(5/7-1)127『目覚めの言葉「次第説法」』を読む ③悉皆成仏論の誤り―見返りを求めない「無償の愛」

「目覚めの言葉『次第説法』を読む」

24 親の恩が分からない人を、上司や同僚が認めてくれることもない。
26 実家自慢をくり返す人は、劣等感の持ち主である。


【大川隆法 箴言集『人生への言葉』より抜粋】

おはようございます。
本日5月7日七の日です。皆様誠におめでとうございます。
この聖なる日に、支部に相集い、主への感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきます。
『精舎霊域護持植福』など各種植福を本日承っています。
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「七」は勝利の日 「七」は目覚めの日 「七はあなたの生誕の日」
私たちは 主エル・カンターレ御降臨という奇跡の時代に 仏弟子として 主と共に歩ませていただけますことを 心より感謝いたします

そして 主への報恩として 
日本に 全世界に エル・カンターレ信仰を弘め
地球ユートピアを実現してまいります

私たちは これからも 仏弟子の使命である 伝道に邁進し
必ずや 「七の月」の「七の日」を
主の勝利の記念日とすることを お誓いいたします
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風薫る五月となりました。五月研修がただいま支部で開催されています。
オーダーも開催も致しますので、ご希望の方は支部までお問い合わせください。

5 月 12 日(日)まで2024 
年「ヘルメス大祭」を開催し、ヘルメス大祭版「復活の祈り」を執り行います。神秘思想と霊界思想の源流におられ、2000 年前のイエスの「復活現象」に力を与えられたご存在であられるヘルメス神のご指導のもと、主のご復活に向けて主への愛と祈りの力を結集してまいります。そして、私たち一人ひとりが、透明な風の如き天使の愛を実践し、主の愛がこの地に満ちて「愛の復活の時代」を到来させるべく、伝道の誓いを捧げる機会とさせていただきます。

また、5月14日は新復活祭です。2004 年 5 月14 日に、主が死の淵からご復活された奇跡に心からの感謝を捧げると共に、主が大宇宙の造物主であられることへの確信を深め、あらゆる既成の常識を打ち破り、主のご復活への確信を強めてまいります。

当日は13 時より、教祖殿に最も側近き礼拝殿である東京正心館から、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。そして、5/14(火)~5/19(日)まで、新復活祭を開催致します。皆様この機会にご来館ください。

この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

そこで、本日から経典『信仰のすすめ』の第四章に所収されています「愛は風の如く―Love Blows Like the 
Wind」より、ヘルメスの愛について学びます。本御法話は主の新復活の直前となる2004年の4月29日に説かれています。
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愛は風の如く―Love Blows Like the Wind
○見返りを求めない「無償の愛」

一方、人間の愛とは何でしょうか。人間の愛とは、前述したとおり、目に見える愛です。そして、人に対して、もちろん、何か努力をして愛そうとするでしょうが、相手からも何かを求めているのではありませんか。必ず見返りを求めているはずです。

「夫の妻に対する愛」といっても、当然、その見返りとして、妻が自分を愛してくれることを考えているでしょう。「妻の夫に対する愛」といっても、当然、見返りを考えているでしょう。「隣人への愛」といっても、やはり、隣人から何か見返りが来ることを考えているでしょう。そうではないでしょうか。

ボランティアが活動している人もたくさんいますが、そういう人には、多くの場合、おそらく、それに伴う名誉などを求める気持ちがあるでしょう。それは、「この世的には愛として認められることであっても、霊的に、あの世的に見たら、まだ本物ではないものがある」ということです。

もちろん、そのような気持ちがあったとしても、何もしないよりはよく、人に対して親切にすること、人を助けてあげることは大事なことです。

しかし、その行為のなかに、自我我欲、自己保存欲、「自分によかれ」という思いが入っていたら、その愛は、風が砂を含んでいるようなものになります。ちょうど砂嵐のような風です。「透明な風のなかに砂塵が混じっている」というように見えるものだと思います。それが、「自分によかれ」という思いが入っている場合です。

