86 狐の妖怪伝説は、中国、朝鮮半島渡りのものが多く、狸(たぬき)の妖怪伝説は、日本固有のものが多い。
87 電気が通っておらず、外套もなかった時代は、夜の闇が恐怖を呼び、道に迷う者も多かった。私の子供時代にも、前山で狸に化かさせて、何キロも離れた場所で発見された人の話もあった。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
18 怠け者は、重い荷を背負いて、延々と迷路のような山道を歩き続けるやせ馬となる。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正念】「待ちの間」の蓄積
〇自己実現に当たり、念いを神のほうにしっかりと向ける
先ほどの家の例(p271~276を参照)は、霊的自己実現ということを非常に明確に示しています。
まず、最初に、理念として「こういうものが与えられる」ということが降りてきます。そして、それが地上に落ちてくる過程で、だんだんに具体化していきます。溶岩のように流動化して流れていたものが、固まってき始めるのです。
その際に、岩のようなものが現れてきます。これは地上の人間の、いわゆる評判の悪い「自由意志」というものです。これによって邪魔が入り、そして、溶岩の流れが変わることもあります。
それでも、結果的には固まっていくわけですが、最初の理念が、そのとおりか、あるいは何らかの違ったかたちになって固まっていくことになるのです。
そして、その人の念いが神のほうにしっかりと向いていれば、もっとよいかたちで出てきます。念いが足りなければ、多少悪いぐらいで出てくるかもしれません。こういうものです。
【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」277pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第七章 信仰と仏国土建設への道
○信仰の根本
さて、以上、
大きくは宇宙の根本神、根本仏ともいうべき
大宇宙大霊に対する敬意と、
また高級霊に対する敬意の二つがある、というふうに言った。
すなわち、信仰の根本は、
優れたる者への帰依の姿勢であり、
知恵ある者への帰依の姿勢であり、
力ある者、光ある者、叡智ある者、また愛ある者への、
帰依の姿勢であると言ってもよい。
それは、物事を与え与えられ、
物事を指導される時に、どうしても必要な姿勢であるのだ。
高級霊と言われる人びとと地上の人間との差は、それは大きい。
象と蟻ほどの違いもあろう。
にもかかわらず、一匹の蟻が、その象の全体を評している姿は、
まことに滑稽(こっけい)としか言いようがない。
あなたがたも、想像できるだろうか。
一匹の蟻が、象全体をどのように評価できるだろうか。
彼が何者であるかを理解することができるであろうか。
それは、かなり難しいことである。
それと同じように、
地上の人間が、偉大なる高級霊を評価することは難しい。
なぜなら、その全体像を知ることはできないからである。
されど、心の奥深くを観た時に、
あなたがたには必ず感じるものがあるであろう。
仏教といい、キリスト教といい、他の諸宗派といい、
さまざまな教えが説かれているが、そのなかに説かれている内容は、
魂の奥において、どこかで学んだことがあるものではなかったろうか。
いや、きっとそうであったにちがいない。
あなたがたは、仏教を読み、キリスト教を読んでも、
なぜか魂の郷愁を感じ、なぜか理解しえるものがあるであろう。
時代を変え、地域を変えて出た光の先達(せんだつ)たちの言葉が、
数千年の歴史を隔てて、今あなたがたに理解され、
あなたがたの魂を揺さぶるという事実をなんと見るか。
それを不思議と見るか、
それとも、それをまことにもって当然のことと見るか。
そう、それは必ずしも不思議ではない。
さまざまな地域に、さまざまな時代に、教えを説いた、
そうした高級霊たちが、今、実在界にいて、
またあなたがたを守護・指導しているのである。
あなたがたはこの大きな力のもとに、
今、結集し、
今、法を学んでいるのだ。
【大川隆法『仏陀再誕』第七章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第五章 仏法真理と学習
3 漏尽通力の鍵としての知力
