45 「天狗」の第三の特徴は、そのトビのような口ばしにある。ピーヒョロヒョロと鳴くトンビのような口ばしである。相手の弱点を攻撃する鋭い言論攻撃になったり、相手の弱みをえぐる鋭い一撃を加えることがある。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
55 ある時、貸し渋り、貸しはがしをした銀行家が、ハゲタカに、クチバシで、目玉も、内臓も、えぐられていくところを見た。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第1章 武士道の根本―武士道の源流―
4 武士道とフォースの関係について
〇姿を変えて存在する「武士道」と「剣禅一如」の精神
そのように、武士道は、剣以外のところにも、実際はあるのかもしれません。そうした「精神力」「フォース」と、「剣技」あるいは「武器を使った戦い方」というのは、ミッスクされたものだろうと思うのです。
カンフーなども、そういったところはあると思います。体が大きく、力が強い人だけが、必ずしもカンフーが強いわけではないでしょう。
実際、中国人たちに、「宇宙最強」というようにも言われているイップ・マン(特に、ドニー・エン演じるイップ・マン)なども、そんなに体が大きいわけでもありません。体重も、おそらく、私より少し軽いぐらいだと思います。”宇宙最強の方”は、体格的に、ものすごく強い体というわけではないのです。
また、イップ・マンが継承している「詠春拳(えいしゅんけん)」の創始者は女性だともいいます。詠春拳は守りの拳法ですが、アベンジャーズ代わりに、「宇宙最強」と中国では言われています。だいたい、前に構えて、自分の身を護りながら攻撃する拳です。専守防衛しながら攻撃する拳で、私もやっていますが、「物腰が柔らかくて、とても女性的な感じがするのに、ものすごく強い」という拳法なのです。
そのように、武士道は姿を変えながら、いろいろな所に存在するのだろうと私は思います。そして、「そういった秘密を知って生きること」は大事なことだろうと思うのです。
普通のペーパー仕事をしていたり、経営判断をしたり、あるいは、私のように、大きなところで行事をするなど、いろいろなことをすることもありますが、すべてが「剣禅一如」のようなところもあるし、やはり、そうしたフォースの力を使っていると自分では思います。「鍛えられた精神力」と「体力」とが一体になって、仕事をしているような気はするのです。
そうした一面については、まだまだ探究の余地があるということを、みなさんにも、どうか知っていただきたいと思います。
これが、「現代の武士道」(本書第2章、第3章)の補足として言っておかなければいけないと思ったことであり、「武士道の根本―武士道の源流―」ということについての法話です。”付録”が少し長くなって、どちらが本編か分からなくなりましたが、自分としては、「現代の武士道」だけで本一冊にするのは納得できなかったので話をしました。
ほかにも言えることはありますが、概論として、いろいろなことについて言及できたのではないかと思います。(完)
【大川隆法 『現代の武士道』第1章「武士道の根本―武士道の源流―」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
3プライドを捨て、素直に謝罪する【正語】
〇自分に間違いがあったり相手の感情を害したりしたりしたら、素直に謝る
プライドの高い人は、自分を救いたくて、自分をどうにかしたくて、かわいくて仕方がないのです。そうであるならば、間違ったら素直に謝ることです。
他人の感情を害したと思ったら、もし、それが誤解によるものであったとしても、自分に縁として起きたことであるならば、「それは自分の表現の仕方が悪かった」と素直に認めるぐらいの度量は要るでしょう。
コミュニケーションというものは、百パーセントは行かないものです。たとえ、「自分の真意はそうではなかったけれども、みんなに誤解されている」と思い、真意とは違っていることがあったとしても、誤解されたのであれば、そのコミュニケーションの仕方に間違いがあったということですから、その部分は認めなければいけません。
それは自分の表現が悪かったのです。その部分については、やはり自分に間違いがあったのです。「本心においては間違っていない」と言い張りたいところでしょうが、理解されなかったということはコミュニケーションの仕方が悪かったのです。あとになって、「本当はあなたを愛していた」などと言っても、もはや手遅れになっているようなこともあるのです。
したがって、コミュニケーションが悪かった部分についても、自分の責任として受け止めるべきです。相手が誤解したのであるならば、誤解させるような言い方をし、行動したのは自分の責任です。最低限、その部分については反省をしなければなりません。
もちろん、それでも分かってくれない人はいるでしょう。しかし、そこまで言っておけば、少なくとも自分自身としては、いちおう眠れるようになります。これだけは確実なことです。
【大川隆法『真説・八正道』第4章「正語」146pより抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第一章 我、再誕す
○高次なるもののために
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
執着を断てと語った、私の教えを思い出すことができるであろうか。
執着と語ったものの内容を思い出すことができるだろうか。
人間の地上での意志はともすれば弱くなり、肉体に隷属しがちである。
肉体の欲望に、
あるいは肉体を基盤として発生するところの欲望に流される。
そういう傾向があると、私は語った。
人間の欲そのものを悪しきものとは言うまい。
なぜならば、人間も一種の生物として
その種族の保存という、法則のもとに生きているからだ。
しかして、この種族の保存は、
ただ単に、動物・植物のように
保存されることのみをもって、よしとはされない。
あなたがた、法を学んだ者たちは、
やはり、それ以上のものでなくてはならない。
単なる地上での生存を目的としてはならない。
地上での生存は、生存以上の目的があって、
はじめて肯定されるものなのである。
したがって、生存のための手段を、目的と間違えてはならない。
生存は、
それはより高次なるものを支えるための手段であるということ、
地上に生存するということ自体が、
より高次なる目的に奉仕するものであるということ、
それを忘れてはならない。
あなたがたにも、欲望はあるであろう。
その欲望そのものは、
あなたがたの生命力と不可分になっているであろう。
欲望すべてを断つということは、
生命力を断つということにも等しいかもしれない。
それゆえに、私はつねづねあなたがたに語っていたはずだ。
淫らな想いを断てと、
よこしまな想いを断てと、
そのように語っていたはずだ。
よこしまなる金銭欲を断て。
よこしまなる支配欲を断て。
よこしまなる飲食壁を断て。
そうしたことを、私は言っていた。
淫らな言葉を語るな。
よこしまなる心のもとに行動するな。
そうしたことを、いつもいつも我は語ってきたはずである。
○正しき心の探求