天使の愛は、そういうものではありません。一生懸命、尽くす愛です。与える愛です。無償の愛です。与えきりなのです。一方的に与える愛なのです。何かを貰おうとする愛ではありません。

この世において、よいことをしているようでも、人からの称讃を求めたり、自分の出世を求めたり、その対価としてのお金を求めたりしているようであっては、本当の意味での「天使の愛」とは言えないのです。

【大川隆法『信仰のすすめ』第4章「愛は風の如く―Love Blows Like the Wind」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第四の経文である『目覚めの言葉「次第説法」』についてです。

『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を読誦して、自分が、「無我」や「空」の教えを通して霊存在であることを自覚した後に、私たちが読む経文が『目覚めの言葉「次第説法」』です。私たちは、この経文を毎日読むことによって、どのようにしたら私たちが、苦しみの世界から、「悟りの彼岸」に渡り、「解脱の道」へと進むことができるのかを次第、次第に知ることができます。私たちの人生の問題集の解決の鍵が『目覚めの言葉「次第説法」』に埋蔵されています。この鍵を共に見つけてまいりましょう。

この次第説法の内容は、2600年前のお釈迦様の十八番(おはこ)のご説法であったと伝え聴いています。このお経に説かれているのは、「施論」―与える愛の実践・「戒論」―悟りを得るための心の修行をするための正しい生活習慣・「生天論」―来世に地獄に行くことなく、天国世界での幸福の生活への誘い―です。

お釈迦様が、在家の方々の「施論」「戒論」「生天論」を成就するために、正しい信仰【正信】としての「正見」と、「苦・集・滅・道」の四諦と八正道への道のりを論理的に指し示されています。この世とあの世の幸福を一致させるための説法でした。このお経の内容を伝道の道しるべとして、まず自らに熏習しながら、他人(ひと)にお伝えしてまいりましょう。

それでは『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を紹介する前に、事前解説を経典『仏陀の証明』より抜粋いたします。
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〇悉皆成仏論の誤り【しっかいじょうぶつろん・天台本覚思想に代表される、人は生まれながらにして悟った存在であるとする誤った教義】

コーサラ国の舎衛城(しゃえじょう)には、ほかにも釈迦教団の修行場がありました。これを東園といいます。

ここには、のちに、ヴィサーカという非常に熱心な在家の女性信者が寄進した鹿子母講堂(ろくしもこうどう)が建ちます。ヴィサーカは、ある人の妻だったのですが、ヴィサーカの義理の父が、ヴィサーカの信仰心のあまりの熱心さに打たれて、釈尊に帰依したのです。そして、「おまえは娘にあたるけれども、わしにとっては法の母である」と言いました。この義理の父はミガーラ(ミガーは鹿の意味)という名前であり、ヴィサーカは、その母だということで、ミガーラマーター(鹿子母・ろくしも)と言われたのです。このヴィサーカという女性信者が寄進したのが鹿子母講堂です。

これが、コーサラ国の舎衛城の東にあった東園なのです。釈迦がしばらく留まって説法をしたとき、それを聞きに来たのが、マウドガリヤーヤナ(目連・もくれん)です。この人は、のちに偉くなって、マハー(大)がついて、マハーマウドガリヤーヤナ(大目連)になるのです。

(お釈迦様の十大弟子の一人)目連は、当時はまだ出家していなかったのですが、友人のシャーリプトラ(舎利仏)の話を聴き、「釈迦という人は非常に偉い人らしい。ぜひ、説法を聴きたい」と、やって来たのが、この東園だったのです。そして、釈尊の説法を聴いてみて、「世尊の説法は大変立派です。素晴らしい法を説かれます。そして、その法は、構造が非常に段階的です」と、目連は感動したのです。

目連という人は数学者でもあって、非常に理論的な見方をする人でした。ですから、釈尊が、苦しみを四つや、八つに分類したり、段階を設けたりして説法するので、そこに感動したのです。

