(5/12-1)132『目覚めの言葉「次第説法」』を読む ⑧無我―我見・我欲を捨てる教え―心臓発作が起きた二〇〇四年五月十四日

「目覚めの言葉『次第説法』を読む」

3 痛みがあるということは、生きているということである。
【大川隆法 箴言集『病の時に読む言葉』より抜粋】

おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。

風薫る五月となりました。五月研修がただいま支部で開催されています。
オーダーも開催も致しますので、ご希望の方は支部までお問い合わせください。

5 月 12 日(日)まで13時から2024 
年「ヘルメス大祭」を開催し、ヘルメス大祭版「復活の祈り」を執り行います。神秘思想と霊界思想の源流におられ、2000 
年前のイエスの「復活現象」に力を与えられたご存在であられるヘルメス神のご指導のもと、主のご復活に向けて主への愛と祈りの力を結集してまいります。そして、私たち一人ひとりが、透明な風の如き天使の愛を実践し、主の愛がこの地に満ちて「愛の復活の時代」を到来させるべく、伝道の誓いを捧げる機会とさせていただきます。

また、5月14日は新復活祭です。2004 年 5 月14 
日に、主が死の淵からご復活された奇跡に心からの感謝を捧げると共に、主が大宇宙の造物主であられることへの確信を深め、あらゆる既成の常識を打ち破り、主のご復活への確信を強めてまいります。
 当日は13 
時より、教祖殿に最も側近き礼拝殿である東京正心館から、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。そして、5/14(火)~5/19(日)まで、毎日13時から新復活祭を開催致します。皆様この機会にご来館ください。

この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。

ここからは、経典『新復活』―医学の「常識」を超えた奇蹟の力―の第一章に所収されています「新復活」を振り返り、主の「第三の死」について振り返ります。奇蹟の復活の物語です。お持ちでない方は、支部や精舎、全国の書店でお求めください。仏弟子必携の一書です。【税抜き1600円】
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■新復活
2心臓発作が起きた二〇〇四年五月十四日
○実際の病状は映画よりも、もっと悪かった

実際の病状は、二〇〇四年五月十四日に起こり、その翌日(土曜日)に病院へ行って、いきなり入院させられてしまったあたりから始まります。

映画「世界から希望が消えたなら。」では、「まったく何も(苦痛が)ないように見えるのも困るから」ということで、いちおう、多少”苦しんで”いるように演技をしてくださっていると思います。ピンピンしていたら映画にならないので、それなりにやってくださっていると思うのです。

ただ、「現実はどうだったか」というと、現実の体の状態というか病気的な症状は、映画で描かれているより”もっと悪かった”はずです。しかし、県実の私は、映画で描かれているより、”もっと悪くない”ような状態で生きていたのです。

私は、病院での検査をというものを何十年も受けていませんでした。病院に入って、「かつてのカルテとか診断の記録とか、何かありませんか」と訊かれ、「何もございません」というと、「ええっ、四十七歳にして、病院の記録が何もないなんて人がいるんですか」という感じで驚かれました。

「今までの検査結果とか、何かあるでしょう」と言われ、いや、まったくありません。病院は嫌いなので、行っていなかったのです」と答えたら、医者のほうはショックを受けたようで、「なぜ、いきなりこんな状態でやって来るのか」というような感じではあったと思います。

○体の不具合を何年間も「心の力」でカバーしていた
ただ、おそらく、客観的には、その数年前から、普通の人なら痛みを訴えたり苦しんだりするような状態であったのではないでしょうか。たぶん、そうだろうと思うのです。

しかし、私の場合、仕事がずっと重かったので、「こんなことは当たり前だ」と考えていたところがあったと思います。苦しかったり、体力が回復しなかったり、体が重くなったりすることがあっても、それを「当然のことだ」と思っていたので、慣れていたというか、普通のことのように思っていたのかもしれません。

そのため、病院に入ったあと、医者から、「そうとう我慢しているんじゃないですか」というようなことをずいぶん言われました。

私が医者から言われたことで、何がいちばんこたえたかというと、「頑張らないでください」という言葉です。これを言われたのが、いちばんこたえたような気がするのです。

それは、要するに、「病人らしくせよ」ということなのだろうと思います。

おそらく、私の場合、「自分自身の支配者は、自分の心である」という気持ちが強く、肉体にいろいろな変化や不具合があったりしても、「心で支配する。心が自分の王者である」という気持ちが強かったので、心のほうの力はけっこう強かったのでしょう。

振り返って見ると、当時は、大講演会を行ったりしたあとはパターンと倒れて、四日ぐらい寝たきりのような感じになり、動かないことが多かったのです。それが現在では、幕張メッセや、さいたまスーパーアリーナ、東京ドームなどで講演をしても、翌日ぐらいには出てきて、また話したりしても平気なのです。

これを見れば、おそらく、昔は今よりもっと体が悪かったのではないかと思います。

四日間、死んだように寝込んでいても、「これが普通だ」思っていたのですが、今は講演のあともわりに平気で、翌日も何か仕事をやっているので、昔のほうが普通ではなかったのかもしれません。他の人のことは分からないのですが、「普通ではなかったのではないか」と思います。ただ、当時はそういうことに慣れていたのです。

【大川隆法『新復活』より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいりたいと思います。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。

さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第四の経文である『目覚めの言葉「次第説法」』についてです。

『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を読誦して、自分が、「無我」や「空」の教えを通して霊存在であることを自覚した後に、私たちが読む経文が『目覚めの言葉「次第説法」』です。私たちは、この経文を毎日読むことによって、どのようにしたら私たちが、苦しみの世界から、「悟りの彼岸」に渡り、「解脱の道」へと進むことができるのかを次第、次第に知ることができます。私たちの人生の問題集の解決の鍵が『目覚めの言葉「次第説法」』に埋蔵されています。この鍵を共に見つけてまいりましょう。

