(2/15-2)46『仏陀再誕』を読む―叡智の言葉―中道―地獄の思想

『仏陀再誕』を読む

52 「天狗」は、色・金・欲に弱い。僧職や官界、財界、学界、ジャーナリズム界にいて活躍していても、異性問題、金銭不正、脱法行為等で、中途挫折や晩節をけがすことが多い。うぬぼれが過ぎてわきが甘いと言うしかない。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

51 ある時、大釜で煮られている人たちを見た。お湯の場合も、油の場合もある。油の方が高温なので、罪が重い。
重い税金で国民を苦しめた財務省の役人や、国税庁の役人がいた。正しい宗教も弾圧した、政治家、裁判官、弁護士もいた。悪質な霊感商法対策弁護士は、最も高温の油で煮られていた。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第2章 現代の武士道
2 現代的仕事における「武士道」とは
〇会社時代に経験した「侍同士の刀を構えるような瞬間」

また、人間界の生き様を考えてみても、今日の友が明日の敵になることもあれば、昨日は自分を護ってくれたり、育ててくれたりした人が、今日は自分にとって利益相反するような立場に立つこともあります。

会社で一生懸命に仕事をしていても、おそらく、そういうことはあるでしょう。途中までは、一緒にできても、あとから意見が合わなくなる人も出てくると思います。

そうしたときに、「自分の考え方を貫くか、貫かないか」という、けっこう厳しい局面を迎えて、まるで侍同士が刀を構えるような瞬間もあるかもしれません。

私も、短いサラリーマン生活のなかで、何度かそのような経験をしたことはあります。「これを言うと、もう最後になるかな」と思うようなことをいわざるえないこともありました。それは、会社の内部でもありましたし、対外的にもありました。

外部の取引先に対して、「自分がここで剣を抜いたら、相手のクビが飛ぶな」と思うような瞬間は何度もありましたし、実際にクビが飛んだこともありました。「そういうときには、ある種の無常を感じた」という話をしたこともあります。

会社(大手総合商社)に努めていた最後のころは、仕事としては、タイ銀行の公称などの比重がわりあい大きかったのですが、向こうは、まさか、「世界的な霊能者を相手にしている」とは思わないでしょう。手の内を全部読まれて交渉しているのですから、まことに気の毒ではありましたが、「こちらが剣を抜く気になれば、取れないクビはほとんどない」という状態ではあったのです。

もちろん、こちらとしては、取引先で、ある程度親しくなった相手なので、手加減しながらやっていたつもりではありましたが、だいたい、企業の財務と銀行とが利益相反するような時代になってきていたので、どちらかが勝てば、どちらかが負けるわけです。

「片方の戦果」は「片方の失敗」として記録されるような状態になっており、「ゼロサム」「パイの取り合い」といわれるような状態が続いていました。

そのため、いつも、多少、手加減はしていたのですが、それでも、剣を抜いたとき、「あっ、これでクビが切れてしまうかな」と思った人たちが、やはり、次には転勤挨拶にやって来るのを見ることになりました。

【大川隆法 『現代の武士道』第2章「現代の武士道」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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1現代の職業倫理【正業】
〇現代は「正しい仕事とは何か」の基準が分からなくなっている

「正業」とは、本来は「正しい行為」ということです。「今日一日、正しい行為をしたか」ということを考えればよいのです。ただ、現在では、「正しい仕事」という意味を持たせることもできるでしょう。

この「正業」については、現代において、非常に難しい課題としてわれわれに示されている問題です。というのも、現代の社会の複雑化、産業の進展というものを目の当たりにして、多くの人は今、「正しい仕事とは何か」と基準が分からなくなってきているからです。

一時代前であるならば、もっと簡単な基準があったであろうし、それなりの職業倫理も確立されていたと思えるのですが、現代においては、この「正しい仕事とは何か」ということが、極めて難しい問題となってきています。

○現代的仕事の意味について知る必要がある。
また、もう一つ、どうしても考えておかなければならないことは、「何ゆえに正しき仕事が要請されるのか」「正しい仕事という課題には、霊的に見てどういう意味合いがあるのか」ということです。これを知らなければなりません。

宗教的魂の人であるならば、「ともすれば瞑想的生活に入っていきやすい」と言うような魂の傾向を持っていますし、どうしても、その生活が懐かしいものであって、「その世界に入っていきたい」といった憧れを持っているということもよくあります。

では、私たちが感じる魂の郷愁ともいうべき「瞑想的生活」と、現代において私たちが置かれている「仕事環境」「職場環境」の問題について、どう考え、解決していかなければならないのでしょうか。ここは、まさしく、私たちが知恵を絞るべき場であるわけです。ここで知恵を絞らなければ、現代に生まれて宗教家をやる資格はありません。