そして、「お弟子さんたちも優秀そうですから、こんな優秀な方々に、こんな段階的な法を説いたら、みんな悟りが開けて仏になるのでしようね」と目連が言ったところ、「いや、私のこの段階の法を聴いても、すべての人が悟って仏になるわけではないのだ」と釈尊は答えたのです。ですから、目連は、「こんな立派な方を聴いても、悟れない人がいるのですか」とびっくりし、不思議に思いました。

そしで釈尊が、「では、目連、お前に訊こう。おまえは今、コーサラ国の舎衛城の東園にいるけれども、ここからマガダ国の王舎城に行く道を知っているか」と目連に問うと、「知っています」と目連は答えました。

次に、「旅人に尋ねられた時に、王舎城への道を、おまえは示すことができるか」と訊かれると、目連は「できます」と答えました。

「では訊くが、おまえが王舎城への道を示したら、その旅人は、間違いなく、みんな王舎城に着くことができるか」と釈尊は訊きました。

目連は考えて、「いや、着ける人もいますが、着けない人もいます。私は道を示すことができますが、実際にはその話を聴いて王舎城までたどり着ける人と、それだけではわからなくて、たどり着けない人がいます」と答えました。

そこで釈尊は、「そうであろう。私の法も同じだ。私は段階を示して法を説くが、それに則って悟りに至るものもあれば、到らないものもある。私の弟子のなかでも、私の同じ法を聴いて、悟れるものと悟れないものが出てくる。それと同じなのだ」ということを話しました。

これは、目連との会話の中で、「段階的に説法している」ということと、「それでも、悟れる人と悟れない人がいる」ということを、釈尊自身が明確に言っている、ということなのです。

ですから、『悟りの挑戦(下巻)』(幸福の科学出版)等で、後世の「悉皆成仏論」―「仏性があるから、すべての人が成仏できる」という思想は間違っていると私が言っているのは、釈尊の思想に照らしてのことなのです。「王舎城への道を示すことはできるが、行けるかいけないかは人によって確定できない」ということは、「あの月を指し示すことができるが、月を見るのは一人ひとりの目である」と私が言ったのと、全く同じです。【指月の例え】

これに対して、「ある意味で理性的、ある意味で冷たい」という評価をする人もいるのですが、これは釈尊のリアリスティック(現実的)な目を表しているのです。きわめて正直だということです。ご利益で全部救われるとは必ずしも言っていないのです。釈尊は「私は方法を示す。あなたがたは、その方法に則って修行することはできる。しかし、悟りの境地にたどり着ける人とたどり着けない人がいる」と言っているのであって、全員がたどり着けるとは言っていません。ですから、正直な説明をしています。

釈尊はこうしたことを言っているので、のちの本覚思想の悉皆成仏論は、釈尊の思想に照らすと間違いだということです。これは、はっきりと言っておきたいと思います。

それでも釈尊は、多くの人が悟れるように、次第説法で段階的に人を導いていました。そして、「優秀な弟子がいても、悟れる人、悟れない人がいる」ということを実際に説いているのです。目連はそれを聴いて、「こんな立派な話を聞いて、それでも悟れない人がいるのですか」と、びっくりしたわけです。そういうことが実際に教えとしてはあったということです。

以上は、仏教の背景の説明ですが、参考になると思います。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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まずは、邪見を排して、正見を得ること。「施論・戒論・生天論」を知ることで、天国世界への還るための道を知ること。次に「苦・集・滅・道」の四諦を知ることで、人生の苦しみの原因が一体何であるのかを知り、解脱することを決意すること。その次に八正道によって自らの苦しみを滅して「中道」を得て、悟りの彼岸に至る・悟りの道へ至ること。このように悟りに至る道を段階的に説いているのが『目覚めの言葉「次第説法」』です。段階的にわかりやすく説いた教えであっても、理解できる人と理解できない人がいるのは、私たちも痛感しています。しかし、あきらめることなく真理を粘り強く伝え続けることが必要であることも事実です。

