(12/5-2)68『仏陀再誕』を読む―忍耐と成功―平凡のなかの悟り―反省的瞑想

『仏陀再誕』を読む

75 これ以外にも、最近「妖怪蛤(はまぐり)」の例が報告されている。やっとのことで血の池地獄から逃れたと思って、ビーチでくつろいでいると、巨大化した蛤(はまぐり)にぱっくりとくわえられて、猛速度で海の中へ引きずり込まれ、溺れるのである。「セックス依存症」で妖怪になり、男を食うのである。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

29 生前、人の生き血を吸うような仕事をやっていた者が、吸血コウモリとなって、地獄の洞窟を飛び回っているのを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
1未来を拓くための積極的反省―正念
〇反省には「過去の悔い改め」だけでなく「未来の発展への芽」もある

「正念」とは「正しく念ずる」と書きますが、この意味はそう定かには分からないのではないでしょうか。仏教書などを見ても、この「正念」の意味が分かっている人はいないと思われます。看破していないのです。やはり、言葉の意味にとらわれ、本当に意味での「正念」とは何かということが分かっていないのです。

それは、「心の作用」としてのさまざまなあり方について実体験している人が「正念」を語っていないからです。この「心の作用」についての実体験を通さずに「八正道」を語り、「正思」や「正念」などについての話をしたとしても、その本当の意味は分からないわけです。

私の話を聴いても、実は、それを単に聴くだけでは分かりません。それを実践に移し、実体験することによって、初めて分かってくるのです。

私がこれから「正念」について述べようとしている内容は、従来の仏教的反省を離れた部分になってくるでしょう。それは、「真説・八正道」においては、この「正念」のなかに、従来の仏教的反省よりももう少し積極的なところを盛り込んでいるからです。『釈迦の本心』や『太陽の法』等のなかでも少し触れているように、この「正念」の位置づけを「未来に対する心のあり方」という考え方でかなりまとめ上げています。この考え方を入れておかなければ、当会が四正道として説いている教えのなかの「反省からの発展」という思想につながっていかないのです。

「反省」を、単に「過去に対する悔い改め」ということだけに限定していると、「反省からの発展」という考えは出てきません。しかし、反省そのもののなかに、実は「発展への芽」がなければいけないのです。

「正見」「正思」「正語」「正業」「正命」「正精進」と反省を深めていくなかで、自分の心を明瞭化し、心の汚れを取り除いていく作業を終えたあとに、「未来に向けての布石」というものがなければならないわけです。

この転換点が、実は、「八正道」の七番目に出てくる「正念」であると考えてください。

〇正念を通しての「ユートピアづくり」

この「正念」が、特に「愛」と関係があるならば、それは他者との積極的なかかわりというところに眼目があります。この点に求められるでしょう。

「念」というものは、自分の内側から外側に対して発射するものです。ですから、少なくとも、他の人の人生に何らかのかかわりを持つことになります。必ず影響を与えるのです。

したがって、この「念」というものの「性質」および「内容」について考えることは、実は「ユートピアづくり」ということと非常に関係があるわけです。ここを間違ってはいけません。

すなわち、反省のなかに、積極的な「未来づくり」、あるいは「社会づくり」、「国づくり」、また「人間関係づくり」などのいちばん大事な部分が入っているということです。

【大川隆法『真説・八正道』第五章「正精進」242pより抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ 
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。

12/8(日)~10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致します。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。

主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
吾らの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
吾らを真なる幸福へと導きたまえ。』

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第五章 忍耐と成功 
○平凡のなかの悟り
さて、以上のたとえ話で私が何を話したかったか、
あなたがたにわかるだろうか。
この大男と村人というのは、けっして別々の人のことではない。
実は、あなたがたの心のなかに住んでいる住人であるのだ。

