(3/3-2)62『仏陀再誕』を読む―政治と経済―適正なる発展―霊性への目覚め

『仏陀再誕』を読む

69 鬼たちは、亡者たちを悟らせるため、古典的な、虎皮のパンツに、鉄棒ないし、ペンチを持っていることも多い。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

35 生前、泥棒や強盗をやっていた人たちが、番犬の姿になって、罪をつぐなっているのを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第3章 現代の武士道 質疑応答
質疑応答1 相手の筋の見極め方とは

〇質問1
御法話「現代の武士道」の最後のほうで、「善悪・正邪を分けるときに、物事の筋をしっかりと追っていく」という視点を教えていただきました。

政治においても、私たちの生き方においてもそうですが、さまざまな真剣勝負のなかで、「相手の筋が違っている」と思ったときに、どのような心で、また、どのようなものの言い方や迫り方で、潔くぶつかっていけばよいのでしょうか。「筋の見極め方」といいますか、そのような態度や方法があればお教えいただきたいと思います。

■答え
〇「人間として正しいかどうか」を各人が問うべき

やはり、利益があっても、受けるべきではないものは受けるべきではないし、断るべきものは断り、諦めるべきものは諦めて、きちんと筋を通さなければいけないのではないかと思います。

ただ、この手のものは、日本の他のマスコミ等においてもあるでしょう。

おそらく、政府筋から懐柔されているテレビ局や雑誌社、月間雑誌などはそうとうあるはずですし、政府筋であれば、警察や検察、国税を使うことができます。

国税や検察、警察に仕掛けられると、だいたいみなお手上げです。大手新聞であっても、入られたら必ず何かをつかまれます。調べようと思えばいくらでも出てくるので、数億円程度の追徴をかけられるわけです。朝日新聞も、以前、数億円の追徴課税を課せられたことがありましたが、おそらく、そのあたりの”なあなあなところ”で線を引いてやっているのでしょう。

いずれにせよ、「筋を通す」ということは、自分の今の立場がどういう影響力を持っているかは別として、基本的に、「それが正しいのか、正しくないのか」ということを考えることです。そして、「正しい」と思えば前に進めてもよいのですが、「間違っている」と思ったら、潔くきっぱりと退くことも大事だと思います。

そうした人間の生き方は、オーラのように立ちのぼってくるものなので、そのような考え方を持っていたら、悪い心を持って近づいてくる人たちも避(よ)けていくような所があります。

幸福の科学のメディアはというと、今のところ、それほど大したことはない状態かと思いますし、「ザ・リバティ」の編集長がどこからお金を頂いて、ねじ曲げた報道をしたということは、おそらくはないでしょう。

それはなぜかというと、やはり、「宗教的な信条」というものが一本あるからです。「このようなことをしたら地獄に落ちてしまう」と本人は思うので、それは受けられないでしょう。

これは、特定の宗教の信者でなくても構わないし、宗教信条を離れていてもよいのですが、少なくとも、「人間として正しいと思うかどうか」ということは、各人が問うべきことだと思います。どのような職業に就いていても、そこは、問われるべきものがあるのではないでしょうか。(次回に続く)

【大川隆法 『現代の武士道』第3章「現代の武士道」質疑応答 より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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3未来へ投資するライフスタイル【正命】
〇「根を張り、幹を太くする」という生き方を見いだす

例えば、私自身はどうしているかと考えてみると、最近読んでいる書物のなかには、現在は今すぐに役に立たないものもありますが、あと何年かたったら生きてくるはずです。それで、今、数年後のためのストックをつくっているわけです。このように、いつでもかなり先の蓄積を順番にしています。

ところが、本書では、反省の方法などを説いています。ですから、今、読んでいるものとは必ずしも関係がないところもあります。頭の中に入っているものは、これに限ったことではなく、まだほかにもいろいろとやっています。将来、三年後に役に立つもの、五年後に役に立つものというように、十年後、二十年後、三十年後のことを考えてやっています。いろいろなことをして、そうとう根が張っているのです。しかし、根を張っているから、逆に波風に強いという考え方もあるでしょう。これは『不動心』のなかでも説いておきました。

