(11/28-3)61『仏陀再誕』を読む―政治と経済―足ることを知る―【漏尽通力】霊的人生観

『仏陀再誕』を読む

68 鬼には、赤鬼、青鬼、黄鬼、緑鬼、茶鬼、白鬼そして黒鬼がいる。赤鬼は感情的に、青鬼は理性的に善悪に反応する。両者が主流で、「黄」「緑」「茶」「白」などは、部下であることが多い。「黒鬼」は課長、部長的な判断をすることが多い。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

36 生前、民衆を処刑していた軍人たちが、鶏(にわとり)の大軍になって、次々と、首を、鬼の斧で斬られていくところを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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3未来へ投資するライフスタイル【正命】
〇自分の自由になる時間を将来への投資に充てる

もう一つは、「生き方のライフスタイル」そのものです。これ自体について検討する必要があると思います。

あなたが、今、理想とするライフスタイルは、どういうものでしょうか。これを考えてほしいのです。「何をもって理想とするか」「どういう生き方ができていけば自分としては本望なのか」というように、一日二十四時間という考え方を、もう少し中長期的な観点から眺めてみるということです。五年、十年、あるいはもっと大きな範囲のなかにおいて自分の生き方を決めていくことも、正命のなかに入っていると思います。

そうして、実は、このライフスタイルのなかで特に重要なのは、自分の自由になる部分です。自由になる部分の時間の使い方を、特に考えていくことです。

二十四時間のうちには、生活必要時間があります。また、仕事上、どうしても必要な時間もあります。これらを取り除いた残りの、自分にとって自由になる時間を使って、未来を設計していくことです。これは一つのプロジェクトです。自分の人生の計画設定であり、そして、その実践です。少なくとも、このライフスタイルにおいて、何らかの理想を持つべきであると、私は考えます。それをただ漫然と過ごしてはならないと思うのです。

自分のライフスタイル、生活のパターンを築き、その生活パターンのなかに、将来の自分への投資に当たる部分を必ず盛り込んでいくことです。将来的に自分にとってプラスになることを盛り込んでいくことが大事であると思います。いつ、どういう環境が現れても、自分が有為な人間として、また、優れた人間として、役に立てる人間として、人に喜ばれるような人間として生きていけるための資産を、生活設計のなかでつくっていくことです。これが大事ではないかと思います。

このなかには、もちろん、読書をするというようなこともあるでしょうし、音楽を聴くということもあるでしょう。あるいは、身体を鍛えるということもあると思いますし、カルチャーセンターのようなところに通う人もいるでしょう。いろいろ考え方はあるでしょうが、「未来への投資」という観点から考えてみる必要があります。

【大川隆法『真説・八正道』第6章「正命」218pより抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、地上仏国土ユートピアの実現のために「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

12月8日は降魔成道記念日です。主エル・カンターレ 
大川隆法総裁先生が、1985年12月8日に名古屋の地(降魔成道館)にて、救世主として法を世に説くことを決意しようとしたとき、これを何としても阻止せんと、悪魔が総攻撃をかけてきました。降魔成道記念日とは、この悪魔を打ち倒して、仏法真理の流布に立ち上がったことを記念する聖なる日です。

12/8(日)~10(火)まで、「降魔成道記念日」感謝式典を開催致します。主は、ただ一人往くという不退転の決意によって魔を下し、降魔成道をなされ、救世主として立たれたことに心からの感謝を捧げると共に、大川隆法総裁先生のご復活を心より祈念し、全世界の信者一同で、「降魔成道記念日」感謝式典版「復活の祈り」を執り行います。

主のご復活を妨害する悪霊・悪魔・妖怪・妖魔・闇宇宙・唯物論の勢力といった悪しき者たちの呪いを打ち祓い、主がこの地にて「エル・カンターレの法」を再びお説きいただけるための、結界を皆様と共につくってまいります。皆様ぜひご参加ください。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
我らの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
我らを真なる幸福へと導きたまえ。』

今日の一日を振り返りつつ、1989年7月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。
そののち、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。
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第四章 政治と経済 
○足ることを知る

