(8/15-2)46『仏陀再誕』を読む―叡智の言葉―中道―地獄の思想

『仏陀再誕』を読む

52 「天狗」は、色・鉦・欲に弱い。僧職や官界、財界、学界、ジャーナリズム界にいて活躍していても、異性問題、金銭不正、脱法行為等で、中途挫折や晩節をけがすことが多い。うぬぼれが過ぎてわきが甘いと言うしかない。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

51 ある時、大釜で煮られている人たちを見た。お湯の場合も、油の場合もある。油の方が高温なので、罪が重い。
重い税金で国民を苦しめた財務省の役人や、国税庁の役人がいた。正しい宗教も弾圧した、政治家、裁判官、弁護士もいた。悪質な霊感商法対策弁護士は、最も高温の油で煮られていた。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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現代の職業倫理
〇現代は「正しい仕事とは何か」の基準が分からなくなっている

「正業」とは、本来は「正しい行為」ということです。「今日一日、正しい行為をしたか」ということを考えればよいのです。ただ、現在では、「正しい仕事」という意味を持たせることもできるでしょう。

この「正業」については、現代において、非常に難しい課題としてわれわれに示されている問題です。というのも、現代の社会の複雑化、産業の進展というものを目の当たりにして、多くの人は今、「正しい仕事とは何か」と基準が分からなくなってきているからです。

一時代前であるならば、もっと簡単な基準があったであろうし、それなりの職業倫理も確立されていたと思えるのですが、現代においては、この「正しい仕事とは何か」ということが、極めて難しい問題となってきています。

○現代的仕事の意味について知る必要がある。
また、もう一つ、どうしても考えておかなければならないことは、「何ゆえに正しき仕事が要請されるのか」「正しい仕事という課題には、霊的に見てどういう意味合いがあるのか」ということです。これを知らなければなりません。

宗教的魂の人であるならば、「ともすれば瞑想的生活に入っていきやすい」と言うような魂の人であるならば、「ともすれば瞑想的生活に入っていきやすい」といような魂の傾向を持っていますし、どうしても、その生活が懐かしいものであって、「その世界に入っていきたい」といった憧れを持っているということもよくあります。

では、私たちが感じる魂の郷愁ともいうべき「瞑想的生活」と、現代において私たちが置かれている「仕事環境」「職場環境」の問題について、どう考え、解決していかなければならないのでしょうか。ここは、まさしく、私たちが知恵を絞るべき場であるわけです。ここで知恵を絞らなければ、現代に生まれて宗教家をやる資格はありません。

かつては瞑想的生活のなかに「正しき心の探求」を説けばよかったでしょうし、それは非常に簡単な面があったと思います。

しかし、この件実社会をどう見るのか。まったく無視し去るのか。虚業であると突き放すことができるのか。「虚しい仕事であって、なんらの霊的意味合いもない」と切って捨てられるものなのか。あるいは、「現代に魂を宿して生きている以上、個のなかにも何らかの意味合いがある」と考えるべきであるのか。この時代背景を霊的進化の法則に照らして見たときに、どのように考えるべきなのか。

これは、避けて通ってはならない課題であると、私は思います。

そして、この「現代的仕事についてどう考えるか」ということに対しては、まだ明確な結論が出ていないと思えるのです。

これまで、宗教的にしは、「出世」「肩書」「金銭」といったものはともすれば罪悪感として言われていることのほうが多かったわけですが、そのように見ると、ビジネス社会のなかにおいて宗教倫理の働く余地はなくなります。

だた、「本当にそれでよいのかどうか」ということです。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」166pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第二章 叡智の言葉 
○中道

私は、あなたがたに、よくよく言っておきたいと思う。
人は、ともすれば成功とともに階段を上ってゆくが、
その時に、同時に自分は失敗への階段を降りているということも、
忘れてはならない。
成功への道と、失敗への道は、
その傾斜が急であればあるほど、
また明らかに、くっきりと、
表裏一体のごとく現れてくるものであるのだ。
成功することのない人は、失敗をすることもなくないであろう。
しかし、多くの成功する者は、多くの失敗をすることもあるであろう。
人生は、このように、
常に、右と左、上と下とが、
あざなえる縄のごとく、現れてくるのだ。
このように、幸福も不幸も
同一の縄の、上と下の部分であることを忘れてはならない。

