(5/14-1)134【新復活祭】『目覚めの言葉「次第説法」』を読む ⑩四諦―集諦―医学的にはすでに「死んでいたはず」

「目覚めの言葉『次第説法』を読む」

○救世主の使命―仏陀から救世主へ
私は24歳のときに仏陀となり、30歳のときに教えを説きはじめ、47歳のときに、第三の死、肉体上の死を迎えました。私は「よみがえり」なのです。私は、「生まれ変わり」なのです。去年(※2007年)私は、仏陀から救世主になることを決心しました。これが、私の「第三の死」の意味であると思います。私は仏陀でした。私は今、真の仏陀であるとともに、救世主になる必要があるのです。これが、私の「第三の死」の意味です。

【大川隆法『ABOUT AN UNSHAKABLE MIND―不動心について】より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

本日5月14日は新復活祭です。2004 年 5 月14 
日に、主が死の淵からご復活された奇跡に心からの感謝を捧げると共に、主が大宇宙の造物主であられることへの確信を深め、あらゆる既成の常識を打ち破り、主のご復活への確信を強めてまいります。本日13 
時より、教祖殿に最も側近き礼拝殿である東京正心館から、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。そして、5/14(火)~5/19(日)まで、13時より連日、「新復活祭」を開催致します。皆様この機会にご来館ください。

ここからは、経典『新復活』―医学の「常識」を超えた奇蹟の力―の第一章に所収されています「新復活」を振り返り、主の「第三の死」について振り返ります。奇蹟の復活の物語です。お持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1600円】
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■新復活
3医学的にはすでに「死んでいたはず」
○「心臓が収縮していない」「血液が送られていない」

そこには心臓病の権威の方もいました。その先生は、月に一回ぐらい、土曜日の午後に病院でモニター風に話をしておられ、その日も午後二時から四時にかけて話す予定だったのですが、「大川隆法という人が倒れて運び込まれた」ということで、急遽、そのセミナーをキャンセルし、診に来られました。

私は、半分ぐらいベットを起こされ、金属板か何か知りませんが、後ろに板を入れ、レントゲン室まで行かずに、ベッドの上でX線を当ててレントゲン写真を撮られました。

それを私に見せながら、医師は、「心臓から肺まで真っ白になっているでしょう?この白いものは何か分かりますか。これは水なんです。心臓から肺まで水があふれている状態なんです」と言ったのです。

さらに、「心臓の下を見たらわかると思いますが、これだけ、水でいっぱいになっていますから、もう、心臓が収縮していないんです」「心臓が収縮していないということは、血液が流れていないということなんですよ」「血液が流れていないということは、どういうことか分かりますか。これは、死んでいる人と同じだということなんですよ」と言うわけです。

私は、「ああ、なるほど」と言いかながら聞いていたのですが、聞いている私のほうは意識がしっかりしているので、「うーん、血液がながれない・・・。うん?」というように、どういうことなのかさっぱりわからない状態ではありました。

そのとき、もう一人の医師は、「カテーテルの準備をしてありますから、即、手術しましょう。というような感じだったのですが、私には、何を言っているのかさっぱり分からなかったのです。

なぜなら、私は先ほどまで、歩いて各種の検査を受けていたので、いきなり、「もう、死んでも同然です」というようなことを言われても、意味不明で、いったい何を言っているのかが分からなかったわけです。

○点滴をされ、尿道にチューブを差し込まれる。
ただ、とりえあえず、そのときにいわれたのが、「とにかく、水抜きはしなくてはいけない。体から水を出さなくてはいけない」ということでした。そのため、”節水”をさせられました。要するに、水はあまり飲まないようにさせられたのです。だだ、左腕に点滴を入れられていたので、水は体に入ってはいました。

病院というのは、すぐに点滴をするので本当に困ります。点滴を長くされたため、その後、左手の力が落ち、なかなか機能が回復しなくて、しばらく困ったのです。

また、点滴をされると尿が出ます。そうなると、いちいちトイレに行けないので、導尿管を尿道に差し込まれるのですが、あれは痛いです。そうしたチューブを差し込まれ、尿袋のようなものを付けられて、ぶら下げられるのです。それで、「尿がいっぱいになったら取り換える」というのですが、あれは屈辱です。ほかに、もう少しよい方法を考えてくれるとありがたいと思います。

