(3/8-2)67『仏陀再誕』を読む―忍耐と成功―草笛の音―想念帯の曇り

『仏陀再誕』を読む

74 首だけ分離して、霊子線で胴体とつながっている「ろくろっ首」と二種類あり、分離型が先発していると言われる。いずれにせよ、女の執着が、執念と化した時、男は、不幸、転落、堕地獄、血の池地獄への順路を覚悟せねばならぬ。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

30 生前、暴走族をやっていた若者たちが、イノシシの群れとなって、崖から川に飛び込むのを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第3章 現代の武士道 質疑応答
質疑応答2 「降魔の戦における武士道」について

〇質問2
「降魔の戦いにおける武士道」についてお伺いします。
本来、天使として生きる使命がある人でも、魔道に堕ちて魔と一体となり、幸福の科学を攻撃してくることもあります。また、本来は正しいことを行おうと思っている人たちでも、左翼的な思想で間違った攻撃をしてくることもあります。そのような人たちに対して、愛の心を持ちつつも、やはり、武士道の精神で、斬るべきときには斬らなければなりません。

そのような「厳しい戦い」と「愛の心」とを、「現代の武士道」のなかでどのように統合していけばよいのか、お伺いできれば幸いです。

■答え(前回のつづき)
〇この世の人間では測りがたい「神の視点」

やはり、「この世での勝ち負け」で決まらないものはあります。

十字架に架かったイエスも、現代の日本人の目からみたら、「ちょっと、バカげている」と思う人はたくさんいるでしょう。

弟子たちもたくさん離れていって、最期は十二弟子もいない状況で、ついていったのは、母親のマリアとマグダラのマリア、それからサロメという女弟子がいたことは確認されています。また、男の弟子としては、かなり若かった方だと思うのですが、「福音書のヨハネ」はいたと思います。

イエスは、十字架の上からヨハネに向かって、隣にいるイエスの母であるマリアのことを、「これは汝の母である」と言い、マリアのほうには、「これは汝の息子である」というように言っています。つまり、「自分の亡きあと、母の面倒を頼む」ということでしよう。

そういった、四、五人ぐらいの弟子がいたのは分かっています。

しかし、ペテロ以下の弟子は、途中、イエスが捉えられて取り調べを受けているところを見たりしていたけれども、声をかけられたら逃げました。ペテロは、「あなたは、あの男と一緒にいたんじゃないか」と言われて、鶏が二度なく前に三回、「あの人の弟子とは違う、一緒にいなかった」と嘘をついて、そのあと、懺悔して涙を流しています。これが初代教皇です。

そのように、この世においては敗れることがあるわけです。

これがわからない人はたくさんいます。遠藤周作のような方でもそうです。

「沈黙―サイレンス―」という映画を観たら、日本で起きたキリシタン弾圧で、「踏み絵を踏んだら命は助かる。踏み絵を踏まなければ殺される」というようなことが描かれていました。おそらく、「踏み絵ぐらい踏んだって、いいではないか。命あっての物種だ」的な思想を持っていたと思います。「神は、なぜ、沈黙されているんだ」というような感じのことだったと思うのです。

確かに、この世的には、一見「負け」のように見えることもあります。しかし、神は、千年、二千年、あるいはそれ以上の長視点で見ていることがあります。それは、この世の人間の数十年の人生では測りがたいものがあるのです。

もし、幸福の科学について、マスコミ的に言うとすればどうでしょうか。

「幸福の科学は、世界神、地球神の指導にあって、さらには、日本の神々もみんな応援しているというのに、幸福実現党は負け続けているではないか。票だって、しょっちゅう減っているではないか。これで、世界神や日本の神々が応援していると言えるのか。それこそ嘘ではないか。嘘だから、こんなに負けるのではないか」

この世的に言えば、そのように、同じようなことは言えると思います。
(次回に続く)

【大川隆法 『現代の武士道』第3章「現代の武士道」質疑応答 より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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3知識を実践で示せ【正精進】

ただ、どうしても私が言ってきたいのは、「いくら仏法真理を学んだとしても、実生活において奇人変人のように見られる態度だけは、私は許さない」ということです。

私たちが目指しているのは、「どこででも通用する人材の育成です」「仏法真理の空間だけ通用して、それ以外では通用しない」というような人をいくらつくっても、世の中は変わりません。仏法真理を学んで心が変わり、そして、その光を世の中にも還元できるようなみなさんであって初めて、修行が生きていると言えるのです。

