78 蛇の延長に、滝つぼなどで竜神を祀るところも多いが、たいていは、ご神体なるものは、ただの蛇なので、ご利益信仰のつもりが、肩こり、腰痛、足の不自由さなどになって戻ってくることが多い。仏法真理でしか救われない。
【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】
26 生前、情事、酒、麻薬、覚醒剤などにおぼれていた者が、蛇の姿になって、地をはいながら、何十体もからみ合っている姿を見た。
【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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4 念の方向を切り替える【正念】
〇「結局、自分を幸福にしたいのか、したくないのか」を問いかける
ただ、私は、あるところでそれを切り替えたのです。それは、ある霊人からの言葉が転換点にあったように思います。
要するに、「結局、おまえは何を欲しているのか」ということを強烈に問われたわけです。「自分の罪や悪を責め、自分が至らないということだけを認識するために生きているのか。それとも、おまえはどういう人生を心に描いているのか。未来を拓いていきたいのか、いきたくないのか。人を幸福にしたいのか、したくないのか。自分を幸福にしたいのか、したくないのか。はっきりせよ。それが出発点である」と言われたのです。
そう問われてみると、それほどはっきりと考えたことがなかったのです。
〇自己憐憫(じこれんびん)から脱し、他の人を愛せる自分を目指す
そして、「いろいろなことに傷つく心」というものを振り返ってみると、そこに、自己憐憫に陥っていた自分に気づいたわけです。
こういう人はそうとう多いのではないでしょうか。自分の失敗や欠点など、いろいろなことはあるでしょうが、それがいつも頭のなかをグルグルと回り、自己憐憫に浸っている人は大勢いるでしょう。この渦のなかから決して出られずにいるのです。その自己憐憫の渦のなか、渦中にある人は幸福にもなれないし、ましてや、他人への愛など出ようはずもありません。もはやそのことで手一杯なので、他人への関心もなくなっていくわけです。
そして、「なぜ、自分がこれほど不幸なのか」と思い続けるのですが、不幸に落とし込んでいるのは、実は自分自身であるわけです。自分自身に、「かわいそう、かわいそう」という自己憐憫的な気持ちがあるということです。
この「かわいそう」という気持がどうなるかというと、潜在意識下で、自分をさらに惨めな境遇に落としていきます。そして、他人から悪口を言われたり、被害を受けたりするような環境を作り出していくわけです。
自虐的な気持ちがあれば、必ずそういう環境が出てくるでしょう。実験してみてください。そのとおりです。自己卑下的に生きてみてください。一発で、人からずいぶんからかわれたり、バカにされたりし始めます。とたんにそうなっていきます。本当に、自然自然に呼びこんでくるわけです。
ただ、その責任は決して他人にありません。自分自身にそういう不幸を愛する傾向があるから、そうなるということです。
〇「念」の方向を切り替え、不幸を愛する傾向と決別する
これは、一つの「念」です。この「念」の方向が違っているので、これを切り替えないかぎり、”幸福になれない症候群”として生きていくしかないということです。
あなたは、今、どういう人生を希望していますか。
これをはっきりとしなければいけません。この「念」を確定しないかぎり、逆の方向へ行く人はいくらでもいるのです。
いくら助けようとしても、いくら励まそうとしても、下へ向かって進んでいく人は、どうしようもありません。不幸を愛している人は、救いようがないのです。こういう人は、神も仏も救えないということです。
なぜならば、これは「心の法則」であり、各人が求める方向へどんどん向いていくわけです。そういう方向に出ていくのです。
【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」256pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。
三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。
そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。
引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
12月8日は降魔成道記念日でした。主エル・カンターレ
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。
12/8(日)~10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致します。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。
主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。
『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
吾らの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
吾らを真なる幸福へと導きたまえ。』
今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第六章 転生輪廻とは何か
○尊さを知る