この正命のなかでは、やはり、「根を張る」という考え方が大事です。正業、職業的な考え方だと、「とにかく今、与えられているところで最善を尽くす」という考え方もあるでしょうが、正命のなかには、「人生の幹を太くし、また、根を張る」という作業が入っています。これが、おそらく、人生に余裕を与え、そして、幅広い目でいろいろな人の考えを知る、理解するということの材料になっていくでしょう。

ですから、正命のなかには、「余裕」という観点も、できたら入れておいてほしいと思います。現在の自分という立場を離れても、人間としての底力が出てくるように、教養を身につけ、体力をつけ、そして、いろいろなかたちで人々の役に立っていけるような投資戦略を、ぜひともやってもらいたいのです。これが現代的な生き方だと思います。

この点において配慮を怠った人は、やがて、「アリとキリギリス」の話のようになっていくでしょう。これについては、みなさんご存じのはずです。

夏の間、アリはせっせと働き、餌を蓄えていたが、キリギリスは食糧が豊富だったので、歌を歌って過ごしていた。ところが、冬になったら餌が亡くなったため、アリに「餌を分けてくれ」と言ったけれども、「夏の間、あなたは何をしていたのですか」と言われる。こういう話がありますが、このようになっていくということです。

「しっかりと根を張り、幹を太くする」という生き方を見いだしてください。この正命というのは、そのための「積極的反省」にあたります。こうした「積極的反省」を、ぜひしてほしいのです。

以上は現代風の「正命」の解説である。伝統的仏教には、身・口・意、の調和のとれた生活を意味し、身体が罪を犯さなかったか、口から出た言葉が適切だったか、一日を通して意(おも)いによこしまなものがなかったか。トータルバランスを反省することを意味する。酒・タバコ・賭博・麻薬・不適切な性行動などを振り返ることが大事であった(『太陽の法』第2章第10節「真説・八正道」p115参照)。

【大川隆法『真説・八正道』第6章「正命」220pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第四章 政治と経済 
○適正なる発展