映画「世界から希望が消えたなら。」では、さすがに、そこまでは描いていませんが、主演をやった竹内(久顕)さんに、尿道にブスッとチューブを差し込むところを一回やらせてみたかったと思う気持もあります(笑)。「痛い!」と言って飛びあがるところを一回やっていただきたかったとも思いますが、実際、すごく痛いのです。

どう見ても、差し込むチューブのほうが尿道より太いので、あのようなものを差し込まれたらたまりませんが、向こうは、それで、勝手に排尿させることができますから、楽なのでしょう。

そのように、点滴をされ、導尿管を差し込まれると、基本的に動けなくなるので、ベッドに寝かせつけられる状態にはなります。しかし、まだ自分では、それほど「(症状が)悪い」という意識はなかったのです。

【大川隆法『新復活』第1章より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第四の経文である『目覚めの言葉「次第説法」』についてです。

『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を読誦して、自分が、「無我」や「空」の教えを通して霊存在であることを自覚した後に、私たちが読む経文が『目覚めの言葉「次第説法」』です。私たちは、この経文を毎日読むことによって、どのようにしたら私たちが、苦しみの世界から、「悟りの彼岸」に渡り、「解脱の道」へと進むことができるのかを次第、次第に知ることができます。私たちの人生の問題集の解決の鍵が『目覚めの言葉「次第説法」』に埋蔵されています。この鍵を共に見つけてまいりましょう。

この次第説法の内容は、2600年前のお釈迦様の十八番(おはこ)のご説法であったと伝え聴いています。このお経に説かれているのは、仏・法・僧への三宝帰依を前提とした「施論」―与える愛の実践・「戒論」―正しき心の探究・悟りを得るための心の修行をするための正しい生活習慣・「生天論」―来世に地獄に行くことなく、天国世界での幸福の生活への誘い―の教えです。

お釈迦様が、在家の方々の「施論」「戒論」「生天論」を成就するために、正しい信仰【正信】としての「正見」と、「苦・集・滅・道」の四諦と八正道への道のりを論理的に指し示されています。この世とあの世の幸福を一致させるための説法でした。このお経の内容を伝道の道しるべとして、まず自らに熏習しながら、他人(ひと)にお伝えしてまいりましょう。

それでは『智慧の言葉「仏陀の悟り」』はこのように続きます。
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『集』とは 苦しみの 原因が    【集諦】
欲望の 尽きないことと 解かること
この世的なる しがらみが
苦の原因だと悟ること

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Next, the cause of suffering
Is your endless desire
Realize your earthly bonds
Are the source of your pain

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おもしろいことに、この「苦・集・滅・道」の構造は、「苦」が結果で、「集」は原因なのです。また、「滅」が結果で、「道」は原因なのです。ですから、因果の法則が逆に出ています。「苦・集・滅・道」は、「果・因・果・因」の順になっているのです。

四諦のこの構造は、「あなたは苦しんでいるでしょう。それは、こういう原因があるからです」「こうなれば幸福でしょう。八正道を行じると、そうなるのです」という組み立てになっています。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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それでは、つづいて経典『悟りの挑戦』より、苦・集・滅・道の四聖諦の集諦について、さらに解説を加えてまいります。
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●苦の原因―集
(お釈迦様の初めての説法―初転法輪―で)釈迦の五人の弟子たち(相手を如来と認めたら、そのときにはもう弟子になる)は、「なるほど、『人生は苦しみである』というのが一つの真実であることはよくわかった。では、いったいどうしたらいいのだ?苦のままだったらもう救われようがないではないか」と訊きました。

釈迦はこう答えます。「いや、道はある。その道を私は発見した。人生は苦である。しかしながら、この苦には必ず原因がある。原因があって、そういう状態が起きているのだ。その苦しみの原因を発見することが大事である」。

これが「集(じゅう)」です。そういう原因を集めてくるということです。あるいはそれを一点に絞る、何が問題なのかということを知る、これを集といいます。

これを病気でたとえると、最初の「苦」が病気の状態、「ああ、これは風邪ですね」という病状が苦であるとすると、「集」がその原因です。「あなたは混みあった電車のなかで、ごほごほいっている風邪の人と会ったでしょう」、あるいは「寒いのにコートも着ないで雪のなかを歩いたでしょう」、これが原因を探ることです。苦しみの原因を探り、その原因を当てることが集です。「これは風邪の状態だ」「あなたはいま苦しんでいるのですよ。魂が苦しんでいるのですよ」というのが苦であり、「実は、その原因はあなたがこういうことをしたからですよ」「コートを着ないで寒い中を歩いたからですよ」「あなたは風邪をひいた人と接触して、何時間も一緒にいたでしょう。それで風邪が移ったのですよ」、これが集です。原因の・
・見です。

