(3/18-2)77『仏陀再誕』を読む―信仰と仏国土建設への道―仏神とは―学習の大切さ

『仏陀再誕』を読む

84 黒竜は守護の大将、金竜は、仏宝護持のための財宝を護る使命がある。ただし地獄界にも悪魔が使用するものが一部あるので、注意が必要だ(中国)。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

20 食べられる側の草食獣や、小動物は、恐怖を味わい続ける。時々、「憲法九条」と刻印されたシマウマまで目撃される。(迷彩柄で身を護ろうとしているのだ。)

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神の御教えを振り返るために、二〇二一年十二月十四日にさいたまスーパーアリーナでのエル・カンターレ祭大講演会にて説かれました『地球を包む愛―天御祖神の教え』から学びます。
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『地球を包む愛―天御祖神の教えと真の世界正義』
3 「あの世を信じる心」はなぜ大切なのか
〇釈尊は「心と行いがその人の値打ちであり、来世の行き先を決める」と説いた

宗教的な国においても、転生輪廻を認めるなかで、「自分が現在、例えば、王様に生まれたとか、あるいは僧侶階級に生まれたとか、そういう富裕階級に生まれたのは、過去世で善行を積んだから、こんな恵まれた地位にあるのだ」というふうに説明しているところもあります。インド発の思想にはそういうものが数多くあると思います。

しかし、それは根強くありますけれども、今から二千五百年あまり前に、インドに釈尊が生まれたときに、釈尊は言ったはずです。

彼は武士階級の出身です。ですから、インドのカーストで言えば、いちばん上にはバラモン階級があって、これは僧侶階級です。神さまに近いから、これが一番偉い。それから、クシャトリアという王侯貴族階級があって、ヴァイシアという商人階級があって、それから、シュードラという奴隷階級があります。大きくは四つあって、そして、それから下にアウトカースト、カーストの外にある”穢れのある民”がいるということになっていたわけですが、転生輪廻を認めても、それが、「現在、そこであなたが生まれたというのは、過去世において罪を犯したから低く生まれ、過去世において徳を施したから、今、いいところに生まれているのだ」という現状肯定の思想に使われているところが多かったのです。

釈尊はこれに対して、
「人は生まれによってバラモンになるのではない。
人がバラモンなるのは行いによってである。
その行いによって、その人が何者であるかが分かるのである。
行いにおいてバラモンであるならば、その人はバラモンなのだ。
要するに、行いにおいて宗教者として生きているなら、
その人はバラモンである。
行いにおいて、たとえバラモンの生まれであっても、
刀剣を持って戦っているなら、それはクシャトリアであろうし、
商売に励んでいるならば、商人階級であろう。
行いが卑しければ、
それは、いわゆる奴隷階級であるということではないのか。
行いによってのみ、人は判断される」
と彼は説いています。

言葉を加えるとすれば、「行い」だけでは、実は十分ではありません。「ここにおいてどうであるか」も問われます。心のなかにおいて思っていることが行動としてストレートに現われて、心と行いが一致して、そして、その「人となり」が決まるのです。

インドも、いまだにカースト制度は残っています。宗教大国ではありますけれども、残念だというふうに思っています。

「この世で地異のある方々は、過去世にも徳があり、今世にも徳があった」と思っている方がいっぱいいるわけだけれども、この世で地位が高かったり、あるいは富裕であっても、死んだあと地獄に行っている人がいっぱいいるわけです。

例えば、国王だとか大臣だとか、あるいは高級官僚だとか、あるいは大会社の社長だとか、そういう方々はいっぱいいるけれども、みんながみんな天国へ行っているわけではないのです。地獄の底に堕ちている人がいるのです。

学者だってそうです。学者はあまり犯罪には手を染めない方が多いと信じたいと思いますけれども、最近、某「日本一学生が多い大学」で、ずいぶん税金をたらふく使った方も出てきたので、ちょっと学者系も怪しくなってきました。大学など「働かない人の集まりになっているのではないか」と、ちょっと心配になってはいます。あまり悪意では取りたくはありませんが。

やはり、この世で、名刺とか「傍から見た姿がどうであるか」によるのではなくて、その人の心と行いが、その人の人生そのものであり、その人の値打ちそのものであり、「今世どう生きたか」が「来世どこに行くか。あの世においてどこに行き、そして、次の世においてどういうふうに生まれるか」を決めるのだということを、釈尊は説いたのです。

【大川隆法『地球を包む愛―天御祖神の教えと真の世界正義』第一章より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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6正念の実践【正念】
〇霊的自己実現の具体例―希望通りの住まいを見つけた体験

あまり抽象的な話をしても分かりにくいかもしれないので、もう少し具体的に希望実現について述べていきます。

私は、宗教家としてさまざまな分野について読書をし、勉強しているので、あるていど、本を置く場所がないと困るのです。そのため、幸福の科学をはじめた頃から、家が非常に手狭に感じていました。

