(5/13-1)133『目覚めの言葉「次第説法」』を読む ⑨四諦―苦諦―入院1週間前には、那須の施設予定地を歩いて視察

「目覚めの言葉『次第説法』を読む」

5 心と体の調和について考えてみよう。
6 愛して来た人たちのことを思い出そう。

【大川隆法 箴言集『病の時に読む言葉』より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・
おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・
本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

5月14日は新復活祭です。2004 年 5 月14 
日に、主が死の淵からご復活された奇跡に心からの感謝を捧げると共に、主が大宇宙の造物主であられることへの確信を深め、あらゆる既成の常識を打ち破り、主のご復活への確信を強めてまいります。
 当日は13 
時より、教祖殿に最も側近き礼拝殿である東京正心館から、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。そして、5/14(水)~5/18(日)まで、新復活祭を開催致します。皆様この機会にご来館ください。

この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

ここからは、経典『新復活』―医学の「常識」を超えた奇蹟の力―の第一章に所収されています「新復活」を振り返り、主の「第三の死」について振り返ります。奇蹟の復活の物語です。お持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1600円】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・
■新復活
2心臓発作が起きた二〇〇四年五月十四日
○入院1週間前には、那須の施設予定地を歩いて視察

私は入院する一週間ぐらい前に、現在では幸福の科学学園の那須校を併設している、総本山・那須精舎用の土地を、「たぶん、買収する」ということで視察に行き、ゴルフ場の跡地を歩いて回ったりしました。【※その後、学校法人 幸福の科学学園は、2010年に幸福の科学学園中学校・高等学校(那須本校、男女共学・全寮制)を開校し、2013年に同関西中学校・高等学校(関西校)を開校しました】

そのときは五月で、私はブレザーを着ていたのですが、ブレザーがはちきれるような感じがしたというか、全体にピチピチになって体が入り切らず、「あれ?上半身が少し、”発展”したのかな」と感じて、「うーん。太ったかなあ。体重が増えたかな」と思ったことを覚えています。

つまり、医者から「あなたは死体だ」と言われる一週間ぐらい前に、実は、三十万坪もある傾斜の多い那須精舎の敷地を私は見て回っていたのです。カートも一部で使いましたけれども、”死体”になる直前の人が歩いて回ったわけですから、自分では、それほど体が悪いとは思っていなかったのでしょう。

ただ、服がピチピチする感じというか、体が服からあふれそうな感じはあったので、「もしかしたら、少し太ったかな」とは思いましたが、「体に水が溜まっている」ということは、その当時は分かっていませんでした。

○入院の前日に生じた心臓の大きな異変
そして、病院に行く前日の五月十四日、私は午前中に総合本部へ出かけていきました。人事異動の話で、いろいろと揉めていたからです。それは、理事長、それから総合本部長などのところです。総合本部長を変える人事異動をやったところ、そのあたりでやや議論がありました。普通は私は行かないのですが、やや紛争気味だったので、五月十四日の午前中に出かけていき、話をしました。

そして、帰ってくる途中、車のなかで、調子が悪いというか、今までに感じたことのないものを感じました。

この表現の仕方は、もしかしたら、医者に対してはよくなかったのかもしれませんが、そのときのことを、私は、「カラスの足の爪が食い込んで心臓を絞めるような感じの痛みが、帰りの車のなかで起きた」というように言ったのです。

そのとき、私は車中で、「『仏説・正心法語』(のCD)をかけてくれるか」と言って、『仏説・正心法語』をかけてもらい、家に辿り着いてから、いちおう付き添ってもらって寝室まで行き、『仏説・正心法語』をかけたまま三十分ぐらい寝ていました。そうすると、いちおう平静になってきたので、「いけるかな」と思いました。

そのあと、昼ご飯や晩ご飯を食べる時には、通常どおり、すべて歩いていました。

ただ、「来週の月曜日ぐらいに、一回、健康診断を受けたほうがいいのかな。もうそろそろ、そういう年齢だから、一回、受けたほうがいいのかもしれない。病院には行きたくないけれども、一回ぐらい行こうかな。土日にはやっていないだろうから(月曜日に行こうかな) 
」と思ってはいたのです。

