57 仙人では、葛城山の役小角(えんのおづね)などが有名である。お経も併用した山岳修行は、様々な秘術を生んだが、彼自身は、出家得度(とくど)していない優婆塞(うばそく・男性の在俗信者)であった。一説では、富士山火口まで空中飛行して帰ったともされる。おそらく幽体離脱体験だろう。弟子の一人、あるいは、葛城山に住む一言主神(ひとことぬしのかみ)のざん言により、朝廷に反乱を企てているとして、捕えられ伊豆大島に流された。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
46 鬼に追われながら、ふもとまで降り、鬼がいいと言うまで、登り下りを繰り返す。たいていの人は、悪口や暴力や、嘘や、恥ずかしい行為が、ここまで裁かれるのを驚きながらも、後悔の涙を流し続ける。両親や先生たちに、無礼であったことの、一つ一つも、確実に裁かれる。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第2章 現代の武士道
2 現代的仕事における「武士道」とは
〇「ゼロ成長」や「マイナス成長」は悪である。
今は、どこかの店が成功したら、競合店がすぐに潰れるといったことが数多く起きているので、そうした真剣な競争はあると思います。
例えば、同じような店が通りを挟んで二つできたら、近所の人まで、「どちらが先に潰れるか」「絶対、あちらが潰れる」などと、みんなで言い合っているようなことがあります。
そのような厳しい世の中で、日本経済は、「ゼロ成長」が続いています。
ゼロ成長というのは、「やってもやっても、全体が発展しない」ということです。それは、「国内で、どこかが得点を入れたら、どこかが失点している状態である」ということです。同業であれば、どこかが商売を取れば、どこかが失っている。この状態が、ゼロ成長の状態なのです。
「プラス成長」で何パーセントか出ているときはやはり、差はあっても、両者が少しずつ勝てる状況ではあります。
その意味で、「ゼロ成長が続くということは、悪いことなのです。
さらに、「マイナス成長」で下に向きはじめたら、「潰れるほうが多くて駄目だ」ということであろうかと思います。
【大川隆法 『現代の武士道』第2章「現代の武士道」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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7職業はユートピアの原点【正業】
〇与えられた環境で「最善」を尽くす努力を
私は、以前から、「会社や他の事業など、いろいろなところで仕事をしていて、そこでユートピアを築けない人、そこで仕事ができない人が、幸福の科学へ来たらそれができるかというと、そうではない」ということを明らかに述べています。幸福の科学というところは桃源郷ではありません。
やはり、他の所で役に立てるような人が当会のなかで活動することによって、さらなる力が出てくるものです。この点は、どうか勘違いしないでほしいと思います。
「この世的にはどこでも成功しない、幸福も享受できない、ユートピアができたことはないが、幸福の科学だけではできる」と思ったら、それは充分ではありません。
『成功の法』のなかにあるように、「成功者の町」に入るために、それだけの下準備が要ります。
したがって、真理の運動に値打ちがあると思うとしても、ただそのなかだけに生きていてよいわけではありません。それ以外の所で足腰をしっかりと鍛えておく必要があるということです。
これについては、女性にも言えるでしょう。女性のなかには働いている人も、多かろうと思いますが、主婦として家庭を守っている方は、「主婦業も正業である」という観点を忘れてはなりません。
少なくとも、ユートピアづくりの原点は、「他の人の役に立ちたい」という願いです。身近なところでこのユートピアづくりのスタートが切れない場合、これを一挙に飛び越して理想の実現する世界が出てくるとは考えられません。
そこで、まず足元を見直していただきたいのです。主婦は主婦として、サラリーマンはサラリーマンとして、OLはOLとして、現在の立場をもう一度、振り返ってみてください。
このなかにおいて、確かに環境的要因というものはあるでしょう。環境的要因によって自己実現ができないことはあるでしょう。
しかしながら、「そのなかで最善を尽くしている」という現実があって初めて、他のところでも生きてくるのです。これは真理なのです。今、自分が置かれている立場、世界のなかにおいて学ぶということを放棄して、それ以外のところだけでは水を得た魚(うお)のように活動できるとか思うならば、甘いでしょう。そういう甘い幻想はやがて消えていくしかないのです。このことをよくよく考えていただきたいと思います。
〇この世において与えられた仕事に無駄なものはない