女性であれば、仏法真理を学んで悟ったことによって、ますます優しくなり、ますます多くの人に愛されるような女性となって当然であり、学んだことによって自分が偏った生き方をするならば、問題外なのです。

若い男でもそうです。今まで素直に生きていたのに、学んだことによって天狗になり、堕落していくなら、何のために仏法真理を学んだのか分からないのです。

年配の人でもそうです。それで出来上がってしまい、急に威張り始めるようであれば、そんなものは何でもないのです。実力がつけばつくほど、謙虚になり、物腰が柔らかくなり、他の人に愛されるような人間、そして、もちろん、それ以上に愛を与えるような人間となっていかなければ、そういう人格となっていかなければ、この修行の意味はないわけです。

私たちの正精進とは、決して、「千日回峰」のように山のなかを歩いたり、滝に打たれたりすることもでもなければ、仏法真理の知識をたくさん詰め込んで、それを競うようなものでもありません。これらはあくまでも材料であり、仏法真理を学ぶことによって実生活にその光が出なければ、まったく意味がないのです。そういう意味での正精進です。

ですから、
「学んだ仏法真理を、学んだ知識を実生活で示せ。
その悟りが本物であるならば実践せよ。
実践されているかどうかは、周りを見れば分かるはずだ。
他の人の自分への接し方を見れば分かるはずだ。
そして、それが退化することなく、
いっそう素晴らしいものとなっているかどうか、
自己確認する姿勢を持ちなさい」
と言っておきたいのです。

正精進は、決して仏法真理漬けの特殊な人間をつくるためにあるのではありません。むしろ、仏法真理に触れることによって心がくらりと一転し、ここを開き、自己変革に取り組み、自分の欠点を修正し、いっそう素晴らしい、今までになかったような完成度の高い人間になっていただきたいのです。

そして、その途中においては、「悟りの維持はどれほど困難か」ということを決して忘れないでいただきたいのです。入り口に立っているだけで「悟ったつもり」になってはいけません。「悟りはこれからが本番だ」ということを、決して忘れないでいただきたいと思います。

正しい努力のあり方としての「正精進」は、大川隆法著『漏尽通力』なども参考にしてください。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正精進」237pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第五章 忍耐と成功 
○草笛の音

昔、あるところに大男がいた。

この大男は、身長は二メートル五十センチもあろうかという大男で、あった。街のなかを歩いても、だれもかれもがその大男の顔を見ては、恐れおののき、そして家の中に入っては閂(かんぬき)をかけ、窓の隙間からその大男が遠ざかってゆく姿を見ていた。その大男は、頭にターバンを巻き、腕に金の輪を巻き、体は赤銅色、腰から下には何とも言えないネズミ色のズボンをはいていた。そして足首には鉄の鎖がついていて、この大男がどこからともなく逃亡してきた者であるということを推定させた。

この大男は、たいへん力が強く、馬の一頭、二頭をひきまわすのは当然のこと。木造建ての小さな家など、この大男が怪力を発揮すれば、たちまちに壊れてしまうほどであった。動物たちも、この大男が通ると、いつ絞め殺されるかと思って、悲鳴を上げては、逃げまどった。

そこで、村の長老が協議をした。

「あの大男を何とかできないものだろうか。何とか、あの大男の粗暴なはたらきを、やめさせることはできないだろうか」

そうやって、村の長老たちが三日三晩協議をしたが、なかなか結論が出なかった。

そこで、

「結論が出ないが、とりあえずあの大男を生け捕りにして、村から追い出すことにさえ成功すれば、どうにかなるのではないか」

そのように提案する長老がいた。

他の者は、

「なるほど、あの大男を生け捕りにして、村から追い出せば、確かに我らは安全ではあるが、
ところで、その大男がまた帰って来たときには、どうするのだ」

「そういえば、帰ってくるとなると、いつ帰ってくるかわからぬから、それがまた心配の種になる」

「しかして、その前に、どうやって彼を生け捕りにするのだ。生け捕りにするような勇気がある者がいるのか」

そのように言う者もあった。

「ウーン、それでは、大男が帰ってこないようになるためには、殺生の罪を犯すことにはなるが、ひと思いに彼を殺してしまったほうがいいだろうか」

そうやって協議をしばらく続けた。あの大男をどうやって殺すのか。しかし、彼を殺そうとしても、もし、し損じたならば、大暴れされて、村人は何十人となく殺されるかもしれない。もし弓矢で射たとしてもあの鋼のような体に、ほんとうに矢が通るのかどうか定かではないし、もし矢が通ったとしても、そんなものではあの男はビクともしないかもしれない。また、何か罠をかけてつかまえるということもあるが、その罠を見破られて時に、また大変なことになる。

