(3/5-2)64『仏陀再誕』を読む―忍耐と成功―静かに歩め―仏法真理への道

『仏陀再誕』を読む

71 山姥(やまんば)は、伝説的な女の鬼である。交通の便が悪く、旅館・ホテルが完備されていなかった時代には、山賊の一種として、追いはぎ、強盗、殺人などをしていた。死後の世界でも、同様に悪行をしているものもいる。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

33 生前、親不孝の限りをつくした息子や娘たちが、蟻地獄の砂に吸い込まれて、食べられるのを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第3章 現代の武士道 質疑応答
質疑応答2 「降魔の戦における武士道」について

〇質問2
「降魔の戦いにおける武士道」についてお伺いします。
本来、天使として生きる使命がある人でも、魔道に堕ちて魔と一体となり、幸福の科学を攻撃してくることもあります。また、本来は正しいことを行おうと思っている人たちでも、左翼的な思想で間違った攻撃をしてくることもあります。そのような人たちに対して、愛の心を持ちつつも、やはり、武士道の精神で、斬るべきときには斬らなければなりません。

そのような「厳しい戦い」と「愛の心」とを、「現代の武士道」のなかでどのように統合していけばよいのか、お伺いできれば幸いです。

■答え
〇仏法真理的な正しさが、どの程度通るかは時代による
大川隆法
本来は、神仏の心を体した人が、この世においてもきちんと勝ち、正しいと認められ、皆が安心して、ホッとできて、受け入れられる状況が望ましいとは思います。

しかし、「そうした仏法真理的な正しさが、どの程度通るか、通らないか」は、時代によって違うことがあるのです。

特に、新しい宗教が起きたり、宗教改革が起きたりするような大きな使命を持っているときには、敵として立ち現われてくるものも、そうとう大きな既得権益を持っている場合があるので、この世的には悲劇に見えることもあるでしょう。

キリスト教で言えば、旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の戦いでも、国民の数が何分の一かにまで減るほどの戦いもありました。

「そんなことをするぐらいなら、新しい宗教など起こさないほうがよかったではないか」という考えもあるかもしれませんが、トータルで、何百年かで見て、「新しい宗教」が必要だったのであれば、それは、”やむをえない犠牲”も出たのではないかと思います。だからこそ、人口が三分の一になるというような戦いもあったのだと思うのです。

あるいは、イエス・キリストについて見ても、この世における戦いは、本当に多勢に無勢でした。

ローマ軍と戦って勝てるわけもないため、ユダヤ人たちは、ローマの総督などの手下になって、傀儡(かいらい)として、その僕(しもべ)になって、おそらく、イエスを宗教的に見はっている状態だったのだろうと思います。

イエスがよく批判していた相手であるパリサイ派等の人たちは、おそらくCIAのような役割で、「このへんに反乱分子などを出さないように」と、見張っていたような所があるのでしょう。「アンチローマで、隠れて独立運動などをやりそうな者」「キリスト教という当時の新興宗教に紛れてやっているような者」を密告するような仕事を、現実にやっていたのだろうと思うのです。

そうしたものに、「現実の力としては勝てない」ということはあります。そのため、ローマ軍の庇護を得て、旧宗教がそのように使われるわけです。(次回に続く)

【大川隆法 『現代の武士道』第3章「現代の武士道」質疑応答 より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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1神仏へのお心への精進【正精進】
〇仏法真理の学習と結果は「悟りへの『入場券』であり、『乗車券』ではない」

(当会の資格セミナーで)上級試験に合格し、賞状を手にされた方々にも言っておきたいのですが、上級試験に合格された方は、ある程度、仏法真理の理解ができ、ある程度の心境に来ていることを認定されたわけです。しかし、これは「悟りの入り口に立った」ということであって、「悟った」ということではありません。

これを勘違いすれば、簡単に、あるいは一日で転落していきます。それを間違えないでいただきたいのです。

「賞状を手にする」ということは、みなさんが天国で天使として生まれ変われることの保証ではないのです。これは、「悟りの入り口に立った」ということなのです。それ以外のものではありません。

この意味において、仏法真理の学習とその結果は、「悟りへの『入場券』であり、『乗車券』ではない」わけです。

「悟った」ということは、そう簡単にはないのです。十年、二十年、あるいは一生を通じ、ぐらつかない心で、それだけのレベルの心で、どんな環境下でも生きていけるだけの自覚ができ、そして実績ができたときに初めて、「悟った」と言えるのであって、それは「悟りの入り口に立った」ということとは違います。

「一年や二年で出来上がる」ことは決してないのです。幸福の科学ができて二年余りです(1989年説法当時)「これで悟った人がいるはずはない」というのが前提です。悟りの入り口に立った方はいるでしょう。また、途中にある方もいるでしょう。しかし、悟った方はいないのです。

