(9/15-2)77『仏陀再誕』を読む―信仰と仏国土建設への道―仏神とは―学習の大切さ

『仏陀再誕』を読む

84 黒竜は守護の大将、金竜は、仏宝護持のための財宝を護る使命がある。ただし地獄界にも悪魔が使用するものが一部あるので、注意が必要だ(中国)。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

20 食べられる側の草食獣や、小動物は、恐怖を味わい続ける。時々、「憲法九条」と刻印されたシマウマまで目撃される。(迷彩柄で身を護ろうとしているのだ。)

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正念】希望実現の法則
④「念」によって他の人を縛ろうとしてはならない

さらに、この自己実現においては、単に戦車のようになればよいというものではありません。ここにはもう一つ、「方向性」という問題もあります。
念の世界というのは実現性があるため、間違った方向の念いであっても、確かに実現してしまうのです。したがって、方向性というものが極めて大事になります。

ここで、「念」による自己実現をするときに、どうしても考えてほしいことがあります。
それは、絶対に「念」によって他人を縛ろうとしてはいけないということです。自分の道を開くために、他人の人生を自分の都合のよいようにねじ曲げようという考えは、絶対に起こしてはいけません。これは間違いです。
自分なりに目標を設定し、「これを実現するためには、あの人がこうならないかぎり駄目だ」というように考えた自己実現では駄目だということです。ここを間違えてはいけません。これでは「念」が「害」になってしまうのです。

こういうタイプの自己実現は、間違えれば地獄です。間違わなかった場合でも、裏側の世界です。そのどちらかです。これははっきりしています。その自己実現の結果、他人を不幸にしていけば地獄に行きます。そこまで行かなかったとしても、「他人を自分の都合のよいように変えていこう」とするような念の使い方で道を開いてきた人は、必ず裏側へ行きます。

それはなぜでしょうか。そこに愛がないからです。愛が欠けているのです。

これは「自己愛」なのです。本当の「与える愛」や「利他の愛」ではないのです。こういうところで「表」と「裏」が分かれるわけです。

表側の世界は、本当に他の人によかれと思って自己実現をしていく人々の集まりですが、裏側のほうは、自己発揮に燃えている人たちの世界なのです。その結果、いろいろな”超念力の世界“に入っていきます。これは、「限りなき自己愛」です。ここを間違わないでください。

【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」267pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第七章 信仰と仏国土建設への道 

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
さて、いよいよ信仰について語るとしよう。

○仏神とは
あなたがたの多くは、信仰心を持っているであろう。
しかし、その信仰心がいったい何であるか、
十分につかみきっているだろうか。
もちろん、信仰には仏神へと向かう大きな念(おも)いが入っている。
これなくしての信仰ということはないであろう。
しかし、あなたがたは、
信仰する対象としての仏神とは、
いったい何であるかが、わかるだろうか。
これが世界各地の宗教において、さまざまに岐(わか)れており、
さまざまな名で神を名乗っているために、
さて、何を信じたらよいものやら、
わからなくなっているのが現状であると思う。

しかし、諸々の比丘、比丘尼たちよ。
それはやむを得ない面もあると思うのだ。
なぜならば、
大宇宙の大霊ともいうべき仏は、遥かに大きく偉大なものなのだ。
そして、人間の理解を超えているのだ。
あなたがたの理想できる仏神は、
あくまでも、あなたがたの肉体、
あなたがたの霊知識、
あなたがたの知覚を通して感じ取るところの霊でしかないのだ。
しかしながら、
あなたがたの認識を遥かに超えた世界があるということは
わかるであろう。
そのように、あなたがたの認識を超えた力があるということだ。
その力とは、叡智を含んでいる。
その力は、光を含んでいる。
その力は、愛を含んでいる。
その力は、慈悲に満ちている。
その力は、建設的な念いで満ちている。
その力は、美しい調和に満ちている。
すべての善きものと思われるものを総合した力、
それを仏の力というのだ。

