(8/23-2)54『仏陀再誕』を読む―愚か者となるな―肉体に悩むな―悟りの構造

『仏陀再誕』を読む

60 行基(ぎょうき・六六八―七四九)は、行基菩薩ともいわれるが、若草山に五千人もの民衆が集まって彼の説法を聞いたこと。数々の土木工事や寺院造りを考えると、イエス・キリストや後の空海をほうふつされるものがあり、本体は、如来の霊格を持っているものと思われる。また仏教僧の手本を見せることにより、日本霊界で神々を名乗っていた物部(もののべ)系の豪族神を、裏側の妖怪世界に封印した一人ではないかと推定される。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

43 罪人とは犯罪人だけではない。眼・耳・鼻・舌・身・意(六根)で仏法真理に反した行為のすべてが裁かれるのである。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正業】仕事(ワーク)と労働(レイバー)
〇自分の役割を紙に書き出す

この正業の反省に入るに当たって、まず、その前提として考えなければならないことは、「自分に今、与えられている仕事」についてです。「仕事とは何か」ということをまず考えてみることです。

自分にはどういう仕事が与えられているのだろうか。仕事とは「役割の代名詞」と考えてもよいでしょう。自分に与えられている仕事、すなわち、役割は一体何であろうかと考えたときに、自分の役割というものを一枚の紙のなかにおそらく書けると思います。書ききれないほどの仕事をしている人もいるかもしれませんが、多くの方は、おそらく一枚の紙のなかに「自分の役割とは何なのか」ということを書けるでしょう。そして、幾つかの役割について、「どの部分をどのように実践しているか」と考えを巡らせることができるはずです。

たとえば、会社で社長をやっている人もいると思います。もちろん、その方の仕事はいくつかに分類されるでしょう。社長業以外にも仕事としてやっている立場はあるはずです。家庭のなかでも「父親」という一つの仕事をやっています。父親業というものも、やはりあるわけです。それ以外にも、他のいろいろなところで人間関係を持っているはずであり、そのなかにも、それなりの役割はあるでしょう。何らかの社会に、何らかのかたちで参画しているのが私たちなのです。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」189pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第三章 愚か者となるな 
○肉体に悩むな
さらに、私はあなたがたに言っておこう。
あなたがたは、愚かであるということを、
まだまだ知らないのでいるということを。
あなたがたの多くは、肉体的外形にとらわれすぎる。
あなたがたの多くは、肉体の悩みにとらわれすぎる。
自分の体を見、背が高いとか低いとか、
太っているとか痩せているとか、
美人であるとか、そうでないとか、
いろいろなことを苦にし、日々それを話題にしているであろう。
しかし、これなども愚かな人々の考えであると、私は思うのだ。
肉体というものは、ひとつの乗り物であるのだ。
ひとつの乗り物であって、
魂が今世において修行することができれば、それでよいのだと思う。
それ以上を願うな。
魂の修行のために、十二分に役に立ってくれるのであるならば、
それでよいではないか。
それ以上のことを願ってはならない。
それ以上のことで、思い煩(わずら)ってはいならない。
心に誓って、
肉体のみのために、肉体のことのために、
悩みすぎないことが大事だ。
悩まなければならないことは、もっとほかにある。
その心だ。
その心をこそ、悩め。
その心の悪しきことを、
間違いに満ち満ちていることをこそ、悩め。
心が美しくないかどうかを悩め。
心が美しくなければ、それは自然とまわりに表われる。
心美しくなければ、その人の目は美しいものとはならない。
心が乱れているならば、
心が澱(よど)んでいるならば、
その人の目は曇ってゆくであろう。
その人の目は、邪悪な光で満ちることになろう。
その人の目は、陰険な思いをたたえるようになるであろう。
心高慢とならば、その人の鼻は実際以上に高く見えるであろう。
いつも、ツンとした高い鼻のようにも見えてくるであろう。
心正しくなくば、その人の口は曲がって見えるであろう。
常に、他の人に皮肉を言い、
常に、他の人を批判する人の口は、とんがり、また曲がるであろう。
そのようないやな口となって表われてくるであろう。
また、心穏やかならざる人は、
その身のこなしにおいて、表われてくるであろう。
常に、他の人を責め、他の人をさいなむ人には、
それなりの身のこなしがあるであろう。

