(8/13-2)44『仏陀再誕』を読む―我、再誕す―我に従い来よ―運命論について

『仏陀再誕』を読む

47 天狗は頭に黒い烏帽子をつけていることが多く、かつて山岳修行した山伏の経験がよくある。そのため「仙人」同様の超能力を持っているものが多い。

48 その超能力の一つが「遠眼鏡」で、山の上に棲みながら、木の上から、町の中の人間のなりわいを眺めている。このため、この世の流行や勃興してくるものに敏感である。ニュービジネス界の人材となることも多い。急成長して倒産する者も天狗に多い。

49 「天狗」の足には、鶏(にわとり)のような蹴爪(けづめ)があり、容赦なく、ライバルを蹴落とす。その競争心の強さには、他の「妖怪」も、「そこまでやるか。」と驚く

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

53 ある時、餓鬼霊の群れに出くわした。戦争ばかりやって、民衆を飢えさせた将軍が、ゾンビの大軍に食いちらかされているようだった。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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他人の言葉の受け止め方
そのように、「言葉」の部分については、何度も何度もよくよく考えてみる必要があります。人間は、自分に対して言われるマイナスの評価というものを、とかく針小棒大に感じやすいものです。ほんとうはそれほどには思われていなくても、大きく感じてしまいやすいのです。

そして、自分に対するほめ言葉については、他の人からほめられても「いやー」などと謙遜し、翌日になると、「やはり、あれは自分をからかおうとしていたんだ」などと悪く考えてしまいがちです。ほめられても素直に喜ぶことができず、悪く言われれば信じてしまうのです。

ただ、「悪いことを言われると信じるが、よいことを言われたら疑ってかかる」という性格の人は、絶対に幸福になれません。・・・しかし、これは努力で克服できるのです。いや、しなければいけないのです。克服しなければ、心の地獄領域が増大することになるのです。ささやかことでもほめられたら、素直に喜ぶような素直さが大事です。

〇注意されたら感謝せよ
・怒られて「ありがとうございました」と言える人は”偉人”

もう一つは、他人から怒られた場合の受けとめ方です。これには幾つかあります。他人から怒られたら、「人格を否定された」とおもってたたかいをいどむようなこともあるでしょうが、そのような場合に、いきなり反発することはやめてください。怒られたときに、その場で反発するのをまずやめることです。これは「下の下」です。ゴリラや原始人であれば、殴られたら殴り返すかもしれませんが、そういうことは、文明人としては最低であると知ってください。

他人から怒られたり叱られたりした場合には、まず五秒や十秒、持ち堪えてみてください。私は、これをまず提言します。五秒でも十秒でも持ち堪えることです。そして、そのわずかな時間に、頭のなかで考えを巡らせてください。「そう言われるような原因が本当にあったかどうか」と考えてください。

そして、「ないかもしれない」という判定が出たとしても、さらに、ないかもれしないが、そのように誤解される余地があったかどうか、例えば、コミュニケーションの悪さのところで誤解を受ける余地等があったかどうかについても考えてみてください。

もし、その余地があったとか思えるならば、まず、その批判はいったん受けてください。「自分には、まだ至らないところがあった」と受け止めてください。そのように受けると、相手は収まってくるのです。

それから、「どこが悪かったのでしょうか。今後のために教えてください」と言うことです。

叱られたときには、「確かに、そう言われる余地がある。そのように考える余地がある」と思ったら、いったん受け止めてください。そして、「ありがとうございました」と言うことです。

怒られても、「ありがとうございました」と言える人は少ないのです。このような人は”偉人”です。そういう”偉人”はめったにいません。怒られたときに、「よく言ってくださって、ありがとうございました。私の悪かったところについて、もう少し教えてください」と素直に教えを請うだけの度量があったら、これは大人物への第一歩だと、私は思います。

○「素直な態度」は相手を変える
それだけの度量のある人はほとんどいないのです。私自身、初期には高級霊に叱られていましたので、度量はあります。怒られながらも、機嫌よく働いていたのです。「すみません。どこが違ったのでしょうか」「ああ、そうなんですか。分かりました。また頑張ります。」と言って仕事をしてきたのです。

もし、言葉癖がひどく悪くて、批判癖があり、厳しいために、どの人からも煙たがれているような人であっても、「ありがとうございました」と教えを請うような人に出会ったら、もう言えなくなるでしょう。言葉がグーッと詰まってしまいます。「いや、私も大人げなかった」ということになるのです。