あなたがたの心のなかには、
実はどうすることもできない粗暴な大男がおり、
またその大男に対して、脅(おび)え、恐れおののく
小心な自分というものがある。
誰の心のなかにも、こうしたものはあるのだ。
自分の心を統御しようとしても、
どうしても欲望にひかれてゆく心があるはずだ。
その欲望にひかれている心は、
たとえば異性を見ては、心が狂い、
金銭を見ては、心が狂い、
また他人の持ち物を見ては、心が狂い、
あるいは他の人が幸福になるという話を聞いては、心穏やかではない。
そうした荒れ狂う台風のように統御できないものが、自分のなかにあるはずだ。
その統御できないものこそ、
実はこのたとえ話に出てくる大男であるのだ。
しかし、この統御できない大男も、
かつて鎖につながれていた時に、
どこかの誰かに統御されてきた、
支配されてきた、
飼いならされてきたという、懐かしい気持ちが残っている。
その懐かしい気持ちを思い起こさせたならば、
すなわち懐かしい笛の音(ね)を聞かせてやったならば、
この大男をおとなしくすることはできるのだ。
それは、もっともっと力の弱い、
小さな村人だと思われるものであっても、
その大男を統御することができる。

その通り―。
まず恐れというものをなくさねばならない。
自分の心は自分の手に負えぬものだと思ってはならない。
自分が自分ではないような、
まったく魔に踊らされ、魔に自由にされるような、
そんな自分であると思ってはいけない。
自分は必ず、自分自身の心を統御できると思わなくてはならない。
そして、統御する方法はというと、
実は決して腕力によって統御するのではない。
脅かしたり、傷つけたりすることによって、統御するのではない。

これが何を言っているかわかるだろうか。
それは、決して難行・苦行によって、
自分の心を統御することができるわけではない、
ということを言っているのだ。
滝行をしたり、あるいは断食行をしたり、
いろいろな難行・苦行があるが、
難行・苦行によって、
その心をなだめよう、心を統御しようとする試みは、
弓矢を射かけたり、あるいは罠をしかけたりして、
大男を何とか取り押さえようとするのと同じで、
かえって大男を狂暴にさせてしまうことになるだろう。
心はいっそう自由にならなくなる。

そうではない。
もっと平和的で、
もっと小さな気づきを用いて、
もっと楽しい方法によって、
心というものは統御できるのだ。
つまり、私は、
決して非凡な世界のなかに悟りというものがあるのではない、
決して非凡な経験のなかに悟りというものはあるのではない、
ということが言いたいのだ。
日々の平凡な生活のなかに、実は悟りへのよすががある。
実は、悟りへの道があるのだ。
そして、平凡な日々のなかの、
平凡な一日一日のなかの悟りとは、
実は、本の小さな発見にあるということを、私は言いたいのだ。

ほんの小さな発見とは何であるか。
それは、かつて、私たちが実在界・天上界にいた時に、
知っていたところの音色だ。
その音色を思い起こすということなのだ。
私たちが悟りに到るためには、
実在界で味わっていたところの、その音色を思い出すことだ。
それが、大事なのだ。
実在界で味わっていた音色とは何であるか。
それは、人に対する優しい気持ちでもあっただろう。
人に対する祝福の気持でもあっただろう。
また、欲望を強くせず、足ることを知る心でもあっただろう。
あるいは、ともに相和し、ともに協力し合い、
ともに生かし合う姿であっただろう。
決して、自分一人が幸福になろうとする心ではなく、
また我欲をつっぱるのでもない。
そういう姿があっただろう。
限りなく透明感にあふれ、限りなく優しい、限りなく暖かい、
そうした気持ちがあったであろう。

しかり、そのような世界こそが天国である。
そのように地上に降りて生きていても、
この天国のことを思い出して、日々、生きることだ。
天国の生活を、日々、思いにおいて描いて生きることだ。
さすれば、その時に小さな小さな草笛を吹いていることになる。
やすらぎの世界のことを常に思い描いて日々を生きることだ。
そのときに、大男は静まり、やがてあなたがたの敵でなくなるだろう。
あなたがたを味方し、あなたがたの思いのままに動いてくれる、
大切な大切な力となるであろう。

【大川隆法『仏陀再誕』第五章「忍耐と成功」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
第二章 霊的現象論
3 反省的瞑想

「想念帯に曇りがある」という話をしましたが、それを取り去るための作法があります。
これは古くはインドの時代に釈迦が教えた教えです。

釈迦は「八正道」というものを提唱しました。そして、禅定に入り、「正しく見る」「正しく思う」「正しく語る」などということを一つひとつ基準にして、自分の一日の思いと行いを反省してみることを毎日やっていましたし、これを弟子たちに教えました。人生は、日々、決算である。一日一日が決算であり、一日一日、心のなかの点検が必要である。こういうことを考え、それを実践していました。

