(5/14-2)48『仏陀再誕』を読む―叡智の言葉―教養の道

『仏陀再誕』を読む

〇「職業」と「真理」の問題を前面に打ち出す時期が来ている
私たちも、「幸福の原理」のなかの一つとして、「発展」という概念を明らかに打ち出しています。これを行けておかなければ、今後の社会の要請に応えることができないのです。
釈迦仏教のなかには、この「発展の概念」は、どちらかといえば欠けていたでしょう。「内面世界の発展」ということにとどまっていたかもしません。
しかしながら、環境自体がこれだけのダイナミックスを含んでいる現今において、内面世界の発展だけでは止まらない部分があります。
私たちがよく「この世とあの世を貫く幸福」という言葉でも言っているとおり、かつて「実在界」のみに存在した世界を、この「現実世界」にも同時に連動的に現す時期が来ているということなのです。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」173pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへ信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に祈りで始めて、日中は主のため、世のため、隣人を救うために私たちは働きました。本日もお疲れ様でございます。

そして一日を感謝と反省で締めくくるために、常に主の御言葉と共にありましょう。

本日5月14日は新復活祭です。

5/14(火)~5/19(日)まで、新復活祭感謝期間として、連日13時より「新復活祭」を開催致します。2004 年 5 月14 
日に、主が死の淵からご復活された奇跡に心からの感謝を捧げると共に、主が大宇宙の造物主であられることへの確信を深め、あらゆる既成の常識を打ち破り、主のご復活への確信を強めてまいります。

新復活祭では、全智全能なる造物主としての主エル・カンターレの御力を信じ切り、全仏弟子の純粋な信仰心を結集し、奇跡の神オフェアリス神の「信仰、復活、再生、奇跡」の御光と、始原の神アルファの異次元パワーと一体となることを目指し、新復活祭版「復活の祈り」を執り行います。

新復活祭に合わせて発刊予定の会内経典『霊言説法「信仰薄き者たちへ」』からの学びを通して、信仰心と悟りを向上させ、ご復活された主をお支えさせていただける「本物の信仰者」へと生まれ変わる、新生の誓いを捧げます。

この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

この聖なる日に向けて、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

今日の一日を振り返りつつ、教典『仏陀再誕』を振り返ります。
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第二章 叡智の言葉 
○教養の道
しかして、さらに次なることをも言っておこう。
この水路のたとえをさらに敷衍(ふえん)し、発展させておこう。
水路は、そのまわりに囲いを持っている。
その幅は、三〇センチであったり、五〇センチであったり、
一メートルであったり、さまざまであるが、
水を流すために、一定の幅があり、
一定の長さがあり、一定の障壁というものがある。
これは、一見、
他の人びとへの愛を拒んでいるようにも見えるかもしれない。
こうした壁があるということを、
人びとは批判し、それを非難することがあるかもしれない。
しかし、考えてもみなさい。

もし、水路があのようにまっすぐに走っていなければ、
どのようになるかを。
ポンプ小屋から自ら溢れるだけであったら、どのようになるかを。
まわりは水びたしとなり、一種の小さな洪水となるであろう。
そして、洪水となった結果が、
ほんとうに稲の穂を伸ばしてゆくことになるかどうかを、
考えてみなさい。
それは、そうではないであろう。
まだ生え揃(そろ)わぬ苗を水びたしにして、
そして、腐らせてしまうことにもなりかねまい。
私は、そう思う。

こうしてみると、
より多くの人びとに、まんべんなく愛を与えるためには、
人生の基礎工事が必要であるということを、
この水路は物語っているのだ。
その水路を引く途中においては、迷いがあるかもしれない。
この水路をつくってゆく工事の途中で、
他の人びとから批判があるかもしれない。
その批判は、おおかた次のようなことであるだろう。
「幅五〇センチの、
あるいは幅一メートルの水路をつくる田畑があるならば、
その土地があるならば、そこに稲を植え、そこに麦を植えたならば、
もっと多くの収穫を得ることができるのに」
と彼らは口ぐちに言うであろう。
しかし、あなたは黙々とその水路を掘り続けるであろう。
あなたが、水路を掘り続ける姿を見、
その水路を固め、そして、そこに水を流すための工事をしている時に、
あざ笑う人はいるだろう。
「バカなことをしている。あんな工事をしたところで、
そこから一粒の麦も、一粒の稲も実らないのに。
つまらないことに時間を費やしている。
つまらない工事に自己満足している」
そのように批判する人は必ず出てくるに違いない。

