77 蛇の妖怪としては、私は吉野山の花見に行って、「脳天大神」の祟りを経験したことがある。脳天を割られた三メートルもある大蛇が川を流れて来たので、村人がこれを小さな神社にまつって、拝んでいた。その晩、ホテルで、一晩、巨大大蛇を追い払う修法をやるはめになった。動物などを「神」としてまつったりすると、霊力を持った妖怪になることがある。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
27 生前、水商売や賭け事、性を売り買いする商売をしていた男たちや、女たちが、狐の姿になっているのをたくさんみた。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第3章 現代の武士道 質疑応答
質疑応答2 「降魔の戦における武士道」について
〇質問2
「降魔の戦いにおける武士道」についてお伺いします。
本来、天使として生きる使命がある人でも、魔道に堕ちて魔と一体となり、幸福の科学を攻撃してくることもあります。また、本来は正しいことを行おうと思っている人たちでも、左翼的な思想で間違った攻撃をしてくることもあります。そのような人たちに対して、愛の心を持ちつつも、やはり、武士道の精神で、斬るべきときには斬らなければなりません。
そのような「厳しい戦い」と「愛の心」とを、「現代の武士道」のなかでどのように統合していけばよいのか、お伺いできれば幸いです。
■答え(前回のつづき)
〇今世の成功にとらわれることなく、「恐れない勇気」を持て
キリスト教の「パウロの回心」も、同じようなことかもしれません。
イエスが生きていたときには、パウロは「サウロ」と名乗っていて、イエスの弟子ではなかったし、会ったこともなく、むしろイエスの死後、その弟子たちを激しく弾圧していました。
ところが、今、混乱の巷にあるシリアのダマスカスあたりの街道で、サウロに光りが臨み、目が潰れて、三日間見えなくなってしまったのです。その目を、キリスト帰郷とのアナニアという人が治しまた。サウロは、その奇跡に驚いて回心し、「パウロ」と名乗って、キリスト教の伝道師に変わりました。
このパウロ一人が目覚めただけで、キリスト教は「世界宗教」へつながる道ができたのです。
彼は、ローマの市民権を持ち、ギリシャ語が話せました。
当時、ギリシャ語が話せるというのは、「世界語が話せる」ということだったのです。これは、今で言うと、「英語がネイティブ並みに話せる」というようなことだと思います。いわば、「アメリカの市民権を持ち、最高のインテリが話すような教養人の英語を使える人が、回心し、幸福の科学の信者になった」という感じでしょうか。
そういう人がキリスト教を伝道してまわりました。最期は死刑にされていると思いますけれども、その「一人」の人が大きな奇跡を起こしているわけです。
ですから、二十人、五十人、百人、千人など、それほど大きな集まりではなくても、どこにどういう人がいるかは分からないので、「その目に見えぬ誰かに向かって、常に正論を吐く」という態度は、私は大事だと思っています。
負けてはいけないと思います。
「一日で人生が終わる」と思って生きる「一日一生」の生き方も真理ですが、「今、自分がやっていることが、生きている間には成就せず、死んでから後の人たちの心の指針になったり、何百年か後の人の判断の基準になることもある」ということも、忘れてはならないのではないでしょうか。
そういう意味での「恐れない勇気」を持つことは大事だと思います。(完)
【大川隆法 『現代の武士道』第3章「現代の武士道」質疑応答 より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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3正念は幸福を創造するための力【正念】
〇自己変革を通して「心」を変え、「世界」を変えていく
そこで、「念」の性質そのものについて、さらに考えていこうと思います。この「念」の部分を押さえるということは、実は、人間の幸福を創造していくために一番大事なことでもあります。
「正念」の前にある「八正道」の六つの項目ができていたとしても、この「正念」のところはかなり難しいところがあります。これを押さえられなければ、本当は幸福の創造ができないのです。失敗をしては取り戻し、失敗をしては取り戻しというところで終わってしまい、さらにプラスの人生をつくることは難しくなります。
私は、「心を変えれば、世界は変わる」ということを何度も述べてきました。
