79 竜神は、宗教的霊界ではよく出てくる。しかし、現実のこの世では、竜を見かけることは難しい。古代には巨大爬虫類(はちゅうるい)が地上に棲んでおり、空にも翼竜は飛んでいたものと思われる。霊体としては、妖怪として存在している。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
25 夜な夜な悪事を働きに出撃していた男女が、山犬になって駆けているのを見た。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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5 希望実現の法則【正念】
①心の底から実現を願う「念い」を出しているか
〇「wish(思い)」と「desire(念い)」の違いを知る
さて、ここで「幸福への希望」ということで述べていきます。
この「幸福への希望」とはどのようなものかを考えてみると、要するに、自分が「こうなりたい」と思うことが、そのようになればよいわけです。しかし、「こうなりたい」と思うものが正当であり、そのとおりになっていけばよいのですが、現実は、なかなかそうはなりません。「こうなりたい」と思ってもならないでしょう。
そのため、こうした希望実現のことは、少し聞いても忘れてしまうのではないかと思います。「あれは、やはり、特別な人だけにあてはまることで、自分には関係がない」と思ってしまうのではないでしょうか。
英語では、「こうなったらいいな」ということをあらわすときに、「wish・ウィッシュ」と「desire・ディザイア」という言葉を使います。「できたら、こうなるといいなあ」「できたら、こうなってほしいな」というものが「wish」です。「desire」は、より切実になります。「こうなってほしい。いや、なってもらわねば困る」というものが「desire」です。
実は、ここが、希望実現における「思い」と「念」を分けるところになるのです。「desire(念い)」まで行かなければ、希望は実現しないということです。
「wish」で、「こうなったらいいなあ」と思い、そういう波長を出したとします。ところが、三次元的には、それを邪魔するものもいろいろあるので、そういうものにプチっと当たると、方向が変わってしまうわけです。
例えば、ベンツ車が走っていて、岩にぶつかったとします。そのときに、岩も少しは動くでしょうが、ベンツもそのまままっすぐには走れません。さらに岩に当たるともっと逸れていきます。
このように、「こうなったらいいな」と思っているのに、障害にぶつかってしまうと、結局、実現しなくなってしまいます。そういうものに二つぐらいポンポンと当たると、もうだいたい諦めてしまうのです。これが大多数の人の姿でしょう。
ところが、この思いが「desire」になると、”戦車”のようなものになるのです。“戦車”が”岩”に当たったときには、岩が動かなければ、大砲をバーンと打ち込み、吹っ飛ばしてでも進むという感じでしょうか。
そのように、念いが”戦車”まで行けたら、希望は実現するわけですが、”ベンツ”だと、「当たって傷ついたら困る」と思って、余計に行けなくなるかもしれません。要するに、自己イメージと非常に関係があるわけです。
〇自分は心の底から「幸福になりたい」と思っているかを考える
ですから、もし「幸福になりたい」と思うなら、「正念」のところで「自分はどちらのほうか」ということを考えなければいけません。
この段階で、もし、ベンツのようなもので止まっているならば、岩に当たると傷つくのでまっすぐには進めず、逸(そ)れてしまいます。しかし、戦車ぐらいにまでなれば、岩を押しのけていくこともできるし、岩が動かなければ、砲弾を撃ち込んで飛ばしてしまうこともできます。ここまで行けば、道が開けないわけはないのです。こういう考え方の違いがあると思ってください。
つまり、「幸福になりたい」と思っても、表面で思っているだけでは絶対に幸福になれないということです。表面だけでそう思っている人はいくらでもいるでしょう。しかし、その心底においては、本当は、「”ベンツ”だから傷ついたら困る」と思っている人は多いのです。そうすると、当たらないのがいちばんよいことになるので、やはり、あたって傷つかないよう逃げるわけです。「前へ行きたい」と思いつつ、”ベンツ”は高価だから傷つくのが嫌で、逃げてしまいます。
【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」259pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
12月8日は降魔成道記念日でした。主エル・カンターレ
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。
本日12/10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致しました。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、引き続き「復活の祈り」を執り行います。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
