(12/7-2)70『仏陀再誕』を読む―転生輪廻とは何か―転生輪廻の思想―悟りへの第一歩

『仏陀再誕』を読む

77 蛇の妖怪としては、私は吉野山の花見に行って、「脳天大神」の祟りを経験したことがある。脳天を割られた三メートルもある大蛇が川を流れて来たので、村人がこれを小さな神社にまつって、拝んでいた。その晩、ホテルで、一晩、巨大大蛇を追い払う修法をやるはめになった。動物などを「神」としてまつったりすると、霊力を持った妖怪になることがある。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

27 生前、水商売や賭け事、性を売り買いする商売をしていた男たちや、女たちが、狐の姿になっているのをたくさんみた。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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3正念は幸福を創造するための力【正念】
〇自己変革を通して「心」を変え、「世界」を変えていく

そこで、「念」の性質そのものについて、さらに考えていこうと思います。この「念」の部分を押さえるということは、実は、人間の幸福を創造していくために一番大事なことでもあります。

「正念」の前にある「八正道」の六つの項目ができていたとしても、この「正念」のところはかなり難しいところがあります。これを押さえられなければ、本当は幸福の創造ができないのです。失敗をしては取り戻し、失敗をしては取り戻しというところで終わってしまい、さらにプラスの人生をつくることは難しくなります。

私は、「心を変えれば、世界は変わる」ということを何度も述べてきました。

また、幸福の科学の集うことについては、「ここに集いさえすれば、幸福になれる」と言っているわけではないということです。「幸福の科学に集って、自らを変革し、心のありようを変えたら幸福になれます。そのためのきっかけはお与えしましょう。しかし、それをつかむか、つかまないかは各人の問題です」と述べているわけです。

ですから、幸福の科学を人生の避難場所、あるいは退避場所とのみ考えるとしたら、とんでもないことです。なぜならば、ここは戦場だからです。自己変革を激しく迫られるところなのです。自己との戦いを要求されるところなのです。「この看板の下へ来れば、ご利益があって幸福になれる」などと思ったら、とんでもないわけです。「実社会でうまくいかない」「学校でうまくいかない」ということで、ここへ来ればご利益があって幸福になるかと思ったら、必ずしもそうではないということを知ってください。

ここは避難場所ではなく、戦場である。なぜならば、「自己変革をせよ」という高級諸霊からの声が、次々と矢のごとく降り注がれるからです。この矢のなかをかいくぐり、そのままでいることは非常に難しいのです。いろいろなかたちで自己を点検し、変えていかざるをえないのです。

この自己変革に失敗すると、未来が開けなくなっていくのです。

このことについて、さらに具体的に述べていきます。

〇”繊細な文学青年”から”恵比寿様”へと自己変革した心の転換点
私は、人々の前で話をすることが多いのですが、鏡に映った自分の顔を見ていると、不思議なことに、魂のきょうだいに恵比寿様か大黒天さまがいるのではないかと思うほど、だんだん恵比須顔になってきました。

なぜ、そうなったのかと考えと、栄養がよかったという考えもあるかもしれませんが、そうした物質的なことだけではなく、やはり、「自分の心の歴史のどこかで転換点があった」ということです。

そこで、私が霊道を開く前の数年を振り返ってみると、そのころは極めて繊細であったのは事実です。

今では信じられない人のほうが多いと思いますけれども、かつては人の言葉でも、何年も心に突き刺さってしまうほど、けっこう繊細であったわけです。二年たっても三年たっても、そのときの恥ずかしい思いや悔しい思い、あるいは残念な思いなどがバラの棘(とげ)のように刺さり、現在ただいまのように思い出されるという体験を、実際にしていました。

しかも、当時は文学気取りでいたので、それをよいことだと思っていたのです。いろいろなものが心に刺さり、じわじわと血が流れていくような気持ちになることも、実際にありました。そして、そういう繊細な部分、魂に食い込んでくるような悲しみのようなものが、人生を芸術化する一つの方法のように思っていたところがあったのです。

霊道を開いてからも、「繊細さ」ということでは、以前と変わらないどころか、もっとすごくなったかもしれません。いろいろな人の感情がストレートに伝わってくるようになりました。

