(2/12-2)43『仏陀再誕』を読む―我、再誕す―蓮の華のごとく―業とは何か

『仏陀再誕』を読む

46 特に、「カラス天狗」と呼ばれる一派は、知能も高く、カラスそっくりの口ばしをしている。口を開けば、自慢話か、他人をこき下ろすことに精力を使っており、「反省」ができないという特徴がある。高ころびして、挫折する以外に、自己の実像を知ることは少ない。

カラスそっくりの黒い羽根をしているが、肩を落とした後ろ姿のしょんぼりしたところを見ると、悪魔より純心なところがあると思われる。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

54 ある時、大群のイナゴに姿を変えた飢えた民衆が、国王一家に襲いかかり、彼らを、白骨に変えていくところを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】

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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。

皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、

主のため、世のため、隣人を救い助けるために、

仏国土ユートピア建設のために、

われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、

主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。

あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。

われらを真なる幸福へと導きたまえ。』

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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。

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2章 現代の武士道

1 日本的精神の一つ、「武士道」について語る

〇戦後の日本から「武士道精神」が失われている

本章では、「現代の武士道」という話をします。

幸福の科学の教えにおいて、まだ十分に足りていないと思われるものを感じたことがありましたので、これについてお話ししようと思います。

明治維新で武士の世が終わり、四民平等の西洋化した世界ができたわけですが、それはそれなりに、文明実験としてはよいことだったかもしれません。ただ、武士の時代は千数百年以上も続いていましたので、そこで失われたものもあったのではないかと考えています。

特に、「第二次大戦の敗戦後の日本」ということを考えたとき、いろいろな神々のご批判、ご叱責等を感じるに、やはり「武士道精神が日本から失われている」ということが大きいような気がしてなりません。

もちろん、現代のみなさん自身は刀を差して歩いているわけではありませんし、そういう世の中でもありません。しかし、日本の国体を護るために長らく続いていた精神でもあるので、日本的なるものを出せと言われたならば、そのなかの一つとして、「武士道」が出てくることは間違いないでしょう。

既に刀を持っていない人が大多数ではありますけれども、そのなかにおいて、いまだ日本人の精神の底流に生き延びていて、かつ、世界に対して何らかの発信すべきもがぁかどうか、これを知らなければならないと思います。

映画やドラマ等で武士の世を見ることもありますが、現実世界では、そうした武士の世をある種のエンターテイメントとして捉えているのみであって、それらの作品から出てきている武士道が、見ている人にそのまま宿るということは少ないのではないでしょうか。

そこで、私たちは必ずしも刀を使うわけではありませんが、日本の伝統の一つである武士道において、現代の私たちが忘れてはならないと思われることについて、「現代的武士道」として、私の心に浮かぶものをいくつか述べたいと考えています。

【大川隆法 『現代の武士道』第2章「現代の武士道」より抜粋】

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今日の一日を振り返りつつ、教典『真説・八正道』より反省の本質を学びます。妖怪性からの脱却をはかり、「反省からの発展」さらに「中道からの発展」を目指しましょう。

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4他人の言葉の受け止め方

そのように、「言葉」の部分については、何度も何度もよくよく考えてみる必要があります。人間は、自分に対して言われるマイナスの評価というものを、とかく針小棒大に感じやすいものです。ほんとうはそれほどには思われていなくても、大きく感じてしまいやすいのです。

そして、自分に対するほめ言葉については、他の人からほめられても「いやー」などと謙遜し、翌日になると、「やはり、あれは自分をからかおうとしていたんだ」などと悪く考えてしまいがちです。ほめられても素直に喜ぶことができず、悪く言われれば信じてしまうのです。

ただ、「悪いことを言われると信じるが、よいことを言われたら疑ってかかる」という性格の人は、絶対に幸福になれません。私は『「幸福になれない」症候群』という本を出していますが、もし、そういう性格の人がいたならば、この本の第2章に登場してもらわなければなりません。このように言いたくなる人が実に多いのです。

女性は、半数以上がそうなのではないでしょうか。ほめられれば、「でも、本当はあれは」と疑ってかかり、怒られたら、真面目に受け取って十倍ぐらいに拡大して信じるというような人が、おそらく半数以上はいるのではないでしょうか。

しかし、これは努力で克服できるのです。いや、しなければいけないのです。克服しなければ、心の地獄領域が増大することになるのです。ささやかことでもほめられたら、素直に喜ぶような素直さが大事です。

【大川隆法『真説・八正道』第4章「正語」151pより抜粋】

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今日の一日を振り返りつつ、19897月に説かれました『仏陀再誕』を振り返ります。