あなたがたは、縄を持って波打たせたことがあるであろう。
縄が波打つとき、
縄の山となる部分と、谷となる部分は、
まったく別のものではないであろう。
去るとき、同じ縄が山となり、
また、ある時、谷となって地を打つであろう。
そのように、あなたがたの人生も、
山となり谷となることがあるであろう。
しかし、私はその時にあなたがたに言っておきたい。
自らの心に誠実になり、常に中道を旨とせよと。
中道の理論は、決してあなたがたを成功させない理論ではなく、
決して、
あなたがたを失敗の淵(ふち)から引き上げることのみを考えた理論でもない。
中道の理論は、まさしく人生の王道であるのだ。
人生の王道がここにあるということを知りなさい。
すなわち、成功の時には、得意の時には、また上げ潮時には、
常に、自らを戒め、謙虚に生きるように心がけなさい。
謙虚であると同時に、
他の人びとや仏に対する感謝を忘れてはならない。
成功の時に、順調の時に、謙虚さと感謝を忘れない人間であるならば、
さらに、その成功は大きく続いてゆくであろう。
その成功がいくら大きくなったところで、
それを中道から外れたとは言わないのだ。
中道から外れない成功とは、
謙虚さと感謝をともなうものなのだ。
謙虚さと感謝をともなう成功は、
これは常に中道のなかにある。
それは、すべてのものを生かしてゆく道であるからだ。
自らが成功することが、
他の者の失敗を呼びこむようであってはならない。
自らの成功が、他の者を傷つけることであってはならいない。
自らの成功が、他の者を不幸にすることであってはならない。
成功への道は、万人を生かす道でなくてはならない。

万人を生かす道は、大いなる道である。
広い道である。
平坦な道である。
そして、限りなく遥か彼方まで通じる道である。
これを中道の道というのだ。
この中道のみちは、黄金の道でもあるのだ。
黄金のカラーで輝いている道、
それが中道の道でもあるのだ。
諸人よ、このことを知りなさい。

○魂を光らせるもの
しかして、諸人よ、
あなたがたは、不幸のさなかにあって嘆き悲しんではならない。
不幸のさなかにあってこそ、
あなたがたは中道に入る資格が生まれてくるのだ。
不幸のなかにあって、あなたがたの多くは、
自分の人生を悔いているであろう。
自分の過ちをつくづくと、つぶさに観察したことであろう。
自分の情けなさを身にしみて感じたことであろう。
そのような時、あなたがたは、
まもなく黄金の道に入る準備をしていると言ってよいのだ。
あなたがたは、失意のなかから、また立ち上がらねばならない。
なぜならば、あなたがたも、また、仏の手足であるからだ。
あなたがたも、仏の偉大なる生命の一部であるからだ。
そうしたあなたがたであるならば、
決して失敗ということは、この世にないのである。
決して挫折ということは、この世にないのである。
決して不幸のまっただなか、不幸のどん底ということはないのである。
そのような失敗や、挫折や、不幸と見えるものは、
すべて、あなたがたの魂を光らせるためにこそあるのだ。
魂を光らせるための砥石であるのだ。
このように考えてゆきなさい。
これが仏法の根本であるのだ。
私は、苦難や困難を、この世に存在しないとは言わない。
また、苦難や困難が、あの世に存在しないとも言わない。
しかし、苦難や困難は、それ自体が善としてあるのではない。
それ自体、存在が許されてあるのではない。
私は、そう思う。