そのため、かつては反省をするなかで、さまざまな曇りが取れたのはもちろんですが、その一方で、自分の暗いところや間違いなど、いろいろなところが見えてきて、一時期、抜け出せなくなっていた時期もあったのです。そして、自己反省をしていけばいくほど、さまざまなところが気になっていくのですが、それを変えがたい自分ということにも気がついていくわけです。

【大川隆法『真説・八正道』第八章「正念」250pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

本日12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ 
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。

12/8(日)~10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致します。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。

主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
吾らの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
吾らを真なる幸福へと導きたまえ。』

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。

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第六章 転生輪廻とは何か 

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
今日は、おまえたちに懐かしい話をするとしよう。

○転生輪廻の思想
転生輪廻の話は、過去幾度となく学んできたはずである。
しかし、この転生輪廻の思想が地上から廃(すた)れて久しい。
いや、地上から廃れるというよりも、
もはや過去の単なるたとえ話、笑い話としてとらえられている感がある。
そうして、嘆かわしいことに、
わが教えを継いでいるところの仏教の僧侶たちも、
この転生輪廻を真実のこととしてとらえているか否かは定かではない。
いや、むしろ、
それを信ぜぬ者たちのほうが数多く増えているのではないか。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちも、心して学びなさい。
今世、生れ落ちたおまえたちには、
それぞれの考え方があるであろう。
考え方というのは、
おまえたちの受けた教育や、
おまえたちの経験したさまざまな出来事によって、
成り立っているものだ。

しかし、私は言っておくが、
この世というものは、
おまえたちの悟りにとっては、かなり厳しい修行場であるのだ。
いつの時代も、私とともに地に降りてくるおまえたちは、
厳しい環境を選んで生まれてくる。
されど、今世のこの日本の地は、
以前のインドの地よりも厳しい環境下に置かれているかに見える。
インドの地においては、伝統的に仏神を尊ぶ風習があった。
また、死後の世界を信ずる風習もあったが、
この日本の地では、風習そのものは、いまだに遺ってはいるが、
その実態がないと言ってよい。
そうした死後の世界をあざ笑い、
人の生まれ変わりをあざ笑う人たちの多くは、
何ら自分から進んで知ろうといることなく、
生れ落ちてから後の、知識や経験のみで判定しようとする。
しかし、そのなかにいったいいかほどの真実があるのか。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私の言葉をよく聞きなさい。
あなたがたは、今世において恐れてはならない。
怯(ひる)んではならない。
おののいてはならない。
自らがどのように生きやすくするかを考えてはならない。
そのことを、あまりにも考えすぎてはならない。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちは、仏弟子であることを誇りに思うか。
おまえたちは、真実のために生きることを誇りに思うか。
おまえたちは、仏法真理のために生きることを誇りに思うか。
もし、おまえたちが真実のために生きることを誇りに思う心を、
いまだに失っていないのであるならば、
私の言うことをよく聞きなさい。

地上の人間たちは、死後の世界をあざ笑う。
そして、それを無視したがる。
また、口を開いて死後の世界を語る人あらば、
その人を狂人呼ばわりする。
あるいは、変わった者というふうに言う。
そこで、心正しく、心清くして、真実の世界のことを知っている人が、
この地上ではたいへん生きにくくなっている。
ある時はあざ笑われ、中傷され、非難され、罵倒される。

私の言葉を信ずるがゆえに、そのようになる者も出てくるであろう。
しかし、私はあなたがたに言っておく。
我がために傷つけられても、
その傷はやがて大いなる栄光となるであろう。
我がために辱(はずかし)められても、
その辱めはやがて大いなる天の報いとなるであろう。
我がためにたとえ地に倒れようとも、そのあなたの偉大な思いは、
やがて、天の諸天善神をして、
歓喜の涙をふり絞らせることになるであろう。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
おまえたちは、世間体というものをあまり考えてはならない。
おまえたちは、恥ずかしいという思いをあまり持ってはならない。
おまえたちは、この地上において人びとの尊敬をうけようと、
あまりにも考えてはならない。
おまえたちは、喜んで人びとから尊敬されない立場に身を置け。
おまえたちは、喜んで人びとから冷遇される立場に身を置け。
ただ、一つの仏法真理のために―。
ただ、一つの仏の教えのために―。
おまえたちは、幾十回、幾百回、幾千回の転生輪廻の過程で、
いつも我が教えを受けてきたのだ。
そして、わが教えを得(う)るときに、
いつも数限りない苦難や困難をも通過してきたのだ。
そうした強いおまえたちであるならば、
いまさら何を怯(ひる)むことがあるか。
いまさらに何を恐れることがあるか。
いまさら何を、いまさら何を―。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私は、おまえたちがいとおしい。
私は、おまえたちが限りなくかわいい。
私は、おまえたちが苦しむのを見ていることができない。
私は、おまえたちが涙しているのを黙って眺めていることができない。
私の教えを守ることが、
おまえたちを、もし傷つけ、悩ませ、
苦しませることになるならば、
その時に、私はまたおまえたちと共に、悩み、苦しんでいると思え。
私は、必ずおまえたちの涙を見つけるであろう。
私は、必ずおまえたちと共に苦しんでいるであろう。
私は、必ずおまえたちと共に悩んでいるであろう。
私は、必ずおまえたちと共に、
大いなる苦しみを背負っていることであろう。