いかし、心穏やかなる人は、
時間のなかにあって、時間を忘れさせる。
地域のなかにおいて、地域を忘れさせる。
人びとのなかにあって、人々の存在を忘れさせる。
それは、常に柔和で穏やかであるからだ。
柔和で穏やかである、そういう心の持ち主の肉体は、
決してまわりの人に不愉快を感じさせない。
人びとよ、肉体を調律する前に、
まず心をこそ調律せよ。
肉体を素晴らしいものとする前に、
まず心をこそ素晴らしいものとせよ。
日々、柔和となれ。
怒ってはならない。
誹(そし)ってはならない。
愚痴ってはならない。
以上のことをよく心に刻め。

○怒るな
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
今、私はいくつかの毒素をあげてみた。
あなたがたは怒ってはならない。
たとえ、どのような辱めを受けたとしても、
怒ってはならない。
怒ってはならいという教えは、
修行者にとっては、極めて大切な教えであるのだ。
あなたがたが修行をする途上において、
他の人びとから批判を受けることもあるであろう。
非難を受けることもあるであろう。
辱(はずかし)めを受けることもあるであろう。
しかし、仏陀の弟子であるならば、そのような辱めに耐えよ。
怒りに対して、怒りを返してはならない。
怒りに対しては、穏やかな言葉で答えなさい。
厳しい批判に対しては、沈黙でもって答えなさい。
笑顔を忘れてはならない。
忍辱の心を忘れてはならない。
耐え忍びの心を忘れてはならない。
耐え忍びの心、この耐え忍びの修行こそが、
あなたがたに徳というものを積ませるのだ。
耐え忍びの心なきものに、徳はないということを知れ。
怒りに対し、怒りをもって答えるようでは、
決して徳ある人間とはなれないということを知れ。
決して、決して怒ってはならない。

【大川隆法『仏陀再誕』第三章「愚か者となるな」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 人間完成の哲学
4 悟りの構造

次に、悟りの構造論について話をしましょう。

悟りの構造を考えるためには、人間の魂や心の仕組みを考えなくてはなりません。「人間の魂や心は、どのような構造、仕組みになっているのか」ということを明らかにする必要があるのです。

そのためには、まず、魂や心の定義が必要となります。

魂とは、等身大の形状で肉体に入っている霊的エネルギー体のことです。人間を霊視してみると、肉体と寸分たがわぬ大きさの魂が入っており、その魂には目も鼻も口もあります。本来、魂は姿かたちなきものですが、人体に宿ることによって人体状の形態をとるのです。

これに対して、心とは、魂の中枢部分、中核部分です。それはちょうど、卵でいえば黄身の部分に相当すると言えます。魂をコントロールするための中核部分を心と呼んでいるのです。視覚的に言うならば、心は人間の胸のあたりにあると考えてよいのです。

魂は心の部分を通して無限の世界につながっています。個々の魂は孤立分断されたものですが、心の部分が世界につながっているのです。したがって、心の一部分が無限の世界につながるロープのように見えることもあります。このロープをチューブといってもよいのですが、そのなかを進んでいくと、さまざまな世界に通じています。

つまり、人間の魂は、三次元で肉体と共存しながら生活していても、心の部分は四次元から九次元までの各領域につながっているのです。これはこの世的には非常に不思議な感覚ですが、みなさんはこうした心の世界の構造を理解しなければいけないのです。

それは、哲学でいう「一即多、多即一」の考え方にも似ています。「そこにあって、そこにないもの。そこにいなくて、そこにあるもの」―こうした一見矛盾するものが両立する世界、それが心の世界です。

したがって、人間の心という”のぞき窓”を通して見ると、そこはすでに実在界なのです。それはちょうど、大都市のビルディングの展望台から望遠鏡で世界を見ているような感じであり、まるですべての世界に通じているかのようです。

このように、心というものは、展望台にある望遠鏡のようなものだと言えます。焦点をうまく合わせると、はるかに遠い世界を見ることもできれば、近くの世界を見ることもできます。はるか遠くの山岳を見ることもできれば、近くにある大都市の町並みを見ることもできます。心の焦点距離をどう合わせるか、レンズをどう調節するかによって、いろいろな世界が見えてくるのです。

結局、悟りとは、心の焦点距離を併せるための方法でもあるのです。

悟りの構造として、次元というものがありますが、これは「心という望遠鏡をどの方向に向け、どの程度の倍率で、どの程度の焦点距離で、像を見ているのか」ということを意味しています。近くを見るか、遠くを見るか、現在ただいまの立場から、どちらも見ることができるのであり、「さあ、あなたはどうしますか」ということなのです。

さまざまな次元は、みなさんの現在の立場を離れた世界にあるのではありません。現在ただいまにおいて、その世界を感じ取り、自分のものとすることができるのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第六章「人間完成の哲学」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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