(3/27-2)86『仏陀再誕』を読む―信仰と仏国土建設への道―心から世界へ―祈りの本質

『仏陀再誕』を読む

95 現代の妖怪の三大聖地は、鳥取県、徳島県、岩手県だが、奈良や京都とは違った土着信仰の影響も大きかろう。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

6 地獄には、犯罪者の権化のような、罰せられている鬼と、仏宝護持をしている鬼とがいるのだ。後者は仏の御使いである。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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〇大乗仏教の中心は六波羅蜜多―①布施波羅蜜多

釈迦の教えの四番目の柱は、利自即利他の教えです。これは、いわゆる六つの完成といわれる六波羅蜜多(サス・パーラミター)の思想です。波羅蜜(パーラミター)とは、内在する叡智という意味であり、多とは、その叡智があふれ出てくるさまをいいます。

一 布施波羅蜜多(ふせはらみた・ダーナ・パーラミター)
これは、施(ほどこ)しの完成ともいい、慈悲のこの世的なる現われです。物質的に、あるいは、精神的に人々に施しを与え、救ってゆこうとする姿勢であり、キリスト教の愛の思想に通じるものだと言えます。

【大川隆法『黄金の法』より抜粋】
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○布施波羅蜜多
六波羅蜜多の最初には「布施波羅蜜多」があります。これは、別名「施しの完成」とも呼ばれています。
釈迦の思想では、「施し」が非常に重要視されています。「施し」という言葉は、いかにも仏教的な響きを有していますが、その根本は愛の思想であると言ってよいでしょう。キリスト教における愛の思想が、仏教では、布施の考え方、「施す」という考え方のなかに流れているのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第三章「六波羅蜜多の思想」から抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』

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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第七章 信仰と仏国土建設への道 
○心から世界へ

すべてのユートピアの根本は、
各人が自らの家庭を調和してゆくところにある。
これなくしてのユートピアはない。
これを言っておく。
これがユートピアの、実に九割を占めることなのだ。
この地上を仏国土にせんとするならば、
家庭ユートピアの建設こそ、その九割を占めることなのだ。
この九割をおさえて後、はじめて全体のユートピアというものはある。
それは、わずか残り一割の仕事であると言ってもよい。
残りの一割、そのなかにおいて、
いかに社会全体が、いかに国全体が、
調和に満ちた姿を、そして繁栄に満ちた姿を演じてゆくか、
それが次なる課題となるのだ。
しかし、各人が家庭において、まずユートピアを創ったならば、
どうしてその社会がうまくいかないことがあるであろうか。
それぞれの者が調和に満ちた光を出し、
はじめて全世界はよくなってゆくのだ。
各家庭に何ひとつの不平も不満もなくなった時に、
さて、国家にどれほどの難しい問題があるであろうか。
おそらく、それは単なる疑心暗鬼にしかすぎまい。
単なる取り越し苦労にしかすぎまい。
そう、国家は、最後にはその仕事がなくなってもよいのだ。
ユートピア家庭の集まりがあれば、それがすべてとなる。
そのような世界こそ、理想とすべき世界である。
他の人の力をもって、他の人の介在をもって、
ユートピアができるという考えは、
極力、排除してゆかねばならない。
あくまでも、小さな出発点、各人の、自らの心から出発して、
全世界をユートピアにしてゆくという道を考えてゆかねばならない。
それが、いつの時代も、不変の、不滅の、久遠の法であるのだ。
永遠の法であるのだ。
このことを、深く深く心に刻み、忘れることなきを、肝に銘(めい)じなさい。
(完)

○あとがき(旧版)

本書は、
私が今まで書き下ろしてきた本のなかでは、きわめて特異な体裁をとっています。

まず、本書のスタイルとして、諸々の比丘、比丘尼たち、すなわち修行者であるところの僧侶、尼、現代的に言うならば男性および女性の修行者に対するメッセージとなっております。

そのなかには、きわめて厳しい内容が含まれていると思いますが、私がみなさまにお教えしているところの仏法真理の道とは、実にこのように厳しいものであります。生半可な気持ちでもっては、この仏法真理の山はとても登頂できないのです。