【大川隆法『仏陀再誕』第六章「転生輪廻とは何か」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第二章 霊的現象論
5 悟りへの第一歩

「霊道を開く」ということ自体が「悟りそのもの」であると捉える方は数多くいると思います。

これに対して述べると、それを「悟りへの第一歩」と考えてもいいのは事実です。平凡な人生で霊道を開いていくことには、「仏法真理に目覚める」「霊的人生観に目覚める」という意味で大きな意義があります。

その結果、その本人がどういう人生をその後生きていくにしても、「生きている肉の身のままで、霊的世界を垣間見た。神や仏の世界を垣間見た」という意味では、一歩の前進であることは事実です。魂にとっては一歩の前進なのです。そういう意味において、「悟りのへの第一歩」とは言えるでしょう。

ただ、この霊的現象、「霊道を開く」ということ自体を捉えて「悟りそのもの」と考えてはいないのです。これはあくまでも「悟りへの第一歩」であり、「悟りよすが」ではありますが、「悟りそのもの」ではないことを知らねばなりません。「霊道を開く」ということを「悟りそのもの」であると誤解すると、ここに大きな間違いが起きます。いろいろな霊の声を聞き、それをそのままに受けていると、いわゆる「言うなり」となってくるわけです。そして彼らに完全に支配されていきます。「自分は悟った」と思い、うぬぼれていると、そういう霊の声に操られて、あらぬ方向に行くのです。

したがって、霊道を開いて以後のチェックポイント、非常に心すべきこととして挙げられるのは、「高級霊の言葉であっても、あるいは守護霊や指導霊の言葉であっても、もう一度、八正道というフィルターにかけて聞いてみる」ということです。これが大事です。

そういう声が聞こえてくるのは、自分自身のなかに、それを強く求めているようなことがあるからではないのか。そういうこともありうるわけです。

だから、高級霊の声であっても、もう一度、八正道というフィルターにかけて考えてみる必要があります。そして、どうしても納得がいかないならば、しばらく期間を置いてみて、もう一度、それが正しいかどうか、自分の心に適うかどうかを考えてみるのです。こういう姿勢が大事です。

ただ、これも、行きすぎてはいけません。高級霊が何の霊示を送ってきても、「すべて自分で判断するのだ」ということで、全部、勝手に自分らやるならば、これは、そういう声がないのと同じです。神も仏もないのも同然であって、これでは「自分しかない」ということになります。

これは「我流で生きていく人」でしかありません。こういう人にとっては、霊的能力を持ったり啓示があったりすることは、何の意味もないことになってしまいます。このように、すべてを「自分が、自分が」という思い上がりでやってはいけません。

ただ、高級霊と思われる声であっても、いったんフィルターを通して聞いてみて、「この声に従って行動することは、本当に自分が向上する道かどうか」のチェックが第一点として大事です。

第二点は、「他人を害さない道かどうか」ということです。これがチェックポイントです。他人を害さないかどうか。

そして、第三点としては、「トータルな意味で神や仏の御心に適っているかどうか」と言うことが挙げられると思います。

実は、このあたりが非常に難しいところなのです。

例えば、ある人が就職したいとする。高級霊からの啓示が降りてきて、「こういうところに就職をしなさい」という勧めがあったとする。

そして、自分自身の心を考えてみると、そこに就職したいような気もするが、したくないような気もする。よく分からない。どうなるかは就職してみないと分からない。しかし、「そこに就職してみると、けっこういいかもしれない」という気はする。第一の関門を通過する。