また、あなたがたは適材適所という言葉を聞いたであろう。
適材適所ということは、
その人の器、その人の才能、
その人の能力に合った立場につけるということだ。
この適材適所という考えが、なかなかわからなく、
また、なかなか肯定しがたいことのように思われるかもしれない。
その多くは、欲望が強いがために、
自ら自身を正しく評価できないことにある。
人は、その器相応に使われてこそ、
はじめて喜びを得るのだという事実を知らなければならない。
鋸(のこぎり)には鋸の幸福がある。
鉋(かんな)には鉋の幸福がある。
鑿(のみ)には鑿の幸福がある。
それを忘れてはならない。
鋸(のこぎり)は木を挽(ひ)くのに役に立つであろう。
木を上手に挽くのは鋸(のこぎり)の喜びであろう。
しかし、木を平らかにするのは鉋(かんな)の喜びであろう。
また、木に溝をつけるのは鑿(のみ)の喜びであろう。
この鋸(のこぎり)と鉋(かんな)と鑿(のみ)という違ったものは、
それぞれが尊いのだ。
それぞれが尊く、どれも無くてはならないものなのだ。
なのに、世の人びとが鋸(のこぎり)こそ素晴らしいと言えば、
だれもかれもが鋸(のこぎり)になろうとする。
世の人びとが鉋(かんな)こそ素晴らしいと言えば、
こぞってみんな鉋(かんな)になろうとする。
しかし、世の中にはいろいろな人がいて、
それぞれの持ち場で働いているからこそ、
世の中がますますよくなってゆくのだ。
あなたがたは、ともすれば、
目立つ鋸(のこぎり)という仕事を目標とするかもしれない。
しかし、鋸(のこぎり)の役割ができるためには、大きな力がなければならない。
大胆で、決断力に富み、迅速で、
そして仕事が速くなくてはならないだろう。
そうした性格の人は、鋸(のこぎり)の役割を担(にな)うのがよい。
しかし、一方では、几帳面でサービス精神に富み、
そして多くの方々に気配りができるような人がいるであろう。
こうした方がたは、
鋸(のこぎり)という役割は必ずしもその性分には合わないのだ。
そういう人びとは鉋(かんな)としていかに艶(つや)を出すか、
いかに滑らかに仕上げるかということを努力すればよい。
それが、本来の自己を生かす道であるのだ。
また、専門的にのみ生きている人もいるであろう。
狭く、細く、しかし力強い仕事をしたいと願う人もいるであろう。
これは、鑿の仕事であろう。
小さなところを削り、彫り、そして役に立つ。
これが鑿(のみ)の仕事だ。
こうした専門的な仕事を軽蔑する人もなかにはいるかもしれない。
あるいはそうした仕事についていて、
自ら自嘲的になっている人もいるかもしれない。
しかし、このような仕事はあるのだ。
鋸(のこぎり)によってしては、ほぞをつくることは難しい。
鉋(かんな)によっても、ほぞをつくることは難しい。
鑿(のみ)によってこそ、ほぞはつくることができるのだ。
このように、
それぞれ適材適所ということがあることを忘れてはならない。
さすれば、ある者は社長となり、
より多くの困難、波風に遭(あ)うかもしれないが、
その社長業を、自らがこなさなければ、
幸福でないと思うのは間違いかもしれない。
地位の上にある人、下にある人、
それはあくまでもこの世的なる序列であって、
それが真実の仏の序列ではない。
それぞれ、適材適所ということが実現されて
はじめてすべてのものがよくなってくるのだ。
決して、欲望の自由を満たすことが、素晴らしいことではないのだ。
みんなが社長になりたいからといって、
すべての人を社長にしていては、
その会社に働く人たちは、次々と失業して、
そして大いなる苦難をなめるであろう。
社長になるべき器があってこその社長であるのだ、
ということを知りなさい。
さすれば、自らの分相応に生きていることを決して悔いてはならない。
もちろん、経営する立場に立つ者は、
人事は公平にしなくてはならないであろう。
また、雇われる側にあっても、
公平な処遇をされることを願うことは正しいことであろう。
しかし、どうか私の語った鋸(のこぎり)、鉋(かんな)、鑿(のみ)の例を思い出してほしい。
それぞれの持ち場に使われてこそ、役に立つのであり、
そして喜びがあるということだ。
間違った場所で使われて、真の喜びはないということなのだ。
このことを、よく知りなさい。