試験で何点取っても同じです。それは「入口に立った」ということです。入場券ではあるけれども、それを乗車券として使うためには、それだけの努力を連綿と続けていくことが必要なのです。

一定の心境に達したとしても、環境が変わったときに、ぐらりと崩れていくようであれば、その程度のものです。今は、何不自由なく悩みもないから、その心境で学びができているとしても、それを維持していく過程において、まったく違った環境が出てきます。そのときに、それを乗り切ることができれば、その悟りが簡単に壊れていくことがあるわけです。

【大川隆法『真説・八正道』第7章「正精進」228pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第五章 忍耐と成功 
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
今日は、あなたがたに忍耐と成功の話をしよう。
この話はとても大事だ。

○静かに歩め
私はいつもあなたがたに、
執着を去れと教えてきたはずだ。
執着のなかでも、あなたがたを成功から遠ざける最たるものは、
時間における執着だ。
時間における執着とは、焦りのことをいう。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に苦しんでいる。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に迷っている。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に苦しんでいる。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に虜(とりこ)となっている。

人びとよ、まさしく焦りは人生の敵である。
静かにゆく者は遠くまでゆくのだ。
音少なくしてゆくものは、千里を駆ける。
騒がしく鉦(かね)や太鼓の音ともに歩む者は、
さほど遠くまで進むことはできない。
なぜならば、鉦(かね)を打ち、太鼓をたたく音を聞いて、
まわりからゾロゾロといろいろな人が集まってきて、
やがて話しこむうちに、
本来の旅の目的を忘れ去ってしまうからだ。

ゆえに、諸人よ、
先を急ごうとするならば、静かにゆけ。
目的が遥かに遠くにあるならば、すみやかにゆけ。
深く、静かにゆくがよい。
その際に、決して焦ってはならない。
決して急いではならない。
焦りの気持ちとは何であるか、考えたことがあるだろうか。
焦りの気持ちとは、いち早く結果を手に入れたいとする気持ちだ。
努力を惜しんで、努力の目的であるところのその成果を、
人より早く手に入れたいとすることだ。
ゆえに、諸人よ、よくよく心せよ。
もし、あなたがたの人生に迷いが生じてきたならば、
この迷いとは、実は焦りにほかならないのではないかと、
焦りこそが迷いを生み、迷いの根源が焦りではないのかと、
その時に、深く深呼吸をして、
何ゆえに焦るのかと、自問自答するがよい。
何ゆえに焦るのか、
何ゆえに急ぐのか、
何ゆえに慌てるのか、
考えてみれば、さして根拠のあることであるまい。
さしたる根拠はないのだ。
焦りの根源は、いつも似たようなところにある。
さしたる根拠もなく、焦っているのだ。
それは、時間が経つうちに、
何か漠然と不安な出来事が自分を襲うのではないかと感じているのだ。
何か将来に不安なるのが現われて、
自分を害するのではないかと思っているからだ。
およそ、焦りの原因は不安の影におののくところにある。
自分を害するものが、自分を傷つけるものが、
立ち現われてくるのではないかという不安感に焦りの根源がある。

諸人よ、よくよく考えてみよ。
あなたがたの人生の使命とは、いったいどこにあったかを。
あなたがたの人生の目的とは、いったいどこにあったかを。
さすれば、思いつくことがあるであろう。
それは、我らは決して地上において、
人生をはやく行き過ぎることを目標とはしていないということだ。
駆け足で通り過ぎてしまったところで、
人生に何らの味わいもあるはずがない。
肉体の成長がその山の頂を極めたところで
さしたることがあろうはずもない。
平坦であることを恐れてはならない。
平凡であることを恐れてはならない。
一時の流行に心を動かしてはならない。
世の常識に妥協してはならない。
世人の声に迷ってはならない。
また、あなたがたを深く愛していると称する人びとの心にも、
迷ってはならない。

道を進むものは、静かにゆけ。
道を歩むものは、静かにゆけ。
その足音を他の者に気取(けど)られてはならない。
これから、自分が長旅を行くのだということを、
他の人びとに告げる必要はない。
いや、告げてはならない。
長旅をゆくことを告げることによって、
あなたがたの道を妨げる者があるであろう。
それは、必ずしも悪意の妨げのみではない。
善意の妨げというものもあるであろう。
そのような長旅は危険が伴うからこそ、
やめておいたほうがよいと言う人も、跡を絶たないであろう。

【大川隆法『仏陀再誕』第四章「政治と経済」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第一章 霊的人生観
4 仏法真理への道