ですから、本書は読み方によって二通りの読み方ができるでしょう。一つは、すでに仏法真理の道に入った者に対しては、これほど厳しい生き方があるのだということへの警告ですし、いま一つは、いまだ仏法真理の門に立ちかねているものに対して、これからの道程(みちのり)がどれほどあるかということを示すための手ごろな教科書と、入門書となることでしょう。

いずれにしても、本書を読んでいただければ、「釈迦の本心ここにあり」ということがおわかりのはずです。

どうか、繰り返し繰り返し、この言魂を味わっていただきたいと思います。

一九八九年七月 
幸福の科学 主宰 大川隆法

○新版へのあとがき

弟子たちよ、強くありなさい。

この世的誘惑や邪見に打ち克って、私のもとに集ってきなさい。

仏陀の直説(じきせつ)・金口(こんく)の説法を聞くためには、不退転の覚悟が必要です。優曇華(うどんげ)の花は、三千年に一度しか咲きません。そして同時代には、仏陀は一人しか生まれない約束になっています。

「いざ、再誕の仏陀のもとへ!」―これが、光の菩薩たちの合言葉です。

一九九四年十月
幸福の科学主宰 大川隆法 

【大川隆法『仏陀再誕』より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第六章 心の平静と祈り
4 祈りの本質

ここでは、祈りの本質について、話をしておきたいと思います。

祈りは、いろいろな宗教のなかにずいぶんあります。もちろん、祈りをやらない宗教もありますし、仏教のなかでは、基本的には、祈りということはあまり言いません。もちろん、祈願というものはありますが、祈りはあまり言わないかもしれません。

この祈りの本質とはいったい何なのでしょうか。何をもって「祈り」というのでしょうか。また、祈りはいったいどのような経緯から生まれてきたのでしょうか。そうしたことを考えてみたいと思います。

先ほどの長距離ランナーの話でいくならば、まず、祈りとはなにかというと、スタートする前に、「どうか四十二キロを完走させてください」ということが祈りでしょう。「最後まで走れますように、走り抜けられますように」ということでしょう。実際にスタートラインからスタートしたときには、「このあと、どうか、自分が人後に落ちず、納得のいくようなかたちで走れますように」ということでしょう。

また、途中の十キロ、二十キロで苦しくなったときには、「どうか、この苦しさを取り除いてください。へたばらず、へこたれず、スタミナを落とさずに最後まで走り抜けられますように」という祈りもありましょう。

あるいは、後半の三十キロ、四十キロになったら、「ラストスパートができますように、最後の仕上げができますように」という祈りもあるでしょう。

あるいは、ゴール目前となれば、「見事にゴールインできますように」という祈りもあるでしょうし、ゴールインすれば、今度は、「どうも長い間ありがとうございました」という祈りもありましょう。

そのように、祈りも、その人の置かれた時点時点で、また内容は変わってくるものと思われます。

ともあれ、祈りの本質はどこにあるかというと、結局は、「自分以外のものに対する帰依」、あるいは、「自分を超えるものに対する帰依」ということではないでしょうか。これが祈りの本質にあると思います。

なぜ、「自分を超えるものに帰依する」、すなわち、「お任せする」という気持になるのでしょうか。それは、「人生は一寸先が闇」とも言われるように、人間は先のことが分からないけれども、「自分もまた、根本仏の創られた大宇宙の一員であり、大生命の一端である」という自覚があるからではないかと思います。

「大生命の一端であるからこそ、自分の内には大宇宙の根本仏に通じるものがある。その自分の内なるものを求めていったときに、大いなる神仏に通じるものがあるのである」ということです。そうした神仏に通じるものを呼び出さんとする姿が、祈りではないかと私は思います。

祈りとは、増上慢になることであったり、うぬぼれることであったり、自己本位のまま、自我我欲のままに欲求を出すということでは決してないと思います。

それは、「本来、自分の内にあり、また、神仏の属性でもあるところのものを呼び出すための儀式」と言ってよいかもしれません。「無限の力、無限のエネルギーを呼び出すための儀式」と言ってもよいのではないでしょうか。