足ることを知るということは、決して消極的なることではない。
足ることを知るとは、己(おのれ)を知ることになり。
足ることを知るとは、己(おの)が力量を知ることなり。
足ることを知るとは、己が才能を知ることなり。
足ることを知るとは、己が生きる場を知ることなり。
己が生きる道を知ることなり。
己が死に場を見つけることなり。
これ、足ることを知るという。

【大川隆法『仏陀再誕』第四章「政治と経済」より抜粋】
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続いて、地上への執着と煩悩を断つ修行法として『漏尽通力』を共に学びます。
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『漏尽通力』改訂・新版へのまえがき

約三十二年前、著者三十一歳の原著は、『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』の基本三部作に続いて書かれた。だが時代を超越しすぎていたため、いったん絶版状態にしていた。

しかし、現今、高度な霊能力の諸相について語った書物は実に貴重であるので、改訂・新版として復刻すべきだと考えた。神聖な「霊言」を汚す者さえ出てきたことも理由の一つである。

伝統的な解釈では、漏尽通とは六大神通力の一つで、煩悩を滅尽する力とされていた。「有漏(うろ)」「無漏(むろ)」という言葉もある。「漏」とは、煩悩、欲望のことである。

しかし、菩提樹下で釈尊は悟りと同時に「三明」を得たとされている。その一つが「漏尽」である。だが、その時、釈尊は断食を中断し、中道に入ることを決めている。そして村娘スジャータ―の乳がゆのお布施を受けている。

つまりこの世的欲望を完全になくすことではなく、この世的欲望に振り回されることなく高度な霊能力を使いこなせることこそ、漏尽通であり、「世間解(せけんげ)」という立場、「智慧」の立場とも両立すると考えられる。これは本来の仏陀による新説である。新刊に際し、原著を講義した、第七章も追加したことを附記(ふき)しておく。

二〇二〇年 四月 十日
幸福の科学グループ創始者兼総裁 大川隆法

〇まえがき
本書『漏尽通力』は、霊能力の諸相をふまえながら、現代的霊能力の極致、窮極の霊能者の姿とは何かを説き明かした理論書です。釈迦には六大神通力がありましたが、人類史上、他の宗教者と比較しても、最大の霊能力だと目されるのがこの漏尽通力です。伝統的には欲望を滅尽させる能力ですが、入滅のすすめと、とられかねません。私としては、錆(さび)をつくらず光り、かつ、切れ味のよい日本刀のような、生き年の霊的生活を生きる能力だと思います。

すなわち、巨大な霊能者でありながら、通常人と全くかわらない生活をし、「平凡のなかの非凡」を実践してゆく能力です。

現代人にとっての「悟り」とは何かを考えてゆく際にも、この漏尽通力のあり方は、まさに黄金の鍵の役割を果たすものと思われます。この点からも本書は真理探究者にとっては必読の一書となることでしょう。

一九八八年 三月
幸福の科学グループ創始者兼総裁 大川隆法
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第一章 霊的人生観
1 人生の転機

人間は、それぞれに「自分の生きがい」というものを探求して生きているわけですが、その人生の途上において、さまざまな転機に見舞われることとなります。

そうした場合のいちばんの大きな転機として、やはり、「宗教的な出会い」というものが待ち構えているように思います。宗教的な出会いとはいったい何かというと、「この世ならざるものとの接触、遭遇」ということです。

どんな人間であっても、必ずそういう時期は来るものです。

例えば、幼少時には、「病気をする」ということがあるかもしれません。あるいは、片親がなくなるとか、両親の別離であるとか、こういうことがあるかもしれません。

小学校のときには、いじめに遭うとか、中学校のときには、クラブ活動で挫折をするとか、高校進学のときには、進学で悩むとか、こういうことがあるかもしれないのです。

それから、高校卒業に当たっては、「就職の道を選ぶか、大学進学を選ぶか」で悩んだりしますし、大学に進学するにしても、「どの学校に行くのか」で悩んだりします。たいていの場合、第一志望のところにはなかなか行けなくて、自分の意図とは違うところに進学していきます。