苦難や困難は砥石としてのみ、存在が許されている。
苦難や困難は、魂を磨き、魂を光らせるための、砥石であり、
魂を光らせるがための、サンドペーパー、
そう、やすりでもまた、あるのだ。
人びとよ、このように捉えてゆきなさい。
さすれば、今、苦難のなかにあるときに、
運命が教えんとしていることを知り、
そして、それを自らの糧としなさい。
自ら自身への戒めとしなさい。
失敗を教訓としなさい。
そして、また中道の道へと帰ってゆきなさい。
中道の道を歩く時に、
またしても同じような危険があなたがたを襲うこともあるであろう。
その時に、すでに蓄えた知識を、
すでに蓄えた経験を、
すでに蓄えた智慧を、生かしなさい。
あなたがたは、同じ失敗を繰り返すことはないであろう。
それは、あなたがたが経験したことが、
経験から学んだことが、
経験から学んだ教訓が、
そして、そこから生まれた叡智が、あなたがたを守るからだ。
あなたがたに、あなたがたの額に、光を飾るからだ。

それゆえに、失敗を恐れてはならない。
それは、あなたがたが将来もっと大いなる成功を収め、
もっと大きな失敗から身を守るために、
あらかじめ仏が与えたもうたワクチンだと思いなさい。
仏が与えたもうた予防接種だと思いなさい。
あなたがたの魂を鍛えるために、
あなたがたの人生を、より多くの光に満ちたものにするために、
与えられたものだと思いなさい。
こうして中道の道に入(い)るときに、
あなたがたには永遠の光が約束されているのだ。

【大川隆法『仏陀再誕』第二章「叡智の言葉」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第五章 縁起の法
6 地獄の思想

縁起の法について、さまざまに述べてきました。縁起の思想の延長上には何があるかと言えば、「天国の思想」および「地獄の思想」があります。

キリスト教と異なり、仏教理論の精緻(せいち)なところは、天国や地獄の様相について、ある程度の詳細な説明があることです。これは、釈迦が、生存中に天国・地獄のさまざまな世界について見聞していたことが、発祥の元、発想の源泉となっているのです。

釈迦は、瞑想中によく肉体を抜け出しては、天国・地獄を見てきていました。そして、側近の弟子たちに、「私は今日、こういうところへ行ってきた」という話を、ずいぶんしていたのです。そうした話を聴くにつれて、次第に弟子たちも天国や地獄のありさまを明確につかみ、それを信ずることができるようになっていったのです。

仏教においては、地獄の世界が非常に明瞭に打ち出されています。キリスト教ではこの点の理論化が遅れており、「キリスト教を信じない者は地獄に堕ちる」と言われてはいても、地獄がどのような世界なのか。具体的には分かりかねる面があります。

仏教における「地獄の思想」は、その描写が非常に克明であるであるということが特色です。地獄にいる人たちの容貌、地獄の様相などが、非常に明瞭に説かれています。

その理由は、釈尊が高度な霊能者だったこと、また、時代を下った人もふくめて、釈迦弟子達にも霊能者が非常に多かったということです。それゆえに、あの世の世界のなかで、地獄がいかなる世界であるかを、実際につかむことができたのです。

地獄の思想の内容には二つの柱があります。

第一の柱は教育効果ということです。

人間は、「死ねば何もかも終わりだ」と思えばこそ、この世でのさまざまな快楽に魂を奪われ、執着に身を焦がして生きていくわけですが、仏教では、「来世は厳然としてあり、地上において悪しき思いと行いで一生を生きた人には、間違いの無い裁きが下る」と説かれています。これは非常に恐怖心をそそるものだったために、これによって人びとが信仰心を強くした面もあったのです。

これはいつの時代も同じです。一定のレベル以上の魂になれば、高次な教えに耳を傾けることができますが、そこまで至っていない魂たちは、「自分の身に、何ら厄災が及ぶかもしれない」と思うと、初めて信じ、学ぼうとするのです。これは一つの方便と見てもよいでしょう。

第二の柱は、人間の真の姿とは何かを明らかにしているということです。

すなわち、地上を去った世界はまったく心だけの世界であり、心が悪鬼のようであるならば、鬼のような外見となって彷徨(ほうこう・さまようこと)することになります。また、心が亡霊のごとくであれば、亡霊の姿になるのです。

それは、「心というものが、どれほど実体を持ったものであるか」「悪しき心を持つことが、どれほど悪しき現象を呼び起こすものであるか」ということを、明確に表しているのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第五章「縁起の法」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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