、「人間は、自分の住みかの裏に宝の蔵を持っていて、その鍵を渡されているにもかかわらず、その鍵がいったい何の鍵か、深く考えもしないで生活している人に似ている」と言えるでしょう。

自分には、玄関の鍵、それから台所の鍵、こういう二つの鍵があるけれども、これ以外にもう一つの鍵を持っている。ところが、三番目の鍵は何の鍵か分からない。分からないけれども、分からないままで放置している。そして、玄関の鍵と台所の鍵だけを使っている。「もう一つの鍵はいったい何だろうか」ということを深く完゛替えもしないで、そのままでいる。

たまたま裏庭には一つの建物が建っている。蔵のようなものが建ってるけれども、自分の両親が早く死んだために、自分には、その鍵はいったい何の鍵か分からない。そのため、鍵を一本持っていても、何の鍵か分からない。

こういうかたちで、鍵と蔵はあるけれども、鍵と蔵とのかかわりが分からないし、それを研究しないでいる。

これが大多数の人間の姿です。

ところが、人生の、ある時期において、ある日曜日でもいいですが、たまたま、気分のいい日があって、「ちょっと裏の蔵を見てみたい」という気になる。もしかして、自分が持っている鍵は合鍵なのではないか。こういう気がして差し込んでみると、意外や意外、その蔵が開く。「なかから何が出てくるだろうか」と思い、真っ暗のなかを手探りで歩いていく。

そうすると、そのなかから、なんと、金銀財宝、あるいは宝石の山、こういうものが出てきたわけです。びっくりします。

十年も前から、あるいは二十年も三十年も前から、そういう蔵があることだけは知っていたけれども、まさか、なかにそういうものがあるとは思わなかった。単なる物置か廃屋であると考えていた。

しかし、実は、そのなかには無尽蔵な宝が隠されていた。二十年、三十年、その秘密について知ることもなく、汗水たらして働いていた。

こういう自分を発見するにいたるのです。

たとえ話をしたわけですか、こうしたことは実によくあります。本当は、そういう鍵を持っているにもかかわらず、それが裏の庭に建っている蔵の鍵だと気がつかずに、何十年も過ぎてしまった人は数多くいるのです。

心は、まさしく、この宝の蔵のようなものです。本当は、その秘密を知り、その宝を手に入れれば、無限の力が湧いてくるのですが、それを深く探求しない者にとっては、くらの扉が開かないのです。

この「心の神秘」というものを探求していくと、「人間の心のなかに、どれだけ大きな力が潜んでいるか」を知ることになります。

この大きな「心の秘密」には二つの意味合いがあると思います。
第一は、「人間は自分の思うことを自分でコントロールできる」という秘密です。思いというものはコントロールできるのです。

ところが、大多数の人は、このことに気がつきません。思いというものを、なすがままに放置しているのが現状です。それはまるで浜辺に寄せては引いていく波のようなものです。思いは、そのようにたとえられるでしょう。

しかし、実際に念いというものを突き詰めて考えていくと、川の流れのごとく、上から下へ、どんどん、どんどんと流れ、押し寄せていく場合があります。心というものは、方向性を与えれれば力が出てくるのです。

単に浜辺に寄せている波だけであれば、それによる水力発電は難しいと思いますが、勢いよく流れ落ちる川であれば、そこにダムをつくると水力発電ができます。このように、一定の方向性があり、力があれば、それを有用なものに使っていくことができるのです。

同じように、心というものも、その「思いのコントロール」ということを探求していくと、意外な力が出てきます。それはある意味では、「自己実現」というようなものであるでしょう。一定の方向に向けて思いを集中し、持続していくと、ある結果が出るのです。こういう、「想念、念いの力」というものが一つあります。

もう一つの「心の秘密」は、「心のなかには深い部分がある」ということです。

この深い部分を心理学では、「深層心理」ともいいます。宗教的には、これを「守護・指導霊の世界」、あるいは「霊の世界」といってもいいのです。そうした世界とつながっているのが心の部分です。

この部分について、大多数の人は、うっすらと感づいたり、本能的に感じたりすることはありますが、「完全にそれをつかみ切る」ということができないでいるのではないでしょうか。

ですから、この無尽蔵の宝庫を知ることによって、無限の世界を探求することができ、そこに分け入っていくことができるようになっているわけです。

これが「心の神秘」に関する二つの内容です。第一は、「思いのコントロールによって、偉大な力を発揮できる」ということ、第二は、「思いの底を打ち抜いたときに、無限の世界、深層心理の世界、あるいは霊界と通ずることができるのだ」ということです。

【大川隆法 『漏尽通力』第二章「霊的現象論」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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