このほか、大学に入ってからも、なかなか学業についていけなかったり、留年あるいは中退をしたりすることもあります。

就職のときにもそうであって、進学のときと同じように、第一志望のところに入ることはなかなか難しく、いろいろなところで就職の面接試験を受けても、一次選考や二次選考を通ったのに、三次選考で落ちたりすることがよくあるわけです。

また、思い通りの会社に就職できたとしても、そのなかにおいて、さまざまなつまずきが待ち構えていることはよくあります。自分より早く同期のものが出世したり、思わぬことでビジネス上の失敗をしたり、過労がたたって病気をしたりすることがあるわけです。

最初は注目されていたエリートが、思いもよらない失敗によって、左遷されたり脱落していったりすることがあります。

また、まったくの問題外で、ライバルとは見られていなかった人が、意外に力を伸ばしてきて、どんどんと上に上がってくることがあります。場合によっては、自分の後輩が自分の上司になることもあるのです。こういう衝撃があります。

会社のなかでもそういうことがありますが、これ以外にまた、個人的事情として「結婚」という問題があります。結婚は一つの関門であって、これも人生の一つの試練であろうかと思います。会社の選択と同様、配偶者の選択も決定的です。

「人生には三つの関門がある」と言われます。「進学」「就職」「結婚」の三つです。

この書物を読んでおられる方の大多数は、「進学」という問題をすでに終えられているでしょう。また、学生ではない方々の大部分は、「就職」という問題も終えているでしょう。そして、何割かの方は、「結婚」という問題に対して、いろいろな悩みを持っておられるのではないかと思います。

この「配偶者の決定」に際しても、やはり、人はいろいろと悩みます。
この世的には、いろいろな結婚コンサルタント会社があって、両家の条件をいろいろと出しては話をすることがあります。

男性から女性に対する希望であれば、やはり、容姿が端麗(たんれい)であるとか、最低でも短大を出ているとか、ご両親が健在であるとか、一人娘ではないとか、そういう条件がつくことはよくあります。あるいは、性格がいいとか、尽くすタイプであるとか、料理が上手であるとか、花嫁学校に行っていたとか、こういう条件を付けることもあります。

また、女性から男性に対してであれば、年収がいくら以上であるとか、次男坊であるとか、三男坊であるとか、親と別居できるとか、身長が百七十センチ以上あると、体重は何キロを超えていないとか、こういう条件があるかもしれません。

そういうときにも、この世的にいろいろと選択をしながらも、やはり、どこかで「神縁」というようなものを感じ、人間ならざる第三者の働きを考えます。具体的には、「守護霊あるいは指導霊たちが何かをやってくれているのではないのか」「生まれてくる前の縁があったのではないのか」ということを考えるに至るのです。

たいていの人間は、神や仏を無視し、霊的なものを無視するにもかかわらず、進学のときや就職のとき、結婚のときには、そうしたものに関し、何らかの感じを受けるわけです。

結婚に際しても、「赤い糸で結ばれている」という話を耳にします。若い女性たちの場合、ほとんど、そうしたことを信じていて、「八割、九割以上の人は赤い糸を結ばれていて自分の約束した相手がいるのではないのか」というように考えることがありますが、これなども、やはり、霊的な人生観を得るための一つのよすがになっているということが言えるでしょう。

結婚のあと、子供ができても、またね神秘的な感じを受けることがあります。子供というものは、「つくろう」と思ってつくれるものではなく、子供ができると、「授かった」という不思議な感じを受けるものです。

また、不幸にして離婚を経験される方もいますし、片方との死別もあるかもしれません。

こういう、人生のいろいろな流れのなかにおいて、人間はさまざまな転機を経験していきます。その転機とは、結局、どういうものかというと、一つの選択肢であるわけです。「右にすべきか、左にすべきか。あるいは、まっすぐに進むべきか、退くべきか」という転機が必ずあるのです。