こうしてみると、祈りの際に、特に注意しなければならないことがあると思います。それは、自分以外のところに、本当は力を求めているのではないということです。祈りは、本当は、自分のなかにあって自分を超えたものに通じんとすることです。自分の内なものを発見していって、自分を超えたものへ辿(たど)り着かんとすることが祈りなのです。

これは、もちろん、心霊学的に見れば「高級霊」と言ってもよいし、「神」と言っても「仏」と言ってもよい人たちへの通信ということにもなりましょう。ただ、それは、自分とまったく別個の存在ではなく、本当は魂のなかにおいて、つながりがある人たちなのです。

そして、このときに大事な技法、手段、方法があります。それは何かというと、心を空しくしなくてはいけないということです。

あの世の実相世界に通じるパイプというものは、ともすれば詰まりやすいのです。なぜ詰まるかというと、この世の人間には「欲」があるからです。支配欲、独占欲、権勢欲、金銭欲、性欲といった「欲」です。地上の人間の欲のままに生きていると、このパイプが詰まっていきます。

このパイプを常に詰まらないようにするためには、淡々として、「無執着の生き方」をしていくことです。何があっても、何もないかのごとく生きていくことが大事なことであろうと思います。

したがって、祈りとは、自己のなかにあるものが超越的意識に通じているということを認識し、その超越的意識に通じるパイプを常に詰まらさぬように掃除をしておくことになります。この部分が大事であって、掛け声だけの祈りや、自我我欲を増長させるための祈りというのは、まったく魔界に通じていく祈りとなるので、そのあたりは、常々考えておかねばなりません。

祈りにおいて大事なことは、そうした全託に近い、無執着の思いであろうと思います。祈り本質が自己実現にあるとしても、その自己実現が単なる自分の利益の身を生み出すような自己実現であるならば、この祈りは違った方向へと曲がっていくことがあります。それは、あるときには、仙人界、天狗界の念の性質のほうに入っていくこともあれば、あるときには、地獄界に通じることもあります。この「祈りの効果、方向性」という部分の研究が大事です。

すなわち、「常によきことを祈る。自分のみならず、人々にとって、世界にとって、社会にとってよきことを祈る祈りを出すときの自分の心は穢(けが)れていないかどうかを点検する。明るい心で祈っていく」ということです。

それは、ある意味において、「神仏との対話」とも言えましょう。「神仏との対話することが祈り」とも言えましよう。そういうことではないかと思います。祈りには、まず、「謙虚さ」、そして、「無執着」ということを特に重視していただきたいと思います。

この全託の精神というものは、別の観点から言えば、非常に投げやりに近いように見えるかもしれませんが、大事なことは、”棚からぼた餅が落ちる”ことを祈るのではなく、「常に自らを磨きつつ、その大いなる成果について神仏に委ねる」ということです。常に自らを磨いておくことが、祈りが答えられるための前提条件なのです。

何もせずに、「神よ。仏よ。われに答えたまえ。答えてくれるなら信じましょう。答えなければ信じません」といった祈りは本当の祈りではありません。

常に自らが神仏に近づいていくための努力をしながら、「神よ、仏よ、願わくば、この祈りを叶えたまえ」「適当な時期があるならば、そのときに祈りの答えを与えたまえ」「この祈りが、私の魂の向上にとって役に立たない祈りであるならば、どうか、神よ、仏よ、また、別の機会に我を指導したまえ、磨きたまえ」という考えです。こうした余裕が大事であると私は思います。

ですから、本当の祈りが通じるためには、日々、心を謙虚にし、無私にし、努力する姿勢が大事です。そういう姿勢があってこそ、初めて、「全託」ということも生きてきます。これがなく、まったく欲望のままに、まったくのお任せで祈るのが全託ではないのです。このような考え方が非常に大事であろうと思います。

この地上を去った高級霊界においては、さまざまな高級霊たちが活躍していますが、かれらは地上の人間以上の認識力を持っています。地上の人間が分かる以上のことが分かるのです。そういう彼らであるから、適当なときに、適当なもの、あるいは、適当な人を与えて下さるのは当然のことです。その適当な時期や方法、あるいは、相手というものを、地上の人間心で限ってはいけないのです。

