(2/14-2)45『仏陀再誕』を読む―叡智の言葉―心の糧―自由意志の本質

『仏陀再誕』を読む

50 伝統的に、天狗は八ツ手の葉っぱを持っているとされる。風を吹かせて、風雲を巻き起こすのが大好きなのである。ただし、「勢い」が好きで、堅実な仕事、手堅い仕事、末永い成功を収めるのは苦手である。短期で成果を出して、賞賛を得るのが大好きである。

51 これ以外の武器としては「隠れ蓑」がある。ハリーポッターの透明マントのようであるが、「天狗」の姿を隠して、上品な「紳士」や「淑女」のように、キーパーソンに近づく術を持っている。しかし、化けの皮が剥がれるのは、割合早い。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

52 ある時、黒縄(こくじょう)地獄を見た。生前、間違った法律を作ったり、間違った裁判をやった人々、間違った医療活動をやった人々が、全裸に、黒い墨縄(すみなわ)を打たれ、鬼たちに、鋸(のこぎり)引きされていた。最先端医療をやっていたと豪語する医者は、外科医に化けた鬼たちに、電動のこぎりで斬られていた。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第2章 現代の武士道
1 日本的精神の一つ、「武士道」について語る
〇この世を去らなければならないときは、確実に来る

人生は、普通に行けば三万日、長くても四万日も生きられる人はそう多くはいません。人生を三万日前後と考えると、目の前に葉っぱをつけた大きな木があるとして、ちょうど、その葉っぱが一枚一枚、落ちていくような状態だろうと思うのです。

確実に、一日二十四時間は過ぎ去っていきます。

みなさんも、みなさんの前で話をしている私も、毎日毎日、葉っぱが一枚ずつ確実に落ちている状態なのです。この木に生えている葉っぱの最後の一枚、最期の一葉が散ったときには、確実に、この世を去らなければならないことになります。

これは逃れることのできない運命です。それは、仏教を学んだ人であっても当然のことかと思います。

また、その三万日の葉が、ゆっくりと一枚一枚、散ってくれるとは限りません。台風や暴風雨が襲ってくるようなときもあれば、洪水や津波のようなものもあるでしょう。

また、ちょうすどこの説法をした当日、世界遺産である沖縄の首里城が火炎に包まれて燃えてしまうということがありました。【※説法当時2019年10月31日】原因はよくわからないままですが、そういうこともあるわけです。その少し前には、日本は風攻め、水攻めでそうとう苦しみましたので、一瞬、「次は、火攻めか」と思ったのを覚えています。

そのように、永久にあると思っていたものが、永久のものではないことがあるわけです。

昨日まで、そこに頑固に立っていたもの、確固として百年後もあるだろうと思っていたようなものが、今日のうちになくなってしまうこともあります。風が吹いても、雨が降っても、地震が来ても、火事が起きても、なくなることがあります。

同じことがわれわれ人間にも言えるのであって、自然に生きれば三万日ぐらいは生きるであろうけれども、何があるかは分からないわけです。

渋谷を歩いていても、風速四十メートルの突風が吹けば、命を失う恐れはあります。雨よけをしようとして傘を差しても、突風が吹けば、命を失うこともあるかもしれません。

また、海からやって来る津波から身を護るために堤防を高くし、「これなら大丈夫だろう」と思っていても、今度は、山から洪水が襲ってきたときに、堤防を強化したために水を海に流すことができず、裏からの水攻めで村が水没するというようなこともあります。

あるいは、風速六十メートル近い台風風が吹いたために、横綱が鉄砲突きをしても倒れることはないであろうと思われる鉄柱や、コンクリートの電柱が、風で倒れるという、まさかと思うようなこともあります。太陽光発電のパネルが風に煽られて燃えてしまい、使えなくなるというケースもありました。

そうした自然のものは、いろいろなことを想定して、安全を考えながら国土の強靭化を進めていたとしても、それでも、人智を超えてやってくるものはあるということです。

【大川隆法 『現代の武士道』第2章「現代の武士道」より抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
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6言葉で人をつくる【正語】
○心を鬼にして叱らなればならないときもある