あなたがたは、また、
仏と神の違いがわからずにいることも多いであろう。
あえて、その違いを説く必要もないという考えもあるであろう。
仏教的には仏といい、
またそれ以外の宗教、キリスト教や、あるいは日本神道などで、
神という概念があるように思われているかもしれない。
ただ、これだけは言っておかねばならん。
仏とか神とか称されているもののなかには、
いわゆる高級霊としての仏神、
人格神としての仏神が存在するということは事実だ。
仏と呼んでも、神と呼んでも、高級霊を称していることも事実だ。
しかしながら、高級霊を超えるものがあることも事実なのだ。
高級霊というものは、
少なくともかつて地上で肉体を持ったことのある方、
そういう方だと言える。
しかし、この天地を創り、大宇宙を創った仏が、
小さな人間の肉体に宿って、
魂修行をするということはないと思ってよいだろう。
その意味において、人間の人格というものを遥かに超えた、
大きな意識があるということは、真実なのだ。

こうした言い方は、ある意味で、
あなたがたの、信ずるという力を弱めるかもしれない。
しかし、よくよく聞いてほしい。
真実を知るということは、それは力に満ちてゆく行為なのだ。
真実を知ることによって、確信はいっそう強まり、
さらに大いなる帰依の精神というものが出てくるのだ。

【大川隆法『仏陀再誕』第七章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第五章 仏法真理と学習
1 学習の大切さ

私たちは、今、「幸福の科学」というところで、「仏法真理の探求、学習」ということを非常に大切なものとして考えています。そして、私自身の考えとしても、「仏法真理の探求あってこその学習であり、学習あってこその伝道である。『探求・学習・伝道』というこの順序を間違えたときに、仏法真理の普及は道を誤るのである」という話をしています。「探求・学習・伝道」の三段階的な考え方、これが非常に大事である」と言っているのです。

ただ、探求するという姿勢は、個人個人の立場から探求するということも可能ですが、主として宗教的指導者の仕事であろうかと思います。あとは、その探求結果をどのように学習していくか、ここに重点があるわけです。この意味において、「学習の大切さ」ということが強調されるわけです。

では、なぜ、仏法真理の学習が大切なのでしょうか。私はこの点について、さらに詳しく話をしていきたいと思います。

仏法真理の学習が大切であるというのは、実は「深い判断の基準」となるからです。人間は生れ落ちてから成人するまでの間に、自分が学校で学んだこと、あるいは、友人から学んだこと、両親から学んだこと、こうしたものでもって、「認識と判断の基礎部分、基底部分」がほとんどできているのであって、これ以外からの吸収ということは、非常に少ないのです。また、彼らの常識、知識というものも、極めてこの世的なるものであることが多いと思います。

こうしてみると、一段と高い見地に立った仏法真理というものを彼らが知っている可能性は非常に少ないわけです。幸いにして、両親が深い宗教的環境に育っていたり、現にそういう職業に就いていたり、そういう趣味を持っていたりすることもあるでしょうが、たいていの場合はそうではありません。

この意味において、「仏法真理」というものは新たに学習しなければ、その本質を知ることができない。つかむことができない」ということが言えると思います。

では、なぜ、仏法真理そのものに、そうした学習対象としての値打ちがあるのでしょうか。これについて話をしてみましょう。

それは、仏法真理は、三つの真理を人間に与えるからだと言えます。神仏の理が、真の理を三つ教えてくれるからです。

その真の理とはいったい何であるかというと、第一が、「人間とは何か」ということへの答えです。「人間とは何か。人間とは何者であるのか」、これは永遠のテーマ、課題です。そして、多くの文学や芸術、哲学、思想というものは、「人間とは何か」というテーマを追求してきたのです。また、そうした文学部系統、あるいは、文科系統の学問のみならず、医学にしても、生物学にしても、科学にしても、やはり、「人間とは何か」というものを探求している学問と言えるかもしれません。

この「人間とは何か。いったい何者なのか」という根源的な問いは、古来止むことなく、また、古来、解決されたこともありませんでした。「こうした根源の問いに答える」といういみでの仏法真理が必要なわけです。