さて、先ほど引用がありました『悟りの挑戦(下巻)』の「悉皆成仏論」の誤りについて、もう少し詳しく引用させていただきます。少し難しい問題ではありますが以下引用いたします。
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●一切衆生悉有仏性と一切衆生悉皆成仏―本覚(ほんがく)と始覚(しがく)
この「悉有仏性説」は、いま見たように非常に尊い教えではあるのですが、ただ、その反対に、歴史のなかにおいて、非常に間違った流れを生み出した思想でもあるのです。

それは、「一切衆生悉有仏性」と「一切衆生悉皆成仏」の問題です。

仏性があるということは、仏さまになれる可能性がある、要するに如来の素質があるということなのですが、では、それは一切衆生、すべての人が「悉皆成仏」―現実に仏になれるということを意味するのかということです。

「仏性がある以上なれるのだ」という単純な考え方もあれば、「仏性はあるが、なれる人となれない人があるのだ」という考え方も当然出てきます。ここのところが大きな問題として出てきたわけです。

この問題は、言葉を換えると、「本覚と始覚の論争」とも言われます。「本覚」とは本覚思想ともいい、「もともと仏性を持っているということは、本当は人間として生まれたときから完全に悟った存在なのだ」あるいは、「生まれてくる前から悟った存在なのだ」という考え方なのです。本覚の思想は、天台宗の系統では天台本覚思想ともいいます。比叡山はこの思想です。もともと悟った存在なのだという考え方です。

この考えに対して、「始覚」というものがあります。「そうではないのだ。人間は教えを聞いて、修行をして、初めて悟りが開けるのだ。修行をして、初めて仏になれるのだ」という考え方が始覚です。

この本覚と始覚とを論争でぶつけてみると、どうしても始覚のほうが弱いのです。みなさんもお分かりでしょう。皮相な民主主義の多数決原理だと、「『みなさんは、もともと生まれつき悟った存在なのですよ。みんな如来になれるのです』というほうがよいと思う人は手を挙げてください」と言えば、たくさん手が挙がり、「『修行して、修行に成功した人だけが悟れるのですよ』というほうが正しいと思う人は手を挙げください」と言えば、やはりパラパラッとしか挙がりません。悟れそうにない人は挙げないでしょう。このように、本覚のほうがありがたいので、議論するとどうしても優勢になりえるのです。迎合しやすいし、みんなよろこびますから、多数決の原理でいくと、流れとしては本覚のほうへ行ってしまうのです。

しかし、釈迦の修業成道の道を考えてみると、この本覚思想にはかなり難しい問題があるということは、どうしても否めないのです。この問題は仏教のなかの大きなテーマとなりうるのです。

●最澄と徳一の論争(三一権実論争)
それが本格的な論戦として出てきたのが、最澄と徳一の論争なのです。これは『黄金の法』にも簡単に触れてあります。その最澄・徳一論争のことを「三一権実論争」といいます。・・・これは「三乗思想が真実か、一乗の思想が真実か」という論争です。

三乗思想とは、「人間には、声聞・縁覚、菩薩という三種類の性質を持った人間がいて、それぞれの修業の仕方が違う」という考え方です。これは伝統的な小乗仏教からずっと続いている教学的な考え方なのです。釈迦在世中からそういうことは言っていますから、これは伝統的な考え方です。

これに対して、一乗思想は『法華経』に代表されますが、「仏が『いろいろな人がいて、それぞれが修行して悟るのだ』と説き、声聞・縁覚・菩薩といった種類について説いたのは、方便にすぎないのだ。本当は、すべての人はみな仏になれるのだ。仏乗、一仏乗しかないのだ」という考え方です。

この「仏乗」は、「菩薩乗」と同じように使うこともあります。つまり、大乗仏教では、菩薩になることを仏になることと同じように使うこともあります。つまり、大乗仏教では、菩薩になることがみんなの目標になってきます。声聞や縁覚を目標にする人は誰もいなくなり、「みんな菩薩になろう」という運動なのです。これは仏になる運動と一緒なのです。もし菩薩乗と仏乗を分けるのならば、これは三乗ではなく四乗(四乗とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗のこと、つまり悟りに到るための四つの乗り物)になりますが、普通は菩薩乗と仏乗を同じように言います。