それともう一つ、「言葉」のところで述べておきたいことがあります。それは、「叱ると怒るの違い」ということでもよく言われますが、厳しい言葉を言わなければならないときもあるということです。このことを忘れてはいけません。

「これは間違っている。いけない!」と思ったときには、その人に言ってやらねばならいないのです。それはちょうど赤信号のときに横断歩道を渡っている子供に対するのと同様です。そのときには、口は荒くても「言ってはいけない。戻れ!」と言わなければなりません。

同じように、その人の人生の岐路において危険な領域に入っているとき、たとえて言えば、崖から落ちそうなときには、もう殴ってでも突き飛ばしてでもよいから救ってやらなければならないところがあるのです。それが厳しい言葉となって現れることもあります。厳しい面を出さなければいけないところもあるのです。

そうしたところを出せないがために苦しんでいる人もたくさんいます。そのようなタイプは、宗教的人格のなかに非常に多いのです。本当は「その一言が言えなくて…」ということはあるのです。それは男女関係においても多いでしょうが、宗教的人格のなかに多いのです。「これはいけないな」と思いながら、その一言が言えずに、なあなあで過ごしていると、やはり、だんだんに違ったほうへ行きます。その一言を言う勇気がないために、結果として、自分が反省し、相手も大変な反省をしなければならなくなることがあるのです。

仏法真理を学ぶような人にとっては、ここがつらいところです。「心を鬼にする」というのは難しいことでしょう。しかし、やらなければならないこともあるのです。こういうときには、「自分は俳優だ」と思ってやることです。その場その場における”悪人”にならなければならないことがあるのです。その人を本当に救ってやらねばならないときには、心を鬼にして、”悪人”になるべきこともいるのです。

このようなことは、私も体験上、感じています。仏法真理を勉強して修行していると、やはり善人でありたいものだから、他人に厳しいことは言いたくないわけです。耳触りのよいことだけを言って、厳しいことは言いたくないと思います。しかし、そうしていると、だんだんにうぬぼれが出てきたりして、おかしくなっていくのです。

したがって、危険領域に達したら、やはりズバッと言ってやらねばならないのです。これを言い損ねたら、命を失わせてしまいます。心を腐らせるということは、それはもはや命を失うのと同じことなのです。ですから、悪を犯させてはいけないのです。そういうときには、心を鬼にして警告をしなければなりません。

〇ある程度の限度に来た段階で、分割して叱る
会社勤めをしている人などもそうです。部下や同僚のなかには間違っていると思うような人もいるでしょう。日ごろはそういう人のことを、ある程度まで我慢して受け入れ、忍耐しているかもしれません。しかし、危険領域を超えたときには、やはり、警告しなければなりません。

「言っておくが、これは一回目の忠告」「これは二回目。三回目のときには覚悟しろ」などと言うような人は怖いです。商社時代の私もよく言っていました。「警告、一回目」「警告、二回目。この次は覚悟しろ」と言っていました。当時の私は厳しかったのです。私の後輩や部下は、ビリビリしていました。今は幸福の科学の総裁ということでニコニコしていますが、実は、ものすごく怖いのです。じっと見ていて自由にさせて、たまに「これは一回目の忠告だ。覚えておけ」「これは二回目」と言うわけです。三回目までは行かずに済むことが多く、たいていは二回目までで済みます。このように、言わなければならないことがあるのです。

相手が上司であっても、こういうことはあるかもしれません。言わなければならないことがあるかもしれません。

いっぺんに爆発することができない場合には、分割することです。いっぺんに爆発して人格を失ってしまい。天井も突き抜けるかというような怒りを発する人もいますが、ここまでやってしまうと、あとで取り返しがつきません。人間関係が完全に崩れてしまって、以後、その人は異常な人格と見られて、周りから変人と思われますし、言われた本人は、もう恐ろしくて近寄れなくなるでしょう。「二時間も説教されて、若手の社員が引っ繰り返った。」などという話がよくあります。優良会社の部長といった人のなかには、そういう厳しい人もいますが、やはり、そこまでしないようにしてください。