されども、自らの理想というものを疑ってはならない。
自らの理想を忘れてはならない。
たとえ、遠大な計画であったとしても、
その計画は必ずいつの日か達成されるのである。
目先のことにとらわれてはならない。
目先の利益にとらわれてはならない。
あるいは、あなたが偉大なる理想を持っているときに、
他の人びとの批判や中傷に怯(ひる)んではならない。
そういう批判や中傷に怯むことなく、
まっすぐ、まっすぐに水路をつくってゆかねばならない。
たとえ、その土地が無駄だと言われようとも。
たとえ、その工事が一粒の麦をも実らせないと言われたとしても。
徒労だと言われることがあったとしても。
あなたがたの人生の理想が、大いなる愛の供給にあるならば、
その工事作業をやめてはならない。
私は、そのように思う。
このように考えてみるならば、
あなたがたの中道の道というものも、
さほど容易なことではないだろう。
それは出来上がってしまい、成功してしまい、完成してしまうと、
「なるほど」と他の人びとを納得させるものではあるが、
その途中では、「何ゆえに」という言葉を数多く見るであろう。
「何ゆえに」という声を、数多く聞くことになるであろう。
それは、理想を理解できない人たちの言葉でもあるだろう。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私はこの水路のたとえで、あなたがたに何を話そうとしているか、
このことがわかるであろうか。
私のこのたとえの意味が分かるであろうか。

縁生の弟子たちよ。
私は、人間完成の道には数多くの学びが必要だと言っているのだ。
あなたがたは、教養を積みなさい。
教養の道を歩きなさい。
教養を身につけるということは、そう簡単なことではない。
それは、倦まずたゆまず努力をしつづけることを意味する。
教養を積んでいる途中で、
数多くの人から批判を受けることはあると思う。
「そんなことは役に立たない」と。
「そんなものは何のためにもならない」と。
そのように言われることが、必ずやあるであろう。
しかしながら、教養の道は遠大な道なのだ。
それは、あなたがたの魂の肥やしをつくってゆく道でもあり、
魂を育ててゆく道でもあるのだ。
今、自分は、
広大な土地に、一歩の水路を通そうとしているのだと思いなさい。
一本の水路を通すことによって、まわりのあれた土地を灌漑し、
それを田畑に変えてくことができるのだ。
この一本の水路を通す工事のことを、教養をつけるというのだ。
あなたがたが、人生に勝利し、多くの人びとを導いてゆくためには、
是が非とも数多くの知識を身につけ、数多くの経験を積み、
そしてそれらを教養にまで高めねばならないと思う。
我は、一片の知識をかき集めることをもって、
それで教養と呼ばない。
知識は教養をつくってゆくための力になることは事実だ。
しかしながら、知識は愛を経て教養になるのだ。
知識は、愛という触媒を得てはじめて教養になるのだ。
ということを私は言っておきたい。
その知識が、何のための知識であるかということが大事であるのだ。
その知識が、あなたがたが自己をてらい、
他の人びとに、
自らをえらい人間であると思わせるためだけの知識であるならば、
それは、決して教養となることはないであろう。
しかし、その知識は、
あなたがたが他の人びとを利し、
他の人びとを生かそうという思いのなかにある時に、
あなたの人格のなかにくい込み、
あなたの人格を太らせ、あなたの人格を力あらしめるであろう。
すなわち、教養への道は、
知識に愛が触媒として加わって、
そして自らの智慧となった時、
それが教養そのものの道となるのである。

人びとよ、このことを疑ってはならない。
よいか、これより後、
あなたがたの目の前に広がる広大な土地のなかの一部分を、
自分の教養のためにとっておきなさい、と私は言っているのだ。
あなたがたのうちの、あなたがたの一日の時間のうちの一定の時間を、
一か月の時間のうちの一定の時間を、
一年の時間のうちの一定の時間を、
教養を身につけるために割(さ)きなさい。
それは、決して無駄にはならぬ。
他の多くの人びとを生かすための、土木工事となるであろう。
そう言っているのだ。

しかして、この教養をつける道にとって、
いちばんよいものは何であるか。
教養のなかの教養、真の教養とは、やはり永遠の仏法真理である。
私は、そう思う。
あなたがたの教養のなかの中心に、仏法真理というものを据えなさい。
仏法真理を、中心としなさい。
仏の教えを、その教養の中核としなさい。
そして、これを知り、これを学ぶことを通して、
この世的なる数多くの知識というものを、
もう一度、学びなおしてみなさい。
もう一度、研究してみなさい。
また、あなたが過去得た経験を、もう一度、検討してみなさい。
あなたが過去得た数多くの経験のなかから、
ダイヤモンドのごとく光るものがあるならば、
叡智の片鱗があるならば、
これを取り出して自らの飾りとしなさい。
あなたがたが、これから学ぼうとするもののなかに、
仏法真理を匂わせるものがあったならば、
仏法真理を感じさせるものがあったならば、
むさぼるがごとく、
それを吸収してゆきなさい。
それを学んでおきなさい。
すなわち、教養への道は、
仏法真理を中心として、そのまわりに、
数多くの発明や発見や
工夫という名の人類の遺産をはべらせることなのだ。
数多くの人が、数多くの発見をしてきたであろう。
数多くの人が、数多くの工夫をしてきたであろう。
数多くの人が、数多くの思想をつくってきたであろう。
数多くの人が、数多くの意見を言ってきたであろう。
それらすべてのものを仏法真理という名のふるいにかけて、
そして、そのふるいを通ったものを自らの糧としてゆきなさい。
それが、教養を積んでゆくために、ひじょうによいことであるのだ。

【大川隆法『仏陀再誕』第二章「叡智の言葉」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】
「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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