○病院で検査後、手に負えず、別の病院に救急車で搬送
しかし、翌日の土曜日の朝、起きて庭を散歩し、石段のところを歩いていると、特に病変があったわけではないのですが、何となく、「すぐに検査を受けたほうがいいのかな」と感じました。それで、「月曜日ではなく、今日、検査に行こう」と思い、病院に行ったのです。

病院に行き、検査を受けて各部門を回るときは、ずっと歩かされていました。

そして、終りのほうで心電図検査の部屋に行くと、上半身の服を脱がされ、電極をたくさん体に張りつけられました。心電図を素人が見てもなんだかさっぱり分かりませんが、そのグラフを見ているうちに、医者の顔が真っ青に変わってき始めたのです。

そして、当時の家内が付き添いで来ていたのですが、「ご家族の方はいますか」と言われ、部屋の外に出て医師と話をしていました。

そのときに、もう、どうにもなりません。オペ(手術)も不可能ですので、もっと大きな病院へ行ってください」と言われたそうです。

そして、「病院から病院への搬送には、救急車を使うことになっています」と言われました。それで歩いて検査を受けていた人が、いきなり救急車に放り込まれ、サイレンを鳴らされながら救急車で運ばれたのです。

これは映画では観たことがありますが、自分が体験するのは初めてで、「なぜ、こんなことをしなくてはいけないのか」が分からない状態だったのですが、土曜日の午後に、別の病院に搬入されました。

【大川隆法『新復活』第一章より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・
さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第四の経文である『目覚めの言葉「次第説法」』についてです。

『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を読誦して、自分が、「無我」や「空」の教えを通して霊存在であることを自覚した後に、私たちが読む経文が『目覚めの言葉「次第説法」』です。私たちは、この経文を毎日読むことによって、どのようにしたら私たちが、苦しみの世界から、「悟りの彼岸」に渡り、「解脱の道」へと進むことができるのかを次第、次第に知ることができます。私たちの人生の問題集の解決の鍵が『目覚めの言葉「次第説法」』に埋蔵されています。この鍵を共に見つけてまいりましょう。

この次第説法の内容は、2600年前のお釈迦様の十八番(おはこ)のご説法であったと伝え聴いています。このお経に説かれているのは、「施論」―与える愛の実践・「戒論」―悟りを得るための心の修行をするための正しい生活習慣・「生天論」―来世に地獄に行くことなく、天国世界での幸福の生活への誘い―です。

お釈迦様が、在家の方々の「施論」「戒論」「生天論」を成就するために、正しい信仰【正信】としての「正見」と、「苦・集・滅・道」の四諦と八正道への道のりを論理的に指し示されています。この世とあの世の幸福を一致させるための説法でした。このお経の内容を伝道の道しるべとして、まず自らに熏習しながら、他人(ひと)にお伝えしてまいりましょう。

それでは『智慧の言葉「仏陀の悟り」』はこのように続きます。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
かくて
邪見・我見を 相破(あいは)して
四諦(したい)の 道を 進むべし
四諦とは
苦・集・滅・道の 教えなり
『苦』とは      【苦諦】
生・老・病・死なり  【四苦】
憎しむ者と 出会いては   【怨憎会苦】(おんぞうえく)
愛する者と 別れるなり   【愛別離苦】(あいべつりく)
求めしものは 手に入らず  【求不得苦】(ぐふとっく)
五官煩悩は 燃えさかる   【五陰盛苦】(ごおんじょうく)
これが 四苦 八苦なり
迷いの生存は 苦なりと
喝破してこそ 真理なり

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
Avoid both wrong views
And self-centered views
And proceed along the path
Of the Four Noble Truths
The Four Noble Truths are the teachings
Of suffering, its cause, its extinction
And the path
Suffering originates from the Four Pains
Birth, aging, illness and death
You meet with people you dislike
You part from people you love
You cannot get all you want
And worldly desires blaze furiously
Through the five senses
These are the Four Pains, the Eight Pains
If you perceive suffering as living in delusion
You have awakened to the Truth