そこで、「三乗が正しいか、一乗が正しいか」ということが、仏教の歴史のなかで大きな闘いになってくるわけなのです。たしかに『法華経』(方便品)のなかではそのようなことをいっています。

「シャーリープトラよ。私はいろいろ説いてきたけれども、本当は今までのは全部方便だったのだよ。私は、みんな仏になれるということが言いたかったのだよ」という話が出てくるのです。そして、「声聞の悟りしか得られないと思ったのに、仏になれるのですか?ああ、うれしい。よかった、よかった」と、みんなよろこぶわけです。

そして、「おもえも如来になれる。おまえも如来になれる」といろいろな授記(釈迦が弟子に『未来には仏になれるであろう』という保証を与えること)を与えるという話が『法華経(「授記品」「五百弟子授記品」)に出できます。

これをみると、釈迦没後、数百年後に成立した法華経教団が、教勢拡大のために一乗思想を武器にして活動していたのがよくわかります。「あなたも如来になれる。あなたもなれる」と言うと、やはりよろこんで、どんどん信者が増えていきますが、そのへんの事情が少し感じられます。後世の人たちはそういう歴史的な過程はわかりませんので、お経と名がつけば、釈迦の「直説・金口」とみな考えていきますから、「ああ、これが本当の教えだったのだ」ということになると、「三乗思想というのは方便で、間違いだったのだ」というような思想が出てくるのです。

これを突き詰めていくと、本覚思想にもなりますし、「一切衆生悉有仏性」―「すべて仏性を持っている」という考えなりますし、仏性を持っているだけではもの足りなくて、「一切衆生悉皆仏性」―みんな成仏してしまうのだ。みんな仏様になってしまうのだ」と、極限までいけば、ここまでいまきす。

そうすると、修行していない人も、している人も、しはじめの人も、ずっと先輩も、釈迦もキリストも、みんないっしょくたになってきます。理論的に突き詰めると、結局そうなります。・・・

そのような背景があって、最澄と徳一の論争があります。最澄は、後に天台本覚思想として発展していく、「一乗主義」「悉有仏性論」を唱えていくわけです。これに対して、南都六宗の奈良仏教の代表ともいうべき碩学、大学者の徳一が論戦を挑んでくるのです。「あなたの勉強は間違っている。釈迦の教えはそんなところに本心があるわけがない。その考えは間違いだ」と、いろいろなかたちで論争をしかけてくるのです。・・・

その後、歴史の皮肉で比叡山の天台宗の側が総合大学化して残ったために、論争としては最澄のほうが有利だったような伝え方が今でもなされているのですが、これは、後世、徳一のほうの奈良仏教系統に優秀な弟子が続かなかったのが事実上の敗因です。・・・そして、その後ずっと比叡山が残っていったために、こちらが正統派というかたちになって、日本の仏教思想は、以後、一乗思想が主流になって、三乗思想は、どちらかというと異端になっていきました。

鎌倉仏教なども、やはりその影響下にあり、一乗思想が根本にあって、「一乗思想が正しく、三乗思想は時代遅れの古い思想」というかたちになってしまいました。こうして事実上、歴史の流れのなかでは、徳一のほうが消え、最澄のほうが残っていって、今のようなかたちになっているのです。

●理仏性と行仏性
ただ、理論として見るかぎりは、徳一のほうが正しいのです。私もよく述べていますが、あの世には、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元という霊界層があって、そこからそれぞれの住人がこの世に生まれ変わってくるのです。そうすると、生まれてくる前の霊格には違いがあります。そうした方は過去世でも修行していますから、この世での修業にもやはり違いがあります。