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第一章 我、再誕す 

蓮の華のごとく

諸々の比丘、比丘尼たちよ。

私は、蓮の華を愛した。

私は、蓮の華のたとえをよくあなたがたに語ったはずである。

見よ、かしこの泥沼を。

見よ、ここの泥沼を。

蓮の咲く沼は、どれもこれも、決して見栄えのよいものではない。

いや、言葉を換えれば、むしろ不浄の沼と言ってもよい。

決して清らかな沼ではない。

水も濁り、沼もまた悪臭を放っているかもしれない。

そのような泥沼を好んで蓮の種はまかれ、

そのような泥沼のなかから、好んで蓮は花を咲かせるのだ。

泥水の上に、清らかな茎を伸ばし、

そして、世にも希(まれ)なる赤い華を、紫の華を、白い華を、咲かせてゆく。

その姿はとても、この世のものとは思われない。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。

あなたがたの使命もここにあるということを悟りなさい。

あなたがたの天命もここにあるということを知りなさい。

この地上の世は、この世の中は、

汚濁(おじょく)に満ちているように見えるかもしれない。

この世の中は、

誘惑に満ちているかもしれない。

この世の中は、

いつもいつも転落の危機に満ち満ちているかもしれない。

しかし、あなたがたはそのような環境を避けてはならない。

あなたがたは、そのような環境から逃れようとしてはならない。

そのような、泥沼のなかからも、素晴らしい蓮の華を咲かせよ。

それが、あなたがたが今世、

我が弟子として生まれたことの意味であるのだ。

我はそのように、語り、そして、今も語る。

この世の中が、いかに不幸に満ちているとも、

いかに苦難に満ちているとも、

そのことを言い訳にしてはならない。

衆生済度

また、わが声を信ずるならば、次なる言葉をも信じよ。

仏が、そして、仏の弟子たちが生まれてくる時代は、

いつも暗雲たなびく時代であるのだ。

人びとの心は、荒廃し、時代がその底につかんとする時であるのだ。

そのような時代にこそ、仏弟子たちは生まれてくる意味があるのだ。

そうであってこそ、衆生の済度ということが可能となるのだ。

あなたがたは、どのような時代に生まれようとも、

あなたがたは、いかなる環境下に生まれようとも、

あなたがたは、いかなる人びとのなかに生まれようとも、

そのことを後悔してはならない。

あなたがたが、降りる時代は、

あなたがたが、生まれる時代は、

いつも人類にとっては苦しみの時代であり、悲しみの時代でもある。

しかし、その時代のなかにおいて、

新時代の黎明(れいめい)を告げることこそ、

あなたがたの使命ではないのか。

そうであってこそ、仏との約束が果たせるというものではないのか。

【大川隆法『仏陀再誕』第一章「我、再誕す」より抜粋】

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続いて、仏陀の教えに原点回帰すべく『釈迦の本心』を共に学びます。

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第五章 縁起の法

3 業とは何か

因果の理法について、さらにくわしく探求していくと、「業(ごう)」の思想に突きあたります。「人間には業がある」と言われます。「業」は「カルマ」ともいい、比較的、有名な考え方だと思います。「宿業」と呼ばれることもあります。

よく「人間は平等である」と言われますが、それぞれの人間を見ると、何ゆえにこれほど境涯に差があるのかと感じます。外見にも中身にも違いがあります。この違いの出発点はどこにあるのでしょうか。それは今世だけのものではありません。人間は永遠の転生輪廻をしている存在であり、過去世の集積が今世に影響しているのです。

法則性から見れば、業にはよい面も悪い面も両方ありうるわけですが、業は主として否定的な面でとらえられることが多いようです。仏教の世界では、長いあいだ、不幸を解決する方法として、「それは前世からの業なのだ」という考え方がよくとられてきました。

たとえば、「今世で自分が人から傷つけられたのは、過去世で人を傷つけたことがあるからだ」「今世で目が見えなくなったのは、過去世で人の目をつぶしたからだ」「今世で足が悪いのは、過去世で人を辱めたからだ」「今世で人から呪われたのは、過去世で人を呪ったからだ」などと言う考え方をするわけです。

そして、「因果応報の法則が、宿業、すなわち積もり積もった業となって、今世に現われてくる」「人生の不幸の多くは、多くの人びとからの恨みの念、マイナスの念、『成功させまい』『失敗させてやりたい』という呪いの念によってできているのだ」と考えられがちなのです。

ライフ・リーディングをして過去世を読み取ってみると、確かに、ある程度の確率で、そうしたことが言えると思います。人生を一冊の問題集として考えたとき、そのなかで最も特徴的な問題は、単に今世のみで発生するものではなく、過去世に原因行為があることも多いのです。

ただ、このカルマの思想は、単に「信賞必罰」という観点だけからとらえてはなりません。

確かに、過去世で人を殺した者は、今世では殺される立場に立つ可能性があります。しかし、それは必ずしも罰ということだけではなく、生まれ変わりの際に、そうした生涯を自らが選んでくることがあるのです。みずから体験して初めて、目覚めることがあるので、あえて厳しい環境を選んで出てくることもあるわけです。

