冒頭引用
80 しかし、仏法護持のための竜神は、神獣であって、妖怪とは見なされない。ただ妖魔界や地獄には、地をはう竜や、空を飛ぶ竜がおり、他の妖怪や、地獄界の住人を恐怖に陥れている。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
↑ ページ上部へ24 元・女優が、下着を洗わずに積み上げ、使用済みの生理用品も積み上げて、家を汚くしていた姿まで、一瞬見て取れた。(もちろん糞まみれの豚の姿である。)
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
祈りのことば(感謝と復活の祈り)
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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↑ ページ上部へ『地球を包む愛―天御祖神の教え』抜粋
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さて、先ほどから「天御祖神(あめのみおやがみ)」という言葉が出てきております。(編集注。本法話の前に、奉納曲映像として「天御祖神の降臨」が上映された)。日本神道のなかでも、知っている方はそう多くはないと思います。
というのも、日本での日本神道というのは、鳥居がある神社の信仰ですけれども、日本の土着信仰ではありますが、日本神道そのものが「日本の歴史を三千年弱、二千七百年程度までしか遡れない」という認識を持っています。まあ、記録が充分にありませんので、それは仕方がないことでもあるのかもしれません。
私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、「実は、日本文明というのは、今から三万年前ほど前に天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから始まっている」ということを何冊かの本で説いております。
今日も、天気は悪かったのですが、遠くには埼玉県から富士山が見えておりました。あの富士山の近くに「第二富士」があったのです。
富士山に似たかたちですが、少し小さい、小ぶりな第二富士がありまして、三万年前に天御祖神が、いわば「天鳥船(あめのとりふね)」という宇宙船ですけれども、これでアンドロメダ銀河から降臨してきたとき、この第二富士の上に着陸したので、重みで第二富士が潰れました。そして、裾野の広い丘のような形になっています。そのとき飛来したものの一部は、まだ富士の裾野から静岡県側のほうに埋まっているものもありますので、これはいずれ明らかにしたいというふうに思っております。
何が言いたいかと申しますと、日本に流れる宗教的思想、その源流は、考えている「三千年」という流れではなくて、その十倍、「三万年」前から実は始まっているということです。この中身について、今日、一部は触れたいと思ってはおりますが、それは「日本的な宗教」で、「日本のみで信じられた宗教」という意味ではありません。
今から三万年前、この日本列島というのは海に囲まれた小さな島ではなくて、南の方も北の方も、大陸のほうと一部つながっておりましたので、人の交流も動物の交流もございました。
ですから、三万年前の天御祖神の教えは、姿形を変えてユーラシア大陸のほうにも広がっていきました。その内容を細かくお教えするには、もう少し時間がかかるかとは思いますが、その事実だけをまず述べておきたいというふうに思います。
「日本という小さな島国に大陸のほうから人が渡ってきて文化が伝わった」とか、「南のほうから島伝いにカヌーで人類が来て日本文明ができた」とか、まあ、だいたいそんなところが言われていることであろうと思いますけれども、私が言っていることは根本的に違っている内容になっています。
ただ、この天御祖神という存在自体は、『古事記』『日本書紀』には出てきませんけれども、そのより前に編纂された『ホツマツタヱ』という昔の歴史書には出てまいります。おそらく、『古事記』『日本書紀』という日本の歴史書は八世紀の初めぐらいにつくられたものですけれども、この『ホツマツタヱ』に書かれている天御祖神の姿はどう新しく見ても紀元前四世紀ぐらいで、実際はもうちょっと前と推定されているので、二世紀に入るところに、だいたい内容は成立していたのではないかというふうに思われます。
