(8/22-2)53『仏陀再誕』を読む―愚か者となるな―優しさの価値―悟りの方法論

『仏陀再誕』を読む

59 行基(ぎょうき・六六八―七四九)は、諸国を巡って布教し、時には、道には千人もの民衆があふれたという。その人気ゆえ、ねたまれ、朝廷からの迫害も受けた。しかし、民衆とともに、道路、橋、堤防や寺院を建設してゆき、文殊菩薩の生まれ変わりとまでいわれた。後に聖武天皇の帰依を受け、東大寺や国分寺建立に協力。日本最初の大僧正(だいそうじょう)となった。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

44 地上で二万日生きて、毎日十個、悪事を働いた者は、累計二十万回、針で突き刺されて、血まみれとなる。頂上にたどり着くまでに、倒れ込み、全身が針で突き刺されるものもいる。鬼は、容赦なく、亡者をつかみ上げ、また立たせて歩かせる。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正業】〇この世において与えられた仕事に無駄なものはない

私自身、この仕事に入る前にいろいろなことをやっていましたし、大悟から幸福の科学を立宗するまでに準備期間をそうとう置いたつもりですが、活動を開始して痛切に感じたことは、「今までやってきたことの、どれ一つとして無駄がなかった」ということです。

それ以前の段階において、もし、私が手を抜いた生き方をしていれば、やはり現在の仕事のなかにおいても、そうとうのマイナスが出たであろうと推定されます。

その感は、一年一年、一ヵ月一ヵ月、一日一日、ますます深くなってきています。むしろ、「もっと濃度の濃い魂修行ができなかったか」と反省されるところです。単に霊とか神とかいうものを追いかけるのではなくて、それ以前の人間的修行において、まだまだ学ぶべきことが多かったのではないか。学び尽くしていなかったのではないか。もし、タイムマシンに乗って引き返すことができるならば、もっと徹底的にやっておきたかった。学んでおきたかったという気持は非常に強くあります。

そういう意味で、無駄なものはないのです。無駄なものが出るということは、それを生かし切らないからでしょう。「活かす心がない」から、「活かそうと考えない」からです。この世において与えられた仕事のなかに無駄なものはありません。それはすべて魂の糧となり、魂と糧となるだけではなく、ユートピアづくりのための積極的道具となるはずです。このことについて深く知らねばなりません。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」188pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第三章 愚か者となるな 
○優しさの価値

愚かなる人になるな、ということで、さらに言っておきたいことがある。
愚かである人は、
心において優しさというものを持たないことがある。
心に優しさを持つということが、
どれほど大事であるかということを知らないままに生きることがある。
優しさとは何であるかと言うと、
生きていて幸せだ、と多くの人に思ってもらうことだ。
こうした優しさを持ち合わさずに、
人びとを退け、人々を従わせ、恐れおののかせ、
ひれ伏させることを当然として生きているような人がいる。
こうした人たちは、自分がいかに間違って生きているかということを、
知らないでいるに違いない。
やさしさの価値というものは、人間が仏の子であることを示すための、
何よりの証左(しょうさ)であるのだ。
この優しさを、私は、悲しみという言葉で表すこともある。
この地上に生きている者たち、
同じく人間として生きている者たちが、
数多くの苦しみのなかにある。
数多く、肉体という、この束縛のなかで苦しい生活をしている。
悟りへの障害のみ多く、
悟りへのきっかけ少なき世界のなかにおいて、
苦しみのなかに生きている。
また、動物や植物たちもそうだ。
この三次元という世界のなかに、
この現象界という世界のなかに、
苦しみつつ生きている同胞たちを数多く見るであろう。
そうした同胞たちを数多く見て、波が流れないのか。
涙が流れないのであるならば、優しさはそこにない。
そうした他の人の苦しみを見、悲しみを見て、涙することをもって、
大悲という。大いなる悲しみという。
それは仏の慈愛の涙でもあるということなのだ。
真なる優しさは、真なる悲しみにつながってゆく。
そうした悲しみの世の中を見たときに、
他の人の体にとげが刺さっているのならば、
そのとげを抜いてやろうと、なぜ思わないか。
他の人の心に、毒の針が刺さっているならば、
なにゆえに、この毒針を抜いてやろうとしないのか。

人びとよ、悲しみというものを失った時、
人間は自分中心となる。
自分のみのことを考える。
自分のみの幸福を考える。
そのようになってくるのだ。
世の中を見よ、
人びとを見よ、
動物たちを見よ、
植物たちを見よ、
そこに悲しみというものを感じとれ。
その悲しみが、あなたが今、
何をせねばならないかということを教えるのだ。