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
この我が教えが、
今、いかに展開されているかを気づいているか。
我は今世、正しき心の探求を標榜しているはずである。
これは、過去、わが教えたところの、
よこしまなる欲望や、淫らなる考えや、
邪悪なる感情を排除せよと言ったことと、まったく同じであるのだ。
これは、別の側面から見たならば、
正しさの探求ということであるのだ。
あなたがたは、正しい道に入らねばならない。
正しい道を探求せねばならない。
正しい道を探求するためには、
人間として生きている途中で生まれてくるところの、
感情や想念や行為を統御してゆかねばならない。
自分の心のなかに浮かんできたその想いを、統御せねばならない。
自分の行動の動機を統御せねばならない。
そしいて、自分の行動が、
もし、悪なる行為を意味しているならば、
それは、すなわち反省を必要とするものなのだ。
我は許しの原理をも、あなたがたに説いたはずだ。
人間である以上、間違った念いを心に抱くこともあるであろう。
人間であるからには、間違った行為をしてしまうこともあるであろう。
完全無欠でない、地上の迷える人間である以上、
そうした誘惑に身をさらし、
そうした誘惑のなかに、生きてゆかねばならぬことは、
数多くあるであろう。
しかれども、自らがそのような苦しみのなかにあることを、
嘆き、悲しんではならない。
自らがそのような苦しみのなかにあっても、
あなたがたには、反省という行為を通して、
自らの悪を消し、自らの心を清める方法が与えられているではないか。
これが、常づね私があなたがたに説いてきた
八正道ということではなかったか。
よくよく、それを考えなさい。
【大川隆法『仏陀再誕』第一章「我、再誕す」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第五章 縁起の法
2 因果の理法
縁について簡単な説明をしましたが、次に「因果の理法」について語っていきましょう。これも仏教のなかに色濃くある教えです。
たとえば、「今世で夫婦になったのは、過去世で縁があったからだ」という考え方があります。この考え方を一般的に展開すると、「ある原因行為があると、それが何らかの結果を生むことになる。よい原因をつくると、よい結果が生まれ、悪い原因をつくると、悪い結果が生まれる」という法則になります。
これは人生における最も基本的な法則の一つであり、仏教が哲学としても成功したのは、因果の理法について深い洞察がなされているからです。
親子や兄弟、夫婦の縁が、今世のみならず過去世からもきている理由は何でしょうか。過去世において、親子や兄弟、夫婦であって、「お互いに幸福だった」という思いがあるからこそ、今世においても、親子や兄弟、夫婦の縁となって表われてきているのです。
このように考えると、「人間は日々に因果の種をまいて生きている」と言えます。日々に種まき作業を行ない、その結果、まいた種がどのように発芽し、どのように成長していくか―そこに成果が見られるようになります。
したがって、因果の理法は仏教における成功哲学であり、また、幸福哲学でもあります。仏教は人生の苦しみばかりを説き、苦悩ばかりを見つめたように語られがちですが、実はそうではありません。多くの偉大な哲学者がそうであったように、釈迦もまた幸福哲学を説いたのです。そして、仏教の幸福哲学は何に集約されるかというと、それが「因果の理法」という言葉なのです。
すなわち、幸福という結果を手に入れるためには、幸福という果実が実るだけの種をまき、水や肥料をやり、日ざしをあてて、成長させる必要があります。これが成功哲学の一法則なのです。
これはあらゆるところに見受けられる法則です。「一生懸命に努力すれば、その努力は必ず何らかの形で実る」というのは、人間の経験則にもあてはまることです。
なかには、一生懸命に勉強したけれども、大学受験に合格しなかったということもあるでしょう。しかし、一生懸命に努力したことは、本人の将来のどこかで必ず良い影響を与えるものです。また、「悪事、千里を走る」といいますが、悪いことをしていると、やがてどこかで必ず露見し、破滅を生むことになるのです。
このように、人生を一つの法則、運動のダイナミズムとしてとらえるならば、「人生は原因・結果の連鎖によってできている」と言えます。まいた種は、今世では必ずしも実らないかもしれませんが、少なくとも朝顔の種をまかねば、朝顔の花は咲かないことも事実なのです。
それゆえ、釈迦は次のように説きました。
「みずからの不幸という結果を嘆いてばかりいるのではなく、将来に向かって、幸福の種をまいていきなさい。そのために、努力・精進があるのではないのか。そのために、人に布施をするのではないのか。そのために、多くの人びとを教化し、導こうとするのではないのか。
そうした功徳が、結果として、その人を幸福にしていくのではないのか。この地上では、結果が出なくても、天に還ってから、やがて必ずどこかで、その収穫に巡り合うことができるのではないのか。このように、『天の蔵に宝を積む』という考え方もあるのではないのか」
したがって、「因果の理法は、時間の流れのなかにおける一種の幸福論である」ということに気づかされるのです。
【大川隆法『釈迦の本心』第五章「縁起の法」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。
大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生
映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます
本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります
■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■
①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。
②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。
シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。
本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。
③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。
主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。
④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。
純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。
■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
エル・カンターレ・大好き
■
文責:蒲原宏史
(2/11-2)42『仏陀再誕』を読む―我、再誕す―高次なるもののために―因果の理法