一九八八年の八月ごろだったでしょうか。ある霊人が「君はしっかり働いているから、必ず大きな家に移してあげる」と言ってくれました。

その翌月ごろには、だいたい希望していたような大きさの家が見つかりました。それは、庭付きのかなり大きな家で、仕事にも都合がよい場所にあっため、「これはいい」と小躍りしたのです。

ところが、話がある程度進んだ段階で、相手側から「困る」と言ってきたのです。なぜ困るかということについてははっきり言わないのですが、「調査した結果、どうやら、何だか恐ろしそうな団体の主宰者ではないか」ということが原因のようでした。それなら、やむをえません。こういうことで強引に押し込んで取り上げてもしかたがいないし、天上界のほうで家を探してくれても、地上の人の自由意志もあるので、「どうも、そういう団体は恐ろしそうだ」と思われたらそれまでです。ですから、私はあっさりと、「ああ、そうですか。また次が出るでしょう」と思い直したわけです。

そうすると、さらに翌月ごろになると、次の候補が一軒出てきました。今度は、以前紹介されたものよりも、場所的によいところが出てきたのです。

私は、夜に考えごとをしたり、瞑想をしたりするので、風景がよいところが好きなのですが、その家は大きな公園の近所だったのです。それで、内見に行ったときに、「これはいい」と思ったわけです。

そこは、二棟続きの家でした。おそらく、一棟丸ごとでは広すぎて借り手がないと思ったのでしょう。真ん中を仕切って二軒で貸すつもりでいたようなのです。裏には、木が生えている庭がありましたし、近くには大きな公園があったので、「これは実によい」と喜び勇んで話を進めていきました。

しかし、家主が大変で、某国立大学の応用物理か何かの教授で、いわゆる唯物論の最先端を行っている人だったのです。そして、面談とやらを受け、多少、話をしたのですが、向こうは理学博士で、霊など少しも信じていない人だったので、どうも、つれない反応で、色よくなかったのです。ですから、「ああ、やはり、これは駄目だな」と思っていたのです。

しかし、翌月の半ばごろになると、さらに次の候補が出てきたのです。

私は、その二、三日前にダイヤモンドがたくさんついている三角形の家の夢を見たのですが、その後、また話がきたわけです。

それは、ガラス張りに近いような家で、今までのなかでは一番良かったのです。大きいし、庭もあるし、公園も近いし、そして、何よりも家賃が安かったので、驚きました。おそらく、今まで見たところの半額ぐらいの家賃だったのです。

そして、家のなかには蔵書が一万五千冊程度置けるぐらいの作り付けの本棚をだいぶ作ましたが(約三十年前当時※1990年頃)、これもだいたい私の希望どおりになりました。

この期間が約二か月です。九月から探し始めて十一月に決まったので、二ヵ月ほどズレました。

その家を契約した後、一ヵ月ほどたってから、先ほどの某国立大学の教授が「借りてくれ!」と言ってきたのです。「いろいろと調査した結果、実に本がよく売れているようなので、それなら貸してみたくなった」というのですが、「よく言うなあ、もう遅いよ」と思いました。向こうは商売気を出して「家賃をグッと安くするから、借りてくれ」と言ってきたわけですが、後の祭りです。

実際に借りたところのほうが値段も安いし、広いし、大きかったのです。二棟続きの家を借りたら、片方を書庫にしようと考えていのですが、それでは不便だったと思いますし、あとから見つけた家の方がもっと便利になりました。まことに不思議ですが、こういうこともあるのです。

某大学の教授は、「しまった、しまった。失礼した」などと言っていたのですが、私はそのようになると思っていました。

私が教授と会ったときに、「この人は『毎日新聞』をとっている」と霊感でわかったのです。そして、十二月には「毎日新聞」に私の本の「百人十万部突破!」という広告が五段抜きで四本出たので、「それを見たら、『貸す』と言うだろうな」と思っていました。

これは、十一月に出すはずだった広告が一ヵ月ほど遅れたのです。この広告が十一月に出ていたら本当は、私はその家を借りられたのです。しかし、返球部の手落ちで一ヵ月も遅れたので借りられなかたわけです。こういうこともあります。

結果的には、その次にもっとよいところに移れたので、それは借りなくてよかったということです。

現在は、教団施設として『大悟館』その他の教祖殿が建設されている。

【大川隆法『真説・八正道』第8章「正念」271pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第七章 信仰と仏国土建設への道 

