(9/22-2)84『仏陀再誕』を読む―信仰と仏国土建設への道―信仰なくば―平坦なる道

『仏陀再誕』を読む

93 これが狐が化ける、あるいは、狐に化かされる話が多い理由である。また、『今昔物語』や『日本霊異記』、『聊斎志異(りょうさいしい)』などの影響も多かろう。【※88~82の格言をふまえて】

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

10 だから、与える愛で損をする者はなく、他人を騙して、奪って得をする者はないのである。

9 実在世界の法則は、与える者は与えられ、奪う者は奪われるということである。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
【正念】忘れることの大切さ
〇反省のあとには自分を許し、「心の切り替え」を早くする

さらに、自分自身を許してやることも大事です。
過去の思いや行いについて反省はできます。しかし、それを打ち消すことはできません。すでにしてしまったことを消してしまうことはできないのです。そのときに、自分ができるだけの償(つぐな)いの思いを出し、行為をしたと思うなら、その自分をも許してやることです。そうしたことも大事です。

こういうときにはどうすればよいかというと、自分がさらに素晴らしい生き方をすることによって償(つぐな)っていくことです。過去の事実、過去に掘ってしまった穴を埋めることばかりを考えるのではなく、ある程度、やるべきことをしたら、その後は素晴らしい人生を展開することによって、その部分を十分に償わせていただく方向で生きることです。

この「忘れる」ということを十分に使えなかった人は、「正念」において失敗するでしょう。

これは、別の言葉で言えば、「心の切り替えの早さ」ということでもあります。心の切り替えが遅い人は、不幸を引きずることになります。いったん起きてしまった事実、取り返しがつかない事実であるならば、これから素晴らしい実績を出していくことで、お返しすることは可能なはずです。よい行為、善行というものは、必ず、いろいろな人のところへ回り回っていきます。過去の行為を取り消すことができないならば、これからその五倍十倍のものを返していくことです。それによって埋まっていくことでしょう。

したがって、この「忘れる」という方法を覚えてください。

【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」285pより抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第七章 信仰と仏国土建設への道 
○信仰なくば

あなたがたの数多くは、仏国土建設という理想に燃えているはずだ。
その仏国土建設の理想は、
決してこの世的なる、外面的なる仏国土ではない。
この仏国土が仏国土であるという理由は、
仏のよしとされる国土であるということ、
仏の理想とされる世界であるということなのだ。
それが、ほんとうの仏国土の条件であるということなのだ。
しからば、仏のよしとされる国土、
仏のよしとされる社会を創ってゆくためには、どうせねばならぬか。
信仰が根本であることは間違いない。
すなわち、この日本という国に、もし仏国土を創らんとするならば、
すべからく、日本国民は信仰心に目覚めなければならない。
また、この仏国土を日本以外の地域に広めたいと思うならば、
東南アジアにも、韓国、中国、アメリカ、ヨーロッパ、インド、
さまざまな国に、さまざまな地域に、仏国土を創りたいと願うならば、
その国にて、
信仰心というものを、しっかり土台としてつくらなければならない。
およそ、信仰なくばすべてのものは不毛である。
信仰心があって教育を受けて、はじめて教養というものはできてくる。
もし、信仰心の基礎なくば、いくら学問的つめこみをしても、
真の教養は生まれない。
それらは、偽物の教養である。
それらは、せいぜい科学的知識、
あるいは仏を否定するような唯物的知識の集積であって、
ほんとうの教養とは言えない。
真の教養は、信仰の土台があって、はじめて成り立つものなのだ。
そして、信仰の土台があって、はじめて真の教養が成り立ち、
真の教養人が地にあふれて、
そこに平和な世界が展開してくるのだ。