したがって、ある程度の限度に来たときに、一回目、二回目と、三分の一ずつ出していくことです。三分の一ずつ出して、三回目まで行かせないところで押さえることも大事です。

ほめ言葉で人をつくっていくことは非常に大切なことでもありますが、その逆もたまにはあります。それは「良薬は口に苦し」の部分です。ときには口に苦い部分も必要なのです。

ただ、本当に相手を憎んではいけません。その人によかれと思って言ってやらねばならないこともあるのです。そのときには、断固として言うべきです。必要なときには「怖い男」「怖い女」にならなければなりません。そうしなければ、ブレーキが踏めないこともあるのです。これは覚えておいてください。しかし、いつもいつもすることではありません。

なお、以上は、一般向けの解説です。

仏教的に分類すると、「正語」は「真実語」、つまり自らの良心に恥じない言葉を語ったか。「悪口(あっく)」、言葉で他人を傷つけなかったか。「妄語(もうご)」、悟りを偽らなかったか。「綺語(きご)」、他人を迷わし、うぬぼれさせなかったか。「両舌(りょうぜつ)」、AさんとBさんに別のことを言い、わざと仲違いさせなかったか。などの細かい点検項目もある(『太陽の法』第2章第10節参照)。

【大川隆法『真説・八正道』第四章「正語」157pより抜粋】
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今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
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第二章 叡智の言葉 

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
今生にて、ふたたび、相見(あいまみ)えることができたことを、我は嬉しく思う。
我が言葉をよく聞きなさい。
私は、常づねあなたがたに言っていたはずだ。
「あなたがたは、常に心の指針を持ちなさい」と。
「心は、常に右に揺れ、左に揺れするが、
あの北極星を目指すがごとく、心の指針を持ちなさい」と、
常づね語っていたはずである。

○心の糧
この心の指針こそ、叡智の言葉にほかならない。
あなたがたは、数多くの叡智の言葉に接し、
その叡智の言葉を、己の糧として生きてゆかねばならない。
人びとよ、
叡智の言葉は、そこにあり、かしこにありというものではない。
叡智の言葉は、あなたの人生の途上において、
あなたに必要な時に、必要なかたちにおいて与えられるのである。
今日(こんにち)、我が言葉も、
数多く叡智の言葉として記録され、読まれてはいるが、
しかし、その語られた時、その語られた場所、その語られた相手は、
必ずしも特定してはいないし、
それが誰に対して、どの場所で、いかなる方法で、いかなる時に、
語られたものであるかを、読む人の多くは、知りはしない。
しかし、言葉というものは、たいへん難しいものだ。
その所を得、その人を、その相手を得、その時を得なければ、
真実の力を持つことは難しい。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
この私の語る言葉も、私の説法も、
やはり、あなたがたの心境、あなたがたの時、
そうしたものによって、その受け取られ方は、違ってゆくのだ。
したがって、
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
我が言葉を、自分流にのみ受け取ってはならない。
我が言葉の真意を探求しようとせよ。
我が言葉は、必ずしもあなた固有の問題に答えているわけではない。
我が言葉は、多くの人々のために語られている。
多くの人びとに語られた我が言葉のなかから、
あなたがた一人ひとりの心の糧となるべきものを選びとれ。
あなたがたの心の琴線を、つまびくものを見出せ。
あなたがたにとって、普遍的でもあると思える言葉を選び出せ。
それが叡智の言葉であるのだ。

○自戒の言葉
人びとよ、人間は順調なときにはともすれば慢心する。
順調な時に慢心しないためには、自戒の言葉が必要だ。
自らを戒める心がけが大事だ。
そうした、自戒の言葉を常に胸に刻み、口ずさみ、
そして、脳裡(のうり)に描き続けることだ。
自戒の言葉とは何であるか。
それは、
得意の時に忘れがちであることは、
どうしても自分の力を過信するということだ。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
自らの力を過信してはならない。
自ら起こした行動の結果、素晴らしい成果を上げたとしても、
そのことを過信してはならない。
過大評価してはならない。
そのことを自分の手柄だと思ってはならない。

