(9/12-2)74『仏陀再誕』を読む―転生輪廻とは何か―幸福の道―観自在

『仏陀再誕』を読む

81 現代宗教としては、滝行をやった修行者が、竜神が憑いたものと思って、小さな教団を作ったりする。その実、教祖に憑いているのは、十中八九、蛇神であり、修行途中で命を落とした修験者である。近づかないことである。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

23 掃除、洗濯、整理整頓ができず、不潔だった者は、汚泥の中で、豚のようにころげ回っている。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正念】希望実現の法則
①心の底から実現を願う「念い」を出しているか
〇「wish(思い)」と「desire(念い)」の違いを知る

さて、ここで「幸福への希望」ということで述べていきます。

この「幸福への希望」とはどのようなものかを考えてみると、要するに、自分が「こうなりたい」と思うことが、そのようになればよいわけです。しかし、「こうなりたい」と思うものが正当であり、そのとおりになっていけばよいのですが、現実は、なかなかそうはなりません。「こうなりたい」と思ってもならないでしょう。

そのため、こうした希望実現のことは、少し聞いても忘れてしまうのではないかと思います。「あれは、やはり、特別な人だけにあてはまることで、自分には関係がない」と思ってしまうのではないでしょうか。

英語では、「こうなったらいいな」ということをあらわすときに、「wish・ウィッシュ」と「desire・ディザイア」という言葉を使います。「できたら、こうなるといいなあ」「できたら、こうなってほしいな」というものが「wish」です。「desire」は、より切実になります。「こうなってほしい。いや、なってもらわねば困る」というものが「desire」です。

実は、ここが、希望実現における「思い」と「念」を分けるところになるのです。「desire(念い)」まで行かなければ、希望は実現しないということです。

「wish」で、「こうなったらいいなあ」と思い、そういう波長を出したとします。ところが、三次元的には、それを邪魔するものもいろいろあるので、そういうものにプチっと当たると、方向が変わってしまうわけです。

例えば、ベンツ車が走っていて、岩にぶつかったとします。そのときに、岩も少しは動くでしょうが、ベンツもそのまままっすぐには走れません。さらに岩に当たるともっと逸れていきます。

このように、「こうなったらいいな」と思っているのに、障害にぶつかってしまうと、結局、実現しなくなってしまいます。そういうものに二つぐらいポンポンと当たると、もうだいたい諦めてしまうのです。これが大多数の人の姿でしょう。

ところが、この思いが「desire」になると、”戦車”のようなものになるのです。“戦車”が”岩”に当たったときには、岩が動かなければ、大砲をバーンと打ち込み、吹っ飛ばしてでも進むという感じでしょうか。

そのように、念いが”戦車”まで行けたら、希望は実現するわけですが、”ベンツ”だと、「当たって傷ついたら困る」と思って、余計に行けなくなるかもしれません。要するに、自己イメージと非常に関係があるわけです。

〇自分は心の底から「幸福になりたい」と思っているかを考える
ですから、もし「幸福になりたい」と思うなら、「正念」のところで「自分はどちらのほうか」ということを考えなければいけません。

この段階で、もし、ベンツのようなもので止まっているならば、岩に当たると傷つくのでまっすぐには進めず、逸(そ)れてしまいます。しかし、戦車ぐらいにまでなれば、岩を押しのけていくこともできるし、岩が動かなければ、砲弾を撃ち込んで飛ばしてしまうこともできます。ここまで行けば、道が開けないわけはないのです。こういう考え方の違いがあると思ってください。

つまり、「幸福になりたい」と思っても、表面で思っているだけでは絶対に幸福になれないということです。表面だけでそう思っている人はいくらでもいるでしょう。しかし、その心底においては、本当は、「”ベンツ”だから傷ついたら困る」と思っている人は多いのです。そうすると、当たらないのがいちばんよいことになるので、やはり、あたって傷つかないよう逃げるわけです。「前へ行きたい」と思いつつ、”ベンツ”は高価だから傷つくのが嫌で、逃げてしまいます。

【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」259pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、この世へ執着と煩悩を断つ方法として『漏尽通力』を共に学びます。経典をお持ちでない方は、ぜひお求めください。【1700円税抜】
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第六章 転生輪廻とは何か 
○幸福の道