諸人よ、
これはいつの時代においても間違いのない真理であるのだ。
まず、あなたがたが仏国土を創ろうとするならば、
その国を、その地域を、素晴らしい人たちで満たさねばならない。
その地域に満ちるべき素晴らしい人たちとは、
まず信仰の土台がある人たちのことである。
仏を信じない人が、いくら増えたところで、
そのような国が仏国土になろうはずもない。
まず、仏を信ずる人を、
正しい信仰を持つ人を養成しなければならない。
また、子供たちには、当然のことながら、
両親から信仰心というものを教えてやらねばならない。
これが、親としての最大の義務であるのだ。
これが、親としての最大の教育であるのだ。
私は、そう思う。
親として生まれて、もしこの教育を怠ったならば、
いったいほかにいかなる重要な教育があるというのだろうか。
そんな教育はありはしない。
それは、親としてはまったくの怠慢としかいいようがないのだ。
世の父親よ、世の母親よ。
子弟(してい)の教育としていかなるものが必要であるか、
と問う方は多いであろう。
しかし、私は言っておく。
信仰なくば、いかなる教育も不毛であると。
仏を信ずる心なくば、いかなる教育も不毛であると。
それは、何らの作物を実らせない。
何らの実も実らせない。
そうではなくて、世の中に害をまく人間を育てるだけになる。
まず、よき作物を得ようとするならば、土地を耕せ。
土地を耕すことが、大切である。
土地を耕し、そのなかによき種を植えよ。
よき種を植えたならば、また、よく肥料を与えよ。
そして、よく水を与えよ。
さすれば、その作物はすくすくと育ち、たわわに実をつけるであろう。

【大川隆法『仏陀再誕』第七章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第六章 心の平静と祈り
2 平坦なる道

こうした静寂の日々を送るということは、ある意味においては、非常に平坦なる道を歩んでいると言えるかもしれません。人は、ともすれば、目立つことをやりたがります。華やかなこと、非常に外面的なことに心惹かれていきます。この世的な地位や名誉、あるいは、金銭に心惹かれていきます。

この世の地位や名誉も、ある意味で魂の進化に役立つ面があることは事実です。大いなる地位が与えられることによって、それだけの魂修行ができることもあります。こういう事実もあるでしょう。多くの人に影響を与えられるということもあるでしょう。

しかしながら、地位や名誉に揺れる心は、いつしか静寂心を失っていくことになります。地位や名誉のために生きてきた人が、定年退職を迎えてから惨めな晩年を送ることが多いのも、そうしたところに原因があると思います。

大切なことは、どのような地位に就(つ)こうとも、どのような肩書を持とうとも、どのように、いつも澄んだ湖のような自分を持っている。内なる自分のなかに、満々と水をたたえた湖のような心、あるいは、穏やかな春の海のような心を持ち続ける」ということが大事であろうと思います。

これは、非常に平凡に見えるかもしれません。平坦に見えるかもしれません。しかし、これがついには人生の勝利者になる道であるわけです。

いろいろなことがあろうとも、外面的にいろいろな脚光を浴びようとも、また、脚光を浴びない暗い世界に生きていようとも、常に心のなかに、穏やかに光る湖面のような静かな美しさ、鏡のような部分を持っている必要があると私は思うわけです。人間は人生がドラマチックであればあるほど、心が躍り、血が湧き、感激をすることが多いのですが、平坦なる道を歩んでいくという気持も大事です。

昔話に、次のような話があります。僧侶が二人、川のほとりに歩いてきたところ、女性が一人困っていました。実は、川が渡れないでいたのです。見れば、たいへん若く美しい女性です。

一人の僧侶はこう思いました。「女人は悟りの妨げである。女人とは話してもいけない。もちろん、女人に触れるなど、もってのほかである」と。そのようなことを考えたのです。

もう一人の僧侶は、つかつかと女性に近寄って「川を渡りたいのならば、私が渡してあげましょう。私の方につかまりなさい。私の背中に乗りなさい」と言って、さっさと女人を背負って川の中に入っていきました。そいして、腰まで浸かり、やがて川から出できて向こう岸に渡っていったのです。

それをもう一人の連れ僧は見ていて、唖然としたものの、憤然とした面持ちで、あとからついて川を渡っていきました。先の女人を背負った僧侶は、やがて川を渡ると、女人を河原に降ろし、「では、お元気で」と言ってスタスタとまた進んでいったのです。

あとから追いついた僧侶は、その女人を渡した僧の肩をつかんで、「おい、おまえ、おまえは今、破戒僧となったぞ。仏道修行は、女人とのかかわりを断つことが基本である。それにもかかわらず、女人と話をし、こともあろうに女人を背負って川を渡るとは何事であるか」という問いかけをしたわけです。

すると、その僧侶はこう答えました。「わしは、もう女人を背中には背負ってはおらんぞ。お前はまだ背負っておったのか」と。そうした話をしたわけです。

そのように、形式主義で物事を考える人間というのは、「とにかく、いろいろな人との接触や出来事など、外面的なことを避けて、何もしない戒律的な生き方さえすれば、心穏やかに生きられる」と思いがちですが、本当は、修行の道とはそうしたものではないのです。「僧侶であるから、女人が困っているときに助けない」というようなことが仏道修行の本道ではありません。