「人間とは何かを知る」ということは、ある意味においては、「人生とは何かを解読する」ということです。「偶然にただ生きているのか。人間とは、本当に投げ出された存在であって、だた偶然に、漫然として生きているのかどうか」ということを、今、問われているわけです。その「人間とは何かを知る」ということが、結局、人生の謎を解く鍵となってきます。人間の本質を知るときに、人生が見えてきます。人間を離れての人生はないということです。

このように、「人間とは何か」という問いに対して総合的に答えてくれるもの、それが仏法真理です。

第二に、仏法真理そのものの値打ち、学習の対象としての存在意義は、結局のところ、「方向性を与える」ということです。北極星があるから、「北がどちらにあるか」ということが人間には分かります。北極星があるから、衆星相集いて北を指して並んでいるのであって、北極星がなければ北がなかなかわかりません。

このように、「どの方向に向かっていくのが真の人間にとっての発展であり、繁栄であるのか、向上であるのか」を教えてもらわなければ、永遠に分からないわけです。

「真に人間にとっての向上とは何なのか」を知ったとき、向上と思っていたものが、実は堕落であったということはあるわけです。

例えば、ある女性闘士が「女性の地位の向上だ」と思って闘っていることが、実は人間性の堕落につながるというようなこともないわけではありません。それがもし、本来の人間性の理解に誤りがあって、人間性に反するような行動を取っているなら、そうしたこともあるということです。

このように、仏法真理というものは、「人間の向かうべき方向性、あるいは目標を教えてくれる」という大切な指標を意味しています。これがなければ、人々は「人生」という名の旅を歩んでいくことができないのです。そうではないでしょうか。あてどもなく放浪するということも可能かもしれないし、芸術的な人にとってはそういう旅もあるでしょうが、たいていの人間にとっては、あてどない旅というものは許しがたいものです。

やはり、旅には「目的地」が要ります。旅の目的が必要です。そして、いつごろ旅に出て、いつごろ帰ってくるのかという、この旅行日程が要るものです。それが旅です。「旅をする以上は目的地が要る。目的の方向が要る」ということです。この方向性を与えるものとしての仏法真理が、非常に大事なわけです。

仏法真理の三番目の本質、「なぜ仏法真理の学習が大切か」という三番目の答えは、結局のところ、「幸福の増進」ということになるでしょう。お互いがそれぞれ「自分によかれ」と思って人間は生きているわけですが、「自分によかれ」と思って生きていることが、結局のところ、お互いを傷つけ合ったり、歪め合ったり、苦しめ合ったりすることはよくあるわけです。

こうしてみると、人間は、「いったい、どういう生き方をすれば幸福となっていくのか」、あるいは、「どのような行動様式をとれば、”幸福の空間”が広がっていくのか」ということを問われているわけです。どのように生きていけば、その場が”幸福空間”となっていくのかということです。

Aという人と、Bという人と、Cという人とがいるとします。彼らは個人個人で幸福に生きようとして努力しているのですが、具体的には、この三人がそれぞれ幸福を求めると、お互いに傷つけ合うことになってしまうことがあります。「では、この三人はどのように生きれば、全体が幸福となっていくのか」といった「協調の方法」を教えるのも、また仏法真理の役割です。

二番目に、「向上の方法、方向性というものを教えるのが仏法真理だ」と言いましたが、三番目は「横の広がり」では。そうした広がり、空間をつくっていくのも、また仏法真理のあり方です。「どのようにして個人の幸福のみならず、全体の幸福をも増進させていくのか」という問い、課題に答えていかなければなりません。なぜならば、幸福とは、すべての人間が求めているものでもあるからです。

結局、仏法真理の学習の大切さは、その根拠を三点に持つわけです。第一は、「人間とは何か」という問いに答えるためです。第二は、「向かうべき方向」を教えるためです。第三は、「幸福の根拠」を示すため、あるいは、「幸福な生き方」を教えるためです。主として、こうしたことでしょう。このように、「人間」「向上」「幸福」という三つの言葉が仏法真理学習のためのキーワードとなるわけです。

【大川隆法 『漏尽通力』第5章「仏法真理と学習」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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