ですから、天御祖神の教えがかたちとして編纂されたのは―、キリスト教の『聖書』は「イエスが紀元前四年に生まれて、紀元三〇年ぐらいに亡くなられて、紀元七〇ぐらいでユダヤ民族そのものがマサダの砦で滅びて、それから、だいたい二世紀に入るころぐらいまで、一世紀の終わりから二世紀に入るところに口伝、口で伝えられた教えが編纂されたものだ」とキリスト教では思われていますが、だいたいその同じ時期に、日本でも記録としては遺っていたもので、その前から伝承としては伝えられていたというふうに考えていいと思います。
内容については膨大になりますので、簡潔に述べるのみにいたします。その時に教えた教えのいくつかは日本的な特徴を持っていますが、日本を超えたところにも十分通用する内容を持っております。今日はそれをご紹介しながら、「地球を包む愛」にまで話を伸ばしていけば幸いかなというふうに考えております。
もう、その姿でお話しするよりは、おそらくは映像か何かで観られた方がよろしいかと思いますけれども、三万年前に富士山の麓に降り立った、当時の日本人のもとになる人たちの数は、およそ二十万人と言われております。
ですから、船の数もそうとう多かったと思われます。数百隻以上の船できていると思います。これについては、いずれ詳しくまたお話することはあると思います。これについては、いずれ詳しくまたお話することはあると思います。
天御祖神は身体が大きかったので、当時はちょっと、地上になじむのは大変で、そのへんの調整は苦労されたようであります。ただ、その教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。
【大川隆法『地球を包む愛―天御祖神の教えと真の世界正義』第1章より抜粋】
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↑ ページ上部へ『真説・八正道』抜粋
これはいったい何が傷つくのかといえば、やはり、よく言う「プライド」のところでしょう。「自分は”高級車”だ」というプライドです。前には進みたいけれども、傷ついたら大変なことになる。そうすると、「回避」ということを始めます。逃げるわけです。まず傷つくことを恐れる。問題との直面を恐れるのです。そのなかでいちばん簡単なことは回避です。逃げていきます。対決しないわけです。
本当は「欲しい」と思いつつ、逃げるのです。こういう傾向の人は、七割程度はいるはずです。もっといるかもしれません。このようなタイプの人は大勢いるでしょう。こういった構造が基本的だと思ってください。
○腰を入れた光明思想を実践する
では、自らの念いを”戦車”にまでするには、どうすればよいでしょうか。
一つには、光明思想です。反省法のなかに光明思想を入れるなら、この「正念」のところに入れるべきだということです。ここに光明思想を打ち込んでいくわけです。
ただ、にわかに光明思想を実践しようとしても、うまくいかない人はたくさんいます。空回りしてしまうのです。「wish」の段階で終わってしまい、ここまではいけないのです。「断じて行う」【※desire】というところまで行けば、行くのですが、たいていの場合、そこまでは行かず、腰砕けになります。そうすると、信じられなくなっていき、次第に、また不幸を愛するようになってしまうわけです。
私は、「実地で光明思想を実現していくためには、腰を入れなければ駄目だ」と説いています。腰を入れなければ駄目であり、口先や頭だけで光明思想を思っても、現実の問題が起きたら、飛んでしまうか、回避してしまうことが多いのです。必ずそうなっていきます。
ですから、本当に実践するのであれば、しっかりと腰を入れてあたっていかないかぎりは駄目です。プライドなど言っているようではできないのです。「実際は、『自分が何を実現したいのか』ということをはっきりしなさい」ということです。やるのであれば、グワンとやらなければいけません。
そこまでいかない場合には、弾(はじ)けるか、回避するかのどちらかになります。そして、もとの”あばら家”を愛する人が極めて多く出てくるわけです。
【大川隆法『真説・八正道』第8章「正念」263pより抜粋】
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↑ ページ上部へ『仏陀再誕』抜粋
何ら人より強制されることなく、
何ら無理強いされることなく、
何ら特に学ばされることなく、
あの世の世界を信じ、
転生輪廻を信ずることができる者は幸いである。
そうした者たちは、魂の記憶のなかに、
過去世の様相が残されているのである。
魂の比較的浅いところにまで、
そうした仏法真理が焼き付いているのである。
そうした者たちは幸いである。
過去の転生においても、仏法に馴染(なじ)んできたことが、
数多くあるにちがいない。
過去の転生において、仏法を学んだことがあるからこそ、
そうであるからこそ、今世においてもその事実が、
