(2/21-2)52『仏陀再誕』を読む―愚か者となるな―汝自身を知れ

『仏陀再誕』を読む

58 役小角(えんのおづね)は、母、白専女(はくとうめ)を人質にとられたため、捕縛されたが、日本の仙人界では大きな力を持っている。飛鳥寺を本拠地としていた若き行基も、一時期、秘術体得のため、共に修行していたらしい。役の行者は奈良時代の修験道の祖であるが、法相宗の行基は、彼から、祈祷や呪術を学んだものと思われる。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

45 罪人は頂上で、わずかな空間を見つけ、生前の悪行の数々を神仏に謝罪する。主として肉体が犯した罪を肉体の痛みで応報刑(おうほうけい)として受けるのだ。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第2章 現代の武士道
2 現代的仕事における「武士道」とは
〇経営は真剣勝負、百戦百勝でなければならない。

日本企業の七割程度は、いつも赤字だともいわれています。そのなかには、節税対策のためにやっているところもあるとは思うのですが、松下幸之助さんなどは、「やはり、経営は真剣勝負だ」と、よく言っておられました。

真剣勝負であるならば、「黒字」は当然のことであって、「赤字」というのは、「親権が振れて、身が斬れて、血が出る」ということです。

竹刀で打ち合っている分には、「今のあたり方は浅いから、一本とは認めない」とか、「当たり所が違う」とかいうことがあります。

例えば、「小手」なら、右の小手にきれいに当たれば一本になるけれども、左の小手に当たっても一本にはなりません。「面」も、当たり所がいいところに入れば一本だけども、顔を揺らして、面の前についている金の部分で、打ち込みを少し流しただけでも一本をはずせます。

しかし、これが実戦だったなら、相手の刀の切っ先は顔を切っていますから、痛手は受けているはずです。左の小手を撃たれても、やはり、実戦では大変なことでしょう。「胴」も左を抜きますが、実戦であれば、逆に右の銅を撃たれても、胴体が半分になるのは同じです。

その意味で、実戦になると、「触れれば血が出る。身が斬れる。死に至ることもある。どこを打たれても致命傷になる可能性がある」というほどの厳しさがあるのです。

そうしたなかで、「経営などは、そうそう成功するものではない」という意見が大多数ではあるけれども、幸之助さんは、「いや、経営は百戦百勝でなければいけないのだ」ということを言っています。「真剣勝負なので、斬られたらそれで終わりなのだ」「明日、命があると思うな」ということです。

会社で言えば、「潰れたら終わりなのだ」ということでしょう。「だから、何としても負けない戦いをしなければいけない。負けない戦いをして、さらに、勝たねばならない」というようなことを教えてくれています。

やはり、「心構え」としては、そうでなければならないと思うのです。

いいかげんな気持ちで、「赤字でも、税金を払わなくてすむから助かる」とか「景気がよくなれば、そのうち会社の状態もよくなる」とか、「先代が遺してくれた財産がこのくらいあるから、まだ、あと何年かはもつ。そのうち景気もよくなるだろう」とか、「誰かが助けてくれるだろう」とか、いろいろなことを考える人もいるとは思います。

しかし、やはり、仕事も商売も同じように真剣勝負であって、「相手の剣が自分の体に触れたら、こちらは出血する。こちらの剣が相手に触れたら、相手が出血することもある。それくらいの真剣勝負である」ということは、覚えておいた方がよいと思うのです。

【大川隆法 『現代の武士道』第2章「現代の武士道」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
8 仕事(ワーク)と労働(レイバー)【正業】
〇自分の役割を紙に書き出す

この正業の反省に入るに当たって、まず、その前提として考えなければならないことは、「自分に今、与えられている仕事」についてです。「仕事とは何か」ということをまず考えてみることです。

自分にはどういう仕事が与えられているのだろうか。仕事とは「役割の代名詞」と考えてもよいでしょう。自分に与えられている仕事、すなわち、役割は一体何であろうかと考えたときに、自分の役割というものを一枚の紙のなかにおそらく書けると思います。書ききれないほどの仕事をしている人もいるかもしれませんが、多くの方は、おそらく一枚の紙のなかに「自分の役割とは何なのか」ということを書けるでしょう。そして、幾つかの役割について、「どの部分をどのように実践しているか」と考えを巡らせることができるはずです。

たとえば、会社で社長をやっている人もいると思います。もちろん、その方の仕事はいくつかに分類されるでしょう。社長業以外にも仕事としてやっている立場はあるはずです。家庭のなかでも「父親」という一つの仕事をやっています。父親業というものも、やはりあるわけです。それ以外にも、他のいろいろなところで人間関係を持っているはずであり、そのなかにも、それなりの役割はあるでしょう。何らかの社会に、何らかのかたちで参画しているのが私たちなのです。