また、幸福の科学の集うことについては、「ここに集いさえすれば、幸福になれる」と言っているわけではないということです。「幸福の科学に集って、自らを変革し、心のありようを変えたら幸福になれます。そのためのきっかけはお与えしましょう。しかし、それをつかむか、つかまないかは各人の問題です」と述べているわけです。
ですから、幸福の科学を人生の避難場所、あるいは退避場所とのみ考えるとしたら、とんでもないことです。なぜならば、ここは戦場だからです。自己変革を激しく迫られるところなのです。自己との戦いを要求されるところなのです。「この看板の下へ来れば、ご利益があって幸福になれる」などと思ったら、とんでもないわけです。「実社会でうまくいかない」「学校でうまくいかない」ということで、ここへ来ればご利益があって幸福になるかと思ったら、必ずしもそうではないということを知ってください。
ここは避難場所ではなく、戦場である。なぜならば、「自己変革をせよ」という高級諸霊からの声が、次々と矢のごとく降り注がれるからです。この矢のなかをかいくぐり、そのままでいることは非常に難しいのです。いろいろなかたちで自己を点検し、変えていかざるをえないのです。
この自己変革に失敗すると、未来が開けなくなっていくのです。
このことについて、さらに具体的に述べていきます。
〇”繊細な文学青年”から”恵比寿様”へと自己変革した心の転換点
私は、人々の前で話をすることが多いのですが、鏡に映った自分の顔を見ていると、不思議なことに、魂のきょうだいに恵比寿様か大黒天さまがいるのではないかと思うほど、だんだん恵比須顔になってきました。
なぜ、そうなったのかと考えと、栄養がよかったという考えもあるかもしれませんが、そうした物質的なことだけではなく、やはり、「自分の心の歴史のどこかで転換点があった」ということです。
そこで、私が霊道を開く前の数年を振り返ってみると、そのころは極めて繊細であったのは事実です。
今では信じられない人のほうが多いと思いますけれども、かつては人の言葉でも、何年も心に突き刺さってしまうほど、けっこう繊細であったわけです。二年たっても三年たっても、そのときの恥ずかしい思いや悔しい思い、あるいは残念な思いなどがバラの棘(とげ)のように刺さり、現在ただいまのように思い出されるという体験を、実際にしていました。
しかも、当時は文学気取りでいたので、それをよいことだと思っていたのです。いろいろなものが心に刺さり、じわじわと血が流れていくような気持ちになることも、実際にありました。そして、そういう繊細な部分、魂に食い込んでくるような悲しみのようなものが、人生を芸術化する一つの方法のように思っていたところがあったのです。
霊道を開いてからも、「繊細さ」ということでは、以前と変わらないどころか、もっとすごくなったかもしれません。いろいろな人の感情がストレートに伝わってくるようになりました。
そのため、かつては反省をするなかで、さまざまな曇りが取れたのはもちろんですが、その一方で、自分の暗いところや間違いなど、いろいろなところが見えてきて、一時期、抜け出せなくなっていた時期もあったのです。そして、自己反省をしていけばいくほど、さまざまなところが気になっていくのですが、それを変えがたい自分ということにも気がついていくわけです。
【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」250pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第六章 転生輪廻とは何か
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
今日は、おまえたちに懐かしい話をするとしよう。
○転生輪廻の思想
転生輪廻の話は、過去幾度となく学んできたはずである。
しかし、この転生輪廻の思想が地上から廃(すた)れて久しい。
いや、地上から廃れるというよりも、
もはや過去の単なるたとえ話、笑い話としてとらえられている感がある。
そうして、嘆かわしいことに、
わが教えを継いでいるところの仏教の僧侶たちも、
この転生輪廻を真実のこととしてとらえているか否かは定かではない。
いや、むしろ、
それを信ぜぬ者たちのほうが数多く増えているのではないか。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちも、心して学びなさい。
今世、生れ落ちたおまえたちには、
それぞれの考え方があるであろう。
考え方というのは、
おまえたちの受けた教育や、
おまえたちの経験したさまざまな出来事によって、
成り立っているものだ。
しかし、私は言っておくが、
この世というものは、
おまえたちの悟りにとっては、かなり厳しい修行場であるのだ。
いつの時代も、私とともに地に降りてくるおまえたちは、