いろいろと議論百出したが、どうしてもよい知恵が浮かばない。

「困ったものだ」「困ったものだ」

その時に、ある若い女性がその話を聞いていて、

「私の意見が皆様に聞いていただけるかどうかは分かりませんが、実は、一つ明暗がありますので、私の案を使わせていただけませんでしょうか」

そのように、その若い女性は話を切り出した。

長老たちは意外な思いがした。その若い女性が、どうやってあの大男を始末するというのだろうか。どう考えても分からなかった。

「いいえ、どうか私めにお任せください。必ず、明日以降、あの大男が粗暴なふるまいをしないようにして見せます」

「まあ、そうしてくれるならば、それに越したことはないが、どうしようか、みなの者」

そして、長老たちは議論し合ったが、ほかによい案もないので、とうとうその若い女性の意見を採用し、彼女に任せることとした。

その若い女性には、小さな男の子が一人いて、その子はやっと五つになるぐらいの歳であった。この子はさほどとりえもない子供であったが、一つだけ得意なものがあった。それは、草笛を吹くという技術であった。この賢く若い母親は、自分の子供の草笛によって、あの大男が必ずおとなしくなると考えたのだ。

翌日、また街の外れから大男が、砂煙をあげて、ドッドッドッドッと街の中心に向かってやってきた。街の者どもはまた雨戸を閉めて、オロオロと家のなかにこもっていた。今日は、どこに被害が出るか、だれが怪我をさせられるかと思って、恐れおののいていたが、その街のまんなかに、その母親と子供の二人だけが残った。広場に、二人の姿があって、それをうかがう者たちは、

「だいじょうぶだろうか。若い女性と子供じゃないか。ひとたまりもないかもしれない。食べられてしまうのじゃないか」

そう噂していた。

そこへ、鬼かと思うようなその大男がやってきた。そして、まわりの者の予想通り、その母親と子供につかみかかろうとした。みんなが固唾(かたず)を飲んで、

「ああーっ、これは大変なことになる」

と思って見ていたところが、母親は穏やかな顔で、右側にいる自分の子供にはそっと頷(うなず)いた。すると、その子供は、ふところから草の葉を取り出して、草笛を吹き始めた。のそ「ピーヒョロ、ピーヒョロ」という音が、その大男には何ともいえない感情を抱かせた。

「なんだろう、この音色は。この音色はなんだろう。ああーっ、この音色は懐かしい。どこかで私はこの音色を聞いた気がする。どこかでこの音色を聞いた覚えがある」

その母親は見抜いていた。その大男はきっとインドのほうから来た大男に違いない。そして
インドの法のたぶん身分のある人に仕えていた下僕に違いない。その身分のある人は、おそらく音楽を使って、この大男の、この狂暴な性格を穏やかにしていたに違いない。そう感じていたのだ。

たしかに、大男は昔、逃亡してくる前は、ある若者に仕えていた。その若者は体こそ小さかったが、笛をじょうずに吹いて、その大男をいつもなだめていた。それゆえに、その大男は、しばらく聞いたことのない音色というものを、小さな男の子の草笛を通して感じ取ったのだった。

そして、自分が今までやってきたことを、ふと、振り返った。すると、目から大粒の涙がハラハラ、ハラハラ、ポタポタ、ポタポタと落ちてきた。

「小さな五歳の男の子の草笛に、あの大男が涙を流しているぞ」村人たちは驚いた。そして、

「なんだなんだ。そんな悪者でもなかったのか。子供の草笛で涙を流すとは、そんな悪者ではなかったのか」

と、おそるおそる雨戸をあけて、一人二人と集まってきた。そして、村の広場は人びとでいっぱいになった。

「そうか、その大男は何ひとついいところはないと思ったが、音楽を解するこころがあったのか。それでは、みんなでいっしょに、笛を吹いてみようじゃないか」

村の笛を持ち寄って、皆の者が笛を吹いた。そうすると、大男は最初は涙を流していたが、次第しだいに陽気になり、まわりの者といっしょに踊るようになった。こうして、笛の音色ということを通して、大男の心の優しさが知れ、そしてまわりの者も安心感を得て、いっしょになかよく住めるようになったのだった。