たとえば、求不得苦(ぐふとっく)、求めても得られないことの苦しみについて、なぜ苦しみの原因があるかということを考えてみるわけです。「会社のなかで出世できない」ということで苦しむならば、なぜ自分は出世できないのだろうかと考えてみるのです。同期の人は出世できているのに自分はできないので苦しむけれども、それに対して単に不平不満を言うのではなく、「なぜなのだろうか」と研究し、この原因を探るのです。

そうしてみると、上役に対して反抗的な態度をとっている自分だったりすることもあります。あるいは、「根本的に言って勉強不足であった。学生時代にマージャン以外やったことはなかった」というのであれば、会社に入ってから仕事がよくできるわけもないのです。会社に入ってから勉強するならば、ねじりはちまきで勉強しなければいけないのに、そういうことは考えもしなかった。そして出世が遅れる段になって、「なぜ遅れるのだろう。おかしい」などと言っている。それは言っている本人のほうが悪いのであって、もっと早く考えなければいけないことなのです。

あるいは、身体が悪くなってから、「ああ、運動などまったくしなかった。学生時代はラグビーをやっていて身体が強かったので大丈夫と思っていたけれども、十年も経ったらもうよぼよぼの肉体になっていた。身体を鍛えなかったら病気になった」ということならば、それは本人が悪いわけです。

このように、苦しみを認めたら、苦しみの原因を追究するのです。

【大川隆法『悟りの挑戦』(上巻) 第一章「仏教的精神とは何か」より抜粋】
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このように「集」とは、苦しみの原因を探り当てる力が必要です。この力とは、幸福の科学の四正道の「知」にあたるものです。とても重要なので、さらに、主の御教えから抜粋いたします。
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●「泣き叫ぶ赤ん坊」も「暴れる馬」も、理由が分かれば、解決できる。
私がわりあい好きであった哲学者の一人に、フランスの哲学者でアランという方がいます。アランの『幸福論』という書物を読んでいると、この人は非常に微妙なところに気がついていることがあると思うのです。

例えば、こういうたとえ話で言われています。
赤ん坊が泣き叫んで泣き叫んで、どうしようもない。いつも泣いてばかりいる。いったい何が問題なのだろうか。御飯が食べたいのだろうか、ミルクが飲みたいのだろうか。それとも部屋が寒いのだろうか、暑いのだろうか。

こうしたことで、親はおろおろと考えているわけです。

病気かもしれないということで、医者を至急呼んでくる。そしてお医者さんに診察してもらうが、何も問題がない。いったい、なんでわが子がこんなに嘆き悲しむのだろうか。大声で泣くのだろうか。

実は、その赤ん坊に着せてあるセーターの服にピンが留まっていて、そのピンの部分が当たって痛いという、ただそれだけのことで赤ん坊は泣いていた。

しかし、大人たちはそのことに気がつかないでいる。そして大騒ぎしているわけです。病気だろうか、あるいは寒いのだろうか、何だろうかと大騒ぎをしている。こういうことがあるわけです。

また、ギリシャのマケドニアという所にいた馬の話もあります。
たいへんな暴れ馬がいて、どうしてもその暴れ馬を御することができないので、みな困っている。

だれか勇者がいて、その暴れ馬を乗りこなすことができないか。こういう難問があったわけですが、ある人はそれを簡単に解決してしまった。その暴れ馬が暴れる理由はいったい何かというと、自分の影を見て怯えている、それだけのことだった。

したがって、その馬に影を見せないようにする。馬の手綱を引いて、馬の目を上に向ける。そうすると影が見えないので、馬はおとなしくなったわけです。ただそれだけのことが、多くの人たちには分からない。その暴れ馬は、生まれつき狂暴な馬であると思っている。そして、暴れていると思っている。どうしても御しがたく、勇者でも出てきないかぎり、これは、その腕力でもって抑えることはできないと考える。