厳しい環境を選んで生まれてくる。
されど、今世のこの日本の地は、
以前のインドの地よりも厳しい環境下に置かれているかに見える。
インドの地においては、伝統的に仏神を尊ぶ風習があった。
また、死後の世界を信ずる風習もあったが、
この日本の地では、風習そのものは、いまだに遺ってはいるが、
その実態がないと言ってよい。
そうした死後の世界をあざ笑い、
人の生まれ変わりをあざ笑う人たちの多くは、
何ら自分から進んで知ろうといることなく、
生れ落ちてから後の、知識や経験のみで判定しようとする。
しかし、そのなかにいったいいかほどの真実があるのか。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私の言葉をよく聞きなさい。
あなたがたは、今世において恐れてはならない。
怯(ひる)んではならない。
おののいてはならない。
自らがどのように生きやすくするかを考えてはならない。
そのことを、あまりにも考えすぎてはならない。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちは、仏弟子であることを誇りに思うか。
おまえたちは、真実のために生きることを誇りに思うか。
おまえたちは、仏法真理のために生きることを誇りに思うか。
もし、おまえたちが真実のために生きることを誇りに思う心を、
いまだに失っていないのであるならば、
私の言うことをよく聞きなさい。
地上の人間たちは、死後の世界をあざ笑う。
そして、それを無視したがる。
また、口を開いて死後の世界を語る人あらば、
その人を狂人呼ばわりする。
あるいは、変わった者というふうに言う。
そこで、心正しく、心清くして、真実の世界のことを知っている人が、
この地上ではたいへん生きにくくなっている。
ある時はあざ笑われ、中傷され、非難され、罵倒される。
私の言葉を信ずるがゆえに、そのようになる者も出てくるであろう。
しかし、私はあなたがたに言っておく。
我がために傷つけられても、
その傷はやがて大いなる栄光となるであろう。
我がために辱(はずかし)められても、
その辱めはやがて大いなる天の報いとなるであろう。
我がためにたとえ地に倒れようとも、そのあなたの偉大な思いは、
やがて、天の諸天善神をして、
歓喜の涙をふり絞らせることになるであろう。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちは、世間体というものをあまり考えてはならない。
おまえたちは、恥ずかしいという思いをあまり持ってはならない。
おまえたちは、この地上において人びとの尊敬をうけようと、
あまりにも考えてはならない。
おまえたちは、喜んで人びとから尊敬されない立場に身を置け。
おまえたちは、喜んで人びとから冷遇される立場に身を置け。
ただ、一つの仏法真理のために―。
ただ、一つの仏の教えのために―。
おまえたちは、幾十回、幾百回、幾千回の転生輪廻の過程で、
いつも我が教えを受けてきたのだ。
そして、わが教えを得(う)るときに、
いつも数限りない苦難や困難をも通過してきたのだ。
そうした強いおまえたちであるならば、
いまさら何を怯(ひる)むことがあるか。
いまさらに何を恐れることがあるか。
いまさら何を、いまさら何を―。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私は、おまえたちがいとおしい。
私は、おまえたちが限りなくかわいい。
私は、おまえたちが苦しむのを見ていることができない。
私は、おまえたちが涙しているのを黙って眺めていることができない。
私の教えを守ることが、
おまえたちを、もし傷つけ、悩ませ、
苦しませることになるならば、
その時に、私はまたおまえたちと共に、悩み、苦しんでいると思え。
私は、必ずおまえたちの涙を見つけるであろう。
私は、必ずおまえたちと共に苦しんでいるであろう。
私は、必ずおまえたちと共に悩んでいるであろう。
私は、必ずおまえたちと共に、
大いなる苦しみを背負っていることであろう。
【大川隆法『仏陀再誕』第六章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第二章 霊的現象論
5 悟りへの第一歩
「霊道を開く」ということ自体が「悟りそのもの」であると捉える方は数多くいると思います。
これに対して述べると、それを「悟りへの第一歩」と考えてもいいのは事実です。平凡な人生で霊道を開いていくことには、「仏法真理に目覚める」「霊的人生観に目覚める」という意味で大きな意義があります。