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
「生・老・病・死」の四苦については、前章【※『智慧の言葉「仏陀の悟り」』】でも説明しました。

「生まれてくる苦しみ」―この世に、何度も何度も性懲りもなく出てきては、苦しい人生を送って地獄に堕ちる、そうした「洗濯機を回す」ような輪廻を、やはり苦しみと言っています。【※六道輪廻・欲界転生など】

「老いる苦しみ」―老いると、あらゆる苦しみが襲ってきます。
「病の苦しみ」「死ぬ苦しみ」―人間は生きている以上に、これを逃れることはできません。

これらは代表的な苦しみであり、四苦と言います。
これに、別の四つの苦しみを加えたものが八苦です。

「憎しむ者と 出会いては   【怨憎会苦・おんぞうえく】
愛する者と 別れるなり   【愛別離苦・あいべつりく】」

「怨憎会苦」―憎い者、憎しむ者と出会います。「いやだな」と思う人と会うのです。

「愛別離苦」―皮肉なことに、「この人とだけは別れたくない」という、好きな人、友人、恋人、親や子、夫や妻、そうした人と別れていくのです。・・・

「求めしものは 手に入らず  【求不得苦・ぐふとっく】」

この「求不得苦」も一般的な法則です。欲しいものは、なかなか手に入らないし、手に入らないから幸福でもあるのです。欲しいと思ったものが全部手に入ったらどうなるかを考えてみると、それはそれなりに、大変な執着の塊になって、苦しいと思います。

「五官煩悩は 燃えさかる   【五陰盛苦・ごおんじょうく】」

これは「色・受・想・行・識」という、人間としての構成要素が自分を翻弄する「五陰盛苦」のことを言っているのです。肉体に基づいた感覚や精神作用が煩悩となって、自分を苦しめるのです。・・・もう自分が自分ではないのです。「この肉体人間の自分は、本来の自分ではない」と思うのに、その「肉体人間の自分」のほうが、「本来の自分」を振り回すのです。「本来の自分」が「肉体人間の自分」に、どうしても勝てないのです。

要するの、「霊的な真実の目で見た生存以外は、やはり苦しみなのだ」ということを知らなければいけません。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
幸福の科学で教える「人生の問題集」の解き方の基本は、「四諦・八正道」の一言に尽きます。人生の諸問題を解決するプロセスには4つあります。それが「苦・集・滅・道」の四聖諦です。本日の引用箇所では、「人生は苦しみであるということを知ること―苦諦」を学びました。仏教の旗印に四法印の第一に、「一切皆苦」【肉体的生存としての人生はすべては苦しみである】とあり、これに気づくことが悟りの第一歩でもあるとされています。
このように、「人生は苦しみである」と仏陀は、喝破されました。人生は四苦・八苦の連続です。

四苦・八苦とは

①生―生まれる苦しみ、迷いの転生輪廻を抜けることができずに生まれる苦しみ
②老―老いてゆく苦しみ、若さを失う苦しみ
③病―病の苦しみ、健康を失う苦しみ
④死―死ぬ苦しみ、あの世を知らずに死ぬことに恐怖を抱く苦しみ

以上の四苦に以下の四つの苦を重ねたのが八苦です。

⑤怨憎会苦・おんぞうえく―憎しむ者との出会い、自分とは全く価値観が合わない人との出会い
⑥愛別離苦・あいべつりく―愛する者との別れ、ずっとそばにいてほしい人との惜別
⑦求不得苦・ぐふとっく―求めても得られない苦しみ、欲しいものが、どうしても手に入らない苦しみ
⑧五陰盛苦・ごおんじょうく―五官煩悩が燃える、あらゆる欲が肉体を刺激して止まらない苦しみ