比較的早くわかりやすくなったにちがいない。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
あなたがたは修行の道に入って、
まだそう長い月日は経っていないにちがいない。
されども、あなたがたがこうした早い時期に、
仏法真理にたどりつき、仏法真理の縁を得、
そして、悟りへの道を歩むことができるようになったことを、
感謝せよ。
仏法真理にたどりつき、仏法真理の縁を得て、
悟りに到る道を歩みはじめたということは、
人間として生まれて最大の幸福でもあるのだ。
おまえたちは、幸福な人間であるということを、
よくよく心のなかに言いきかせねばならない。
この地上的なる富を、いくら積まれようとも、
この地上的なる名誉を、いかに積まれようとも、
この地上的なる地位や、肩書や、権勢(ごんせい)や、
そのようなものすべてを、いかに積まれようとも、
この幸福にはかなわない。
すべての地上的幸福、金銀財宝と引き換えであっても、
この幸福を譲り渡してはならない。
仏法真理の縁に触れ、悟りの道を歩んでいる者の幸福は、
何物にも替えがたいということだ。
もし、あなたがたが仏法真理の道に入(い)り、
悟りを得る道に入り、
その幸福をまっとうにしたいならば、
あらゆる恐れから自由でなければならない。
あなたがたは、
経済的な恐れを捨てよ。
あなたがたは、
人から愛されなくなるのではないかという恐れを捨てよ。
あなたがたは、
人から尊敬されなくなるのではないかという恐れを捨てよ。
あなたがたは、
人から優れた人だと言われなくなるということを恐れてはならない。
そうではない。
悟りへの道を歩む途中において、
その幸福がどれほど尊いかを知ったならば、
この世的なるものは、
もはやどうでもよくなるということを知りなさい。
そのようなものは、やがて去ってゆくものなのだ。
やがて消え去ってゆくものなのだ。
【大川隆法『仏陀再誕』第6章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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↑ ページ上部へ『漏尽通力』抜粋
現代的霊能者のあり方に引き続いて、「霊媒体質の克服」という話をしておきたいと思います。
霊媒体質の克服というのは、結局、霊能者すべてへの警鐘でありましょう。霊能者で、霊媒体質でない人間はいません。霊視ができる能力とか、霊言能力とか、霊聴能力とか、予知能力とか、いろいろな能力がありますが、それらがすべて霊媒能力と関係しています。
霊媒能力とは何かというと、肉体に霊をかからせる力です。これを持っていない人間はいないのであって、釈迦も、キリストも、モーセも、ある意味では霊媒能力の持ち主でした。すなわち、霊的能力の源として、自分の肉体そのものを使うことできる人たちです。
「霊的交信機器として、自分の肉体を使える」ということは、「肉体を支配している心が、それだけ精妙な波長を出すことができる」ということを意味します。肉体そのものに大きな意味があるわけではありません。「肉体を支配している心に、それだけの力があり、その心が肉体と調和している」という現状をもって、霊媒体質というのがありうるのです。
ところが、霊媒体質にも、「高級霊媒体質」と「低級霊媒体質あるいは悪霊体質」とがあります。そして、世の九十数パーセントは、低級霊媒体質あるいは悪霊体質です。「悪霊たちのなすがままにされている。翻弄されている」というのが現状であることが多いのです。
こうした霊媒体質になってくると、今度は、霊を追い出そうとしても追い出すことができなくなってきます。不意に、いろいろな声が聞こえてきたり、いろいろな霊がかかってきて体が動いたりして、これを克服することができなくなってくるのです。
そして、彼らの声がささやきとして耳のところから聞こえてきます。「今日は車に乗れ」とか、「今日はどこそこに行け」とかいう声が聞こえてくるようになります。そして、そのとおりにしていくと、たいへんなことになってきます。「おまえは、そのうち事故を起こす」
とか、「会社は倒産するであろう」とか、あるいは、もっとひどくなってくると、「このコードを首に巻き付けろ」と言ってきたり、「お金を近所にばら撒け」と言ってきたり、おかしなことを言ってくるのです。あるいは、「生魚をかって来い」と言ってきたり、「油揚げを奉ってみろ」と言ってきたりします。こういうことがあるのです。
この霊的なものの命令を聞いて、これが神の声と本当に思えるだろうか。高級霊と思えるかどうか。これをよくよく判定しなければいけません。高級霊である以上は、この地上でいきていたときにも、優れた人であったはずです。「そういう人があの世に還って、そういうことを言うかどうか」ということを、一度、考えねばならないのです。