かつては瞑想的生活のなかに「正しき心の探求」を説けばよかったでしょうし、それは非常に簡単な面があったと思います。

しかし、この件実社会をどう見るのか。まったく無視し去るのか。虚業であると突き放すことができるのか。「虚しい仕事であって、なんらの霊的意味合いもない」と切って捨てられるものなのか。あるいは、「現代に魂を宿して生きている以上、個のなかにも何らかの意味合いがある」と考えるべきであるのか。この時代背景を霊的進化の法則に照らして見たときに、どのように考えるべきなのか。

これは、避けて通ってはならない課題であると、私は思います。

そして、この「現代的仕事についてどう考えるか」ということに対しては、まだ明確な結論が出ていないと思えるのです。

これまで、宗教的にしは、「出世」「肩書」「金銭」といったものはともすれば罪悪感として言われていることのほうが多かったわけですが、そのように見ると、ビジネス社会のなかにおいて宗教倫理の働く余地はなくなります。

だた、「本当にそれでよいのかどうか」ということです。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正業」166pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第二章 叡智の言葉 
○中道

私は、あなたがたに、よくよく言っておきたいと思う。
人は、ともすれば成功とともに階段を上ってゆくが、
その時に、同時に自分は失敗への階段を降りているということも、
忘れてはならない。
成功への道と、失敗への道は、
その傾斜が急であればあるほど、
また明らかに、くっきりと、
表裏一体のごとく現れてくるものであるのだ。
成功することのない人は、失敗をすることもなくないであろう。
しかし、多くの成功する者は、多くの失敗をすることもあるであろう。
人生は、このように、
常に、右と左、上と下とが、
あざなえる縄のごとく、現れてくるのだ。
このように、幸福も不幸も
同一の縄の、上と下の部分であることを忘れてはならない。

あなたがたは、縄を持って波打たせたことがあるであろう。
縄が波打つとき、
縄の山となる部分と、谷となる部分は、
まったく別のものではないであろう。
去るとき、同じ縄が山となり、
また、ある時、谷となって地を打つであろう。
そのように、あなたがたの人生も、
山となり谷となることがあるであろう。
しかし、私はその時にあなたがたに言っておきたい。
自らの心に誠実になり、常に中道を旨とせよと。
中道の理論は、決してあなたがたを成功させない理論ではなく、
決して、
あなたがたを失敗の淵(ふち)から引き上げることのみを考えた理論でもない。
中道の理論は、まさしく人生の王道であるのだ。
人生の王道がここにあるということを知りなさい。
すなわち、成功の時には、得意の時には、また上げ潮時には、
常に、自らを戒め、謙虚に生きるように心がけなさい。
謙虚であると同時に、
他の人びとや仏に対する感謝を忘れてはならない。
成功の時に、順調の時に、謙虚さと感謝を忘れない人間であるならば、
さらに、その成功は大きく続いてゆくであろう。
その成功がいくら大きくなったところで、
それを中道から外れたとは言わないのだ。
中道から外れない成功とは、
謙虚さと感謝をともなうものなのだ。
謙虚さと感謝をともなう成功は、
これは常に中道のなかにある。
それは、すべてのものを生かしてゆく道であるからだ。
自らが成功することが、
他の者の失敗を呼びこむようであってはならない。
自らの成功が、他の者を傷つけることであってはならいない。
自らの成功が、他の者を不幸にすることであってはならない。
成功への道は、万人を生かす道でなくてはならない。

万人を生かす道は、大いなる道である。
広い道である。
平坦な道である。
そして、限りなく遥か彼方まで通じる道である。
これを中道の道というのだ。
この中道の道は、黄金の道でもあるのだ。
黄金のカラーで輝いている道、
それが中道の道でもあるのだ。
諸人よ、このことを知りなさい。

○魂を光らせるもの
しかして、諸人よ、
あなたがたは、不幸のさなかにあって嘆き悲しんではならない。
不幸のさなかにあってこそ、
あなたがたは中道に入る資格が生まれてくるのだ。
不幸のなかにあって、あなたがたの多くは、
自分の人生を悔いているであろう。
自分の過ちをつくづくと、つぶさに観察したことであろう。
自分の情けなさを身にしみて感じたことであろう。
そのような時、あなたがたは、
まもなく黄金の道に入る準備をしていると言ってよいのだ。
あなたがたは、失意のなかから、また立ち上がらねばならない。
なぜならば、あなたがたも、また、仏の手足であるからだ。
あなたがたも、仏の偉大なる生命の一部であるからだ。
そうしたあなたがたであるならば、
決して失敗ということは、この世にないのである。
決して挫折ということは、この世にないのである。
決して不幸のまっただなか、不幸のどん底ということはないのである。
そのような失敗や、挫折や、不幸と見えるものは、
すべて、あなたがたの魂を光らせるためにこそあるのだ。
魂を光らせるための砥石であるのだ。
このように考えてゆきなさい。
これが仏法の根本であるのだ。
私は、苦難や困難を、この世に存在しないとは言わない。
また、苦難や困難が、あの世に存在しないとも言わない。
しかし、苦難や困難は、それ自体が善としてあるのではない。
それ自体、存在が許されてあるのではない。
私は、そう思う。

