62 著者(大川隆法総裁先生)には、一言主神(ひとことぬしかみ)とは、物部系の豪族神(呪術師)であると思われる。顔が醜かったために見せたがらず、洞窟暮らしが長く、おそらくは、土着の土蜘蛛一族の頭領だと推察される。この人が、妖怪の総参謀を務める「ぬらりひょん」の開祖だろう。脳が露出したような二頭身の姿や頭を布で隠したような姿でよく描かれる。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
41 血の池の右側に、なだらかな丘のような針の山が見えてきた。太い注射針のようなものが、五センチメートルから三十センチメートルの長さで、地面から突き出している。
【参考42 畳一枚の広さに、針が五十本は突き出している。髙い鉄下駄をはいた鬼たちが、鉄棒をぶんぶん振り回しながら、罪人たちを頂上へと追い上げている】
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正業】仕事としての母親業
○「仕事」か「労働」かを分ける「心の価値」の含み方
(※自分の役割を紙に書き出し後「仕事」と「労働」かを考えるについて)
例えば、料理をつくる際にも、「心を込めて」という言葉がありますが、子供たちやご主人の健康のことを十分に考え、そして、今の健康状態や仕事の内容から栄養バランスといったものを考えた上で意図してつくる料理は、ワーク、仕事に当たります。しかし、何気なく材料を集めて、ただつくっているだけであれば、これはレイバー、労働に当たるわけです。
こうした「心の価値」の含み方によって、外見的には同じことであっても、二つに分かれます。
また、母親であるならば、子供の教育というのは、天職にも近いものであるでしょう。この子供の教育においても、ただ単に子供を叱っているだけ、自分のいろいろな不満、不平、それらか愚痴といったもののはけ口として、子供に「とにかくあなたはああしなさい、こうしなさい」と言っているだけで、母親としての役割を果たしているつもりであるならば、この役割は生産性を持っていないとも考えられます。これは、「仕事」ではなく、「労働」にすぎないというようにも考えられるわけです。
母親としては、当然、子供のいろいろなことを見て小言を言うでしょうが、それが生産性に結びつかないときには、「労働」になります。しかし、その子供への注意が、その子供を伸ばし、将来、有為な人材としていくために不可欠なものであるならば、これは「仕事」と言ってよいわけです。
今、この過程における仕事、母親の仕事がなおざりにされているがために、社会問題が数多く起きています。職場に出て「仕事ができる、できない」ということがいろいろあるわけですが、この原点は家庭にあることが非常に多いのです。家庭における教育がたりていない人は、この家庭教育を職場に持ち込むことになり、これが職場でのいろいろな問題を起こすようになってきます。
本来、家庭で終わっているべき教育が職場で行われることになればどうなるでしょうか。そのひとは”マイナスからのスタート”ということになるわけです。こうして、いろいろな問題が起きてくるようになります。
社会に出て、マイナスからのスタートにならなくてよいような状態まで持っていくのが家庭教育の仕事です。それが、「人間関係」を教えることであるし、「人間としての生き方」を教えることであるでしょう。
この根本部分を教わっていないと、実社会から出てからの試行錯誤が非常に増えてきます。いろいろなところで上司に叱られたり、あるいは仕事のなかでの不調和を起こしたりすることになってくるのです。それは、家庭教育という根本の部分が終わっていないからであり、原点を辿れば、母親が十分な死後をしていないのです。
【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」192pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第三章 愚か者となるな
○静かに努めよ
また、愚痴の出る原因として、達成されない望みというものがある。
現在ただいま、いくら努力しても、
手に入れられないもの、
とうてい到達できないものへの恨みというものはあるであろう。
しかし、それを愚痴ったところで、
いったい何ほどのことになるであろうか。
それで、あなたがたは進歩するであろうか。
ちょうど、ボートを岸に着けようとするときに、
オールでもって水を漕ぐと、その水が、その波が、
岸辺にあたってボートを沖へと押し出すように、
あなたがたが何かを達成せんとする時に、
達成できなくて愚痴を言うことは、
そのあなたがたの目標から、
あなたがた自身を遠ざけることになるだろう。
あなたがたの将来を遠ざけることになってゆくであろう。
むしろ、そういうふうに言うよりは、
愚痴をなくし、
静かに静かに自らの内に力を蓄えてゆくことだ。
いまだかつて、努力をせず成功したためしはない。
努力せずして、濡れ手で粟の如き成功を願っても、
それは魂的に決してプラスにはならないのだ。
そのような成功は砂上の楼閣であり、
やがて必ず崩れてゆくものなのだ。
人びとよ、努力を惜しむな。
努力なくして物事が達成すると思うな。
努力なくして成功があると思うな。
努力なくして成功した場合には、
むしろ、その成功を恥じよ。