人類史に残っている釈迦であるとか、キリストであるとか、モーセであるとか、あるいは、それ以外の日本で言うと、空海であるとか、日蓮であると、親鸞であるとか、こうした人たちは、この世的にも非常に優れた人であったし、すぐれた思想をもっていたし、優れた人格を持っていたはずです。例えば、彼らが地上を去ってあの世に行ったときに、はたして、そうしたことを言うであろうか。これを考えねばなりません。そうしたことは、原則ないのです。
では、低級霊媒体質になった人は、いったいどうしたら、そこから逃れることができるのでしょうか。その方法論について、話をしておかねばならないと思います。
一つには、「徹底的な無視」という方法があります。霊が何をささやこうが、何を言おうが、どうしょうが、絶対に相手にしない。こういうことで徹底的に無視の姿勢を一年ぐらい貫くのです。そうすると、やがて霊がかかってこなくなる体質になっていきます。この「徹底的無視」「相手にしない」という態度も大事です。
いつも声が聞こえる。いつも行動を起こそうとする。手が動く。足が動く。こういうことを放置しておいては、完全に操り人形になっていまいます。完全に無視する。そして、「自分の主体的意志」を非常に強固に打ち立てる。バシッと打ち立てる。こういうことが大事です。これも一つの方法です。悪霊たちは話し相手を求めているので、決して耳を傾けてくれない人には近寄ってこれないのです。こういうことを考えねばなりません。これが一つです。
もう一つは、「真理の書に心をあわせる」「真理の書を、毎日、一定の時間読む習慣をつける」ということです。つまり、光が溢れている書物を一定時間読むことによって、心のなかに常に光を浸透させる。燦然(さんぜん)とした光を心のなかに照射させる。こういう必要性があるのです。こうすると、霊障から逃れていくよすがとなります。光が射してくることによって、高級霊体質へと変わっていきます。それで、低級霊たちの波動を受けなくなるのです。
それ以外にも、例えば、「真理の講演CDを聴く」という方法もあるでしょう。実際に肉を持った光の指導霊たちの声を聴く。話を聴く。それによって、心の波動を変えていく。波長を変えていく。そして高級霊体質に変えていく。こういうことが大事でないかと思います。そうすることによって、心のなかにわだかまっている悪想念が出ていって、低級霊たちの拠点がなくなっていくのです。
このように、「無視する」、あるいは「真理の書を読む」「真理の講演CDを聴く」「講演そのものを聴く」という方法がありますが、これ以外に、もう一つ、「この世的にしっかりした人間になるべく、努力する」という方法があります。
それぞれの人間は、何か仕事をしているはずです。仕事をしているならば、「その持ち場のなかで、最高度に自分を発揮していく」という方法があります。仕事に打ち込んでいく。最高の生き方をする。店員であれば、店員として、最高の店員になるべく努力をする。経営者であれば、最高の経営者として努力をする。このように、「価値の感じるもの、自らの生活の糧を得ているものに全力を投入していく。そして、一身を投げ出していく」ということです。このなかに、霊媒体質から抜け出す一つの方法があります。
すなわち、人間は、「同時に二つのことは考えられない」という特質を持っています。そして、「霊たちとかかわっている」というのは、「それだけの時間を持っている」ということなのです。また、「彼らとかかわるような環境にある」ということなのです。したがて、これから脱するためには、極めてこの世的であるけれども、「この世的な世界のなかで、意義のある世界、意義のある仕事に全力投入をしていく」ということが大事なのではないかと思います。
霊媒体質克服の第四の方法として挙げられることは、やはり「健康」です。「健康を維持する」「体力を維持する」ということが非常に大事です。体力が弱ったとき、健康が優れないときに、霊媒体質から逃れることは非常に難しいです。したがって、まず、健全な体をつくることに力を注ぐことも大事です。健全な体で健全な生き方をすることが大事なのです。
そういう努力によって、昔から言う「健全な肉体に健全な精神が宿る」のたとえどおり、高級霊が感応してくるのです。強健な肉体を持っている人に、悪霊はかかりにくいのです。悪霊がかかってくるのは、たいてい、いつも心に心労が絶えず、そして、「体のどこかが悪い」と不平不満を訴えている人たちです。ノイローゼになったり、内臓諸機関の調子が悪くなったりしている人たちです。こういう人たちを目がけて、悪霊たちは寄ってくるのです。
