(12/3-2)66『仏陀再誕』を読む―忍耐と成功―成功への道―心の神秘

『仏陀再誕』を読む

73 山姥(やまんば)の変化形としては、いったんつかまえた男を、どこまでも追いかけてくる「ろくろっ首」も妖怪である。首を長くしてグルグル巻きにしてくる点、「安珍・清姫」の、「清姫」にも似ていて、男への執念のため、巻きついて火を吹いて焼き殺す、大蛇のような女の執念が妖怪化してくるのである。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

31 生前、ホラを吹いては逃げていた男が、ヒキガエルとなって、騙された恨みから青大将になった女に丸のみにされることろを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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2悟りの維持の難しさ【正精進】
〇時間の経過、経験の流れのなかで光を増していく

悟りといっても、このようにレベルの差がありますが、あなたなりの悟りが本当のものとなっていくためには、「経験」という名の試練を通っていかねばなりません。「火のなかを通され、水のなかを通された鋼鉄」のようになっていかねばならないのです。

この経験を通し、その試練を乗り切り、人生の最終点まで走っていったときに初めて、「悟りを手に入れた」と言ってよいのだと思います。

ある程度の心境にあなたがなったとして、では、経済的な破綻が来たら、あなたはどうなるか。肉親の一人が亡くなったら、どうなるか。エリートのポストから左遷されたら、どうなるか。離婚という状況になったら、どうなるか。

いろいろな場面があるでしょうが、そのときこそ、「試されている」と思ってください。そうしたときに不動の心を持って精進していける者は本物ですが、簡単にもろく崩れていく者の場合には、「その悟りは蜃気楼であった」と思わざるをえません。

したがって、私は、この「正しき精進」に関しては、「時間の経過、経験の流れのなかで光を増していく」ということの重要性を特に説いておきたいと思います。

毎年毎年の心境があるでしょうし、毎年毎年、仏法真理の学びがあるでしょうが、「それを実生活において実践し、その悟りの堅固さを試してみる」という姿勢を、とどうしても持っていただきたいと思うのです。

学生であれば、今、「悟った」と思っても、社会人となったら、どうなるか分かりせん。社会人となり、若手の社員から責任の重い中堅となったら、どうなるか。管理職となったら、その悟りが持つかどうか。

女性であれば、若い女性が結婚したら、どうなるか。その悟りを維持できるか。あるいは、まったく変わってくるか。結婚している女性であれば、ご主人の立場や職業、収入、こういうものが変わったときに、どうなるか。

こういうことが問われるのです。

【大川隆法『真説・八正道』第7章「正精進」234pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ 
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。

12/8(日)~10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致します。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。

主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
吾らの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
吾らを真なる幸福へと導きたまえ。』

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第五章 忍耐と成功 
○成功への道

さて、さらに私は、あなたがたに言っておくとしよう。
あなたがたは、成功というものに惹かれているにちがいない。
日々、成功というものに惹かれているにちがいない。
日々、成功とは何かを考え続けているにちがいない。
しかし、成功とは、
あなたがたが考えているものとは、
遥かに隔(へだ)たったものであるのかもしれない。
あるいは、成功とは、
実はすぐあなたがたの間近にあるものであるかもしれない。
その成功の意味について、定かな定義があるわけではないであろう。
しかし、私はあなたがたに言っておこう。
真に成功したと言えるためには、
どうしても外してはならないものがあると思える。

①常に穏やかに
成功の条件として、
心が乱れるような成功であれば、これは成功とは言わない。
心は、常に穏やかで落ち着いていなければならない。
心は、常に平静で、とらわれがないものでなければならない。
成功することによって、とらわれが増えてゆくならば、
その成功は真なる成功ではない。
私は、そう思う。
成功することによって、
心ますます穏やかとなり、
心ますます平静となり、
心は常に豊かさを含み、
多くの人々のことを考えることができる時に、
成功は本物となる。
私は、そのように思う。