その結果、その本人がどういう人生をその後生きていくにしても、「生きている肉の身のままで、霊的世界を垣間見た。神や仏の世界を垣間見た」という意味では、一歩の前進であることは事実です。魂にとっては一歩の前進なのです。そういう意味において、「悟りのへの第一歩」とは言えるでしょう。
ただ、この霊的現象、「霊道を開く」ということ自体を捉えて「悟りそのもの」と考えてはいないのです。これはあくまでも「悟りへの第一歩」であり、「悟りよすが」ではありますが、「悟りそのもの」ではないことを知らねばなりません。「霊道を開く」ということを「悟りそのもの」であると誤解すると、ここに大きな間違いが起きます。いろいろな霊の声を聞き、それをそのままに受けていると、いわゆる「言うなり」となってくるわけです。そして彼らに完全に支配されていきます。「自分は悟った」と思い、うぬぼれていると、そういう霊の声に操られて、あらぬ方向に行くのです。
したがって、霊道を開いて以後のチェックポイント、非常に心すべきこととして挙げられるのは、「高級霊の言葉であっても、あるいは守護霊や指導霊の言葉であっても、もう一度、八正道というフィルターにかけて聞いてみる」ということです。これが大事です。
そういう声が聞こえてくるのは、自分自身のなかに、それを強く求めているようなことがあるからではないのか。そういうこともありうるわけです。
だから、高級霊の声であっても、もう一度、八正道というフィルターにかけて考えてみる必要があります。そして、どうしても納得がいかないならば、しばらく期間を置いてみて、もう一度、それが正しいかどうか、自分の心に適うかどうかを考えてみるのです。こういう姿勢が大事です。
ただ、これも、行きすぎてはいけません。高級霊が何の霊示を送ってきても、「すべて自分で判断するのだ」ということで、全部、勝手に自分らやるならば、これは、そういう声がないのと同じです。神も仏もないのも同然であって、これでは「自分しかない」ということになります。
これは「我流で生きていく人」でしかありません。こういう人にとっては、霊的能力を持ったり啓示があったりすることは、何の意味もないことになってしまいます。このように、すべてを「自分が、自分が」という思い上がりでやってはいけません。
ただ、高級霊と思われる声であっても、いったんフィルターを通して聞いてみて、「この声に従って行動することは、本当に自分が向上する道かどうか」のチェックが第一点として大事です。
第二点は、「他人を害さない道かどうか」ということです。これがチェックポイントです。他人を害さないかどうか。
そして、第三点としては、「トータルな意味で神や仏の御心に適っているかどうか」と言うことが挙げられると思います。
実は、このあたりが非常に難しいところなのです。
例えば、ある人が就職したいとする。高級霊からの啓示が降りてきて、「こういうところに就職をしなさい」という勧めがあったとする。
そして、自分自身の心を考えてみると、そこに就職したいような気もするが、したくないような気もする。よく分からない。どうなるかは就職してみないと分からない。しかし、「そこに就職してみると、けっこういいかもしれない」という気はする。第一の関門を通過する。
第二の基準の検討に入る。他人を害さないかどうか。特に他人を害さないようではある。こういうことで第二の関門を通過する。
第三の関門。神や仏の心に適うかどうか。これも、考えてみると、確かにそのほうがユートピア創りにどうやら貢献するようである。こういう判定ができる。
そうすると、「第一、第二、第三とも、必ずしも完璧だとは言えないけれども、そこそこの水準を通過している」と思えば、もう、あとは全託をして、その道を歩んでいく。こういうことが可能なわけです。
ここで、人間心でもって、「やはり私は」と考え、「啓示を降ろしてきたのが高級霊であろうが、神だろうが、仏だろうが、やはり、自分が思ったとおりにするのだ。自分が思ったところに就職するのだ。自分が思わない会社へはいかないのだ」という考えでやっていると、これもまた自我我欲のままに生きていることになります。
そういうことで、一つひとつのチェックポイントを一応確認する必要はありますが、最後には、心を空しゅうしていき、「心むなしく神仏の声に耳を傾ける」ということも大事です。
この際に大事なことは、一つの「信頼感」です。全託する。信頼する。「最後には神や仏が自分を見て下さっているなら、そんな不幸な結果は起きない」という考えも大事です。
完全に「言うなり」になってもいけないけれども、最後には神や仏にお任せする。そして、どういうかたちであっても、自分が神や仏のために奉仕できるような生き方をしたい。そのように思っている人には魔は入り込めないのです。