大男は、村を外敵から守り、そして村人たちは大男に笛を吹いてやることによって、彼の心を和ませた。

こうして、両者が平和に暮らしたという話だ。

【大川隆法『仏陀再誕』第五章「忍耐と成功」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第二章 霊的現象論
2 想念帯の曇り

今、「心の神秘」という話をしましたが、人間の心を霊的な目で見れば、どうなっているのでしょうか。心は、いわゆる「表面意識」と「潜在意識」との中間地帯、境目のところに、「想念帯」というものがあります。

この想念帯のところに、さまざまな記憶の領域があります。そこには、生きていたときに思ったこと行ったことの記憶が埋蔵されているのです。これは一種のテープといってもいいかもしれませんし、一種の記憶領域といってもいいかもしれません。この部分に、そういう記録があり、また、さまざまな想念の蓄積があります。

こういう想念帯というものがあり、この部分の帯が表面意識と潜在意識とを分けています。これは、いわば、人間の「脳」と「頭の表皮」とを分けている頭蓋骨のような存在といってもいいでしょうか。こうした一種の膜があります。

この想念帯のところには、いったいどういうものが付着していくかというと、結局、人間が数十年生きたときの思いの”カス”が溜まっていくのです。

一日のうちに人間はそうとうの数のことを思います。心のなかに去来した思いは、数千、数万という数に達するのです。こうした思いが全部、テープレコーダー的に記録されているわけです。

その思いが悪しき思いである場合、この想念帯のところに曇りができます。想念帯は、本来、無色透明なものなのですが、これにいろいろな思いが付着すると、色がついてきます。そして、さまざまな悪しき思いにとらわれると、この表面に、いろいろな汚れやゴミがつき、曇ってくるのです。透明であったガラスにいろいろな色がついてきて、透き通っては見えなくなってきます。

大多数の人間は、こういう状況になっているのです。生まれてから後、さまざまな教育や習慣、思想、人の意見、こうしたものによって、透明なガラスの部分が曇っていきます。そして、自分の潜在意識の部分と表面意識の部分が、はっきりと分かれるようになってきます。

この理由を赤ん坊の例で考えてみます。

親の目には見えないかもしれませんが、赤ん坊は霊的世界との交流を持っています。

二歳ぐらいまで、あるいは二歳から三歳の間までですが、赤ん坊が、あらぬ方を見て、微笑んで笑ったり、喜んで手を振ったりしていることがあると思います。これは、あの世の守護霊たちが来て、その子を励ましたりしていて、これに対し、喜んで答えたりしているのです。

このように、本来、生まれたばかりの赤ん坊の心は非常に無垢なものであって、天上界、つまり、あの世の諸霊とも心が通じているのです。

それが、だんだんに欲が出るにつれて曇っていきます。

それは、例えば、「自分は、こうありたい」という気持ち、親の愛を独占したい」というよなきもち、「もっとミルクが欲しい。もっと食べものが欲しい」というような気持ち、「あのおもちゃが欲しい」というような気持ちです。こういう欲が出て、それが自分の思うままにならないと、だんだん、わがままになっていきます。

そういうわがままな心が出てきたところで一つの曇りが生じ、やがて天上界の霊たちと隔絶されていき、非常にこの世的な存在となっていくのです。

そうしてみると、あの世的存在とこの世的存在の違いはどこにあるかといえば、「自我我欲」の部分であると言えると思います。自我我欲、「私が、私が」という気持、「自分が、自分が」という気持によって、結局、窓ガラスにカーテンを引いたようなかたちになっていて、外の世界が見えなくなっているわけです。

結局、このカーテンの部分があるからこそ、本当の霊的世界との交流ができなくなってくるのです。そうであるならば、このカーテンの部分を開けると外の世界は見えるわけです。本来、そのようになっているのです。

そうすると、この「カーテンを開ける」という作業がありえるのではないのかと考えられるわけです。このときのカーテンに当たるものがいったい何であるかというと、これが「想念帯の曇りの部分」です。