第二の基準の検討に入る。他人を害さないかどうか。特に他人を害さないようではある。こういうことで第二の関門を通過する。

第三の関門。神や仏の心に適うかどうか。これも、考えてみると、確かにそのほうがユートピア創りにどうやら貢献するようである。こういう判定ができる。

そうすると、「第一、第二、第三とも、必ずしも完璧だとは言えないけれども、そこそこの水準を通過している」と思えば、もう、あとは全託をして、その道を歩んでいく。こういうことが可能なわけです。

ここで、人間心でもって、「やはり私は」と考え、「啓示を降ろしてきたのが高級霊であろうが、神だろうが、仏だろうが、やはり、自分が思ったとおりにするのだ。自分が思ったところに就職するのだ。自分が思わない会社へはいかないのだ」という考えでやっていると、これもまた自我我欲のままに生きていることになります。

そういうことで、一つひとつのチェックポイントを一応確認する必要はありますが、最後には、心を空しゅうしていき、「心むなしく神仏の声に耳を傾ける」ということも大事です。

この際に大事なことは、一つの「信頼感」です。全託する。信頼する。「最後には神や仏が自分を見て下さっているなら、そんな不幸な結果は起きない」という考えも大事です。

完全に「言うなり」になってもいけないけれども、最後には神や仏にお任せする。そして、どういうかたちであっても、自分が神や仏のために奉仕できるような生き方をしたい。そのように思っている人には魔は入り込めないのです。

「とにかく自分が利益を上げればよいのだ。自分の欲望が満足させられればよいのだ」という思いでやっていれば、いろいろな問題が起きますが、「最後には神や仏の役に立つ自分でありたい」という気持でいれば、魔は入り込めません。これが霊的世界の真相なのです。

ですから、霊道を開いて「悟りへの第一歩」を踏み締めた方は、よくよく謙虚に生きなければなりません。そして、「神や仏の使用人として、一部分として、ボランティアとして、自分はいているかどうか」という確認を、常々、行っていく必要があるのです。

「神や仏のボランティアとして生きている。そういう無量奉仕人として生きている」という自分を発見できたならば、あとは、その心に忠実に生きていくことです。

とにかく、「霊道を開く」ということは「悟りへの第一歩」であることは事実です。しかし、それで増上慢になってはいけません。うぬぼれてはいけません。「まだまだ先がある」ということを知らねばならないのです。

霊道を開くことの第二歩では、守護霊との交信だけではなく、より上位の高級神霊、指導霊たちとの交流が可能になってきます。

ただ、一般に言われているように、そういう高級霊との交流に際しては「人格のつり合い」が大事です。

例えば、日蓮上人の霊示を受けるためには、日蓮上人の霊示を受けるだけの器が要ります。それだけの人格が要ります。それだけの徳望が要ります。知力が要ります。慣性の煌めきが要るのです。悟りが必要です。

そのように、「高級神霊の通信を受けるためには、それだけの器が要る」という事実を知らねばなりません。

名前だけを語って、「自分は何々の神である」というかたちは数多くあります。これは日本国中にありますが、「霊示を受ける人と与える人とは、だいたい同じレベルである」ということを知らねばなりません。

ですから、やはり、生きている人の行動と実績に注目する必要があります。「それだけの人でなければ、それだけの通信はない」ということを知らねばなりません。

つまり、「最高級の指導霊の方が、あっちにもこっちにも出て指導することはない」ということを知らねばなりません。「それだけの実績があり、行動力があり、能力がある」と見られる人のところだけに出るわけです。

もちろん、これについても、判定には難しいところがあります。「われこそは、そういう人なり」と言う人は、あちこちにいるからです。したがって、これについては、やはり、客観的フィルターにかけ、「本当に世の中を納得させるだけの材料があるかどうか」という点で検討していけばよいと思います。

「霊道を開く」ということは、それに対する恐れ、恐怖感もありますが、これを通り過ぎたとき、さらに大いなる悦びを生むものですし、さらに大いなる人生観をもたらすものなのです。そういう道があるので、どうか、恐れずに生きていっていただきたいのです。

霊道を開いても、「日々、謙虚に努力する姿勢」さえ持っていれば、転落することはありません。勇気を持って、その道を突き進んでいっていただきたい。そのように祈念する次第です。

【大川隆法 『漏尽通力』第2章「霊的現象論」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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