私自身、この仕事に入る前にいろいろなことをやっていましたし、大悟から幸福の科学を立宗するまでに準備期間をそうとう置いたつもりですが、活動を開始して痛切に感じたことは、「今までやってきたことの、どれ一つとして無駄がなかった」ということです。
それ以前の段階において、もし、私が手を抜いた生き方をしていれば、やはり現在の仕事のなかにおいても、そうとうのマイナスが出たであろうと推定されます。
その感は、一年一年、一ヵ月一ヵ月、一日一日、ますます深くなってきています。むしろ、「もっと濃度の濃い魂修行ができなかったか」と反省されるところです。単に霊とか神とかいうものを追いかけるのではなくて、それ以前の人間的修行において、まだまだ学ぶべきことが多かったのではないか。学び尽くしていなかったのではないか。もし、タイムマシンに乗って引き返すことができるならば、もっと徹底的にやっておきたかった。学んでおきたかったという気持は非常に強くあります。
そういう意味で、無駄なものはないのです。無駄なものが出るということは、それを生かし切らないからでしょう。「活かす心がない」から、「活かそうと考えない」からです。この世において与えられた仕事のなかに無駄なものはありません。それはすべて魂の糧となり、魂と糧となるだけではなく、ユートピアづくりのための積極的道具となるはずです。このことについて深く知らねばなりません。
【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」186pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1991年7月に説かれました『永遠の仏陀』を振り返ります。
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第三章 愚か者となるな
○布施の心
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私は、常づねあなたがたに説いてきたはずである。
人間が命を得、今生に生まれるということは難しいことである。
今生に生まれ、かつ仏の教えに触れるということは難しいことである。
また、今生に生を享(う)けて、
仏と時を同じくするということは、また難しいことである。
仏が出、仏の教えが説かれる時に、生を得るということは
難しいことである。
そのような時代に生まれ合わせたのであるならば、
あなたがたの使命は自(おの)ずから明らかとなるであろう。
あなたがたは、多くの人びとに与えるために来たのだ。
与えるということは、現代的な言葉であるが、
与えるとは布施の心だということだ。
布施とは何であるか、それは他を思いやる心だ。
他の人によかれと思う心だ。
他の人に尽くさんとする心だ。
この心、もし無くば、仏の教えもまた意味がない。
仏の教えは、人に尽くさんとしてあるのだ。
仏の教えは、人に布施せんとしてあるのだ。
仏の教えは、人に愛を与えんとしてあるのだ。
諸人よ、まずこの根本を間違えてはならない。
貪(むさぼ)りのために出てきたのではないということを知りなさい。
自らの心の内をふり返りみて、貪る心の強い者は、
これは、愚かであると言わざるをえない。
いつまでも地位に執着するな。
いつまでも出世に執着するな。
いつまでも名誉に執着するな。
いつまでも己がプライドに執着するな。
他からよく見られたいという心に執着するなかれ。
そのような心は、
すべて貪りの心である。
他の人によく見られたいという心、
尊敬されたいと思う心も、貪りの心である。
他の人に憧れたいと思う心も、貪りの心である。
有名になりたいと思う心も、貪りの心である。
自らの権力を振るいたいと思うことも、貪りの心である。
○悟りたる者は
人よ、
悟りたる者は、いつも静かにあるものだ。
人よ、
悟りたる者は、柔和にて歩くのだ。
人よ、
悟りたる者は、微笑みて歩くのだ。
人よ、
悟りため者は、驕(おご)らない。
悟りたる者は、威張らない。
悟りたる者は、決して自らよく見せようとはしない。
悟りたる者は、他の人を裁こうとしない。
悟りたる者は、他の人びとを傷つけようとはしない。
悟りたる者は、柔和で、言葉正しく、常に落ち着き、
そして優雅でもある。
貪りの毒がいかに悪いか、
それは、柔和な姿というものを害するからだ。
柔和な姿はそれ自体で尊い。
柔和な顔、柔和な言葉、柔和な物腰、
それ自体が尊い。
それ自体が仏の姿そのものである。
人びとよ。これより後、
己が心の内に貪りの心がないかどうかを、よくよく点検せよ。
心の内に貪りの毒あるならば、
ただちにそれをつかみ、それを投げ捨てよ。
それを二度と心のなかに入れてはならない。
ドアを閉め、二度と入れてはならない。