したがって、「反省的瞑想」ということが最大の課題であったわけです。

このときに主としてどういうことを考えたかというと、結局、「心のなかに波風が立ったことはないか。苛立ちはなかったか。怒りの心はなかったか。うぬぼれの心はなかったか。憎しみの心はなかったか。嫉妬心はなかったか」などということです。こういうことを一つひとつ点検していったわけです。

〇正見―正しく見る
その方法論として、例えば、「正しく見たか」とい観点がありました。

「正見」「正しく見る」といっても、人間は、「見る」ということを、なかなか正確にはできません。相手の存在を正しく見る。これだけでも大変なことです。ある人を見て、いろいろな人がいろいろな評価をします。しかし、そうした「いろいろな評価が出る」ということは、本当の意味において、「その人を正しく見ていない」ということです。

「正しく見ていない」ということでは、自分自身の姿も同様です。「他人の目に映る自分の姿が見えない」ということがあります。これ以外に、「神や仏の目から見た自分たちの姿が見えない」ということもあり、これも真実です。

そのように、「見る」ということ一つ取っても、なかなか大変です。神や仏の心で見て正確に見直すのは非常に難しいことなのです。

〇正思―正しく思う
「正思」「正しい思い」というものもあります。「正しく思う」ということで。これも難しいことです。

一日の自分を振り返ってみる。どういう思いが本当に正しい思いであったのか。他人に対して悪しき思いを持たなかったかどうか。自分自身に正直に生きたかどうか。偽りをしなかったかどうか。欲望のままに生きなかったかどうか。こういうことを点検する。自分のこころのなかに 去来した思いを、もう一度、点検する。出した言葉だけではなく思いを点検する。こういうことも必要です。

〇正語―正しく語る
また、「正語」「正しく語る」という問題もあります。正語もユートピア建設のために非常に大事な作業です。

「この世の不幸は言葉から出ている」という考え方もあります。「憎しみに満ちた言葉、怒りの言葉、人を蔑(さげす)む言葉、苦しめる言葉、悩みの言葉、愚痴の言葉、こうした言葉が、結局、人生の不幸と苦悩をつくり出している」という考え方です。

さすれば、「言葉の調整をする」といことが一つの「幸福の鍵」となると言えるのではないかと思います。

やはり、愚痴が心の曇りをつくっていきます。しかし、それは、他人から指摘されないと、なかなか分かりません。愚痴の原因はなにかというと、結局のところ、自分自身の理想と現実とのギャップに関する不満感です。不満が生じてくるのです。

怒りもそうです。怒りは、心のなかから憎しみが込み上げくる場合に出ます。憎しみが徹底的に込み上げてくると、これが怒りの原因になるわけです。そして、怒りを相手にぶつけます。

これ以外に、「嫉妬」というものもあります。嫉妬の言葉です。あるいは、猜疑心に満ちた言葉があります。

こういう言葉を出さないでいればいいのです。出さないでいれば、まだ、自分のなかで、その毒がこもっているだけですが、出すことによって、この毒が伝染していきます。こういう”伝染病”です。

したがって、「正しい言葉を選ぶ」というのは非常に大事なことです。一日を振り返ってみて、正しい言葉を出すことができていなければ、そのことを反省し、次の日からまた、正しい言葉を出していくようにしなくてはならないのです。

〇正業―正しく仕事をする
「正しく仕事をする」などという「正業」の問題もあります。自分の今日一日を振り返って、例えば、「正しく仕事をしたか」を考えてみます。サラリーマンであったなら、「会社のなかで、本当に貢献できるような仕事をしたか。投げやりな仕事をしたのではないのか。本当に誠心誠意やったか」を点検するのです。

主婦であれば、「主婦として、こういう、魂の修行の場を与えられていることに感謝しながら、精一杯、生きたかどうか」を点検します。

ちゃんと子供の面倒を見たか。ちゃんと仕事をしたか。旦那さんのために何かをしたか。家庭の前進のために何かを考えただろうか。無駄なお金を使わずに、ちゃんと貯蓄に回したか。子供の教育に無駄な時間をかけなかったか。家事は諸事万端うまくいっているか。旦那さんが明日、素晴らしい気持ちで出勤できるようにしたか。