○自己保存の愚
悲しみを知らない人は、自分自身のことを考える。
自分自身の悲しみをいかほど考えたとて、
それで世の中が良くなるということはないのだ。
世の中をよくしてゆくためには、
他の人びとの心に突き刺さったとげを抜け。
他の人びとの心に刺さった毒針を抜け。
そうした心を持たねばならない。
ゆめゆめ他の人びとを傷つける心を持ってはならない。
ゆめゆめ他の人びとを害する心を持ってはならない。
そのような心であってはならない。
自分一人のみよかれと思う自己保存の心は、
これまた愚かなる人の特徴である。
自分を生かさんとして、自分のみを生かさんとして、
営々と努力しているのであるが、
その方向が、仏の心から離れているのである。
自分のみを生かさんとすることが、
自分をも殺してしまうということが、わからないのだろうか。
自分のことのみを考えるために、
今世、生を享けたわけではないということが、分からないのであろうか。
自分が、今世、生を享けたということは、
その自分自身の生を、
自分自身のためだけに使ってはならないということなのだ。
それを知らねばならない。
ゆえに、自らのみのことを考えすぎるな。
自らを利さんする心が、
決して他の人を害するものであってはならない。
私は、かつてあなたがたに教えたはずである。
自らを利そうとする心は、
自らのみを益し、他の者を害するという心であってはならない。
自らを利するという心は、
自らを利するということが、
他の人を利するということにつながる場合においてのみ許されるのだ。
よく、自らを整え、自らの心を整え、自らの魂を磨き、
そして、素晴らしき世界に入ってゆくべきである。
自らを磨いたということが、他の人びとを善くし、世の中を善くし、
仏のつくられた世界を素晴らしくすることをもって、
よしとせねばならない。
この考え方を決してとりちがえてはならない。

【大川隆法『仏陀再誕』第三章「愚か者となるな」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 人間完成の哲学
3 悟りの方法論

それでは、悟りの方法論には、どのようなものがあるのでしょうか。悟るためには、どのような努力の仕方があるのでしょうか。

これには、主として三つの方法があります。

第一の方法は、修行を重ねつつ智慧を得、ある場合は、心の窓を開いて霊的現象を実体験しながら、認識力を拡大していくという道です。プロの修行者、プロの宗教家の道と言ってよいでしょう。

「専心、仏法真理の学習に打ち込み、仏法真理の実践のなかに身を置いて生きていく。そして、さまざまな霊的体験などを積み、それによって得られた認識力で、世の中や自分を見ていく」―この方法が本道にもっと手も近いことは、今も昔も変わりません。

釈迦教団の特徴の一つは、プロの宗教家、宗教の専門家と言える者をつくりえたということです。当時は現代ほど社会が複雑ではなかったせいもありますが、少なからぬ人びとが、この世の生活を打ち捨てて出家しました。出家するというのは、「悟りを求めるために、プロの修行者として生きる決意をした」ということです。

出家の是非については、さまざまな意見があるでしょう。しかし、「この世において一家をなし、道を完成し、ひとかどの人物になっていくためには、専心、その道に努力しなければ、ほんとうのものをなかなか得られない」というのが、どのような道においても真理なのです。

芸道においても、ひとかどの役者、俳優となるために、芸に一心に打ち込まなければなりません。画業においても、かなりの数の絵を描きつづけなければ、本物にはなれません。いわゆる日曜画家では大画家にはなれないのです。そうしたことが前提としてあるため、釈迦教団においても、プロの宗教家を育てるということを行っていたのです。

第二の方法は、在家の修行です。これは、「この世の立脚点を持ち、三次元的な生活を送りながらも、心は仏法真理の世界に遊び、自分の余暇のすべてをつぎ込んで、自分なりに仏法真理の探求・学習・伝道に励む」という考え方であり、仏法真理の流布のためには、非常に大切な考え方だと思います。

多くの人たちは、プロの宗教家になるところまでは行きません。そのため、在家の修行というものも大事です。もちろん、在家の修行は出家の修行とは異なりますが、ある意味では、出家の修行よりも難しいところがあるのです。なぜなら、在家においては、仏法真理とかけ離れた日常生活が展開するからです。

プロの修行者たちが修行に専念できるのに比べると、在家の修行者にはハンディがあると言わざるをえません。それは、砂地の上を走る状態、あるいは鉄の下駄をはいては知る状態と同じだと言えるでしょう。

しかし、仏法真理とかけ離れた難しい世界のなかで、心を常に仏法真理に向け、修行者として生きていくのは、それだけの力がつくことでもあり、ある意味では、非常に有利な立場にあるとも言えます。それだけ魂を磨く機会が与えられているということです。

第三の方法は、悟りというものを多様なかたちに変化させながら、世の中に浸透させていくことです。第二の方法としてあげた在家の修行は、「職業は職業、仏道修行は仏道修行」と二分化して考えているのに対して、この第三の道は、悟りを宗教の世界から一般の世界に解き放つことを意味しています。

すなわち、悟りそのものを求めるだけではなく、みずからが得た悟りを他の形に変形させながら、世の中に広げていくという手法をとるのです。みずからが学んだ仏法真理を、芸術や文学、思想、あるいは、ビジネス社会や家庭などの現実問題に応用して、多角展開していくということです。

これは悟りの本質とは異なりますが、みずからの分を知った人間が、その範囲のなかで、みずからの悟りを実践していこうという生き方です。プロの修行者の道ではありませんが、多角展開としての、悟りの応用という道もあるのです。現実生活のなかに仏法真理を生かしていく実践を中心として、その経験を悟りとして身につけていくやり方です。

【大川隆法『釈迦の本心』第六章「人間完成の哲学」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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