「人生の転機」「霊性への目覚め」「物質と誘惑」という問題を考えてきて、次に「では、どうやって仏法真理への道に入っていくべきか」ということを考えてみたいと思います。

仏法真理への道に入っていくときに、いちばん大事なのは、やはり、「導き手」であろうと思います。

今、「本当であれば、仏法真理のことを勉強したい。学びたい。求めたい」という人は数多くいると思いますが、残念ながら、「善き指導者に恵まれない。巡り会えない」ということが最大の難点です。世の中に、道を求める人は数多くいますけれども、「真の指導者に巡り会えない」ということが最大の難点となっているのです。

では、どうしたら真の指導者に巡り会えるのでしょうか。

「あちらの宗教、こちらの宗教と遍歴しながら、よくなるならともかく、どんどん悪くなっていく人が数多い。また、いろいろなところで霊的な作用を受け、帰ってくる人が数多い」という問題がありますし、「宗教に凝って、おかしくなる」というのは日常茶飯事です。

そのため、家族や親族が反対するのは常です。「宗教に凝って、おかしくなった。変な新宗教に凝った」という話になって、問題とされるわけです。

ですから、「仏法真理への道」ということを考えるに際しては、どうしても、師の存在、優れた指導者の存在が大事です。私はそう思います。

優れた指導者がいるところには、また、優れた教えがあります。同様に、優れた教えがあるところには、優れた結果があるはずです。優れた指導者の存在、優れた教えの存在、そして、優れた人間完成への道、導き、こういうことがあると思われるわけです。

こうしてみると、「師の存在」、「教えの存在」「、あるいは「効果の存在」「結果の存在」は、非常に立派な道筋であり、素晴らしい道筋であると思います。

大事なことは何であるかというと、やはり、優れた指導者になろうとする方々が数多く出てくることです。その必要性を私は感ずるわけです。優れた「仏法真理の指導者」を数多く出していく必要があります。

そして、優れた指導者が出ていくための材料として、優れた教えが数多く出ていく必要があるのです。そして、数多くの優れた教えが出たならば、「それをどう学び、それをどう実践に移していくか」という課題が残っていると思います。

私は幸福の科学で人類幸福の科学化運動を起こしておりますが、この背景には、やはり、「優れた指導者を養成したい」という気持があります。

また、「優れた指導者を養成するためのテキスト」としての仏法真理の客観性、あるいは多様性をつくり出し、取り出していく必要があると考えていますし、その指導・学習方法の確立が急務であろうと思います。優れた教え、仏法真理があっても、それをどう学習すればいいかが分からねば、どうにもなりません。

この仏法真理の学習方法に関しては、まだまだ確立されていないものがあります。

悟りの関しても、古来、「どうやったら悟れるのか」ということが分からなくて、「とにかく、一千日、山の中を歩けばよいのだ」という、千日回峰行的な考え方もありますし、「とにかく座禅を組めばよいのだ」という考えや、「物質を断ち、執着を断てばよいのだ」「一切のしがらみを断てばよいのだ」「滝に打たれればよいのだ」という考えもあります。

このように、いろいろな考え方があり、これらは、そうした精神を何らかの形で体現しているのですが、「本来の仏法真理学習」という面から外れているわけです。

また、仏法真理学習の一面には、「単に経文を唱えればよい」という形式主義もあります。「内容が分からずとも、経文を唱えておればよい」というものです。その経文はいくつかあります。あるいは、「経文を筆写(ひっしゃ)するだけでもありがたいことであり、何万巻も書写すれば幸福になれる」という人もいますし、「自分の名前を変えればよいのだ」「神社に寄付すれば救われるのだ」という人もいます。

このように、仏法真理の学習方法が確立されていないため、巷(ちまた)では、さまざまな方法論が跋扈(ばっこ)していますし、それに人々が迷わされている面があると思います。

私は、まず、「仏法真理への道」の第一歩として、教材として、すなわち、学びの材料として確立されたものが必要でないのか。このように感じるわけです。【大川隆法総裁先生は、説法された内容を経典として出版して、2024年には発刊3300書を突破されています。】

それがなければ、やはり、常識人としての、あるいは、この世的な人間としての、まっとうな学びができないのではないのか。この世ならざる世界に一超直入(いっちょうじきにゅう)しなければ悟れないのならば、大部分の人は、すでに救いの外にあるのではないのか。このように思われます。

したがって、地上人の常識に照らしてみても納得のいくような内容で、仏法真理の存在をつくることが大事ですし、これを知的なベーから学んでいく、学習していく方法論の確立が大事であろうと思います。その意味で、学校教育的な手法も、多少、導入せねばならないと考えます。

【大川隆法 『漏尽通力』第一章「霊的人生観」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
■□■
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エル・カンターレ・大好き

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