そして、死んで帰っていくところも、本来いたところに還るのが本筋ですから、やはり差があって、もともと四次元から生まれてきた人が、急に八次元の如来界に還るということはありえません。そうなるためには、『釈迦の本心』にあるように、ものすごく長い修行が必要なのです。阿羅漢から菩薩に入るのでも、そうとうな生まれ変わりをして成功しないと、そう簡単に入れません。事実としてはこの通りなのです。

そこで、このことをもとに、徳一は最澄を批判して、「あなたの仏性の理解は間違っている。仏性には、『理仏性』と『行仏性』というものがあるのだ。二種類の違う仏性があるのだ」と指摘したのです。

「理仏性とは、理念としての仏性、理論としての仏性、理屈としての仏性である。要するに、『みな仏の子としての素質を持っている』というのは、理屈としてはその通りで、理念としては認められることだし、それは『涅槃経』『法華経』等のお経にも書いてあることだから、それを否定するつもりはない。しかしながら、理仏性と違う行仏性というものがあるのだ。「種」としての仏性はあったとしても、それは「行」、ようするに修行をして、この世できちんと磨きだしてこそ、成仏が可能になるのだ」ということを徳一は言うのです。

理仏性、行仏性ということは、もちろん仏陀の思想にはないのですが、理屈としてはその通りです。「理論としての仏性(あるいは、本質としての真如)はあるけれども、『行』を行うことによって、その仏性は輝き出し、初めて成仏が可能となる」というのはその通りです。理仏性を、真理性としての仏性、行仏性を実践性としての仏性と定義してもよいでしょう。

結局、徳一の言う理仏性、行仏性というものは、私たちの言葉では「因・縁・果」の「縁」のところです。「因」があっても、すぐに「果」になるわけではなく、「縁」すなわち条件が加わって初めて、「果」すなわち結果が出てくるのです。この条件のところが修行です。

もともと仏性が宿っていても、そのまま放っておけば如来になるかといえば、なれないのです。なれるのならば、釈迦の修業や成道はないわけです。そうではなく、もともと仏性があっても、それを修行によって高めて、初めて成仏が可能となるのです。

徳一は、この「因・縁・果」のことを理仏性、行仏性といっているわけです。

これは、今の時点で幸福の科学の理論から見ても正しいことを彼は言っています。正しい批判をしているわけです。

【大川隆法『悟りの挑戦』(下) 第六章「仏性と成仏」より抜粋】
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難しい問題でしたが、仏陀の生まれ変わりである主が、大乗経典の問題点と修正をここでしていることに関しては、極めて重要な教えとなりました。

実際、主におかれましては、大乗経典の王とまで言われた『法華経』に教えの中身がない点を指摘されておりますし、法華経のなかの永遠の仏陀の秘密を説いた「如来寿量品」ぐらいしか重要視されていないのでないかと考えられます。【そのほか、映画『太陽の法』では、地涌の菩薩が登場する「従地涌出品(じゆうじゆじゆつほん)」や、多宝如来としてリエント・アール・クラウド王が登場する「見宝塔品(けんほうとうほん)」など「法華経」の重要な世界観が登場します】

私も、仏教の歴史を勉強するために、大乗経典を読んでいますが、主の教えをしっかりと柱にして読まないと勘違いしてしまうので、よくよく注意する必要があると痛感いたしました。

法華経が日本に広がった功罪として、日本は大乗仏教の国として仏陀の法灯を継ぐことはできましたが、その反面、仏道修行の大切さが失われ、仏教全体の堕落の原因ともなりました。

主におかれましては、今世、幸福の科学の四正道「愛・知・反省・発展」を旗印として、正しき心の探求としての心の修業の大切さを改めて強調しています。やはり、悟りを得るためには、「正しき心の探求」―心の修行が必要であるということです。

全ての人は仏性を持っています。しかしその仏性は心修業によって顕現するものであり、何もしなければ、成仏すること絶対にないのだということを肝に銘じて、『目覚めの言葉「次第説法」』を読んでまいりましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】
「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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文責:蒲原宏史 

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