「とにかく自分が利益を上げればよいのだ。自分の欲望が満足させられればよいのだ」という思いでやっていれば、いろいろな問題が起きますが、「最後には神や仏の役に立つ自分でありたい」という気持でいれば、魔は入り込めません。これが霊的世界の真相なのです。
ですから、霊道を開いて「悟りへの第一歩」を踏み締めた方は、よくよく謙虚に生きなければなりません。そして、「神や仏の使用人として、一部分として、ボランティアとして、自分はいているかどうか」という確認を、常々、行っていく必要があるのです。
「神や仏のボランティアとして生きている。そういう無量奉仕人として生きている」という自分を発見できたならば、あとは、その心に忠実に生きていくことです。
とにかく、「霊道を開く」ということは「悟りへの第一歩」であることは事実です。しかし、それで増上慢になってはいけません。うぬぼれてはいけません。「まだまだ先がある」ということを知らねばならないのです。
霊道を開くことの第二歩では、守護霊との交信だけではなく、より上位の高級神霊、指導霊たちとの交流が可能になってきます。
ただ、一般に言われているように、そういう高級霊との交流に際しては「人格のつり合い」が大事です。
例えば、日蓮上人の霊示を受けるためには、日蓮上人の霊示を受けるだけの器が要ります。それだけの人格が要ります。それだけの徳望が要ります。知力が要ります。慣性の煌めきが要るのです。悟りが必要です。
そのように、「高級神霊の通信を受けるためには、それだけの器が要る」という事実を知らねばなりません。
名前だけを語って、「自分は何々の神である」というかたちは数多くあります。これは日本国中にありますが、「霊示を受ける人と与える人とは、だいたい同じレベルである」ということを知らねばなりません。
ですから、やはり、生きている人の行動と実績に注目する必要があります。「それだけの人でなければ、それだけの通信はない」ということを知らねばなりません。
つまり、「最高級の指導霊の方が、あっちにもこっちにも出て指導することはない」ということを知らねばなりません。「それだけの実績があり、行動力があり、能力がある」と見られる人のところだけに出るわけです。
もちろん、これについても、判定には難しいところがあります。「われこそは、そういう人なり」と言う人は、あちこちにいるからです。したがって、これについては、やはり、客観的フィルターにかけ、「本当に世の中を納得させるだけの材料があるかどうか」という点で検討していけばよいと思います。
「霊道を開く」ということは、それに対する恐れ、恐怖感もありますが、これを通り過ぎたとき、さらに大いなる悦びを生むものですし、さらに大いなる人生観をもたらすものなのです。そういう道があるので、どうか、恐れずに生きていっていただきたいのです。
霊道を開いても、「日々、謙虚に努力する姿勢」さえ持っていれば、転落することはありません。勇気を持って、その道を突き進んでいっていただきたい。そのように祈念する次第です。
【大川隆法 『漏尽通力』第2章「霊的現象論」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。
大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生
映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます
本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります
■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■
①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。
②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。
シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。
本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。
③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。
主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。
④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。
純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き
(3/11-2)70『仏陀再誕』を読む―転生輪廻とは何か―転生輪廻の思想―悟りへの第一歩