私達人間はこのように、まず苦しみに始まって、その後、悟りによって苦しみからの自由を「悟り」によって得て【解脱】、仏への道を歩んでゆくようになっています。苦しみを経験することによって、私たちは、人生の問題解決を得ることができます。この苦しみ自体が、過去の転生輪廻で積み重ねてきたカルマの実態です。つまり、過去世での生き方で解き切れなかった人生問題が現世に現われてきているのです。その意味においては、まず苦しみを経験しなければ、人は本当に悟ることができないといっても過言ではないと考えます。お釈迦様におかれましても、大悟を得て、仏陀になるまでは様々な苦しみを経験されていました。

「人間の本質が魂であることを悟るために、まず苦しみを経ること」
これが人生の問題集に回答を得るための第一ステージです。

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
●四諦(苦・集・滅・道)の発見
(お釈迦様の初転法輪)
その教えの内容は一体なんであったか。要するに、釈迦が最初に説いた教えは、「四諦」といわれる教えだったのです。四諦というのは、四つの真理という意味です。この「諦」のことをサティアといいます。四つの真理を彼は悟ったわけです。そして、それについて五人の修行者に話をしたのです。

では、その四つの真理、四諦とは何でしょうか。
まず、この世の中に生きているということはどういうことであるのか、これ自体を定義しなくてはなりません。それを釈迦は「苦である」というように言ったわけです。「この世の中における生存、生きていること、迷いの生存、これは苦である」、これをまず最初に言ったのです。

それを聞くと、みなさんは不思議な感じがするかしれません。「なぜ人生が苦なのだろうか」と思うかもしれませんが、これをもう一度よくよく味わっていただきたいのです。「苦である」というのは、いわゆる凡夫、要するにこの世での人生の目的と使命を知らない人間が、この世で生きている姿を言っているのです。悟りを開いた場合には、苦は消えるのなのです。これは苦しくはないのです。喜びの世界がそこに現れるのです。・・・

本書(悟りの挑戦)を読んで勉強しているような方は、悟りがだいぶ進んでいるでしょうが、まったく真理を知らない人、あの世があるということをまったく否定する人、死んだらもうそれで終わりだと思っている人、人間はアメーバから進化してきたと思っている人、そして人間は機械のようなものだと思っている人、そういう人がたくさんいるわけです。

そうした方の人生観や生きている姿、そして晩年になって、「死ぬのが怖い怖い」と言って暴れている姿はどうでしょうか。・・・

もともとは、自分の正しいあり方、正しい人生観、人生の目的と使命を知らないという、単にそれだけのことです。これを知らない人生というのは、みなさんの目で見ても、やはり苦であると思うでしょう。かわいそうです。苦というのは、本当にかわいそうな、気の毒な生存です。・・・

要するに自分が間違っているということに気がつかない生き方、これが苦なのです。釈迦が説いた苦というのは、私たちが普通感じる苦というものではなく、ある意味においては、人間がこの世において真実の生命の充足感が満たされないという意味での苦しさでもあると思うのです。・・・

この三次元の世界、物質の世界というのは、そのように、普通の人間であっても間違えやすい、真実の人生観を持ちにくい環境ですから、「正しい真理に気づくまでは、苦海―苦しみの海のなかで泳いでいるのと、ほとんど一緒である。これが人生の真相である」と、釈迦は言ったわけです。

当時、苦というものには主に三種類あると言われていました。
苦の種類の一つは、「苦苦(くく)」といって、苦しみのなかの苦、本当の苦、そのもの自体が苦であるというものです。たとえば暑さ寒さのような苦しみがそうです。・・・このように、そのもの自体が苦である、そのもの自体に苦しみの性質を持っているものを苦苦―「苦の苦」というのです。問答無用で苦であるものです。

それから、二番目には「壊苦(えく)」というものがあります。壊苦というのは、壊れる苦しみです。これは、ある状態から転落する、ある状態が壊れてしまうことをいうのです。・・・

みなさんが今まで手にしていた「これが幸福のもと」だったものが、ある日突然に壊れてしまうということはたくさんあります。こういうものを壊苦というのです。壊れる苦しみ、壊れていく苦しみ、これがあります。・・・

