(12/1-2)64『仏陀再誕』を読む―忍耐と成功―静かに歩め―仏法真理への道

『仏陀再誕』を読む

71 山姥(やまんば)は、伝説的な女の鬼である。交通の便が悪く、旅館・ホテルが完備されていなかった時代には、山賊の一種として、追いはぎ、強盗、殺人などをしていた。死後の世界でも、同様に悪行をしているものもいる。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

33 生前、親不孝の限りをつくした息子や娘たちが、蟻地獄の砂に吸い込まれて、食べられるのを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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1神仏へのお心への精進【正精進】
〇仏法真理の学習と結果は「悟りへの『入場券』であり、『乗車券』ではない」

(当会の資格セミナーで)上級試験に合格し、賞状を手にされた方々にも言っておきたいのですが、上級試験に合格された方は、ある程度、仏法真理の理解ができ、ある程度の心境にきていることを認定されたわけです。しかし、これは「悟りの入り口に立った」ということであって、「悟った」ということではありません。

これを勘違いすれば、簡単に、あるいは一日で転落していきます。それを間違えないでいただきたいのです。

「賞状を手にする」ということは、みなさんが天国で天使として生まれ変われることの保証ではないのです。これは、「悟りの入り口に立った」ということなのです。それ以外のものではありません。

この意味において、仏法真理の学習とその結果は、「悟りへの『入場券』であり、『乗車券』ではない」わけです。

「悟った」ということは、そう簡単にはないのです。十年、二十年、あるいは一生を通じ、ぐらつかない心で、それだけのレベルの心で、どんな環境下でも生きていけるだけの自覚ができ、そして実績ができたときに初めて、「悟った」と言えるのであって、それは「悟りの入り口に立った」ということとは違います。

「一年や二年で出来上がる」ことは決してないのです。幸福の科学ができて二年余りです(1989年説法当時)「これで悟った人がいるはずはない」というのが前提です。悟りの入り口に立った方はいるでしょう。また、途中にある方もいるでしょう。しかし、悟った方はいないのです。

試験で何点取っても同じです。それは「入口に立った」ということです。入場券ではあるけれども、それを乗車券として使うためには、それだけの努力を連綿と続けていくことが必要なのです。

一定の心境に達したとしても、環境が変わったときに、ぐらりと崩れていくようであれば、その程度のものです。今は、何不自由なく悩みもないから、その心境で学びができているとしても、それを維持していく過程において、まったく違った環境が出てきます。そのときに、それを乗り切ることができれば、その悟りが簡単に壊れていくことがあるわけです。

【大川隆法『真説・八正道』第7章「正精進」228pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ 
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。

12/8(日)~10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致します。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。

主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
吾らの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
吾らを真なる幸福へと導きたまえ。』

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第五章 忍耐と成功 
諸々の比丘、比丘尼たちよ。
今日は、あなたがたに忍耐と成功の話をしよう。
この話はとても大事だ。

○静かに歩め
私はいつもあなたがたに、
執着を去れと教えてきたはずだ。
執着のなかでも、あなたがたを成功から遠ざける最たるものは、
時間における執着だ。
時間における執着とは、焦りのことをいう。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に苦しんでいる。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に迷っている。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に苦しんでいる。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、
常に虜(とりこ)となっている。

人びとよ、まさしく焦りは人生の敵である。
静かにゆく者は遠くまでゆくのだ。
音少なくしてゆくものは、千里を駆ける。
騒がしく鉦(かね)や太鼓の音ともに歩む者は、
さほど遠くまで進むことはできない。
なぜならば、鉦(かね)を打ち、太鼓をたたく音を聞いて、
まわりからゾロゾロといろいろな人が集まってきて、
やがて話しこむうちに、
本来の旅の目的を忘れ去ってしまうからだ。

ゆえに、諸人よ、
先を急ごうとするならば、静かにゆけ。
目的が遥かに遠くにあるならば、すみやかにゆけ。
深く、静かにゆくがよい。
その際に、決して焦ってはならない。
決して急いではならない。
焦りの気持ちとは何であるか、考えたことがあるだろうか。
焦りの気持ちとは、いち早く結果を手に入れたいとする気持ちだ。
努力を惜しんで、努力の目的であるところのその成果を、
人より早く手に入れたいとすることだ。
ゆえに、諸人よ、よくよく心せよ。
もし、あなたがたの人生に迷いが生じてきたならば、
この迷いとは、実は焦りにほかならないのではないかと、
焦りこそが迷いを生み、迷いの根源が焦りではないのかと、
その時に、深く深呼吸をして、
何ゆえに焦るのかと、自問自答するがよい。
何ゆえに焦るのか、
何ゆえに急ぐのか、
何ゆえに慌てるのか、
考えてみれば、さして根拠のあることであるまい。
さしたる根拠はないのだ。
焦りの根源は、いつも似たようなところにある。
さしたる根拠もなく、焦っているのだ。
それは、時間が経つうちに、
何か漠然と不安な出来事が自分を襲うのではないかと感じているのだ。
何か将来に不安なるのが現われて、
自分を害するのではないかと思っているからだ。
およそ、焦りの原因は不安の影におののくところにある。
自分を害するものが、自分を傷つけるものが、
立ち現われてくるのではないかという不安感に焦りの根源がある。

諸人よ、よくよく考えてみよ。
あなたがたの人生の使命とは、いったいどこにあったかを。
あなたがたの人生の目的とは、いったいどこにあったかを。
さすれば、思いつくことがあるであろう。
それは、我らは決して地上において、
人生をはやく行き過ぎることを目標とはしていないということだ。
駆け足で通り過ぎてしまったところで、
人生に何らの味わいもあるはずがない。
肉体の成長がその山の頂を極めたところで
さしたることがあろうはずもない。
平坦であることを恐れてはならない。
平凡であることを恐れてはならない。
一時の流行に心を動かしてはならない。
世の常識に妥協してはならない。
世人の声に迷ってはならない。
また、あなたがたを深く愛していると称する人びとの心にも、
迷ってはならない。