苦難や困難は砥石としてのみ、存在が許されている。
苦難や困難は、魂を磨き、魂を光らせるための、砥石であり、
魂を光らせるがための、サンドペーパー、
そう、やすりでもまた、あるのだ。
人びとよ、このように捉えてゆきなさい。
さすれば、今、苦難のなかにあるときに、
運命が教えんとしていることを知り、
そして、それを自らの糧としなさい。
自ら自身への戒めとしなさい。
失敗を教訓としなさい。
そして、また中道の道へと帰ってゆきなさい。
中道の道を歩く時に、
またしても同じような危険があなたがたを襲うこともあるであろう。
その時に、すでに蓄えた知識を、
すでに蓄えた経験を、
すでに蓄えた智慧を、生かしなさい。
あなたがたは、同じ失敗を繰り返すことはないであろう。
それは、あなたがたが経験したことが、
経験から学んだことが、
経験から学んだ教訓が、
そして、そこから生まれた叡智が、あなたがたを守るからだ。
あなたがたに、あなたがたの額に、光を飾るからだ。

それゆえに、失敗を恐れてはならない。
それは、あなたがたが将来もっと大いなる成功を収め、
もっと大きな失敗から身を守るために、
あらかじめ仏が与えたもうたワクチンだと思いなさい。
仏が与えたもうた予防接種だと思いなさい。
あなたがたの魂を鍛えるために、
あなたがたの人生を、より多くの光に満ちたものにするために、
与えられたものだと思いなさい。
こうして中道の道に入(い)るときに、
あなたがたには永遠の光が約束されているのだ。

【大川隆法『仏陀再誕』第二章「叡智の言葉」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第五章 縁起の法
6 地獄の思想

縁起の法について、さまざまに述べてきました。縁起の思想の延長上には何があるかと言えば、「天国の思想」および「地獄の思想」があります。

キリスト教と異なり、仏教理論の精緻(せいち)なところは、天国や地獄の様相について、ある程度の詳細な説明があることです。これは、釈迦が、生存中に天国・地獄のさまざまな世界について見聞していたことが、発祥の元、発想の源泉となっているのです。

釈迦は、瞑想中によく肉体を抜け出しては、天国・地獄を見てきていました。そして、側近の弟子たちに、「私は今日、こういうところへ行ってきた」という話を、ずいぶんしていたのです。そうした話を聴くにつれて、次第に弟子たちも天国や地獄のありさまを明確につかみ、それを信ずることができるようになっていったのです。

仏教においては、地獄の世界が非常に明瞭に打ち出されています。キリスト教ではこの点の理論化が遅れており、「キリスト教を信じない者は地獄に堕ちる」と言われてはいても、地獄がどのような世界なのか。具体的には分かりかねる面があります。

仏教における「地獄の思想」は、その描写が非常に克明であるであるということが特色です。地獄にいる人たちの容貌、地獄の様相などが、非常に明瞭に説かれています。

その理由は、釈尊が高度な霊能者だったこと、また、時代を下った人もふくめて、釈迦弟子達にも霊能者が非常に多かったということです。それゆえに、あの世の世界のなかで、地獄がいかなる世界であるかを、実際につかむことができたのです。

地獄の思想の内容には二つの柱があります。

第一の柱は教育効果ということです。

人間は、「死ねば何もかも終わりだ」と思えばこそ、この世でのさまざまな快楽に魂を奪われ、執着に身を焦がして生きていくわけですが、仏教では、「来世は厳然としてあり、地上において悪しき思いと行いで一生を生きた人には、間違いのない裁きが下る」と説かれています。これは非常に恐怖心をそそるものだったために、これによって人びとが信仰心を強くした面もあったのです。

これはいつの時代も同じです。一定のレベル以上の魂になれば、高次な教えに耳を傾けることができますが、そこまで至っていない魂たちは、「自分の身に、何ら厄災が及ぶかもしれない」と思うと、初めて信じ、学ぼうとするのです。これは一つの方便と見てもよいでしょう。

第二の柱は、人間の真の姿とは何かを明らかにしているということです。

すなわち、地上を去った世界はまったく心だけの世界であり、心が悪鬼のようであるならば、鬼のような外見となって彷徨(ほうこう・さまようこと)することになります。また、心が亡霊のごとくであれば、亡霊の姿になるのです。

それは、「心というものが、どれほど実体を持ったものであるか」「悪しき心を持つことが、どれほど悪しき現象を呼び起こすものであるか」ということを、明確に表しているのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第五章「縁起の法」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史 

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