②妬みをかうな
成功の途上において、
さまざまな葛藤をつくり、とらわれをつくり、
恨みをかい、妬みをかうようであっては、
真の成功であるとは言えない。
ゆえに、生有このための第二の条件として、私は言っておこう。
人びとの妬みをかってはならない。
いまだかつて、人びとの妬みをかって大成功した人はいない。
一見、成功したかに見えても、妬みをかった者は、
多くやがて没落の淵に沈んでいるようだ。
そう、人びとから妬みをかうということは、
あなたがたの成功が、
実は他の人びとの頭の上を押しつけた成功であるということなのだ。
他の人びとの肩の上に乗った成功であるということなのだ。
他の人びとに重荷を押し付けて、
そして後の成功であったということなのだ。

もし、あなたがたの成功が、
他の人びとの荷物を持ち、他の人びとの生活を楽にし、
他の人びとを幸せにしてゆくためのものであるならば、
あなたがたの成功は、
決して他の人びとの妬みをかうことはないであろう。
しかし、万一もし、あなたがたの成功を妬む者が、
一人でもあるとするならば、
まだまだ徳が足りないと思わねばならない。
まだまだ徳が足りないのだ。
徳が足りないということはいかなることか。
それは、あなたの成功によって、
損をしたと思っている人がいるということだ。
あるいは、あなたの成功を
不当なものであると思っている人がいるということだ。
あるいは、あなたの成功を
承認しがたいと思っている人がいるということだ。
そのような成功であってはならない。
真なる成功は、自然しぜんに、まわりの人によって、
押し上げられてゆくような成功でなければならない。
真なる成功は、
自ら意図するものでなく、
自然しぜんにその結果が出てくるようなものでなくてはならない。
真なる成功は、
ほんとうに多くの人々に感謝されるものでなくてはならない。
多くの人びとから感謝されることなくして、
真なる成功というものはないと思わねばならない。
私は、そのように思う。

③悟りの香りを
成功の第三の条件についても述べておくことにしよう。
心の平静と人の妬みをかわない態度が大事であると述べてきたが、
それ以外にも、成功のためには大切な心構えというものがある。
それが何であるかというならば、
あなたがたの魂の輝きが増してゆかねばならないということなのだ。
魂の輝きが増してゆくということの意味が分かるであろうか。
それは、悟りの香りが漂わねばならないということなのだ。
悟りの匂いが漂わねばならないということなのだ。
悟りの香りとは、魂の光とは、いったい何であるか。
それが、あなたがたにはわかるであろうか。
私はあなたがたに言っておく。
悟りの香りとは、得ようとして得られるものではない。
奪おうとして奪えるものではない。
決してそのようなものではない。
悟りの香りは奪わずして得、
得んと欲せずして得るものである。
ちょうどあの蝶が、
手に入れようとて網を持って追いかければ、
空高く逃げ延びてゆくが、
何もせずにじっとしていると、
自然と降りてきて、肩の上にとまりて憩うようなものである。
このように、悟りとは、
本人の意図には反して、ごく自然しぜんに、現われてくるものである。
そして、芳醇(ほうじゅん)な香りによって、
その人とその人のまわりとを潤してゆくのだ。

そのことの意味を、私は違った角度から話をしてみよう。

【大川隆法『仏陀再誕』第五章「忍耐と成功」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第二章 霊的現象論
1心の神秘

本章では、いわゆる「霊道現象」に関して話をしていきたいと思います。

最初に「心の神秘」ということについて語ってみたいと思います。

人間の心は非常に神秘的な存在です。心に関しては、長い間、いろいろなかたちで言われてきましたし、それについて考えられたことも数多くあるでしょうが、「心の正体はいったい何なのか」ということを突き詰めて説き明かした方は、そう多くはいないであろうと思います。

読者のみなさんのなかで、「あなたの心とはいったい何か。心を定義せよ」と言われて、即座に答えが出る人はいないのではないでしょうか。禅宗のお坊さんのように、「心とは何ぞや」と問われて、誰もまったく予期しない言葉で答えても、そういうことで解決がつくものでもないと思います。

心は古くから人々の耳になじんできた言葉ではありますが、残念ながら、「その正体はいったい何か」ということが分からないでいたわけです。

これは、たとえてみれば、「人間は、自分の住みかの裏に宝の蔵を持っていて、その鍵を渡されているにもかかわらず、その鍵がいったい何の鍵か、深く考えもしないで生活している人に似ている」と言えるでしょう。