ここで、私は、足ることを知るという考え方を、
もう一度、説いてみたいと思う。
政治においても、経済においても、この足ることを知るという考え方が、
十分に生かされていないような気がする。
すべてのものが、数字の拡大にあけくれているように思える。
足ることを知るという考えが、どれほど大事であるかということを、
知らなくてはならない。
それは、ともすれば進化のみを追い求める男性的な社会において、
調和の原理を取り入れることにもなるであろう。
足ることを知るということによって、
人びとは両極端の思いから去ることができる。
また、上と下というこの上下の両極端からも去ることができる。
左右の両極端、上下の両極端を去り、
そして、中道に入るという道のなかに、
足ることを知る生き方があるであろう。
さすれば、政治においても、この足ることを知るということを、
十分に知らなければならない。
権力欲をいつまで満たしたところで、そんなものでは何にもならない。
足ることを知り、そして自分を生かす道を考えてゆくべきだ。
また、経済においても同じことが言えるだろう。
会社が発展すれば、それは嬉しいかもしれないが、
どれほど繁栄し発展しても、
限りというものはないであろう。
決して、数や量の拡大が正しいことではないのだ。
そのなかに住み、そのなかに生きる人たちが喜びを得てこその、
繁栄であり発展であるということを、ゆめゆめ忘れてはならない。
足ることを知るということは、
決してブレーキをかけよということではない。
それは、適正なる発展ということなのだ。
適正なる発展ということを考えないと、
すべてのものは失敗に終わってしまう。
樹木であっても、適正な発展があってよいのだ。
草や花であっても適正な発展というものがあってよい。
もし、ひまわりの花が十メートルの高さになったとしたならば、
ひまわりは苦しかろう。
いかに土中から水を吸い上げるかということが、
彼の急務となり、焦りとなり、苦しみとなるであろう。
ひまわりは、やはり二メートルの高さでよいのだ。
また、違った考えもあるであろう。
柿なら柿という木に、数多くの実がなれば嬉しいであろう。
しかし、この実がなりすぎたらどうなるかということを考えたらよい。
なりすぎることによって枝は曲がり、また、その実の味は落ちる。
味が落ち、そして、
その木にとって無駄な仕事をしたことになってしまう。
数多くの実をつけることによって、人びとに喜ばれるとは限らない。
味が落ちれば、人はそれを喜ばなくなるのだ。
やはり、適正な数で、
素晴らしい味の実をつけることがよいことであって、
ある時は豊作となり、ある時は凶作となって、
左右に揺れ、上下に揺れることをもって正しいとは言わない。
いつも人びとの期待にこたえて、適正の量、適正の味で、
柿の実をならせることが、正しいことであるのだ。
そのような考えを忘れてはならない。
すべて、物事の成功には、適正ということが大事である。
なにごとも、やりすぎてはならない。
やらなすぎてもいけない。
中道という道は、決して一時的なことではなく、
無限の成功を作ってゆくための道であるということなのだ。
今、自らの成功をつくってゆくための道であるということなのだ。
今、自らの仕事というものをふり返って、
どこか適正を欠いているところがないかどうかを、常づねに点検せよ。
適正を欠いていないかどうかを点検するということが、
中道に入るということなのだ。
この中道に入るための方法の一つとして、
足ることを知るという視点もまたあるのだ。
そのことを忘れてはならない。
人は、さもすれば外見を繕(つくろ)い、表面を繕う。
表面上の成功を追い求め、浮利(ふり)を追い求める。
浮ついた利益や、浮ついた栄華、浮ついた虚飾、
このようなものでもって、
魂は真に富むことはないということを忘れてはならない。

【大川隆法『仏陀再誕』第四章「政治と経済」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第一章 霊的人生観
2 霊性への目覚め

さて、そうした「人生の転機」に際して、「霊性」ということが問題になってきます。

たいていの人は、人生の転機に際して、占い、易であるとか、前世の縁であるとか、運命であるとか、こうしたものに惹かれていくのですが、それを深いところまで考えないで、そのとき、そのときの成り行きの判断に委ねることがよくあります。そして、「喉元過ぎれは熱さを忘れる」という「ことわざ」どおり、忘れていくことがあるのです。

ただ、あの世の世界から見てみると、守護霊たちは、そうしたときに、いろいろと苦心し、努力をしているのです。その努力に対して、本人たちが、「感謝をする」ということなく、また安易な日々を流れていくことについて、守護霊たちが非常に残念そうに思うことも限りなくあります。

人生というものは、決して自分だけが選び取っているものではなくて、その背後には数多くの「目に見えぬ力」が働いているのです。

たいていの人には守護霊というものがついていて、その人を善導するために、日夜、努力しています。

そして、守護霊の手に余るような、大きな問題に関しては、指導霊というものがついていて、この指導霊が、日夜、常に何らかのアドバイスを与えんとしています。この世的に優れた職業を持っているような方には必ず指導霊がついていて、アドバイスをしています。

ただ、たいていの人間は、感謝を忘れ、忘恩そのものの生き方をしています。そうしたことを考えずに、「自分は運がよかった」とか「運が悪かった」とか言ってみたり、「すべて自分の力のせいだ。自分に能力があったからだ」と考えたりします。

そのように、人生の転機に際して、一つのきっかけはあっても、霊性への目覚めが遅い方は数多くいます。

こういう方々の特徴は、結局、「自我が強い」ということであろうかと思います。自分自身を「偉し」と思ったり、自分自身がかわいくてかわいくて、「自分が、自分が」という思いが強かったりするのです。こういう自我の思いが強いわけです。