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
しかし、地上のいかなる権威が否定しようとも、
地上のいかなる身分ある人が否定しようとも、
地上のいかなる知恵ある人が否定しようとも、
されど、我が教えの真理に誤りはない。
人間は、永遠の魂を得、転生輪廻の過程にあるのだ。
この真実は、何人も否定することができない。
この真実を否定するということは、
仏の心を否定するということだ。
仏の存在を否定するということだ。
仏の存在を否定するという個とは、
仏の創られた世界を否定するということだ。
そして、仏の創られた人間を否定するということだ。
すなわち、人間が人間自身を否定するということだ。
しかし、考えてもみよ、恥ずかしいことではないか。
仏が創られ、
永遠の魂を与えられた人間である、ということを信ずることを、
なぜ恐れるか。
なぜ、それが奇妙なことに思われるのか。
なぜ、それがばかばかしい話に思われるのか。
なせ、人間がアメーバから進化してきたということを信ずることが、
それほど尊いのか。
なぜ、人間が物質の塊で出来上がったことを信ずることが、
それほど尊いのか。
ばかなことを言ってはいけない。
そんなことで、なにゆえに人間の尊さというものがあるのだろうか。
人間の尊さとは、人間の内に宿れるものの尊さであるのだ。
人間の内に宿れるもの、それは、すべてのものが、
仏より岐(わか)れてきた生命であるということなのだ。
仏によって創られた生命であるということなのだ。
それが人間の尊さなのだ。
その尊さがわからないものには、
一切の善はわからない。
一切の美はわからない。
一切の真理がわからない。
一切の善も、一切の美も、一切の真理もわからない人間は、
もはや、人間であって人間ではない。
それは、人間の外形をとどめているだけだ。
人間として、地上に生まれ、生きていく途上で最も大切なことは、
尊さということを知ることである。
この地上的な体験のなかから、尊さというものを感じ取ることである。
自らが生かされていることの尊さを、
他の生命が生かされていることの尊さを、
仏の創られたる世界の尊さを、
それを強く強く感じ取ることである。
【大川隆法『仏陀再誕』第六章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第四章 漏尽通力
1 釈迦の教え
本章では、本書の表題でもある「漏尽通力」について話をしていきたいと思います。
まず、「漏尽通力」という言葉ですが、この起源は、実は釈迦の教えにあります。ゴーダマ・シッダールタという人間は、今から二千六百年に近い昔、インドにて活躍した人間です。そして、仏教を説いた方であることは、すでに多くの方がご存じであろうと思います。
その釈迦の教えの根本にあるものはいったい何かと言うと、「自分づくり」ということでした。「それぞれ人間がこの地上に降りている理由は、『地上という環境を勉強の材料として、それぞれに魂の修行をしていきなさい』という意味である。したがって、個人個人の学びなくして、地上の意味はないのだ」という考え方が根本です。
その意味において、釈迦の教えは、やはり発生点において自力であると言えると思います。最初から「神の名を呼べば救われる」とか、そうした他力によって救われようという思想ではなかったのです。「まず自分を磨いていけ」という考え方であったと思います。
この考え方が、いわゆる「自灯明」という考え方に象徴されるわけです。「自ら照らしていきなさい。自らの内なる灯を灯していきなさい。誰にともしてもらいでもなく、自ら、自分自らが、自らを照らしていきなさい」という教えです。これを自灯明といいます。
これ以外にもう一つの教えとして、「法灯明」という考えもあります。「私が亡くなったあとは、私の説いた法を中心として、その教えを宗として生きていきなさい。他人に頼るのではなく、その法を拠りどころとして生きていきなさい」という考えも述べています。これを法灯明といいます。この自灯明・法灯明論は、釈迦の教えの根本の一つです。
では、「なぜ釈迦は自分を磨くことを主張したか、考えたか」ということですが、それは結局において、神の創られた宇宙全体の進歩につながっていくからです。「『それぞれの者が、それぞれの持ち場を守りながら、持ち場において学んでいく。そして、向上していく』ということが、全宇宙が向上していく姿につながっていくのである」という考え方です。
したがって、釈迦の教えの根本においては、「単なる祈りによって世界を変えていこう」という考えはなかったと言えましょう。やはり、「自分を見つめ、自分をつくっていく」という考えを重視したのです。これを「利自即利他」(伝統的には「利自利他」ということが多い)ともいいます。「自分を利する生き方のなかに、他を利していく」という言葉を捉えてみると、「利する」という言葉は、現代では必ずしも良い意味を持っていないかもしれませんが、「自分の向上する道を究めていくなかに、他の人の向上をも目指していく」という考え方です。これは、皮相なとらえ方をすれば、エゴイスティックに聞こえるかもしれませんが、決して「利己主義者になれ」と勧めているわけではないのです。
「自分は滅びていくけれども、他だけは助かる。あるいは、自己犠牲でもって他だけが生き残る」という考え方は非常に美しいように見えるけれども、そこには一種の悲劇性があることは否めないと思います。「そうしたかたちも、真理の伝道においてはいろいろな場合に現われくることもあるけれども、やはり大調和・大発展へはつながらない」というのが、この考えであります。