道を進むものは、静かにゆけ。
道を歩むものは、静かにゆけ。
その足音を他の者に気取(けど)られてはならない。
これから、自分が長旅を行くのだということを、
他の人びとに告げる必要はない。
いや、告げてはならない。
長旅をゆくことを告げることによって、
あなたがたの道を妨げる者があるであろう。
それは、必ずしも悪意の妨げのみではない。
善意の妨げというものもあるであろう。
そのような長旅は危険が伴うからこそ、
やめておいたほうがよいと言う人も、跡を絶たないであろう。

【大川隆法『仏陀再誕』第四章「政治と経済」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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第一章 霊的人生観
4 仏法真理への道

「人生の転機」「霊性への目覚め」「物質と誘惑」という問題を考えてきて、次に「では、どうやって仏法真理への道に入っていくべきか」ということを考えてみたいと思います。

仏法真理への道に入っていくときに、いちばん大事なのは、やはり、「導き手」であろうと思います。

今、「本当であれば、仏法真理のことを勉強したい。学びたい。求めたい」という人は数多くいると思いますが、残念ながら、「善き指導者に恵まれない。巡り会えない」ということが最大の難点です。世の中に、道を求める人は数多くいますけれども、「真の指導者に巡り会えない」ということが最大の難点となっているのです。

では、どうしたら真の指導者に巡り会えるのでしょうか。

「あちらの宗教、こちらの宗教と遍歴しながら、よくなるならともかく、どんどん悪くなっていく人が数多い。また、いろいろなところで霊的な作用を受け、帰ってくる人が数多い」という問題がありますし、「宗教に凝って、おかしくなる」というのは日常茶飯事です。

そのため、家族や親族が反対するのは常です。「宗教に凝って、おかしくなった。変な新宗教に凝った」という話になって、問題とされるわけです。

ですから、「仏法真理への道」ということを考えるに際しては、どうしても、師の存在、優れた指導者の存在が大事です。私はそう思います。

優れた指導者がいるところには、また、優れた教えがあります。同様に、優れた教えがあるところには、優れた結果があるはずです。優れた指導者の存在、優れた教えの存在、そして、優れた人間完成への道、導き、こういうことがあると思われるわけです。

こうしてみると、「師の存在」、「教えの存在」「、あるいは「効果の存在」「結果の存在」は、非常に立派な道筋であり、素晴らしい道筋であると思います。

大事なことは何であるかというと、やはり、優れた指導者になろうとする方々が数多く出てくることです。その必要性を私は感ずるわけです。優れた「仏法真理の指導者」を数多く出していく必要があります。

そして、優れた指導者が出ていくための材料として、優れた教えが数多く出ていく必要があるのです。そして、数多くの優れた教えが出たならば、「それをどう学び、それをどう実践に移していくか」という課題が残っていると思います。

私は幸福の科学で人類幸福の科学化運動を起こしておりますが、この背景には、やはり、「優れた指導者を養成したい」という気持があります。

また、「優れた指導者を養成するためのテキスト」としての仏法真理の客観性、あるいは多様性をつくり出し、取り出していく必要があると考えていますし、その指導・学習方法の確立が急務であろうと思います。優れた教え、仏法真理があっても、それをどう学習すればいいかが分からねば、どうにもなりません。

この仏法真理の学習方法に関しては、まだまだ確立されていないものがあります。

悟りの関しても、古来、「どうやったら悟れるのか」ということが分からなくて、「とにかく、一千日、山の中を歩けばよいのだ」という、千日回峰行的な考え方もありますし、「とにかく座禅を組めばよいのだ」という考えや、「物質を断ち、執着を断てばよいのだ」「一切のしがらみを断てばよいのだ」「滝に打たれればよいのだ」という考えもあります。

このように、いろいろな考え方があり、これらは、そうした精神を何らかの形で体現しているのですが、「本来の仏法真理学習」という面から外れているわけです。

また、仏法真理学習の一面には、「単に経文を唱えればよい」という形式主義もあります。「内容が分からずとも、経文を唱えておればよい」というものです。その経文はいくつかあります。あるいは、「経文を筆写(ひっしゃ)するだけでもありがたいことであり、何万巻も書写すれば幸福になれる」という人もいますし、「自分の名前を変えればよいのだ」「神社に寄付すれば救われるのだ」という人もいます。

このように、仏法真理の学習方法が確立されていないため、巷(ちまた)では、さまざまな方法論が跋扈(ばっこ)していますし、それに人々が迷わされている面があると思います。

私は、まず、「仏法真理への道」の第一歩として、教材として、すなわち、学びの材料として確立されたものが必要でないのか。このように感じるわけです。【大川隆法総裁先生は、説法された内容を経典として出版して、2024年には発刊3300書を突破されています。】

それがなければ、やはり、常識人としての、あるいは、この世的な人間としての、まっとうな学びができないのではないのか。この世ならざる世界に一超直入(いっちょうじきにゅう)しなければ悟れないのならば、大部分の人は、すでに救いの外にあるのではないのか。このように思われます。

したがって、地上人の常識に照らしてみても納得のいくような内容で、仏法真理の存在をつくることが大事ですし、これを知的なベーから学んでいく、学習していく方法論の確立が大事であろうと思います。その意味で、学校教育的な手法も、多少、導入せねばならないと考えます。

【大川隆法 『漏尽通力』第一章「霊的人生観」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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文責:蒲原宏史 

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