あなたがたは永遠の生命につながっている。
偉大なる大霊の生命とつながっている。
あなたがたは、仏の生命と一体であり、
あなたがたは、仏の生命の一部でもあるのだ。
それゆえに、仏を信ずる時に、
その法を行ずる時に、
数多くの偉大なる業績が出るであろう。
数多くの偉大なる事績が出るであろう。
数多くの偉大なる奇蹟が現れるであろう。
しかし、己が手によって行なったと思うな。
それは、あなたの命が、
偉大なる生命につながっているからこそ、
成しえた奇蹟であるのだ。
偉大なる叡智といったいであるからこそ、起こりえた事績であるのだ。

諸人よ、あなたがたのみの力によって成しえるものは、
この宇宙のなかには何一つないということを知れ。
あなたがたは、大いなる仏の掌(てのひら)の上にあるということを知れ、
大いなる仏の掌ありてこそ、
その上を歩きうるあなたがたがあるということなのだ。
この掌を閉じれば、宇宙は暗闇となる。
この掌を開けば、宇宙は無限の明るさのなかにある。
あなたがたは、仏の掌の上にありて、
今、自らが生きているということを忘れてはならない。
自ら一人の力においては、何事も成就するものではないのだ。
あなたがたが成就したと見えるものは、
仏の力を得て成就したのである。
そうした心がけを忘れてはならない。
この偉大なる宇宙の秘密を、
常づね心に刻んでおく必要があるということなのだ。

【大川隆法『仏陀再誕』第二章「叡智の言葉」より抜粋】
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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第五章 縁起の法
5 自由意志の本質

運命について考えてきました。ここで問題になるのは「自由意志」です。

自由意志が存在するか否かと言えば、やはり、「ある」と言わざるをえません。ただ、自由意志はあっても、それが外部要因によってある程度の制約を受けているというのが真相なのです。

たとえば朝の満員電車のなかで、みなさんは、目的の駅の着くまでのあいだに、最後尾の車両から先頭の車両まで移動することができるでしょうか。人垣を押しのけて進んでいくことは不可能に近いと思います。本来は手や足を使えば移動することができるはずですが、そこに他人が介在した場合には、難しくなるのです。

同じく電車の最後尾から先頭車両へ移る場合でも、昼間の電車であれば、おそらく楽に移動することができるでしょう。しかし、ラッシュ時にそうはいきません。自由意志の問題を解く鍵は、まさしくここにあるのです。

人生には、自由意志だけではどうにもならない外部環境が出てくる場合もあれば、自由意志で道が開ける場合もあります。自分がいま直面している問題がどちらに属するかは、そのときどきの判断によります。

そして、みずからの努力のみでは道が開けない場合、すなわち、満員電車のなかのような場合には、他の方法を工夫しないかぎり、自分が思うとおりには動けないのです。

その際、一つには、時を待つという方法があります。つまり、人びとが降りて、電車がすくまで待つのです。

いま一つは、最後尾の車両を降り、駅のホームを歩いて、先頭の車両の向かうという方法です。ただ、この方法は、車両のなかを移動するという前提をはずしてしまうので、特殊な方法を使って自由意志を発揮することを意味します。

これが実は、人生が思わぬところで前後際断され、運命が変化する瞬間でもあります。尋常なやり方では道が開けないときには、思わぬ活路を見いだして、道を開くこともできるのです。

したがって、自由意志にも二段階あると考えてよいのです。

第一の自由意志は、通常に考えられる範囲での自由意志です。すなわち、「無理がきかないのならば、時を待つしかない」という意味での自由意志です。

第二の自由意志は、ホームに降りて乗換をする乗客のごとく、勇気を持っていったん車両の外に出て、別の車両に移るという特殊な方法です。

仏道修行を積んで悟りを得るというのは、結局、混んだ電車のなかで前の車両に移動できない人が、いったんホームに飛び出すことに相当します。もちろん、急いで降り、急いでまた乗らなければ、ドアが閉まってしまうという危険がともないますが、それは仏道修行の厳しさに似ていると言えるかもしれません。

つまり、悟りを求める修行が特殊な活路を開くということです。自由意志の問題も、こうした方法論をとった場合には、予想外の結果を収めることができるのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第五章「縁起の法」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史 

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