したがって、低級霊媒体質を克服するためには、肉体の強化が必要です。これによって、魂も強くなっていくのです。
五番目にあえて言うとするならば、「意志を強くする」ということです。意志を強くする。意志とはいったい何か。すなわち、神の子としての意志です。これを強化するということです。
「自分は神の子である」という自覚。「神の子として一生、生きているのだ。ユートピア創りのために生きているのだ」という強い自覚です。「運命のままに翻弄される自分ではなく、神の子として、神の意図を実現するために生きている力強い人間である」という強固な自覚です。自身です。この自信が、自覚が、悪霊から身を護るようになっていまきす。そういうことが非常に大事ではないかと私は思うのです。
【大川隆法 『漏尽通力』第4章「漏尽通力」より抜粋】
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↑ ページ上部へ結び(明日への祈り)
明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
↑ ページ上部へ伊勢支部精舎の理念
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・「信仰心と国を愛する心」という問題について言えば、やはり国民の信仰心がなくなったら、その国は衰退に入っていくし、いずれ滅びると私は思います。
・みなさんには、どうか強い信仰の思いを全国に発信していただきたいと思います。
―「信仰心と国を愛する心について」 ―2013 年4月21 日 伊勢支部精舎御巡錫―
伊勢支部の行動指針
私たち、伊勢支部信者は、エル・カンターレ信仰をキチッと確立して、天御祖神の武士道精神のもと、仏教的精神を打ち立て、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設します。
↑ ページ上部へ感謝と誓い
大宇宙の根本仏 唯一なる 主エル・カンターレよ
伊勢支部精舎は、今年落慶16周年を迎えました。
2009年1月24日、日本の中心とも言われる伊勢の地におおいなる光の灯台を賜りましたことを仏弟子一同・伊勢支部信者一同心より感謝申し上げます。
そして、2013年4月21日に、伊勢支部精舎に御巡錫を賜り、御法話『信仰心と国を愛する心について』をお説きくださいました。主の御慈悲に心より感謝申し上げます。
私たち伊勢支部信者一同、主への純粋なる信仰の下、「主の復活の祈り」を通して
エル・カンターレ信仰を確立し、「愛」と「知」と「反省」と「発展」の四正道を日々実践し、主の御名と御教えを伝えます。
そして、われらが愛する、この伊勢の地を、三重の地に主の悲願である仏国土ユートピアを必ずや建設いたします。
私たち、伊勢支部信者は、菩薩の本懐である六波羅蜜多を推進して、自らの心に巣くう妖怪性を払拭します。そのために、三宝を熱く敬い、「愛」「知」「反省」「発展」の四正道に帰依して、エル・カンターレ信仰をキチッと確立し、「天御祖神」の武士道精神のもと、仏教的精神を復活させて、伝道に邁進し、隣人を救い、私たちの愛する街に、必ず仏国土ユートピアを建設するために、以下のことを改めてお誓いいたします。
- 私たちは、主から頂いた仏性を輝かせ、自らの善きものを隣人に分け与え、一切のみかえりを求めません。主から頂いた教えを必ず伝え伝道します。【布施波羅蜜多】
- 私たちは、自らの戒を持ち、戒を守り、仏法真理の教学に力をつくします。そして法友の育成・養成に力を尽くします。【持戒波羅蜜多】
- 私たちは、主の御心を実現するために、目標を明確に持ち、実現するまで計画を実行しつづけます。【せん提波羅蜜多】
- 私たちは、主の御手足となる本物の菩薩になるために、救世活動を日々の精進として積み重ねます。【精進波羅蜜多】
- 私たちは、常に主を信じ、主を愛し、主と一体となるために反省と瞑想を重ね、祈りの生活を送ります。【禅定波羅蜜多】
- 私たちは、主から既にすべてを与えられていること、主から愛されている自分を発見し、エル・カンターレ信仰さえあれば、あとは何もいらないという絶対幸福をえて、隣人と分かち合います。【般若波羅蜜多】
私たちは、主への報恩として 日本に 全世界に 「天御祖神」と共に、エル・カンターレ信仰を弘め地球ユートピアを実現してまいります。
主よ、私たちの信仰心が主の復活の力となり、主から預かりました伊勢支部精舎が、光の灯台として、一人でも多くの方に主の光を届けることができますよう、お導きください。主よ、まことにありがとうございました。
↑ ページ上部へ付記(『病のときに読む言葉』)
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