やはり、「それぞれの人間がよくなっていく。そして、よくなっていく方向において、他を害さずに、他も発展させていく、繫栄させていく」という考え方が、釈迦の根本であったわけです。そして、こういう考え方を持っていたからこそ、仏教はその後、大いなる発展を見たと言えるのではないかと思います。
仏教の基礎には、非常に寛容な考え方があります。その寛容さの根本にあるものは、結局、何かというと、すべてのものの発展につながる考え方です。「自らを矯(た)めて、自らの間違いを正し、そして、向上を目指していく。そのなかに、他を害さず、他の発展を含めていく。中道のなかにおける発展を重視しているからこそ、すべてが発展していく。そして、それぞれの立場を配慮し、寛容さを持つことができる」という考えがあるわけです。
この釈迦の考え方を基礎に、いわゆる霊能力を考えてみると、どうなるでしょうか。現在、巷(ちまた)にある数多くの霊能者たちのあり方を見てみると、「彼らの大部分は危険な霊能力信仰に陥っている」と言えなくもありません。
危険な霊能力信仰とはいったい何であるかという、結局、生身の刀、日本刀を素手で振りかざしているような状態のことです。使い方を知らない人が日本刀を振りかざしている。したがって、「他人を傷つけることもあるけれども、間違うと自分をも傷つけてしまう」という危険さが、霊能力にはあるのです。
しかしながら、そうしたことそうしたこととして、世の霊能者の多くは、そうした日本刀を振りかざすことをもって、非常な自己顕示欲を満たしていると言えるのではないかと思います。
これを、釈迦の考え、利自即利他、あるいは自灯明論・法灯明論と比較してみると、非常に大きな違いがあると思われます。霊能力を持つということが、結局、他を生かすことにならず、自分をも破滅させることになりかねないわけです。こういうことは非常に危険です。
そういう意味において、釈迦は、六大神通力という神通力をすべて兼ね備えていたけれども、通常はそうしたものを隠していて、そのまま顕示はしなかったわけです。持っていて使わないのと、持っていなくて使えないのとでは、表面的には同じであるけれども、質的には非常に違ったものがあります。ここが肝心なのです。【六大神通力 仏陀(悟りたる者)特有の能力。天眼(霊視能力)、天耳(あの世の声を聞くことができる能力。霊言能力)、他心(人の心が手に取るように理解できる能力)、宿命(自分の将来や、他人の運命が分かる能力)、神足(幽体離脱能力)、漏尽(欲望に振り回されず、それを自由に超越する能力)の6つをいう】
こうした、「自分の隠されたる力、秘められたる力を隠す、抑える、現代的に言えばセーブする」という考えのなかに、釈迦の教えの煌めきがあるわけです。
持っている力を溜めていく、蓄えていく、蓄積していく。そして、その光をそのままほとばしらせるのではなく、光の底光りする力でもって、人々を感化していく。ギラギラした光を放つのではなく”いぶし銀”のように光る光でもって、人々を感化していく、人々の目を害さない光でもって、感化していく。こういうことを中心としていったのです。
したがって、世にいう霊能信仰は、明らかに、きらきらと輝く鏡あるいはガラス細工のような光を放っているわけですが、これは、他人の目にも有害であるし、ともすれば自分の目をも傷つけることになりかねません。そういう害があるのです。
この意味において、直接的な光ではなく、間接的なる光でもって人々を教化し、影響するということは、非常に大きな我慢と辛抱が要るものです。また、忍耐が要るものです。
ただ、「忍耐は要るけれども、これは大いなる発展への道であり、大完成への道でもある」ということができると思います。
自らの能力を衒(てら)ったり、他人から注目されようと思ったり、有頂天になったりする心、その心のあり方は、大いなる間違いです。そうした心でもって生きてはならないのです。やはり、人々は、他を刺激し、他の人を驚かし、「鬼面人を驚かす」ような生き方でもって、自己満足をしてはならないのです。
他の人を畏怖させたり驚かしたりするような生き方のなかに、真理はありません。そうではなく、自分というものをしっかりとつくっていく。少しずつ少しずつ、漏れてくる光でもって、人々を教化していく。これが、「自分を崩さず、他を刺激しすぎないうちに感化・教育していく」という偉大な方向性となるのです。
これからは「三十年、四十年、五十年かかって、人間が完成していく道、また他の人々を導いていける道」というものを大いに検討しなければならないと私は思います。単に、一時的な自己満足や、一時的な評判や人気のために霊的能力を誇示してはならない。そう強く強く考えるものです。
【大川隆法 『漏尽通力』第4章「漏尽通力」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。
【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。
災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする 信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。
【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
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FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史
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