反発してけんかをすればそれまでですが、そういう態度に出れば、相手まで変わってくることもあるのです。そのことを知らなければなりません。

もちろん、これは一般論的に言ってのことであり、ケース・バイ・ケースです。ヤクザに絡まれて、「どうぞ教えてください」などと言っていたらバカを見ますから、そう言うことはほどほどにしてください。そこは知恵を働かせなければ駄目です。

【大川隆法『真説・八正道』第4章「正語」154pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と「八正道」と共にありましょう。

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第一章 我、再誕す 
○我に従い来よ

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
今生にて、ふたたび、相見(あいまみ)えることができたことを、我は嬉しく思う。
今生にて、ふたたび、相見えることができたことを、我は嬉しく思う。
我はかつて、あなたがたに約束したはずだ。
末法の世に、ふたたび甦るということを。
末法の世に、ふたたび転生し、
あなたがたとともに、仏国土建設のために、
その実を投げ出すということを。

末法の世にこそ、
新たなる法を説かんがために、地上に降りるということを、
我は、かつてあなたがたに約束したはずである。
我は、その約束を違(たが)えたことはない。
今、また、末法の時代が来、
時代が我を要請し、
時代が、あなたがたを要請している。

縁生の弟子たちよ。
我が声を信じよ。
わが声に目覚めよ。
我が向かう方向に、つき従え。
我に従い来よ。
我の振る、この白き手に従い来よ。
われは、あなたがたの永遠の師である。
永遠の師の、その後ろに続くことが、弟子の使命であるということを、
ゆめゆめ忘れてはならない。

【大川隆法『仏陀再誕』第一章「我、再誕す」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第五章 縁起の法
4 運命論について

縁起の理法と業について述べてきましたが、「いわゆる運命論については、どう考えるべきなのか」という疑問を持つ人もいるでしょう。そこで本節では、「運命」について考えてみたいと思います。

まず、「業と運命は同じものなのか。それとも違うものか」という観点があります。これについては、「業は運命の形成要因の一つである」と考えてよいでしょう。

たとえば、自動車には、速度のよく出るものと出にくいもの、燃費の良いものとそうでないもの、ブレーキが利きやすいものとそうでないもの、小回りが利くものと訊かないものなど、いろいろな性能や特徴があります。坂道に弱い車もあるでしょうし、それほど荷物を積めない車もあるでしょう。さまざまな車があるのです。

魂の傾向性は車の性能や特徴のようなものだとみてよいでしょう。車を運転するようにして、人生行路を進んでいるとするならば、車の傾向に合わせた走行方法があるはずです。

運命というものを「人生の道筋」と考えると、業の思想は、運命という道筋を進んでいく際の車の特徴、あるいは、運命という川を下っていく際の舟の特徴と考えてよいでしよう。そうした傾向性を持ちながら、そうした環境を生きていけば、どのような結果が出るかは、ある程度、推測できるのです。

たとえば、ボウリングの玉を転がす際には、「この方向に、この強さで転がせば、この程度のピンが倒せる」ということを予測するわけですが、人生にもまさしくそうしたことがあるのです。

はたして運命があるのかと言えば、個人によって、その内容にも程度にも差がありますが、運命を形成している因子がいくつかあることは事実です。

第一の形成因子は、業、つまり魂の傾向性です。第二の因子は、両親や兄弟といった家庭環境です。第三の因子は、時代環境、社会環境です。第四の因子は、本人自身の努力です。第五の因子は、他の人びとの協力です。

この五つの要素が運命をかたちづくっているのですが、第四の「本人の努力」と第五の「他人の協力」の部分が、未確定のものとして残されていると言ってよいでしょう。

第一から第三までの部分、すなわち、魂の傾向性や家庭環境、時代環境は、生まれたとき、すでに決まっているので、変えがたいものがあります。それゆえ、運命には前提条件として決まっている部分が確かにあると言えます。あとは、「本人の努力」と「他人の協力」の部分が、その人の人生でどのような役割を果たすかということにかかっています。

結局、「運命というものは、生れ落ちたときに決まっている条件と、その後の条件とが、複合的に関連し合って決まっていくものである」と考えなければならないのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第五章「縁起の法」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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