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
さて、いよいよ信仰について語るとしよう。

○仏神とは
あなたがたの多くは、信仰心を持っているであろう。
しかし、その信仰心がいったい何であるか、
十分につかみきっているだろうか。
もちろん、信仰には仏神へと向かう大きな念(おも)いが入っている。
これなくしての信仰ということはないであろう。
しかし、あなたがたは、
信仰する対象としての仏神とは、
いったい何であるかが、わかるだろうか。
これが世界各地の宗教において、さまざまに岐(わか)れており、
さまざまな名で神を名乗っているために、
さて、何を信じたらよいものやら、
わからなくなっているのが現状であると思う。

しかし、諸々の比丘、比丘尼たちよ。
それはやむを得ない面もあると思うのだ。
なぜならば、
大宇宙の大霊ともいうべき仏は、遥かに大きく偉大なものなのだ。
そして、人間の理解を超えているのだ。
あなたがたの理想できる仏神は、
あくまでも、あなたがたの肉体、
あなたがたの霊知識、
あなたがたの知覚を通して感じ取るところの霊でしかないのだ。
しかしながら、
あなたがたの認識を遥かに超えた世界があるということは
わかるであろう。
そのように、あなたがたの認識を超えた力があるということだ。
その力とは、叡智を含んでいる。
その力は、光を含んでいる。
その力は、愛を含んでいる。
その力は、慈悲に満ちている。
その力は、建設的な念いで満ちている。
その力は、美しい調和に満ちている。
すべての善きものと思われるものを総合した力、
それを仏の力というのだ。

あなたがたは、また、
仏と神の違いがわからずにいることも多いであろう。
あえて、その違いを説く必要もないという考えもあるであろう。
仏教的には仏といい、
またそれ以外の宗教、キリスト教や、あるいは日本神道などで、
神という概念があるように思われているかもしれない。
ただ、これだけは言っておかねばならん。
仏とか神とか称されているもののなかには、
いわゆる高級霊としての仏神、
人格神としての仏神が存在するということは事実だ。
仏と呼んでも、神と呼んでも、高級霊を称していることも事実だ。
しかしながら、高級霊を超えるものがあることも事実なのだ。
高級霊というものは、
少なくともかつて地上で肉体を持ったことのある方、
そういう方だと言える。
しかし、この天地を創り、大宇宙を創った仏が、
小さな人間の肉体に宿って、
魂修行をするということはないと思ってよいだろう。
その意味において、人間の人格というものを遥かに超えた、
大きな意識があるということは、真実なのだ。

こうした言い方は、ある意味で、
あなたがたの、信ずるという力を弱めるかもしれない。
しかし、よくよく聞いてほしい。
真実を知るということは、それは力に満ちてゆく行為なのだ。
真実を知ることによって、確信はいっそう強まり、
さらに大いなる帰依の精神というものが出てくるのだ。

【大川隆法『仏陀再誕』第七章「信仰と仏国土建設への道」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第五章 仏法真理と学習
1 学習の大切さ

私たちは、今、「幸福の科学」というところで、「仏法真理の探求、学習」ということを非常に大切なものとして考えています。そして、私自身の考えとしても、「仏法真理の探求あってこその学習であり、学習あってこその伝道である。『探求・学習・伝道』というこの順序を間違えたときに、仏法真理の普及は道を誤るのである」という話をしています。「探求・学習・伝道」の三段階的な考え方、これが非常に大事である」と言っているのです。

ただ、探求するという姿勢は、個人個人の立場から探求するということも可能ですが、主として宗教的指導者の仕事であろうかと思います。あとは、その探求結果をどのように学習していくか、ここに重点があるわけです。この意味において、「学習の大切さ」ということが強調されるわけです。

では、なぜ、仏法真理の学習が大切なのでしょうか。私はこの点について、さらに詳しく話をしていきたいと思います。

仏法真理の学習が大切であるというのは、実は「深い判断の基準」となるからです。人間は生れ落ちてから成人するまでの間に、自分が学校で学んだこと、あるいは、友人から学んだこと、両親から学んだこと、こうしたものでもって、「認識と判断の基礎部分、基底部分」がほとんどできているのであって、これ以外からの吸収ということは、非常に少ないのです。また、彼らの常識、知識というものも、極めてこの世的なるものであることが多いと思います。

こうしてみると、一段と高い見地に立った仏法真理というものを彼らが知っている可能性は非常に少ないわけです。幸いにして、両親が深い宗教的環境に育っていたり、現にそういう職業に就いていたり、そういう趣味を持っていたりすることもあるでしょうが、たいていの場合はそうではありません。

この意味において、「仏法真理」というものは新たに学習しなければ、その本質を知ることができない。つかむことができない」ということが言えると思います。

では、なぜ、仏法真理そのものに、そうした学習対象としての値打ちがあるのでしょうか。これについて話をしてみましょう。

それは、仏法真理は、三つの真理を人間に与えるからだと言えます。神仏の理が、真の理を三つ教えてくれるからです。

その真の理とはいったい何であるかというと、第一が、「人間とは何か」ということへの答えです。「人間とは何か。人間とは何者であるのか」、これは永遠のテーマ、課題です。そして、多くの文学や芸術、哲学、思想というものは、「人間とは何か」というテーマを追求してきたのです。また、そうした文学部系統、あるいは、文科系統の学問のみならず、医学にしても、生物学にしても、科学にしても、やはり、「人間とは何か」というものを探求している学問と言えるかもしれません。