これは決して優れた人にだけにあるのではありません。どんな人にも人生の転機は何度も何度もあります。「そうした選択肢を、そのつど、どう選ぶか」によって、結果的に、振り返ってみると、その人の人生はずいぶん変化しているものです。

これは迷路を歩いているのと同じであって、「右にするか。左にするか」を間違うと迷路から出てこられませんが、うまく選択すると迷路から出てこられます。

このように、結果的には、「右にするか、左にするか」という判断で人生は変わってくることがあるのです。

こうした「人生の転機」に当たって、人は、ともすれば、易をやってみたり、姓名判断をやってみたり、四柱推命をやってみたり、星占いをやってみたりと、さまざまな「この世ならざるもの」へ、すがろうとする思いを持ちたがるものです。「人知を超えたもの」に頼ろうとするわけです。

結婚の問題にしても、「Aさんと結婚するか、Bさんと結婚するか」という問題で心揺れたりすることがあります。こういうときに占いに走り、易者に見てもらったりして、「どちらの方が縁が深い」とか、「こちらであれば失敗する」とか、こういうことを言われ、信じる人もいれば、余計に迷ったりする人もいます。いろいろなことがあるわけです。

結局、人間は、原則を自分で考えていこうとするけれども、「より一歩先が見えることがありえないか」という希望も抱いているわけです。それはなぜかというと、やはり、誰もが「つまずきたくない」という気持を持っているからです。

半年後、一年後、三年後、五年後、十年後、のことは、なかなか人間にはわかりません。分からなくて、自分の認識を超えた領域であるからこそ、「他のもの、人知を超えた偉大な存在の計らいが、何か得られないか」ということを考えるわけです。

こうした「人生の転機」こそ、やはり霊的人生観への目覚めの契機ではないでしょうか。そのように私は思うわけです。

【大川隆法 『漏尽通力』第一章「霊的人生観」より抜粋】
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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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If You build it, He will come. あなたがそれを建てたとき、彼はやってくる。
When You believe It, You will see It. あなたが信じるとき、あなたはそれを見るだろう。
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◆「天御祖神 感謝報恩植福」について

・この度、日本文明の祖にして、武士道の源流にあたる天御祖神が日本に降臨され、いまもなお、霊的にご指導を賜っていることへの感謝を捧げるために、箱根強羅の地に天御祖神を讃える「天御祖神記念館」を建立させていただくこととなりました。

・本植福を通じて、天御祖神への感謝を深めていくとともに、武士道精神を復活させ、神国・日本としての誇りを取り戻していくことで、この日本の地を主エル・カンターレの教えを発信するにふさわしい地としていくことを誓ってまいります。

日本神道の屋台骨である高天原が、日本人の不信仰と愛国心の欠落により、崩れてしまっている今、私達伊勢支部信者が先頭となって、日本神道の屋台骨を支え、日本国の誇りを取り戻すべく先頭に立たなければならないのではないでしょうか。伊勢支部としては、「天御祖神記念館」建立事業を全力で応援致します。私たちの信仰心をここに結集して参りましょう。

・「天御祖神感謝報恩植福」(2022/1/1~)は、天御祖神の日本への御降臨と、いまもなおご指導を賜っていることへの感謝を捧げ、報恩への誓いを固める植福です。

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・私は二〇一五年ぐらいから公開しておりますけれども、実は日本文明というのは、今から三万年ほど前に、天御祖神という方が、今の富士山があるところの近くに、宇宙より降臨したところから、始まっているということを、何冊かの本で説いております。(略)

(天御祖神の)教えの中心は、今も片鱗としては伝わっています。一つ、言わなければならないことは、「神の子、仏の子としての人間」として生きるということは、「正しく生きる」ということであるということですね。これが大事な柱でした。(「地球を包む愛」)

・「天御祖神の教え」とは何でしょうか。(略)おそらくは、「鍛錬ということの大切さ」や、「自分を鍛えて力強くあることの重要さ」というものも教えていたのではないかと思います。 
(『現代の武士道』)

・葬られているのは、今で言うと、強羅温泉の近くです。
 (「超古代リーディング―天御祖神と日本文明のはじまり―」)

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―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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文責:蒲原宏史 

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