この「知」の本質、「知力」というものを、本書の表題である漏尽通力との関わり合いにおいて、話をしてみたいと思います。
まず、「知」と「霊能力」との関係ということについて考えてみたいと思いますが、この最初の問題については、非常に例外的なことが多かったということが言えましょう。日本でも古来、霊能者というのは数多くいたわけですが、彼らの知力が非常に高いという場合は、珍しいケースであったと思います。たいていの場合、学問もなく純粋に生きていて、人生の転機に「神の声、仏の声を聞いた。高級霊の声を聞いた」と言って、宗教家になっていくことが多かったかもしれません。
ところが、そのために、一つの問題点が出てきました。それは、「高級霊」と称するもののなかに、他のいろいろな諸霊、悪霊たちの声が混ざることがあるということです。それによって、非常に世の中を混乱させることが数多くありました。
低級霊たち、あるいは、悪霊たちの本質というものは、結局、「論理的に整然としたものの考え方ができない」というところにあるわけです。彼らは感情の起伏のなかに生きており、非常に感情的な生活を送っているため、理路整然とした物事の組み立てや考え方ができません。そういう状態ですから、悪霊や低級霊たちのささやきを見破るためには、ある程度の知力を持っているということが大事であるわけです。
ところが、ここに、もう一つ別の問題点があります。知力を持っている、知が高いということが災いして、今度は逆に”非常に感動しないような人間”が出来上がることがあるということです。宗教の出発点は、やはり「霊的感動」であり、「霊的感応」です。学問で自分を固めたような人間というのは、非常に警戒心が強く、疑う心が強いがために、かえって信仰の道に入れないことが多くあります。そのようなわけで、逆効果になることが多かったのです。むしろ、歴史的に見れば、「学問をやった人ほど『霊』や『神』、『仏』といったものを否定する傾向があった」言ってもよいかもしれません。それは、この世的なる知、”小知”が仏法真理の理解を妨げていたということです。
そういう観点からすると、やはり、「霊能者でありつつ巨大な知力を持っているということは非常にまれであった」と言えるかと思います。
ただ、近代の霊能者の流れを見ると、「巨大霊能者は非常に知力も高かった」ということが言えるのではないでしょうか。出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)しかり、谷口雅春しかりです。こうした最近の偉大な霊能者たちは、「知的な面でも非常に優れていた」と言えると思います。また、「霊能者」とは言えないかもしれませんが、内村鑑三のような方も、非常に知的には高かった人であろうと思います。
そのように、結局、「正邪を分かち、漠然とした、曖昧模糊(あいまいもこ)とした霊的世界をこの世の人間に分かるように解説し直すためには、それだけの知的な組み立て、あるいは知的なフィルターが必要だ」ということが言えるのではないでしょうか。
こうしてみると、今後、仏法真理を説く場合に、「どれだけ多くの人に理解してもらうか、考えてもらうか」ということを思うと、結局、「世の人々が受け入れるようなものでなければならない」という面が、非常に強くなってくるわけです。では、世の人々の多くが受け入れるものとはいったい何かというと、「おどろおどろしいもの、恐怖心のみをかき立てるようなもの、とても納得がいかないものであって、よいわけではない」ということです。
日本人の大部分は、”高学歴”の人たちです。非常に知的水準が高いわけですから、仏法真理の内容そのものも、そうした知的水準より高いものでなければ、世の人々は感動しないし、それに喜びも感じないのではないでしょうか。この意味において、「世の知的水準を超えるような内容」というものが、最低限、要求されるわけです。
また、「知力」というものは、もう一つ別な面を持っていると思うのです。
高度な霊能力を持った人であっても、日々、生きているうちに、霊的現象のなかの渦のかなに巻き込まれてしまって、現実だか、霊界の出来事だか。幻想だか、自分の現実のなかなのだかが分からなくなります。
毎日毎日、目に見えぬ霊の話を聴いているうちに、それが本当なのか、嘘なのか、あるいは、現実が違っているのか、このあたりが分からなくなっていきます。