〇一つひとつの役割について「仕事(ワーク)」か「労働(レイバー)」かを考える
これを一つひとつ取り出して、「自分はそこで十分な役割をはたしているかどうか」を考えていただきたいのです。

そして、このときに、さらに考え方を深めていくとするならば、二段に分けてもよいかもしれません。つまり、この役割の概念を、「より高次な意味での仕事」と「労働」というものの二つに分解して考えてもよいでしょう。

労働という概念は、単純再生産のために必要とされる仕事のことです。みなさんが人間として生きていくために、どうしても必要とされる仕事です。毎日毎日しなければならい、生きてくための仕事、これが労働でしょう。

この上位概念としての仕事というものを取り出すとするならば、そのなかに含まれるべきものは何かというと、「生産的なもの」という考え方になります。「自分の働きによって、どれだけプラスアルファを生み出せたか」ということです。

こういう考え方でやってみると、あらゆる役割において、この二段階が出てくることになります。主婦であっても、朝食をつくり、昼食をつくり、夕食をつくるといった仕事のなかにも、大きく分ければ「仕事」的に考えられる部分と、「労働の上の概念としての仕事」に分けられる部分とがあります。英語というと「work(ワーク)」と「labor(レイバー)」の違いです。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」189pより抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第三章 愚か者となるな 
○己自身を知れ

世の中には、しかしまだまだ愚かなる者は数多い。
愚かなる者の一つに、自分を知らぬ者がある。
自分自身を知らぬ者がある。
自分自身がいったい何者であるかを知らず、
そうして、得々としているものがあるのだ。
しかし、何万巻(がん)の書物を読むとも、
たとえ、全世界を旅行してまわるとも、
己自身を見極めることができれば、
その人は智者とは言わないのである。

たとえ、いかほどの智慧を詰め込もうとも、
たとえ、生き字引となろうとも、
たとえ、ありとあらゆる地域を旅行し、踏破し、
全世界を経巡(へめぐ)ったとしても、
己が心を知らず、己が本質を知らぬ者は智者とは言わないのだ。
逆に、その知識拙(つたな)くとも、その見聞狭くとも、
よく己の心を知り、
よく己の心を治め、
その自分自身を知りえた悟りは、智者たるに足る。

人よ、
その順序を間違えてはならない。
まず、己自身を治めるということが大切なことであるのだ。
己自身を知り、己自身をよく治めるということなくば、
いかほど費用をかけ、いかほど月日をかけ、
いかほど多くの人の力を借りて、
どのような業績をあげるとも、それは智者であるとは言わない。
よく、己自身を知れ。
己自身を知ることのなかには、
己自身が仏の子であるという事実を知ることを含む。
いかに、この世的に世の人びとから尊敬さるるとも、
己のその身、その魂が、仏より与えられたものであることを知らず、
己の内なる仏性に気づかずに生きたる人間は、
決して智者と呼ばるることはないであろう。
よくよく、あなたがたに言っておくが、
まず、自分自身をよく知っている人間となれ。
それを、まず最初の目標とせよ。
自分を知ることなく、世界を知ったといくら言おうとも、
他の人をいくら知ったと言おうとも、
それはあなたが賢いということにはならない。
自らを知ることなくして、いくら他の知識を集めたところで、
愚かであると言わざるをえない。

○最たる愚者
人びとよ、
次にもまた愚かなる人がいる。
この愚かなる人びとは、
他の人びとを動揺と混乱に陥れることをもって悦びとしている。
他の人びとの心に毒をまき、
他の人びとの心に焦りを生じさせ、
他の人びとを誘惑の淵に導き、
他の人びとに妄言(ぼうげん)し、ささやき、そして、
道に精進しようとするものを迷わす者もいる。
このような者も愚かなる人びとである。
わが教えを学ぶ者のなかにも、このような者が出てくることがある。
自分の悟りが進まないがために、
自分が重用されないがために、
同行の士を巻き添えにしようとする者が跡を絶たない。
同じく修行の道を歩もうとする他の人の、
その堅実な心を揺さぶろうとし、そして自分の仲間を増やそうとする。
自分と同じく、不平不満を持つ者を増やそうとする者がある。

