(8/20-2)51『仏陀再誕』を読む―愚か者となるな―布施の心―悟りとは何か

『仏陀再誕』を読む

57 仙人では、葛城山の役小角(えんのおづね)などが有名である。お経も併用した山岳修行は、様々な秘術を生んだが、彼自身は、出家得度(とくど)していない優婆塞(うばそく・男性の在俗信者)であった。一説では、富士山火口まで空中飛行して帰ったともされる。おそらく幽体離脱体験だろう。弟子の一人、あるいは、葛城山に住む一言主神(ひとことぬしのかみ)のざん言により、朝廷に反乱を企てているとして、捕えられ伊豆大島に流された。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

46 鬼に追われながら、ふもとまで降り、鬼がいいと言うまで、登り下りを繰り返す。たいていの人は、悪口や暴力や、嘘や、恥ずかしい行為が、ここまで裁かれるのを驚きながらも、後悔の涙を流し続ける。両親や先生たちに、無礼であったことの、一つ一つも、確実に裁かれる。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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【正業】〇救世の仕事も仕事能力で測られる面がある

この正業という考え方については、『太陽の法』のなかで、「生かす愛」という段階にも分類できるであろうと述べてあります。ただ、正業のなかにも一番上の魂領域まで貫くものがあるということです。神仏は、仕事ということに関してはそうとうな実力者であり、そうとうの仕事をされているということだけは間違いありません。

今、九次元の十人の意見を統合するという使命を担って、私はやっておりますが、この九次元の法の統合概念として、エル・エル・カンターレが指導をしています。そして、九次元の十人の意見を統合しております。地上の人々が「父」と呼んできた本当の存在です。そういう意識があるわけです。

私たちの救世の仕事も、大きな枠から見たならば、一種の仕事能力で測られる面もあるということなのです。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」183pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第三章 愚か者となるな 
○布施の心

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私は、常づねあなたがたに説いてきたはずである。
人間が命を得、今生に生まれるということは難しいことである。
今生に生まれ、かつ仏の教えに触れるということは難しいことである。
また、今生に生を享(う)けて、
仏と時を同じくするということは、また難しいことである。
仏が出、仏の教えが説かれる時に、生を得るということは
難しいことである。
そのような時代に生まれ合わせたのであるならば、
あなたがたの使命は自(おの)ずから明らかとなるであろう。
あなたがたは、多くの人びとに与えるために来たのだ。
与えるということは、現代的な言葉であるが、
与えるとは布施の心だということだ。
布施とは何であるか、それは他を思いやる心だ。
他の人によかれと思う心だ。
他の人に尽くさんとする心だ。
この心、もし無くば、仏の教えもまた意味がない。
仏の教えは、人に尽くさんとしてあるのだ。
仏の教えは、人に布施せんとしてあるのだ。
仏の教えは、人に愛を与えんとしてあるのだ。

諸人よ、まずこの根本を間違えてはならない。
貪(むさぼ)りのために出てきたのではないということを知りなさい。
自らの心の内をふり返りみて、貪る心の強い者は、
これは、愚かであると言わざるをえない。
いつまでも地位に執着するな。
いつまでも出世に執着するな。
いつまでも名誉に執着するな。

いつまでも己がプライドに執着するな。
他からよく見られたいという心に執着するなかれ。
そのような心は、
すべて貪りの心である。
他の人によく見られたいという心、
尊敬されたいと思う心も、貪りの心である。
他の人に憧れたいと思う心も、貪りの心である。
有名になりたいと思う心も、貪りの心である。
自らの権力を振るいたいと思うことも、貪りの心である。

○悟りたる者は
人よ、
悟りたる者は、いつも静かにあるものだ。
人よ、
悟りたる者は、柔和にて歩くのだ。
人よ、
悟りたる者は、微笑みて歩くのだ。
人よ、
悟りため者は、驕(おご)らない。
悟りたる者は、威張らない。
悟りたる者は、決して自らよく見せようとはしない。
悟りたる者は、他の人を裁こうとしない。
悟りたる者は、他の人びとを傷つけようとはしない。
悟りたる者は、柔和で、言葉正しく、常に落ち着き、
そして優雅でもある。
貪りの毒がいかに悪いか、
それは、柔和な姿というものを害するからだ。
柔和な姿はそれ自体で尊い。
柔和な顔、柔和な言葉、柔和な物腰、
それ自体が尊い。
それ自体が仏の姿そのものである。

人びとよ。これより後、
己が心の内に貪りの心がないかどうかを、よくよく点検せよ。
心の内に貪りの毒あるならば、
ただちにそれをつかみ、それを投げ捨てよ。
それを二度と心のなかに入れてはならない。
ドアを閉め、二度と入れてはならない。

【大川隆法『仏陀再誕』第三章「愚か者となるな」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 人間完成の哲学
○悟りとは何か

最終章では、古くて新しいテーマである「悟り」について考えてみましょう。

釈迦仏教の魅力の根源は「個の悟り」の部分にあると言ってよいでしょう。

「悟り」というのは非常におもしろい考え方です。そこには、単に他力によって救われるべき存在としてではなく、みずからの足でしっかりと大地に立ち、力強く伸びていこうとする人間の姿があります。ここに仏教の人気の秘密があると言えます。

すなわち、仏教の根本には非常に強いものがあるのです。仏教を悲観的で弱々しい宗教ととらえる人もいるでしょうが、仏教のなかには、強く立ち上がるための方法論、強者となるための方法論があります。「各人が悟りを得て仏になっていく」という仏教の思想は、二千数百年前においては非常に画期的なことだったのです。

この思想は後世の大乗仏教独自のものではなく、ゴータマが説法し、五人の修行者を「阿羅漢の悟りに達した」と判定した時点からスタートしています。

人間は世間一般のため、社会や国家のために生きることが可能です。しかし、出発点と終着点においては、「自分」というものに還ってくる面がどうしてもあります。それゆえ、自分というものを無視した思想や理論は、多くの実を結ぶことはありません。

たとえば、共産主義社会において、「国家のための共産主義」ということを唱えても、結果として、個人の労働意欲や向上意欲がなくなってしまいます。

これは「個と全体」についての考え方とも関係しています。もとより、全体から分かれてきた「個」、仏の生命から分かれてきた「個性ある光」ではありますが、個が個として存在している理由は、「それぞれの個性を伸ばし、光らせていけ」ということなのです。

したがって、究極の目標としての全体の向上を目指すことは当然であっても、出発点においては、各人の個性を光らせることは無視しがたい課題です。十把ひとからげに人間をとらえるわけにはいきません。個性ある光として散乱した生命で、あるならば、その生命がいかにして独自の光を放つかが大事です。

すなわち、悟りとは、単なる救済という観点ではなく、もっと力強く積極的な価値をも内包する考え方なのです。

これは結局、人間の生きがいにも結びついています。「三次元という不安定な世界に送り出された人間が、いかにして生きがいや自分の存在意義を見いだすか」という問題の解答が、実は悟りにあるのです。

悟りとは、別の言葉で言えば、「いかにして、みずからの自覚を高めていくか。いかにして、みずからの人生の目的と使命を知り、世界の秘密を知るか」ということです。結局、悟りとは、ほんとうの意味で「知る」ということであり、それが新たな幸福感と大いなるエネルギーを生み出していくのです。

このように、悟りというものを、単に個人主義的な考え方とはとらえずに、それは、個性の意味、個が光を放つということの意味を表しているのだと考えていただきたいと思います。

【大川隆法『釈迦の本心』第六章「人間完成の哲学」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史 

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