こうした人間の人格分裂を防ぐために、知力というものが非常に役に立ちます。知力があってこそ、その人が守られるという面、その人の人格が守られるという面があるのです。あるいは、その人を狂わせない安全弁としての知力というものがあると思います。
こうしてみると、「知を持つ」ということと、「霊的体質である」ということの両方を比較衡量(ひかくこうりょう)するときに大切なことは、「純粋な心を持ちながら、知力を磨いていく」ということではないでしょうか。そのように思われるわけです。「純粋な気持ちを忘れることなく知力を磨いていく」、これが大事だと思います。
では、どのように努力していけばよいのでしょうか。これが次なる問題としてあるわけです。それは、知力を磨くということの目的が、結局は問題なのではないかということです。何のために知力を磨こうとするのでしようか。それは、何かの手段のためでしょうか。あるいは、「目的としての知力」「知的進化」を目指しているのでしょうか。これが問題とされるわけです。
知がさまざまな仕事に役立つことは事実です。したがって、「手段としての知」というものを完全に否定することは不可能であろうと私は思います。だた、「手段としての知」ということにこだわらず、「知を深めていく」ということ自体がひとつの悦びとなり、魂の発展となっているならば、「そうした知というものには、非常に純粋なものがある」ということは言えると思います。単なる「試験に通るためだけの知」というようなものは、やはり安っぽいものであるし、それには、「頭脳を鍛える」という面意外に積極的なる面は少ないと思います。
ただ、頭脳を鍛えるだけではなくて、より高次な「人生観」を持ち、より高次な「判断力」、より高次な「認識力」を持つための知であるならば、それはトータルな人生観を押し上げ、向上させるものとなっていくであろうと思われるわけです。
こうしてみると、知を求める動機における「純粋さ」「純粋性」ということが、非常に大事なのではないでしょうか。そして、その純粋さとは、結局、「宇宙の叡智」につながっていくものだと言えるのではないかと私は考えます。神仏の属性のなかには、いろいろなものがあります。「神仏は光である」とか、「神仏は愛である」とか、「神仏は勇気」であるとか、「神仏はエネルギーである」とか、「神仏はその他諸々のものである」とか、いろいろな言い方がありますが、神仏のひとつの面として、「叡智」という面は見逃せないと思います。
大宇宙を創られた根本仏は、非常に叡智に満ち満ちた方です。整然とした宇宙を創られ、合目的的な世界を創られました。こうした神仏であるならば、非常に聡明で、非常に叡智に満ちた神仏であろうと思われるのです。ですから、この地の進化の究極にあるものは、「根本仏の叡智」そのものであろうと思います。なぜならば、「知」というものは、世界を理解し、世界を向上させんとしていくための力であるからです。結局、知の向上の限界、最高点には、「根本仏の叡智」というものがあるということでしょう。
こうしてみると、漏尽通力が霊能力のなかの最高峰とも言われますが、この最高峰である「漏尽通力の安全弁としての知」、知力というものは、結局、根本仏の叡智につながっていくものだということが言えましょう。根本仏を単なる「奇跡の神仏」と捉えるか、あるいは「叡智の神仏」と捉えるかという違いかもしれません。漏尽通力以外に、霊視能力であるとか、霊聴能力であるとか、いろいろな脳裡を苦がありますが、それらは奇跡の面にしかすぎません。しかし、そうした霊能力の奥にあるものとして、根本仏の叡智そのものを捉えたときに、それが最高の力となるのは当然でしょう。
したがって、漏尽通力の究極には叡智がありそれは神仏がそこにあるような生き方ができるかどうかということだと思います。肉を持ちながら、はたして、神仏と同じような生き方ができるかどうかということです。
そういう意味において、「究極にある叡智につながる智というもの、知力というものが、結局、漏尽通力の鍵の部分にもなる」と言えるのではないかと思います。
【大川隆法 『漏尽通力』第5章「仏法真理と学習」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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