それゆえに、
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちが、この地上で生きてゆくうえにおいて、
もし、さまざまな迷いが起きたならば、
さまざまな判断に苦しむことがあったならば、
まず悟りの道を極める方向をとりなさい。
この方向をとりなさい。
それ以外のものを考えすぎてはならない。
自分の生活や、自分の地位や名誉を考えすぎてはならない。
そのようなものは捨てても、またいつか現れてくるものであろう。
しかしながら、悟りの道は、いったん捨てたならば、
ここに戻ってくることは、きわめて難(かた)い。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
よくよく言っておく。
私のこの言葉を憶(おぼ)えておけ。
あなたがたは、仏と同じ時代に生まれることが、
いかほど難しいかということを知っているか。
仏が下生する時に、生まれ合わせるということは、
これは、たとえようもない幸福であるのだ。
そのような時代に、
そのような地域に、
同世代として生まれ合わせることができた者は、幸いである。
また、生きて仏に相見(あいまみ)えることができた者は、また幸いである。
生きて仏に相見え、仏の声を聴き、
仏の姿を見ることができた者は、幸いである。
その幸福は、おそらく幾千万年、幾億年の幸福に匹敵するであろう。

また、仏の世に生を享(う)け、仏の世に仏に巡り合い、
仏の教えを聴き、
そして仏の教えをよすがとし、縁として、
そして悟りに到ること、それまた難(かた)し。
そのようなことは、
稀有(けう)なる幸福であるということを知らねばならない。
仏と同じ時代に生まれるということでさえ、稀有なることであるのだ。
また、生きて仏に相見えることも、稀有なることであるのだ。
ましてや、仏に相見えて、悟りを与えられるということは、
さらに稀有なることなのだ。
あなたがたは、こうした大いなる幸福を得るためには、
他の一切が惜しくないという気持を持たねばならない。
他のすべてのものを捨てででも、その道に入らねばならない。
それは、あなたがたが忘れてはならないことなのだ。
この世であなたがたが握っているところの、さまざまな執着は、
これは、地上を去るときにまったく虚しくなる。
そのようなものは持って還れない。
どのような者であっても、齢(よわい)百歳を超えるのは難しい。
その時に、持って還れるもの、
地上を去る時に持って還れるものが、いったい何であるかを知れ。
地上を去る時に持って還れるものは、心しかないのだ。
心しか持って還れないならば、
その心を幸福に満たす以外に手だてはないのだ。
心を幸福に満たすには、悟りの喜びを味わうに如(し)くはないのだ。
悟りの喜びを味わい、心幸福ならば、
今世はすなわち成功したと言ってもよい。
その幸福のために、すべてを賭けよ。

○日々の発見 日々の感動
ただ、私はあなたがたに言っておく。
一時的にそのような気持ちになる者は、数多くある。
仏のために、仏の教えのために、そして、自らが悟りを得るために、
一時的に身命を賭(と)すという気持になることは、
そう難しいことではない。
ただ、おそらくは十中八九の人間は、やがてその感激を忘れ、
平凡な生活のなかに埋没してゆくということだ。
その感激を忘れ、その尊さを忘れたとき、また自らも転落し、
平凡なる河原にて、石を数えているということを忘れてならない。
よいか、
修業への道は日々の発見であり、日々の感動である。
もし、そのようなものを感じなくなったとするならば、
もはや慢心していると言わざるをえない。
慢心したる者は、悟りへの入り口をくぐることはできないのだ。
慢心したる者は、その門より追い出されることとなる。
その門から転げ出、そしてやがて、
元いた道を引き返さざるをえなくなる。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
およそ、人生の勝利とはこのようなものだ。
一時的な決意は、すべての者がすることができる。
しかし、その決意を堅持することは難しい。
その決意を堅持することができた者は、
さらに大いなる境地に達することができるであろう。
その不退転の境地に達した時に、
天も地もこれを祝うであろう。

【大川隆法『仏陀再誕』第六章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第四章 漏尽通力
4 観自在力

低級霊媒体質の話をしましたが、高級霊体質のなかには、「観自在」という能力があるので、これについて、多少、話をしておきたいと思います。

『般若心経』のなかに、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時」という言葉があります。観自在菩薩は古代インド語の訳で、アヴァローキテーシュヴァラといいます。観自在菩薩というのは、「自在に、何でもすべてが分かる、手に取るようになった状況の、菩薩の心境の人」という意味です。

観自在の能力というのは、具体的にどういう能力であるかというと、まず、「人の考えが手に取るように分かる」という段階が中心です。これを「他心(たしん)」ともいいます。他心は、他人の心が分かる、いわゆるマインド・リーディング能力です。この他心は、読心能力と言っても、読心と言ってもよいです。これがよく観自在の一つとして挙げられます。

講演会などで話をしていても、会場にいる人たちの心が分かる。そこに誰が坐っているかが分かる。何を考えているかが分かる。そうしたことを無意識のうちにズバズバっと指摘できる。こういう能力です。