このように、人生計画には、よいことのみは記されていないのであって、自分の魂が最高度に発展し、成長していくために必要な過程が、必ず踏まえられることになっています。本人も承知のうえで、そうした人生計画を立ててくるのです。

こうした業の観念がありますが、業は魂のなかに記録として遺っているものなので、「魂の傾向性」という観念でとらえ直してもよいと思います。人間には魂の傾向性があり、一定の環境が現われたときには、似たような行動パターンを起こし、みすみす落とし穴に落ちていくことがあるのです。このように、業を魂の傾向性としてとらえるほうが現代的でしょう。

業を魂の傾向性ととらえたときには、「自分の魂で最も特徴的なものは何か。そうした特徴を持っている場合、地上に生きていくうえで困ること何か。どのような事態が起きやすいのか」ということが問題となりますが、その答えは人それぞれです。

どうか、業という言葉を、現代的には魂の傾向性と考えていただきたいのです。

【大川隆法『釈迦の本心』第五章「縁起の法」より抜粋】

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明日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。

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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。

We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。

One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。

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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について

5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。

大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる

主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生

映画『ドラゴン・ハート霊界探訪記』を賜り

心より感謝申し上げます

本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え

人類に真実への目覚めを与える映画です

全世界の人々に

霊的真実と主エル・カンターレの御存在を

弘めてまいります

仏弟子一同 力を合わせて 

一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。

映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。

今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。

この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。

この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.

100%エル・カンターレ信仰

天御祖神とともに―

伊勢から世界に伝える強い信仰

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E-mailise@sibu.irh.jp

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Happy science Ise | 人を愛し人を生かし人を許す

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TEL0596-31-1777

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FAX0596-31-1778

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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史 

カラスそっくりの黒い羽根をしているが、肩を落とした後ろ姿のしょんぼりしたところを見ると、悪魔より純心なところがあると思われる。

【大川隆法『妖怪にならないための言葉』より抜粋】

54 ある時、大群のイナゴに姿を変えた飢えた民衆が、国王一家に襲いかかり、彼らを、白骨に変えていくところを見た。

【大川隆法『地獄へ行かないための言葉』より抜粋】
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こんばんは。主から頂いた奇跡の一日も残りわずかとなりました。
皆様と共に、一日の終わりに「主への感謝」と「復活の祈り」を捧げます。

三宝帰依を寄る辺として、主エル・カンターレへの信仰を貫くために、一日の始まりを希望と共に「四弘誓願」を立て、『エル・カンターレへの祈り』と『仏説・正心法語』で始めました。

そして日中は主のため、世のため、隣人を救うために、「正しき心の探究」と「地上仏国土ユートピアの実現」のために「四正道」と「六波羅蜜多」の実践をなすべく、私たちは御仏の御手足として働きました。本日も本当にお疲れ様でございます。

引き続き、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

『主エル・カンターレよ、
主のため、世のため、隣人を救い助けるために、
仏国土ユートピア建設のために、
われらの今世の使命を、光の使命を果たすために、
主への道に立ちはだかる、あらゆる障害を取り除きたまえ。
あらゆる悪霊・悪魔を遠ざけたまえ。
われらを真なる幸福へと導きたまえ。』
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はじめに、今日の一日を振り返りつつ、天御祖神が始まりとされる武士道について、経典『現代の武士道』から学びます。
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第2章 現代の武士道
1 日本的精神の一つ、「武士道」について語る
〇戦後の日本から「武士道精神」が失われている

本章では、「現代の武士道」という話をします。

幸福の科学の教えにおいて、まだ十分に足りていないと思われるものを感じたことがありましたので、これについてお話ししようと思います。

明治維新で武士の世が終わり、四民平等の西洋化した世界ができたわけですが、それはそれなりに、文明実験としてはよいことだったかもしれません。ただ、武士の時代は千数百年以上も続いていましたので、そこで失われたものもあったのではないかと考えています。

特に、「第二次大戦の敗戦後の日本」ということを考えたとき、いろいろな神々のご批判、ご叱責等を感じるに、やはり「武士道精神が日本から失われている」ということが大きいような気がしてなりません。

もちろん、現代のみなさん自身は刀を差して歩いているわけではありませんし、そういう世の中でもありません。しかし、日本の国体を護るために長らく続いていた精神でもあるので、日本的なるものを出せと言われたならば、そのなかの一つとして、「武士道」が出てくることは間違いないでしょう。

既に刀を持っていない人が大多数ではありますけれども、そのなかにおいて、いまだ日本人の精神の底流に生き延びていて、かつ、世界に対して何らかの発信すべきもがぁかどうか、これを知らなければならないと思います。

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