こういうことを主婦は反省しなければいけないわけです。

また、「立場相応」ということがあります。新入社員のときには「新入社員の心掛け」というものがあったでしょうが、やがて課長になり、部下を持つと、長たる者の仕事はまた別になってきます。そういう心得が要求されます。これ以外にも、部長になったり役員になったりすると、ますます権限と責任が増大してきます。

人間は自分が偉くなることばかりを期待するけれども、偉くなるには偉くなるだけの理由があるし、偉くなった場合には、それだけの責任が出てくる。この責任を果たしているか。

社長となれば、自分の個人の事情だけでは判定や判断ができない。やはり、全社員の運命や幸福を握っている。そういうことで、一つの判断であろうとも、本当に点にもすがる気持ちで、必死の判断をしなければいけないことがいっぱいある。そうしたことを部下は知っているだろうか。

こうした問題があるわけです。

〇正命―正しく生活する
それ以外に「正命」があります。これは「正しく生活する」ということであり、「規則正しい生活、神の子、仏の子としての恥ずかしくない生活をしたかどうか」ということなどを点検します。

〇正精進―正しく道に精進する
「正精進」では「正しい道に精進したか」を点検します。自分は仏法真理の勉強をし、仏法真理の前進のために何らかのことをしたか。あるいは、他人の幸福のために何をしたか。人のために祈ったことがあったか。神仏への感謝の念があったか。こういうことをするのが精進です。

〇正念―正しく念ずる
「正念」もあります。これは「正しく念ずる」「正しく思う」ということです。人間には、「祈り」という方法が与えられていますが、この祈りの部分でもあるわけです。さまざまな念波が全地球を飛びまわっているわけですが、この念波が悪ければ、世の中はだんだん混乱していきます。

さすれば、一人ひとりの出す念は、非常に素晴らしいものでなければいけませんし、積極的で建設的で明朗なものでなければいけません。この意味において、念のコントロールは非常に大事です。正しき念を常に出す必要があるのです。

〇正定―正しく定に入る
最後に「正定」があります。これは「正しく定に入る」ということです。「精神統一の時間を持つ」ということ、そして、「神仏との交流」「自分の守護・指導霊との交流」「自分自身の一日や過去を振り返る作業」が大事です。

こうしたことがトータルで「反省的瞑想」と言われていることなのです。

これは必ずしも積極的先進のための材料でないかもしれませんが、少なくとも、この世から地獄をなくす、あるいは、あの世から地獄をなくす方法論であるわけです。

こうした反省的瞑想ができるようになれば、人間は少なくとも地獄には行かないですみますし、地獄にいる人はそこから出てくることができるのです。また、この地上から地獄界を消していくことができます。そういう偉大な力を持った修法です。

この反省的瞑想を復活させなければなりません。釈迦の時代の「反省的瞑想」の復活が大事です。

これは単に釈迦だけが教えたのではありません。キリスト教系には、「懺悔(ざんげ)」ということがあります。神に対して懺悔をし、自分の罪を詫びる。これは、結局、反省的瞑想と同じことを意味しているわけです。

また、日本神道系においては、「禊祓(みそぎはら)い」ということをやります。これも、「神のまえに、清い心でもって立つ。謙虚に坐す」ということではないでしょうか。これも結論的には反省的瞑想と同じです。

モーセの時代にイスラエルにおいては、「神との誓い」ということを大事にしました。『旧約聖書』における、「旧約」「新約」の「約」という言葉は、「契約」という意味であり、「神と人類との約束」ということです。「神との約束に、忠実に生きる」ということが反省の材料なのです。

今日は神との約束を破らなかったかどうか。「汝、殺すなかれ」という約束を破らなかったか。「汝、隣人の妻を貪ることなかれ」という約束を破らなかったか。「汝、隣人について偽りの証を立てることなかれ」という約束を破らなかったか。神を裏切らなかったか。神の期待に応えたか。

「この契約が守れたかどうか」を毎日毎日、考え、反省する。こういうことがありました。

すべて同じです。すへては、結局のところ、「神の子、仏の子としての正しい在り方を追求、探求する」という姿勢です。こういう意味において、「反省的瞑想」ということも捉えてほしいと思います。

【大川隆法 『漏尽通力』第2章「霊的現象論」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
文責:蒲原宏史 

タイトルとURLをコピーしました