この能力は、釈迦の持っていた能力のなかでも、最大のものの一つでした。他人の考えをずばりと読む能力です。これも、そういう立場になれば、ますます高まってきます。人びとを指導するという使命を持って現に指導していると、この能力はもっともっと倍加していきます。これもまた、真理の証明であり、神から遣わされた人であることの証明でもあると思います。こういう観自在能力があります。

これ以外に、例えば、「人の過去・現在・未来を見抜く」という三世を見通す力があります。「過去世をリーディングする」「過去世を読み取る」という力も観自在能力の一つです。

その人が過去どういう人生を送ったか。今世の過去のみならず、過去世、そのまた過去世、そのまたまた過去世、こういう過去の歴史を見抜く。過去どういう地域に生まれ、どういう生涯を送り、どういう一生のなかで、どういう心境を持って死んでいったか。そのなかで得た特質はいったい何か。どういう長所を得、どういう短所をつくって生きてきたのか。また、どういう人間関係に恵まれていたのか。こういうことが、はっきりと分かるようになってくるのです。このように、過去が分かる能力があります。

また、観自在のなかには、いわゆる予知能力と言ってもよいのですが、「未来が分かる」という能力もあります。「未来世が分かる」「先が読める」ということです。

釈迦自身、今から二千五百数十年前に地上を去るに際して、「やがて自分はジャンブドヴィーパのケントマティに生まれ変わる」ということを言っています。これは現代的に訳すならば、「東の国の大都市」という意味です。「ジャンブドヴィーパのケントマティに生まれ変わる」、こういうことを予言して、死にました。

そして、「自分の法はやがて全インドに広がり、インドから中国に、中国から日本にと受け継がれていくのだ。自分の死後、五百年間は『正法の時代』が続くだろう。しかし、その後の五百年間は『像法の時代』が続くだろう。『正法の時代』は、教えが正しく伝わって、人々の心が正しく営まれているときである。しかし、『像法の時代』になると、かたちだけは残っていて、中身はだんだん骨抜きになっていくだろう。その後はやがて『末法の時代』となっていくだろう。法が衰えていくだろう」、こういうことを釈迦は言いました。

これが「五百年刻みである」という説、あるいは「千年刻みである」という説、「八百年刻みである」という説、いろいろと諸説が現在遺っていますが、いずれにしても、そういう段階があるということです。

「正法が伝えられる時期、それが形だけになっていく時期、やがてすたれていく時期があるだろう」その末法の世にもう一度、本仏が甦(よみがえ)り、新たな教えを説くであろう」。こういうことを釈迦は予言しています。

この未来仏になるのが、弥勒菩薩と呼ばれています。マイトレーヤーといわれる存在です。インド語ではマイトレーヤーという名前で呼ばれました。そして、こういう未来について書き遺したのです。

こうした予言という未来予知、三世を見通す能力も釈迦の能力の重大な能力の一つでした。

これ以外に、例えば、「遠隔地にいる人の心を手に取るように読む」という能力があります。ここに現にいない人、離れた地、何百キロも離れた地に入る人の考え、悩み、あるいは、その人の問題と、どうしたらよいのか、こういうものを読み取って、そして答える。あるいは、「どこそこに、こういう人がいる。その人に会いに行きなさい。会えばこうなるであろう」ということを言う能力です。こういう、遠隔地を霊視する、あるいは霊的に読み取る能力もあります。

このように、観自在力というものがあって、霊的にはかなり高い能力です。いわゆる悟りとしては、梵天界くらいの悟りから如来の悟りに入ってきます。これも一種の霊体質と言えますが、自然にそういう能力をもつようになってきます。

これは、地上においてだけではなく、天上界においても実際そうです。霊たちは、もちろん観自在能力はある程度持っていますが、その霊がいる段階に応じて、観自在能力に差があります。あの世の例だから、すべてが分かるわけではありません。あの世の霊であっても、地獄界で迷っている霊たちは、程度の差こそあれ、いろいろなことが分かりやすいのです。そして、高次元の存在になればなるほど、いろいろなものを読み取ることができます。分かることができます。このようになります。

したがって、「観自在能力には果てがない」ということになります。観自在能力を突き詰めていき、最古の段階まで行くとどうなるかというと、昔から「神は地上に葉っぱ一枚落ちることさえ知っている」と言われていますが、この地上に起きているすべてを瞬時につかむことができる能力を持つに至るようになります。もっと能力が増せば、大宇宙のことがすべてわかるところまで行きます。こうした観自在能力もあるのです。

【大川隆法 『漏尽通力』第4章「漏尽通力」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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