吾らの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
吾らを真なる幸福へと導きたまえ。』
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 転生輪廻とは何か
○最大の真理
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私はひじょうに悲しい。
おまえたちは、自分が盲信・狂信をしているように、
人びとから言われるということを、ずいぶん恐れているようだ。
しかし、私は言っておく。
事実は事実、真実は真実。
何人もこれをねじ曲げることはできない。
あなたがたを、たとえあざ笑い、否定し、批判し、
また、謗(そし)る者が現われても、彼らは何も知らないのだと思いなさい。
何も知らない彼らが、
真実を知っているあなたがたを批判することはできないのだ。
人は、自らが知りえたること以上のことを言うことはできない。
自らが認識したこと以上の認識を示すことはできない。
同じ時代に、同じ地域に、同じような立場で生まれ合わせたとしても、
それぞれの魂の境涯はさまざまである。
それは、永遠の進化の過程において、
ある者ははやく進み、ある者は歩み遅くついてきているからだ。
その事実が、地上にある間には、なかなかわからない。
いや、むしろその逆であることも多い。
この世では、この世的に住みよい人、
この世的に住みやすくしたいと思う人間、
この世的によりよく生きたいと思う人間を、
重用する傾向がある。
それゆえに、あの世を信じ、あの世の世界の幸福を願う人間が、
この世では生きにくくなっているやもしれぬ。
されど、勇気を奮い起こせ。
真実を知っている者は、強くなくてはならない。
真実を知っている者は、心弱くあってはならない。
口さがない者たちの批判に負けてはならない。
表面的な理解しかできていない者たちの批判に、負けてはならない。
真実は真実、事実は事実。
世の常識を、世の常識としていつまでも通用させてはならない。
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
わたしは、おまえたちに、これだけはどうしても言っておきたいのだ。
おまえたちの最低限の仕事として、
人びとに永遠の生命を教え、
また人間が
この世とあの世を転生輪廻している存在であるということを、
教える必要があるということなのだ。
実は、この思想こそが、
人間として生まれ、生き、成長してゆく過程において、
発見するところの最大の真理であるのだ。
ほかにいかなる地上的真理を学ぼうとも、
それらの真理の値打ちは、この真理にはかなわない。
この真理から見れば、ほんの子供だましにしかすぎない。
人間が永遠の生命を生き、転生輪廻をしているという事実、
その事実を知った時に、人びとの価値観は変わらざるをえない。
人びとの価値観はまったく一八〇度の転換を見るようになるであろう。
すなわち、それより後、
人びとは、自分の人生をもっともっと長い時間のなかで、
考えることができるようになってゆくということなのだ。
【大川隆法『仏陀再誕』第六章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第四章 漏尽通力
2 現代的霊能者のあり方
以上の観点でもって、現代的な霊能者のあり方を再検討してみたいと思います。
現代の霊能者の諸相は、いったいどのようなものでしょうか。少なくとも、大多数は世の尊敬を受けていないということは事実であろうと思います。世の尊敬は受けていないけれども、なかには、世の興味を引いている人は数多くいます。「他人にはできないようなことをする」ということでもって、若者の目を引きつけたり、心を引きつけたりすることは、数多くやっているように思います。
例えば、「ある種の行法をやれば自分の運命が変わる」とか、「炎のなかに龍を出して見せる」とか、「祈りさえすれば、すべてがよくなる」とか、「このお札をつければ、すべての病気から逃れられる」とか、「このご神水を飲めば、たちどころに病が癒える」とか、「入会すれば天国に行ける」とか、こうしたことを数多くやっているようで、そのよすがとして、霊的能力を誇示している人々が多いと思います。
確かに、霊的能力自体は、神が人々に真理を教えるための方便として与えているものなので、多くの人々を教化し、影響を与え、多くの人々に真理に気づかせるための方便としての霊能力はありうるわけです。しかしながら、それが行きすぎた場合には、世の常識を覆すのみならず、人々を転落させる、あるいは人心を迷わせる恐れを持っていることも事実です。
したがって、「宗教は本来、素晴らしいものでなければならないし、本来、世から評価されるべきものでなければならないにもかかわらず、宗教ということは自体が、日本において悪しきイメージを醸し出している」という現状の原因はいったいどこにあるかというと、巷の霊能者たちの数多くの暗躍にあるのです。彼らが姑息な手段をいろいろと用いて、人々を惑わし、また、いろいろな利益の追求をしたりしている。そういうことが原因で、混乱が起きているわけです。
こうした現代的霊能者のあり方を見るときに、やはり、「漏尽通力、すなわち、霊能力を持ちながら、現代人と同じ、通常人と同じ、平常人と同じ生き方ができる、いやそれ以上に優れた生き方ができる人は少ない」と感じます。