三番目には「行苦(ぎょうく)」というものがあります。行苦は、行いの苦しみです。これは移ろいゆく苦しみのことなのです。何ものも止まっていることはできない、全て移り変わっていくことの苦しみです。・・・
このように、苦しみを、苦苦、壊苦、行苦の三つに分類するのが、大昔のインド人の知恵であったわけです。
【大川隆法 『悟りの挑戦』上巻 第一章「仏教的精神とは何か」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
まずは、邪見を排して、正見を得ること。「施論・戒論・生天論」を知ることで、天国世界への還るための道を知ること。そして次に我見を離れて、「苦・集・滅・道」の四諦を知ることで、人生の苦しみの原因が一体何であるのかを知り、解脱することを決意すること。最後に八正道によって自らの苦しみを滅して「中道」を得て、悟りの彼岸に至る・悟りの道へ至ること。このように悟りに至る道を段階的に説いているのが『目覚めの言葉「次第説法」』です。

『目覚めの言葉「次第説法」』に悟りへの道、真なる幸福の科学への道のりついて、仏の教えがぎっしり詰まっていますから、この経文を共に、毎日、繰り返し読み込んで、理解を深めてまいりましょう。

正心法語の全編読誦する時の心がけとして、皆様にお願いしたいのが、経文を読む前に、皆様の魂のきょうだいを全員召喚して、魂のきょうだい全員で正心法語を読むという気概で臨んでいただきたいということです。これはいま主に捧げている「復活の祈り」でも同様です。私は魂に熏習するという言葉を使うとき、これを意識して読経しています。魂の兄弟に主の教えを伝えることも立派な伝道です。意外と、この点は私たちにとって見落としがちなので常に意識しましょう。

*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
ここで、仏教の基本に立ち返るべく、教典『心の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―本書は、神秘的な宗教の世界に憧(あこがれ)、仏教的世界観を探し求めている人生の旅人たちにとって、絶好の案内書となることでしょう。―『まえがき』より
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
■『心の挑戦』
第6章 中道思想の実践
6 足ることを知る生活

「反省が大事だ」と言いましたけれども、では、表面意識を澄ませて、潜在意識と同通していくために必要な心掛けとしては、何があるでしょうか。私は、その心掛けの一つが、実は「足ることを知る」ということだと思います。

人間は地上で生きていますと、どうしても欲が募ってきます。あれもこれも手に入れたくなります。そして、自分が尊大になっていくことがあります。そのときに、毎日毎日、「足ることを知る」ということを中心に自己反省をしてみるとよいと思います。

今日も生かされている自分、今日も、飢え死にすることもなかった。また、どんなにいろいろなことがあったとしても、今日も一日があった。地球が壊れてしまうこともなく、太陽が射さないこともなく、食べ物に困ることもなく、今日も一日が終わった。いろいろな苦しみや悩みもあったかもしれないけれども、今日一日があった。昨日までの日もずーっ続いてきた。また明日も、おそらくは一日が始まるであろう―。

こうした、毎日をいただいていることに対して感謝をすることです。

そして、何もかも高下駄を履いて臨むのではなくて、自分自身の現在の人生を愛することです。他の人に比べたら満足が行かないところは当然あるでしょうけれども、あなたから見たら「羨(うらや)ましい」と思っている他の人も、本当はどうかわかりません。その人にはその人なりの苦しみがあります。そしてまた、あなたが見て「あんなくだらない人生」と思っている人のなかにも、実は素晴らしい生き方があるかもしれません。

それぞれの人がそれぞれの人生を生きている。自分自身の固有の人生を愛し、抱きしめること、それもまた「足ることを知る」ということなのです。物質欲に性欲、こんなものにも限りがありません。

たとえば、夫婦相和し、そして子供をつくり、その家庭を大事にして何十年か生きていくこと、これも立派な、足ることを知った中道の道なのです。しかし、足ることを知らずに、他の異性にのめり込んで、家庭を滅茶苦茶にする人が跡を絶ちません。そうなるものとは、わかっていながら、欲が抑えられなくて、家庭を滅茶苦茶にしていきます。