自分には、玄関の鍵、それから台所の鍵、こういう二つの鍵があるけれども、これ以外にもう一つの鍵を持っている。ところが、三番目の鍵は何の鍵か分からない。分からないけれども、分からないままで放置している。そして、玄関の鍵と台所の鍵だけを使っている。「もう一つの鍵はいったい何だろうか」ということを深く完゛替えもしないで、そのままでいる。

たまたま裏庭には一つの建物が建っている。蔵のようなものが建ってるけれども、自分の両親が早く死んだために、自分には、その鍵はいったい何の鍵か分からない。そのため、鍵を一本持っていても、何の鍵か分からない。

こういうかたちで、鍵と蔵はあるけれども、鍵と蔵とのかかわりが分からないし、それを研究しないでいる。

これが大多数の人間の姿です。

ところが、人生の、ある時期において、ある日曜日でもいいですが、たまたま、気分のいい日があって、「ちょっと裏の蔵を見てみたい」という気になる。もしかして、自分が持っている鍵は合鍵なのではないか。こういう気がして差し込んでみると、意外や意外、その蔵が開く。「なかから何が出てくるだろうか」と思い、真っ暗のなかを手探りで歩いていく。

そうすると、そのなかから、なんと、金銀財宝、あるいは宝石の山、こういうものが出てきたわけです。びっくりします。

十年も前から、あるいは二十年も三十年も前から、そういう蔵があることだけは知っていたけれども、まさか、なかにそういうものがあるとは思わなかった。単なる物置か廃屋であると考えていた。

しかし、実は、そのなかには無尽蔵な宝が隠されていた。二十年、三十年、その秘密について知ることもなく、汗水たらして働いていた。

こういう自分を発見するにいたるのです。

たとえ話をしたわけですか、こうしたことは実によくあります。本当は、そういう鍵を持っているにもかかわらず、それが裏の庭に建っている蔵の鍵だと気がつかずに、何十年も過ぎてしまった人は数多くいるのです。

心は、まさしく、この宝の蔵のようなものです。本当は、その秘密を知り、その宝を手に入れれば、無限の力が湧いてくるのですが、それを深く探求しない者にとっては、くらの扉が開かないのです。

この「心の神秘」というものを探求していくと、「人間の心のなかに、どれだけ大きな力が潜んでいるか」を知ることになります。

この大きな「心の秘密」には二つの意味合いがあると思います。
第一は、「人間は自分の思うことを自分でコントロールできる」という秘密です。思いというものはコントロールできるのです。

ところが、大多数の人は、このことに気がつきません。思いというものを、なすがままに放置しているのが現状です。それはまるで浜辺に寄せては引いていく波のようなものです。思いは、そのようにたとえられるでしょう。

しかし、実際に念いというものを突き詰めて考えていくと、川の流れのごとく、上から下へ、どんどん、どんどんと流れ、押し寄せていく場合があります。心というものは、方向性を与えれれば力が出てくるのです。

単に浜辺に寄せている波だけであれば、それによる水力発電は難しいと思いますが、勢いよく流れ落ちる川であれば、そこにダムをつくると水力発電ができます。このように、一定の方向性があり、力があれば、それを有用なものに使っていくことができるのです。

同じように、心というものも、その「思いのコントロール」ということを探求していくと、意外な力が出てきます。それはある意味では、「自己実現」というようなものであるでしょう。一定の方向に向けて思いを集中し、持続していくと、ある結果が出るのです。こういう、「想念、念いの力」というものが一つあります。

もう一つの「心の秘密」は、「心のなかには深い部分がある」ということです。

この深い部分を心理学では、「深層心理」ともいいます。宗教的には、これを「守護・指導霊の世界」、あるいは「霊の世界」といってもいいのです。そうした世界とつながっているのが心の部分です。

この部分について、大多数の人は、うっすらと感づいたり、本能的に感じたりすることはありますが、「完全にそれをつかみ切る」ということができないでいるのではないでしょうか。

ですから、この無尽蔵の宝庫を知ることによって、無限の世界を探求することができ、そこに分け入っていくことができるようになっているわけです。

これが「心の神秘」に関する二つの内容です。第一は、「思いのコントロールによって、偉大な力を発揮できる」ということ、第二は、「思いの底を打ち抜いたときに、無限の世界、深層心理の世界、あるいは霊界と通ずることができるのだ」ということです。

【大川隆法 『漏尽通力』第二章「霊的現象論」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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