実際は、その馬にはうつむく癖があって、自分の影を見てはいつも恐れている。その影がなんであるかが認識できないのです。自分の影が分からないのです。自分が暴れれば暴れるほど、その馬の影の部分も微妙な形をとって踊り狂うわけです。それを見て、馬は恐怖を感じているわけです。

ただ、その解決の方法は、その影をなくすことでなかった。馬の手綱を引いて、目を上に向けるという、ただそれだけの作業をすれば、馬はおとなしくなってしまったわけです。

アランはという人は、そういうことを書いています。

●認識力を高めると、悩みの「意外な盲点」が見ぬけるようになる
結局、私たちの人生の難問というものも、認識力―いったい何が根本の原因であるかということを見抜く力―がないために、大問題になっていることが多いのであります。意外に真実は簡単なところにあるのです。刺さっているピンが当たって痛いというだけの理由であったり、影に怯えているというだけの理由であったりすることがあるのです。

大問題と思われる生活難、あるいは事業の問題、病気の問題、結婚・離婚の問題、こうしたものも、実は単純なところに原因があることがあるのです。それに気がつかないだけで大騒ぎしていることがあるのです。私たちは、この「ピンの部分」「影の部分」がいったい何かと言うことを知らねばならんのです。

これはどういうことかというと、みなさんは、いったん自分の外に出て、より高次な見地でもって、自分の悩みというものを眺めてみる必要があるのです。そのときに、意外に盲点になっている部分があるのです。これを見抜くために、認識力というものを高めていく必要があるのです。これが学びということであります。

転生輪廻の過程において、こうした学びを数多く続けてきた人は、それだけの認識力を得ます。そして、この「認識力の高さ」が、実は「その人の霊格の高さ」となっているのです。

霊格というのも、この世的に翻訳して言うとすれば、一言で言えば、それは「認識力」であります。より多くの人たちの気持ちが分かるか、彼らの悩みが分かるか、その悩みの解決方法が分かるかということであります。

万巻の書物を読んでも、その認識力を身につけていなければ、それは分かりません。ただ、いろいろな人生のヒントというものを集めていって、そしてより高次な思想としてそれを昇華していった人にとっては、他人の悩み事を一瞬にして見抜き、それに答えることは可能であります。皆さん方は、その学びの根本にあるものは、こうした認識力をつけるという考え方にあることを知らねばならない。

【大川隆法『幸福の科学の十大原理(下巻)』第一章「知の原理」より抜粋】
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幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。本日の引用箇所では、「人生経験を経て得た苦しみの原因を知る段階―集諦」を学びました。

まずは自分の人生を振り返ってみて、「今まで、どのような苦しみを経験したのか」を思い返してみると、先日紹介した「四苦・八苦」に思い当たるところがほとんどであるはずです。

まず苦しみを経験したのち、「その苦みの原因は何なのか」―この世的なしがらみを知ることが、これが人生の問題集に回答を得るための第二ステージ【集諦】です。これまで苦しんできたことを、冷静な目で眺めてみると、そこには必ず一定のパターンがあることに気がつきます。そのパターンは私たちの魂の傾向性によって生まれたものです。その苦しみはカルマ(業)によってもたらされた影の部分です。あなたが繰り返し陥る、魂の傾向性とは一体何でしょうか。繰り返し経験する失敗のパターンは何でしょうか。それを共に探してみましょう。

まずは、邪見を排して、正見を得ること。「施論・戒論・生天論」を知ることで、天国世界への還るための道を知ること。そして次に我見を離れて、「苦・集・滅・道」の四諦を知ることで、人生の苦しみの原因が一体何であるのかを知り、解脱することを決意すること。最後に八正道によって自らの苦しみを滅して「中道」を得て、悟りの彼岸に至る・悟りの道へ至ること。このように悟りに至る道を段階的に説いているのが『目覚めの言葉「次第説法」』です。

『目覚めの言葉「次第説法」』に悟りへの道、真なる幸福の科学への道のりついて、仏の教えがぎっしり詰まっていますから、この経文を共に、毎日、繰り返し読み込んで、理解を深めてまいりましょう。