例えば、結婚という自己実現があって、結婚のための祈りがあったとしましょう。このときには、純粋に、「自分は結婚したほうが、いろいろと世の中の役に立てる。人の役に立てる」という心でもって祈るならば、その祈りは正しい祈りだと言えましょう。

しかし、そのときに、例えば、自分が特定の相手を心に描いていて、「その相手と、どうしても結婚させてください」と言って祈りを続けるとどうなるでしょうか。たまたま、神縁や仏縁がある相手であるならば、その祈りは正しい祈りとして叶えられるでしょう。しかしそうでない祈りを念によって成就させようとするならば、相手を縛り、相手を自分の意のままに動かさんとする自己保存、自我我欲、エゴの祈りとなります。

したがって、こうした祈りをした人は、間違えば地獄界、また、少し外れれば仙人・天狗界へと通じていきます。

「自分の祈りや念によって他人を自由に支配したい」という思いは誤りです。そうであってはいけません。祈りのときには、必ず、「神仏の御心に適うならば、こうした祈りを叶えてください」というように、特定の相手を縛ったり、動かそうとしたりしないことです。それを人間心で判定してはいけません。

「もし、よろしければ、神仏の望まれる相手であるならば、あの人と結婚させてください。しかし、そうでないならば、御心のままにしてください。また、それ以外に私に合う人がいたなら、その人を私にお与えください。まだその時期が来ていなければ、その時期で結構です」

そうした謙虚な祈りが大事であって、「相手を、自分の思うままに、思う時期に、思うようにしよう」というような祈りは完全に間違いです。この点について、私は特に言っておきたいと思います。

【大川隆法 『漏尽通力』第6章「心の平静と祈り」より抜粋】
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ここで、反省の基礎を学ぶべく経典『信仰告白の時代』より第3章『反省の原点』を学びます。経典をお持ちでない方はこの機会にぜひご拝受ください。【税込み1800円】
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■『反省の原点』
2 十八界(じゅうはちかい)の思想
①六識(ろくしき)―六つの認識

さらに、この「感覚器官」とその「対象」の両方を見たときに、「認識」というものが表われてきます。

眼から「眼識(がんしき)」というものが出てきます。対象を眼で見て、それが何であるかという判断をするのが眼識です。耳で聞いて、よい音であるかどうかや、クラシック音楽であるかどうかなどの判断をするのが「耳識(にしき)」です。同様にして、鼻で「鼻識(びしき)」、舌で「舌識(ぜっしき)」、身体で「身識(しんしき)」、そして心のほうで「意識」が出てきます。このように六つの認識が出てきます。これを「六識(ろくしき)」といいます。

以上、「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六つの感覚器官(六根・ろっこん)が、「色・声・香・味・触・法」という六つの対象(六境・ろくきょう)を感じて、「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」という六つの認識(六識・ろくしき)を生じます。この十八個をあわせて「十八界」といいます。これが、みなさんが生きている世界のすべてなのです。

みなさんが生きている世界には、主観という、自分から見る、感じる、思う立場と、感じられる対象、相手側との二つがあって、この両者を、見たものと見られたもの、耳で聞いたものと聞かれたもの、鼻で嗅いだものと嗅がれたもの、触ったものと触れたものなど、こうしたものの関係で、どう判断するかという認識が生じます。そうした要素の種類が全部合わせて十八個ありますから、「十八界」というのです。

これは、仏教においては非常に大事な考え方として、古来から伝わっています。十八個もあると非常に複雑なように見えますけれども、これが、みなさんが生きている世界のすべてなのです。みなさんが人間として生きている以上、必ず、眼か、耳か、鼻か、舌か、体全体か、あるいは心や頭の働きか、そうした感覚器官を通して、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったりなどをしているのです。そして、それに対して、快・不快、好き・嫌いを感じます。この六か所に関して感じることが、人生のすべてなのです。

【大川隆法『信仰告白の時代』第3章『反省の原点』より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き

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