本当は、目に見えぬ霊的な世界から、目に見えぬ糸が張り巡らされ、さまざまに引っ張ってもらっているにもかかわらず、それを感じず、自分がすべてをやったように思ってしまう。あるいは、失敗をした場合には、自分以外のもの、他人のせいで、そういう失敗に陥ったと考える。このように考えがちであるわけです。

こうしたことは、結局、「自分本位の生き方である」と言えるのではないでしょうか。

「本当に神仏の前に謙虚になる。高級霊の前に謙虚になる」という気持があったならば、やはり、「大いなる霊性への目覚め」というものを体験せざるをえなくなってきます。

霊性の目覚めにも二通りあります。

第一の場合は何かと言えば、挫折を契機として、神仏を求めるきっかけを得る場合です。「何とか立ち直りたい。立ち直るきっかけが欲しい」ということで、神、仏にすがる。あるいは宗教に入る。こういう考え方が一つあります。

これも大事な考え方の一つです。世のマスコミ等は、「宗教は、いかに害悪を流しているか。いかに間違ったものであるか」ということを言っていますけれども、宗教は、やはり、そうした人間の避難場所であることも事実です。

社会生活のなかで、会社のなかで傷ついた人々、彼らはいったいどこへ行けばよいのでしょうか。結婚に挫折した人々、彼らはいったいどこへ行けばよいのでしょうか。子供の問題で失敗した母親は、どこへ行けばよいのでしょうか。失業した人たちは、どこへ行けばよいのでしょうか。病気で苦しんでいる人たちは、どこへ行けばよいのでしょうか。人生苦に悩んでいる人たちは、どこへ行けばよいのでしょうか。

彼らには行く場がないのです。そうした人たちにとって、やはり宗教の門が一つの大きな導きとなることがあります。

そうした意味において、世の一般的なる常識、あるいは評価というもの度外視して、こうした病院の役割、大きな意味での受け入れ先の役割をしているのが宗教であることも事実です。宗教はそういう役割を果たしているのです。

また、これとは逆の場合があります。

成功に成功を重ねていく人、ツキまくっている、あるいは運がついている人で、どんどん、思った通りにピシピシと当たっていき、道が開けていく人がいます。こういう人の場合にもまた、神のご加護を受けていることが非常に多くあります。

彼らは彼らで、信仰心を持って生きていることは非常によくあります。

有名な経営者が、夜になると精神統一をし、正座をしてインスピレーションを受け、重要な経営判断を行ことは、よくあるわけです。

また、優れた人であればあるほど、「霊的な直観」というものを重視していることも事実です。いわゆる「勘」であるとか、「ひらめき」であるとか、こういうものです。成功体験の数多くのある人たちは、どこかで、そうした助けを経験しています。何らかの勘や、直感、ひらめきによって、大いなる事業の成功を得たことが数多くあるのです。

「ひらめきによって新発見をし、それが軌道に乗った」という方もいれば、直観によって危機を回避しえた方もいます。

昨年(一九八七年)の秋であったでしょうか。株が大暴落したときがありましたが、その前に、いち早くそれを霊的に直感して、株を売り払った方もいます。そうした、方は、やはり、「何らかの導き」というものを感じ取っていたのではないかと思います。

ですから、挫折のときにも、成功のときにも、「霊性の目覚め」というきっかけがあるのではないでしょうか。それが、やはり、今生の意味ではないでしょうか。

今生において、一つの霊的な修行をさせられているのは、「この目には、この耳には、この手には、しかとは感じられない世界において、霊的なるものをつかむ」ということを非常な意義を感ずるからであり、「教えられない世界を自分自身で感じ取る」ということに大いなる敬意が払われるからではないでしょうか。

ですから、「この地上での生活のなかにおいて、霊性への目覚めを体験することが、一つの大いなる進歩ではないのか。また、今生における、自分の人生の意味の発見ではないのか」と私は思うのです。

【大川隆法 『漏尽通力』第一章「霊的人生観」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き

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