今、赤ん坊の例で話をしましたが、例えば学校に上がるようになると、またさまざまな悩みをつくっていきます。

それは主に、「他人と自分との比較」というかたちでの悩みです。「他人は自分よりいい服を着ている」「隣の子の弁当のおかずは自分のものよりいい」「隣の子は自分よりよく勉強ができる」「前の子は自分より走るのが早い」「一列目の子は先生にいつもほめられている」などということで、他人と自分との比較をし、自我のカーテンをかけるようになっていくわけです。

こうしたカーテンは、実際には、薄いレースのカーテンなのですが、一枚、二枚、三枚と重なっていくと、だんだん光を通さないようになってくるわけです。

また、小学校の高学年ぐらいから、「異性への目覚め」というものもあります。異性へのあこがれが純粋なうちはいいのですが、それだけではないものになってくるのです。

中学校ぐらいになってくると、「性へのとらわれ」ということが出てきます。そういう「煩悩」というものが出てきて、なかなか苦しみが心から去らないのです。一つのことを考えようと思ったり、勉強をしようと思ったりしても、異性への思いが脳裏を去来して離れないわけです。

こういう思いが、高校時代になるともっと強くなってきます。

またね高校時代には、さらに「社会への関心」というものが出てきます。この時期は、「自分自身の位置づけ」というものを決めるための大変な試練の時期です。実社会に出て、どうするか。大学に進学するか。高校を卒業して就職するか。これを決めなければいけない時期になるわけです。そこで、「社会とのかかわり」ということについて、この時代にも、いろいろな苦しみをつくることがあります。

大学入試などもありますが、浪人をする人も少なくなく、十八歳、十九歳のときに、「挫折」という体験をします。こういうときに心に曇りをつくっていくことがあります。

また、挫折しなかった人には、今度は「驕り」という感情が出てきます。驕りとは、「自分は優秀であり、特別な人なのだ」という思いです。そして、また心に曇りをつくりっていくこともあるのです。

大学時代には、今度は逆に、いろいろな社会とのかかわりのなかで、また自我の思いが出て、闘争と破壊に心が向かっていく場合もあります。勉強をしないで、学生運動など、いろいろな社会活動に加わり、反抗心のままに生きていく人も出てきます。また、学生時代には、勉強をしないで放恣(ほうし)な生活をしていく人もいますし、これとは反対に、勉強、勉強で追いまくられ、心が狭くなっていく人もいます。

こうして社会に出ていくわけです。

社会に出たら出たで、上司と部下との関係の問題、同僚との問題、異性との問題、こうしたもので人間は心にいろいろな曇りをつくっていきます。

また、適齢期になれば、結婚の問題が待ち構えています。自分の理想の相手と結婚できなければ、苦しみをつくりますし、理想の相手と結婚したらしたで、今度は、結婚した後、理想と現実とのギャップで悩みます。子供ができると、生活費がかさみ、生計が苦しくなってきます。

それから、転勤の問題や海外赴任の問題があります。また、同僚との付き合いの問題もあれば、出世の問題もありますし、左遷をされたりすることもあります。

こういういろいろな試練を受けるわけです。

家庭のなかでは、病気の問題がありますし、親やきょうだいとのかかわりの問題などもあります。これ以外でも、やがて子供が大きくなるにつれ、自分がかつて味わったのと同じような、子供の新核問題についての悩みが出てきます。また、子供が大きくなってくると、今度は子供の結婚の問題があるのです。

そして自分が四十代や五十代になってくると、社会で定年が近づいてくるので、第二の人生についての悩みが出ます。「定年後、どう生きるか」という悩みが出るのです。退職金の悩みや、「年金がどうなるか」「借金が払えるだろうか」という悩みなど、いろいろな悩みが出てきます。

老後には、今度は、子供とうまくいかない悩みがあります。孫はかわいいが、子供の嫁が言うことをきかない。こういう問題があるわけです。

このように、一生を捉えてみると、ネガティブな方向からのアプローチには違いありませんが、さまざまな悩みがあります。そして、そのなかで、人間は曇りをつくっていきます。

その曇りを、そのつど、そのつど、晴らしていけばよいのですが、やはり、曇りがだんだんに集積していき、ますます、どす黒い色に心が染まってくるわけです。

そうしてみると、その想念帯のガラスを通して天上界の姿を見ることはできなくなってくる、こう言えると思います。

【大川隆法 『漏尽通力』第2章「霊的現象論」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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