人が困っているときには助ければよいのです。それが女性であるからといって、そのことばかりにいつまでもこだわっているのはおかしいでしょう。「女性であっても助けるときは助け、助け終わったらもう忘れ去る」、ここに無執着の境地があるわけです。

ところが、もう一人の僧侶は、女性を背負わなかったにもかかわらず、川を渡っても、まだ女性のことが気にかかって気にかかって仕方がないのです。心のなかに、それだけの執着をつかんでいるわけです。”女人を背負っている”のはそちらです。

そのようなわけで、平坦なる道というのは、決して何も起きない道のことを言っているのではないのです。人生において、「何の刺激もないような生き方をしろ」と言っているのではありません。山のなかに籠ったり、滝に打たれたり、あるいは、洞窟のなかに座ったりすることで、「平坦な生き方をする」ということを言っているのではないのです。

人間的にこの世に生きるなかには、さまざまな事件もあるでしょう。出来事もあるでしょう。しかし、すべきことはし、処理すべきことは処理し、片付けることは片付け、テキパキと捌(さば)きながら、しかもなお、心のなかに穏やかな湖面のような心を持ち続けて生きていくことが大事です。これが「無執着の境地」です。

そのように、どんな出来事であっても、すぐに心の穏やかさを取り戻す境地が大事です。いつもいつも、過去のことを思い出してよいわけでは決してありません。会社を退職したあとに、「自分は〇〇という一流会社の重役であった」「社長であった」「部長であった」というようなことをいつまでも言っている人がいます。

しかし、そうしたことは、その人が勤めていた時の机や肩書がそう言わせているのであって、その人自身にそのような力があったわけではないのです。なぜならば、その人が会社を去っても、会社は潰れてはいないはずだし、他の人が十分にその地位をこなしているはずだからです。仕事とはそうしたものです。取って代われるものをもって「仕事」というのです。

したがって、肩書や地位がいつまでもあると決して思ってはいけません。「それを取り去ったときに自分に何が残るか」ということを、いつも淡々として考えるような自分でなくてはいけないのです。そのへんを人間は誤解します。自分があげた実績や、自分の名前などにこだわります。そうしたものは過ぎゆくものだと思い、日々、うまずたゆまず、自分の思う道を歩んでいくことが大事です。

ある人にとっては、結婚するということが一大事件であり、人生の重大事であり、「生きるか死ぬか」といった大きな問題であるように思われることもあります。しかし、結婚しようがしまいが、淡々として歩んでいくのが人生の本道です。「そうしたこともあったか」ということです。

長い長い転生輪廻の過程においては、今世の人生というのはほんの一瞬です。ほんの短い時間です。そのなかで、誰と連れ添い、誰と生活をし、誰と共に悩みを分かち合ったとしても、それがどうということもありません。

それは、ちょうど、川を渡るときの僧に似ています。「あるときには女人を背負い、あるときには離す。いつまでも背負っていない」ということです。「川を渡るべきときには助けてあげなさい。渡り終わったらそれを降ろしなさい」ということです。

そのように、外面から自分を護るため、外部から自分を護るために、何の神風もないような防波堤のなかに自分を閉じ込めようとする必要は決してありません。いろいろなものの影響を受けながらも、そのなかで平坦に、何もなかったかのように、昨日も今日も明日も変わらないような生き方をしていかなければなりません。

昨日、部長に任命され、今日、部長を解任されたとしても、明日、結婚したとしても、それで豹変するような人格であってはいけないのです。

「何もなかったがごとく過ぎていく。人生の途中で出会ういろいろな出来事を、すべて魂の糧として吸収していく」ということが大事です。そうした生き方をしているときに、知らず知らずのうちに、魂は大きな器となっていくのです。

その途中で何も見ない、何も聞かないということがよいことではありません。馬車馬のように、目隠しをして前へ走ることのみをもって、よしとしてはいけないのです。目隠しはないので、いろいろな景色は見えるけれども、ただ淡々と、ポクポクと歩いていくをもって、よしとしなければいけません。

そういう心境にあるときに、心は執着にとらわれることは少なく、多くの迷いから遠ざかることができます。「無執着の境地」「平坦な道を歩まんとする心」こそが、大いなる成功へとつながっていくのです。

【大川隆法 『漏尽通力』第6章「心の平静と祈り」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
文責:蒲原宏史 

タイトルとURLをコピーしました