正心法語の全編読誦する時の心がけとして、皆様にお願いしたいのが、経文を読む前に、皆様の魂のきょうだいを全員召喚して、魂のきょうだい全員で正心法語を読むという気概で臨んでいただきたいということです。これはいま主に捧げている「復活の祈り」でも同様です。私は魂に熏習するという言葉を使うとき、これを意識して読経しています。魂の兄弟に主の教えを伝えることも立派な伝道です。意外と、この点は私たちにとって見落としがちなので常に意識しましょう。
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ここで、仏教の基本に立ち返るべく、教典『心の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―本書は、神秘的な宗教の世界に憧(あこがれ)、仏教的世界観を探し求めている人生の旅人たちにとって、絶好の案内書となることでしょう。―『まえがき』より
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■『心の挑戦』
第7章 悟りと霊能力
1 悟りの前提としての霊的体験

本章では「悟り」と「霊能力」の関係を考えてみます。

これに関しては、そもそも私自身の体験をふり返ってみる必要があるでしょう。私自身がこのような宗教的な悟りを得るに到ったのには、もちろん、生まれてくる前から使命があったことは否(いな)めないでしょうし、私自身の精神的傾向性というものもあったのでしょうけれども、私自身が悟りをえるにあたっては、霊能力、そしてその前提である霊的な体験は不可欠だったように思います。

宗教的真理を疑いなく受け入れることができる人にとっては、文字で書いてあるものを読んで受け入れれば、あるいは耳で聞いたものを受け入れたら、もうそれでよいと思えるかもしれません。

しかしながら、私自身の実体験からみてみると、実際に霊的なるものの実在を知る前と後では、私自身の霊的な覚醒、自覚というものが、まったく違っているように思います。思想的、あるいは知識的には理解できていても、現実に霊的な世界があると知ったことは、大きな驚きでもありました。

2 霊的体験が与える悟りの影響
① 霊的世界と永遠の生命を知る
この霊的世界を知ることが、悟りにいかなる影響を与えるかという点については、まず最初に二つの関門があると思います。

霊的体験をすることによって、まず、「自分たちが生きているこの三次元世界といわれる現象世界のほかに別の世界がもう一つある」ということを知ります。これは非常に大きなことです。

人間は肉体に宿って生活をし、やがて老年を迎えたら、現実に死に到るわけですが、死んだのちにも、「魂」といわれる存在、あるいは「霊的なる自己」というものが存続するということを、現実の問題として知ったならば、毎日の生き方あるいは、これからの生き方が変わると言わざるをえません。

現実に、私もそうでした。知識的には、あの世のことも知っていましたし、人間が転生輪廻するというようなことも理解していました。しかし、「現実に霊的世界があり、そして、すでに肉体はなくなっていても、整然と同様のものの考え方や個性を持った霊人が生きている」ということを知ったことは、大きな驚きでした。

そして、大きな驚きであると同時に、また一方では、喜びでもありました。「この世で努力したことは何ひとつ無駄になることはない」ということを知ったことは、大きな大きな喜びでした。

もし、七十、八十の年齢になって、ただ単に死んでいくだけで、そのあとに何も残らないのならば、一生を通じて努力していく意味は、いったいどこにあるのか、何ゆえに人は善を求めるのか、何ゆえに幸福を求めるのか―その答えがどこにも見当たらないように思えます。

しかし、死後の生命があるということを知ったならば、いろいろな世界各地の宗教が、そして思想、道徳が、何千年も、説き続けてきたことが、現実のものとして理解できるようになります。

「そうか、すべてはそのためであったのか。今世というものは、来世のための移行の期間にしかすぎないのだ。ちょうど、青虫が蝶になり、やがて蝶になっていくように、前世において青虫であった魂が、今世において蛹(さなぎ)となり、そして蝶となって還っていく―そのような転生輪廻を、実はしているのだ。三次元世界は、霊的な世界から見れば不自由そのものであるけれども、それはちょうど、蛹(さなぎ)のなかにいて考えごとをめぐらしているようなものなのだ」ということに気がつきます。

これは、悟りにとっては、やはり大きな大きな第一歩であり前進であると思います。

【大川隆法『心の挑戦』第7章「悟りと霊能力」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」映画伝道について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。

映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に霊的真実と
主エル・カンターレの御存在を弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて 
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります

■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■

①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。

②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。

シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。

本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。

③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。

主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。

④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。

純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。

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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
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エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史

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