【大川隆法『仏陀再誕』第三章「愚か者となるな」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 人間完成の哲学
○悟りとは何か
最終章では、古くて新しいテーマである「悟り」について考えてみましょう。
釈迦仏教の魅力の根源は「個の悟り」の部分にあると言ってよいでしょう。
「悟り」というのは非常におもしろい考え方です。そこには、単に他力によって救われるべき存在としてではなく、みずからの足でしっかりと大地に立ち、力強く伸びていこうとする人間の姿があります。ここに仏教の人気の秘密があると言えます。
すなわち、仏教の根本には非常に強いものがあるのです。仏教を悲観的で弱々しい宗教ととらえる人もいるでしょうが、仏教のなかには、強く立ち上がるための方法論、強者となるための方法論があります。「各人が悟りを得て仏になっていく」という仏教の思想は、二千数百年前においては非常に画期的なことだったのです。
この思想は後世の大乗仏教独自のものではなく、ゴータマが説法し、五人の修行者を「阿羅漢の悟りに達した」と判定した時点からスタートしています。
人間は世間一般のため、社会や国家のために生きることが可能です。しかし、出発点と終着点においては、「自分」というものに還ってくる面がどうしてもあります。それゆえ、自分というものを無視した思想や理論は、多くの実を結ぶことはありません。
たとえば、共産主義社会において、「国家のための共産主義」ということを唱えても、結果として、個人の労働意欲や向上意欲がなくなってしまいます。
これは「個と全体」についての考え方とも関係しています。もとより、全体から分かれてきた「個」、仏の生命から分かれてきた「個性ある光」ではありますが、個が個として存在している理由は、「それぞれの個性を伸ばし、光らせていけ」ということなのです。
したがって、究極の目標としての全体の向上を目指すことは当然であっても、出発点においては、各人の個性を光らせることは無視しがたい課題です。十把ひとからげに人間をとらえるわけにはいきません。個性ある光として散乱した生命で、あるならば、その生命がいかにして独自の光を放つかが大事です。
すなわち、悟りとは、単なる救済という観点ではなく、もっと力強く積極的な価値をも内包する考え方なのです。
これは結局、人間の生きがいにも結びついています。「三次元という不安定な世界に送り出された人間が、いかにして生きがいや自分の存在意義を見いだすか」という問題の解答が、実は悟りにあるのです。
悟りとは、別の言葉で言えば、「いかにして、みずからの自覚を高めていくか。いかにして、みずからの人生の目的と使命を知り、世界の秘密を知るか」ということです。結局、悟りとは、ほんとうの意味で「知る」ということであり、それが新たな幸福感と大いなるエネルギーを生み出していくのです。
このように、悟りというものを、単に個人主義的な考え方とはとらえずに、それは、個性の意味、個が光を放つということの意味を表しているのだと考えていただきたいと思います。
【大川隆法『釈迦の本心』第六章「人間完成の哲学」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。
大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生
映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます
本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります
■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■
①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。
②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。
シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。
本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。
③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。
主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。
④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。
純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き
(2/20-2)51『仏陀再誕』を読む―愚か者となるな―布施の心―悟りとは何か