特に「神の声を聞いた」「高級霊の声を聞いた」という人たちの群れのなかに、異常な人が多い。こうした事態は、断固として改革していく必要があります。こうした現状の改革は、どうしてもやらねばなりません。この霊能者の諸郡、霊能者諸像、あの在り方の改革は、どうしてもやる必要があります。
それは、「この地上界においては、霊的能力に関し、『何が正か、何が邪か』『何が真で、何が偽か』ということを判定する基準がない」ということが非常な問題となっているわけです。
私たちが、続々と霊現象を見せ、霊言集を世に問うている理由の一つも、そうした物差しをつくらんとしているためです。もちろん、「霊能者によって、さまざまな多様な個性の一片の光と見ることもできるけれども、私たちは、多様な霊言集を世に問うことによって、「それは、多様な考え方のなかに包摂される教えであるのか、その基準からまったくズレているものであるのか」ということを問おうとしているのです。
こうしてみると、現代的霊能者のあり方でいちばんの問題は、「その者たちの教えを受けたり、その者たちの修法、行法を学んだ人たちが、異常な世界に入っていくことが多い」ということです。それともう一つは、「霊能者信仰といって、『霊能力を持つこと自体に意味がある』という考え方に陥っていく可能性がある」ということです。これは非常に戒めるべき現象です。こうした霊能力信仰に陥ってはなりません。
実際、霊視をすることができるものから見れば、神とか、仏とか、高級霊とかと名乗っているものが、単なる動物霊にしかすぎないことも数多くあります。最高の知性を備えたはずの人間が尻尾をユサユサと振っている狐とか、蛇とか、こうしたものの言いなりになっている。こんなバカなことが現実にあるのです。
人間はもっと尊厳を持たねばなりません。そして、人間が尊厳を取り戻すためには、やはり、真理の世界を正確につかむ必要があります。真理を間違いないものとして受け止める必要があります。
「知らないということは、罪だ」ということを知らねばなりません。知らないからこそ、平然としていられる。それが、現在の大多数の人々のあり方ではないでしょうか。霊的世界を知らないことを当然だと思っている。当たり前のことだと思っている。そして、霊的なことを知っている人と言えば、みな、おかしい人と決めつける。こういう常識は、どうにかして覆していかねばなりません。
霊的世界のなかに素晴らしいものがあることを示し、そして、その素晴らしいものの光で照らしてみることによって、「悪しきものが、どれだけさまざまに暗躍しているか」ということを、はっきりさせてしまう必要があります。日の光に照らされたら”害虫たち”はやがて退散していくことになっているのです。日の光が足りないのです。害虫を退治することよりも、日の光をもっともっと強くしていく必要を感じるのです。
さすれば、私たちの目標は、決して霊能力を否定することにはありません。ただ、「霊能力が付随することでもって、その人がいっそう素晴らしい人格を築き、いっそう素晴らしい力を持っており、いっそう多くの人の尊敬を受けるような生き方ができる。こういうあり方でありたい」と考えるわけです。それが現代的な霊能者のあり方ではないでしょうか。
すなわち、「神が言った」「仏が言った」「高級霊が言った」ということ、こういう言葉を抜きにして、その人自身の考え、言動、行為、信条、思想、過去、経歴が、はたして世に出して恥ずかしくないものであるかどうか。これが問われているのです。世に出して恥ずかしいような経歴ではないかどうか。「まったくの精神錯乱のなかで、突然に悟った」というようなものであってよいわけではないし、「失意のままで何十年も生きているうちに、突然、神の声が聞こえた」、あるいは、「崖から落ちたときに神の声が聞こえた」ということが、本当に真理への誘いであるはずがないのです。
神が自らの独り子であるとか、自らの側近き者たちを、本当にこの地上に遣わしたならば、彼らは、この世的にも優れた能力を持っているはずです。持っていなければ、そんな人が天上界において、最高指導霊としてやれるはずがないのです。この世的にも、それなりの力量を持っているはずです。そういうことを言うことができるのではないでしょうか。
したがって、「神の声が聞こえる」とか、そうした霊的能力を取り去り、その人が裸で勝負したときに、値打ちがある人間かどうか、ここが分かれ目です。少なくとも、そのときに、平均以上の人と言われるような、あなたがたでなければ、霊的能力を持っていることはマイナスにしかすぎません。まったくのマイナスです。それを取り去ったときに、平均以上の人間であるか、人物であるか、人柄であるか。これが問題です。
このように、現代的霊能者のあり方は、「霊能力を取り去ったときに、どれだけの実力があるか」というところで測らねばなりません。そして、「そうした優れた人物が、霊能力を持つことによって、さらにその能力が倍加、二倍、三倍、四倍になっていく」というあり方であってよいのです。霊に翻弄されるようであってはいけません。こういうことを私は強く思うものです。
【大川隆法 『漏尽通力』第4章「漏尽通力」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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