人びとよ、知れ。
このような心は、このような思いは、このような行動は、
すべて地獄に通じるものであるということを。
地獄には、数多くの亡者たちが生きている。
地獄の亡者たちは、自ら自身が助かろうとはしない。
自らが助かろうとするのではなく、仲間を増やそうとする。
仲間をつくろうとする。
他の人びとにも同じような苦しみを味わわせ、
他の人びとにも同じような迷いを与え、
他の人びとも同じような欲望の淵に落とすことによって、
自らの苦しみを和らげようとするのだ。
しかし言っておくが、このような行為を続けて、
本当に心が安らぐということは決してない。
そのようなことであってはならない。
自らの苦しみを薄めるのに、他の人を用いようとするな。
他の人を仲間にしようとするな。
他の人に愚痴を言おうとするな。
自らの苦しみは、自ら一人にて足れり。
自らの苦しみは、自ら一人にて対決せよ。
自ら一人にて、自ら自身の問題と対決せよ。
それを、他の人と徒党を組み、
共に自己の正当化や合理化に走ってはならない。
ゆめゆめ、そのようなことは、してはならない。
およそ、教えに付き、法を学ぶ者であるならば、
自らの正当性のために、教えを曲げたり、
歪曲(わいきょく)したり、間違って伝えたり、
あるいは、人びとを誘惑するようなことをしてはならない。
このようなことは、すべて地獄に通じるものであるということを知れ。

よって、私は言おう。
愚かなる者の最もたるものの一つに、
こうした、道に精進する人々を迷わす人がいるということを。
このような人は、自らが愚かであるということを認識していない。
自らは、愚かであるとは思わない。
自らが正しき者であると思い、賢き者であると思う。
そうして、仏の教えをも、自らの小さな知によって、
曲げ、歪曲(わいきょく)し、そうして自らに都合のいいように説明しようとする。
しかし、このような考えが
いかなる罪を生むものであるかということを、
賢き人たちは、知らねばならない。
その底にあるのは欲望である。
その底にあるものは、
法を説く者と同じく、偉い立場に立ちたいという欲望である。
しかし、諸人よ、
よく知りなさい。
人には、それぞれの器というものがあるのだ。
人が人を導くには、順序というものがあるのだ。
永年の転生輪廻の過程において、
魂優れ、実績優れたる者は、
先を歩く者として、後からついてくる者を導くこととなる。
しかし、その身拙(つたな)く、その心拙く、修行十分でない者は、
やはり、今後も引き続き指導を受けねばならないのだ。
こうした立場の違いは、いつの時代にもあるということを知りなさい。
よく学ぶためには、よくわきまえることだ。
よく知るためには、謙虚になることだ。
よく悟るためには、よく自分自身を調律することだ。
それが大事であると思う。

【大川隆法『仏陀再誕』第三章「愚か者となるな」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第六章 人間完成の哲学
2 悟りの前提

それでは、悟りを得るためには、いかなる前提が必要なのでしょうか。また、そのために必要な心掛けは何でしょうか。

悟りには、主として三つの前提があります。

第一の前提は、「人間は無限の可能性を秘めている」という認識です。これがなければ、そもそも悟りは成り立ちません。「人間は、無限の可能性を秘めた存在、無限に伸びていく可能性を内包した存在である」と定義することもできます。

人間というものを、「運命という川のなかで浮きつ沈みつする、哀れでみすぼらしい存在」と定義するならば、悟りはありえないとこになります。しかし、仏教では、その根本において、人間の本質を無限によきものと見ているのです。

第二の前提は、「発心なければ悟りなし」ということです。「発心」とは、心から思い立つことであり、別の言葉では、「菩提心」ともいいます。菩提心とは、悟りを求める心のことです。

向上していこうとする心は、外から与えられもののではありません。そうした情熱が、自らの内から湧き出し、ほとばしてってこなければ、悟りを手に入れることはないのです。

したがって、発心が非常に大事です。発心をなすことは各人の義務であり、また権利でもあります。発心なくして悟りはありえないのです。

第三の前提は、「人間は努力を通して結果を得ることができる」という考え方です。これは、第5章「縁起の法」でも説明したように、「種をまけば果実が実る」ということです。これなくして悟りはありえません。「努力にはそれだけの報いがくる」という原因・結果の法則を、しっかりと身につける必要があります。

現象としては、努力が実らないこともあるでしょう。しかし、心の世界においては、原因行為、すなわち種をまく行為があれば、それは必ず実ることになっているのです。

たとえば、この世では、他人に親切を施しても、誤解されたり、実を結ばなかったりすることがあります。しかし、霊的世界においては、親切心を起こし、それを実行したならば、結果がすでに現れているのと同じなのです。

すなわち、「霊的世界においては、原因となる思いや行動があれば、すでに結果が出たのと同じである。悟りの世界では、因果の法則は確定している」と考えてよいのです。

一番目に、「人間は無限の可能性を秘めている」という人間観を持つこと。二番目に、発心し、勇気を奮うこと。三番目に、「悟りの世界においては、『種をまき、それを育てる努力があれば、必ず果実が実る』という因果の法則が、一〇〇パーセント的中するのだ」ということを知ること。

悟りの前提として、この三つが要求されているのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第六章「人間完成の哲学」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
エル・カンターレ・大好き

タイトルとURLをコピーしました