この「人間とは何か。いったい何者なのか」という根源的な問いは、古来止むことなく、また、古来、解決されたこともありませんでした。「こうした根源の問いに答える」といういみでの仏法真理が必要なわけです。

「人間とは何かを知る」ということは、ある意味においては、「人生とは何かを解読する」ということです。「偶然にただ生きているのか。人間とは、本当に投げ出された存在であって、ただ偶然に、漫然として生きているのかどうか」ということを、今、問われているわけです。その「人間とは何かを知る」ということが、結局、人生の謎を解く鍵となってきます。人間の本質を知るときに、人生が見えてきます。人間を離れての人生はないということです。

このように、「人間とは何か」という問いに対して総合的に答えてくれるもの、それが仏法真理です。

第二に、仏法真理そのものの値打ち、学習の対象としての存在意義は、結局のところ、「方向性を与える」ということです。北極星があるから、「北がどちらにあるか」ということが人間には分かります。北極星があるから、衆星相集いて北を指して並んでいるのであって、北極星がなければ北がなかなかわかりません。

このように、「どの方向に向かっていくのが真の人間にとっての発展であり、繁栄であるのか、向上であるのか」を教えてもらわなければ、永遠に分からないわけです。

「真に人間にとっての向上とは何なのか」を知ったとき、向上と思っていたものが、実は堕落であったということはあるわけです。

例えば、ある女性闘士が「女性の地位の向上だ」と思って闘っていることが、実は人間性の堕落につながるというようなこともないわけではありません。それがもし、本来の人間性の理解に誤りがあって、人間性に反するような行動を取っているなら、そうしたこともあるということです。

このように、仏法真理というものは、「人間の向かうべき方向性、あるいは目標を教えてくれる」という大切な指標を意味しています。これがなければ、人々は「人生」という名の旅を歩んでいくことができないのです。そうではないでしょうか。あてどもなく放浪するということも可能かもしれないし、芸術的な人にとってはそういう旅もあるでしょうが、たいていの人間にとっては、あてどない旅というものは許しがたいものです。

やはり、旅には「目的地」が要ります。旅の目的が必要です。そして、いつごろ旅に出て、いつごろ帰ってくるのかという、この旅行日程が要るものです。それが旅です。「旅をする以上は目的地が要る。目的の方向が要る」ということです。この方向性を与えるものとしての仏法真理が、非常に大事なわけです。

仏法真理の三番目の本質、「なぜ仏法真理の学習が大切か」という三番目の答えは、結局のところ、「幸福の増進」ということになるでしょう。お互いがそれぞれ「自分によかれ」と思って人間は生きているわけですが、「自分によかれ」と思って生きていることが、結局のところ、お互いを傷つけ合ったり、歪め合ったり、苦しめ合ったりすることはよくあるわけです。

こうしてみると、人間は、「いったい、どういう生き方をすれば幸福となっていくのか」、あるいは、「どのような行動様式をとれば、”幸福の空間”が広がっていくのか」ということを問われているわけです。どのように生きていけば、その場が”幸福空間”となっていくのかということです。

Aという人と、Bという人と、Cという人とがいるとします。彼らは個人個人で幸福に生きようとして努力しているのですが、具体的には、この三人がそれぞれ幸福を求めると、お互いに傷つけ合うことになってしまうことがあります。「では、この三人はどのように生きれば、全体が幸福となっていくのか」といった「協調の方法」を教えるのも、また仏法真理の役割です。

二番目に、「向上の方法、方向性というものを教えるのが仏法真理だ」と言いましたが、三番目は「横の広がり」では。そうした広がり、空間をつくっていくのも、また仏法真理のあり方です。「どのようにして個人の幸福のみならず、全体の幸福をも増進させていくのか」という問い、課題に答えていかなければなりません。なぜならば、幸福とは、すべての人間が求めているものでもあるからです。

結局、仏法真理の学習の大切さは、その根拠を三点に持つわけです。第一は、「人間とは何か」という問いに答えるためです。第二は、「向かうべき方向」を教えるためです。第三は、「幸福の根拠」を示すため、あるいは、「幸福な生き方」を教えるためです。主として、こうしたことでしょう。このように、「人間」「向上」「幸福」という三つの言葉が仏法真理学習のためのキーワードとなるわけです。

【大川隆法 『漏尽通力』第5章「仏法真理と学習」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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エル・カンターレ・大好き

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