しかしながら、正常な夫婦のあいだで子供が生まれて、その子供を育てていくには、三十年という歳月が必要です。三十年間家庭が安定するということが非常に大事なことなのです。それが乱れたときには、子供の将来もまた滅茶苦茶になります。自分たちも、途中から人生が曲がり込んでいくこともあります。

そこで、家庭を崩壊させないために必要なことは、いったい何であるかというと、やはりこの「足ることを知る」生活だと思うのです。

釈迦の時代には、妻帯さえ許されていないこともありました。現代では、宗教家でも、宗教実践者でも、ほとんど結婚をしていますから、「現代的中道」は、昔よりは恵まれているものだと思います。家庭生活を持ってもよい。出家も在家も変わらずに、そのまま人間生活をして、尊い生活を送ることが許されています。

それが堕落に到らないように、日々、感謝の気持ちでもって、ともに、妻のよいところを見、夫のよいところを見、そして子供たちを育んでいくなかに、幸福を見いだしていくことです。妻にないような特色を持った女性ばかりを求めたり、夫にないような性質を持った男性ばかりを求めるような心でもっては、ほんとうの幸福は開けてはきません。

この「足ることを知る」ということが、ほんとうは人生の最大の幸福を生むことでもあります。ですから、家庭の幸福をしっかり守るということも、現代的「足ることを知る」生活であり、これもまた中道の道である、ということを知っていただきたいのです。家庭をしっかりと守ることによって、その上に職業生活というものは成り立つのです。

職業のなかでも、確かに、他の人と同じようには、行かないかもしれません。自分が理想とする人のようには、いかないかもしれません。しかし、「自分としての今世の魂の修行とはいったい何であるか。宿題とはいったい何であるか」ということをしっかり見つめて、「私は、私の問題集の範囲のなかで最大限の努力をしよう」とすることです。

また、「来世には来世の魂修行があるであろう。今世はこういう環境に生まれついた。今世はこういう職業を選んで出ている。この職業を百八十度変えることはできないかもしれない。それならば、今世の修行のなかで最大の収穫をあげようとすることです。漁師の人が農業の人を羨(うらや)んでも、しかたがないことです。また、農家の人が漁師を羨んでも、しかたがないことです。「今世はこの職業のなかで最高度の魂修行をしていこう」と心に決めていくなかにこそ、真実なる発展・繁栄があるわけなのです。

このような足ることを知る中道の生活をしていますと、いわゆる悪霊の侵入を防ぐことができます。心のなかに隙をつくらないことです。そうすれば、行きずりの悪霊の憑依を受けたり、また、間違った宗教に縁を持って邪霊の憑依を受けるようなことは、ありません。また、たとえ先祖に迷っている人がいたとしても、子孫が調和した生活をしていれば、その子孫に取り憑くこともできないし、その調和した子孫の姿を見て、先祖もまた涙して反省することもあります。そのように、すべてがよくなっていくわけです。

まず、足ることを知る中道のなかにおいて、自分の心を守ることです。そして次には、家庭のなかに調和の光を満たし、家庭のなかに魔や悪霊が入り込まないようにします。その隙はすべて欲から生まれてきます。お互いのいがみ合いや、欲望の強さから生まれてきます。ですから、その諸欲を抑えて、その中なる道を家庭としても歩んでいこう、そういう気持を持つことです。

家庭のなかに魔を入れないこと。それが、永遠に続いていく幸福なる道なのです。それはまた、日々の一つひとつを丁寧に踏みしめていく修行の道でもあると思います。

【大川隆法『心の挑戦』第6章「中道思想の実践」より抜粋】
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜・*:.:*・゜
Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are One, with our Lord.  我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
■□■□■□■
。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
■□■□■□
E-mail:ise@sibu.irh.jp
□■□■□
https://hsise.com/
□■□■
TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
□■
エル・カンターレ・大好き

文責:蒲原宏史

タイトルとURLをコピーしました