むしろ、その名誉を恥じよ。
むしろ、その名声を恥じよ。
結果ではない。
その努力の過程こそが、
あなたがたの黄金の栄光であるということを、忘れてはならない。
愚かなる人びととして、怒る人、妬む人、愚痴る人をあげた。
この事実はいつの時代においても、真理であるのだ。
自ら自身よく心の内を眺め、
怒る心がないか、妬む心がないか、愚痴る心がないか、
常づねに点検せよ。
そして、こうした心あらば、
自らが愚か者の一人に入っているということを、忘れてはならない。
愚か者であることを早くやめ、智慧あるものとなることだ。
それが、修行者の道でもあるということだ。
【大川隆法『仏陀再誕』第三章「愚か者となるな」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 人間完成の哲学
6 阿羅漢とは何か
次に、「阿羅漢」について述べたいと思います。
釈迦の教えのなかで、教育目的として一番重視されたのは、阿羅漢の状態となることでした。阿羅漢がなぜそれほど重視されたかと言えば、阿羅漢の境地は、この世の人間として第一段階の完成であると同時に、あの世の高級諸霊からの通信を非常に受けやすい状態だからです。
すなわち、阿羅漢とは、この世にあって実在界の存在を感じ、実在界に生きるがごとくにこの世で生きることができるようになる、最初の段階なのです。
阿羅漢の境地は、私の説いている段階論で言えば、六次元光明界の上段階の悟りに相当します。六次元の悟りというのは、仏法真理を知的に詰めていって悟る段階ですが、六次元の上段階は菩薩の前段階であり、ここにいるのは、菩薩の卵、菩薩への登竜門にいる人たちなのです。
阿羅漢の状態にもいくつかの段階がありますが、ここでは二つに大別しておきましょう。第一は「阿羅漢向」という状態です。これは阿羅漢に向かっている状態です。第二は「阿羅漢果」という状態です。「果」とは結果という意味であり、阿羅漢果とは、すでに阿羅漢に達した状態のことを言います。
阿羅漢向と阿羅漢果の違いは、どこにあるのでしょうか。プロの修行者としての自覚を持って生きており、心が悩みや苦しみから解放された境地にあって、常に精進を怠っていなければ、阿羅漢向の状態にあるということができます。そして、阿羅漢果となるためには、そうした状態が少なくとも二、三年は続いているという実績が必要なのです。
心が穏やかで執らわれがなく、少々のもめごとや波風があっても心が乱されない状態、そして、みずからをよく振り返り、精進を怠らず、ある程度、天上界からの指導も受けられる状態、そして、みずからをよく振り返り、精進を怠らず、ある程度、天上界からの指導も受けられる状態、こうした状態が三年続けば、阿羅漢果になったと言えます。一定の期間、その状態を維持することが必要であり、それができなければ本物とは言えないのです。
阿羅漢向になるだけであれば、人によっては一週間ぐらいで可能です。幼いころからの記憶を取り戻して、間違った思いと行いを一つひとつ反省し、両眼から涙がほおを伝うにまかせて、「法雨」を流したとき、守護霊の声が聞こえ、その光を浴びて、阿羅漢の状態になることがあります。
このように、早い人であれば三日から一週間で阿羅漢向になることが可能です。しかし、この状態が長く続くかどうかが鍵となります。一週間ぐらい山にこもって反省行を行い、阿羅漢に近い状態になったとしても、下山して日常生活に戻ると、また心に曇りをつくってしまうのが人間の常だからです。
法雨を流して、みずからの新生を誓った気持ちが、二年三年と続いて初めて、阿羅漢果の状態になるのです。
そして、阿羅漢果の状態で地上を去ることができれば、その人は間違いなく、六次元光明界の上段階にある阿羅漢の世界に還ることができます。
ところが、いったんは阿羅漢向に達しても、そこから転落す者が数多いのです。それはちょうど、崖道を登っている人たちが、頂上まであと少しのところで、ゴロゴロと転げ落ちていく姿に似ています。
阿羅漢向になるのは、ある意味で万人に可能ですが、阿羅漢果に達するのは非常に難しいのです。阿羅漢向に達することは、仏法真理を学び、修行をしていけば、おそらく百人が百人とも可能でしょう。しかし、阿羅漢果に達するのは、その百人のうちの四人か五人にすぎないのです。
そして、阿羅漢果に達した人たちのなかで、菩薩の境地にまで入っていけるのは、十人のうち一人にも満たないのが実情です。阿羅漢果が百人いたとして、菩薩の世界に入っていけるのは、そのうち十人もいればよいほうなのです。
「阿羅漢果の状態になるためには、阿羅漢の状態が三年間は続かなければならない」と述べましたが、菩薩の境地に入るためには、それが一生涯を通じたものでなければなりません。菩薩は利他を旨として一生を生き抜いていくことが前提となっていますが、それは、阿羅漢果の状態が一生を通じて変わらないということと同じなのです。
したがって、菩薩の境地に入るのは非常に困難を極めます。千人の人が修行をしていたとしても、最後に菩薩の悟りまで行ける人は非常に少ないのです。
【大川隆法『釈迦の本心』第六章「人間完成の哲学」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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