この次第説法の内容は、2600年前のお釈迦様の十八番(おはこ)のご説法であったと伝え聴いています。このお経に説かれているのは、「施論」―与える愛の実践・「戒論」―悟りを得るための心の修行をするための正しい生活習慣・「生天論」―来世に地獄に行くことなく、天国世界での幸福の生活への誘い―です。

お釈迦様が、在家の方々の「施論」「戒論」「生天論」を成就するために、正しい信仰【正信】としての「正見」と、「苦・集・滅・道」の四諦と八正道への道のりを論理的に指し示されています。この世とあの世の幸福を一致させるための説法でした。このお経の内容を伝道の道しるべとして、まず自らに熏習しながら、他人(ひと)にお伝えしてまいりましょう。

それでは『智慧の言葉「仏陀の悟り」』はこのように続きます。

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かくして 因果の その道理(ちみ)を
邪見を 破して 悟るなら
次には 我見を 離るべし
我あると 思う心を 離るべし
我がものと 思う心を 離るべし
我見 我欲は 禍患(わざわい)なり
自己中心は 我見なり
調和を 乱すは 我欲なり
我見 我欲を 離るべし
利欲の 功徳を 信ずべし

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我見とは、「自分が、自分が」と思う心です。これを離れなさいと説いています。「自分が」という心と、「私のもの、俺のもの」という心は一体です。ほとんどの苦しみの原因は、ここにあるのです。苦しんでいる人を見ると、ほとんどここが原因です。「自分が、自分が」と、自分のことしか考えていないのです。それから、「自分のもの」です。ものには、財物もあれば、地位や名誉など、いろいろあるでしょう。

結局は、「自分」か「自分のもの」が苦しみの原因です。苦しんでいて、道が分からない―そうした人は、これで狂っています。宗教をやっていてもおかしくなる人は、みんなここが原因です。

ですから、

「我見 我欲は 禍患(わざわい)なり」
と説いています。これは百発百中ですから、これを知りなさいということです。
我見、我欲がないにもかかわらず、はなはなだしく迷ったり苦しんだり暴れたりする人は、絶対にいません。みな我見、我欲が原因です。

「自己中心は 我見なり
調和を 乱すは 我欲なり」

そういうことです。

「我見 我欲を 離るべし
離欲の 功徳を 信ずべし」 

これも大事です。「欲を離れたら損をするのではないか」と思うかもしれませんが、そうではありません。この「離欲」ということが自分を守るのです。自分が崖から転落することを守ってくれるのです。人はついつい欲が出てきますから、これを自己検証して、「ああ、これは欲を離れなければいけない」と思うことが、中道に入る道ですし、それが自分を守ってくれるのです。

【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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「邪見」の反対は「正見」でした。そして、「正見」は正しい信仰―「正信」によって成り立つことも、これまで学んでまいりました。そして「正見」とは、つねに物事を「原因と結果の法則」で観察することであることも、共に学んでまいりました。「種がなければ、実を結ばない」「火の無いところに、煙は立たない」などいろんな言い回しがあります。

この原因と結果の法則が私たちに問いかけているのは、

『自らの心を眺めたときに、自分をいつも不幸にしているものが、「自分」「自分」「自分」で心がいっぱいなっている、自分中心の心であり、「自分のもの」「自分のもの」「自分のもの」と心がいっぱいになっている、調和を乱す心であることに気が付きませんか?』

ということです。

これが、「我あり」と思う心【我見】であり、「我がもの」と思う心【我欲】です。

「本来、我なく、我がものなし」という離欲の功徳とは、偏りきって、乱れた心にバランスを取り戻し中道に入ることです。この中道とは、次の経文である『解脱の言葉―「仏説・八正道」』のメインテーマとなります。自らの過てる心を正す原理がここに説かれています。

まずは、邪見を排して、正見を得ること。「施論・戒論・生天論」を知ることで、天国世界への還るための道を知ること。そして次に我見を離れて、「苦・集・滅・道」の四諦を知ることで、人生の苦しみの原因が一体何であるのかを知り、解脱することを決意すること。最後に八正道によって自らの苦しみを滅して「中道」を得て、悟りの彼岸に至る・悟りの道へ至ること。このように悟りに至る道を段階的に説いているのが『目覚めの言葉「次第説法」』です。
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本日のテーマは「無我」そして「中道」というところにキーワードがあります。これについて、さらに詳しく主の経典から抜粋いたします。
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●真に「無我」になる方法
釈迦が無我を説かなければならなかった理由の一つは、「結局、人生の苦しみのほとんどは執着にある」というところなのです。執着とは、何かに執われることです。この執着のもとにあるものが「我」なのです。我欲、あるいは「我あり」と思う心、あるいは我見―我でもって見る、自我でもって見る、自分に非常に都合のよい偏りのある目で見る。こうした我に基づく見方や欲望によって、人生の苦しみはすべてできているのです。ほとんどそうです。

そして、それを最も出ているところは、四苦八苦のなかの「求不得苦(ぐふとっく・求めても得られない苦しみ)」です。みんなこれは持っています。この求めても得られない苦しみというのは、もともと「我」のところからきているものです。「我あり」と思う心からきているのです。「我あり」と思う心から「我がもの」という心も出てきているのです。これはおわかりでしょう。

「我なし」ならば、「我がもの」もないのです。「我あり」と思うから「我がもの」があるのです。

自分のものだと思う―「あの人は私のものだ」「私の部下だ」「私の恋人だ」「私の妻だ」「私の子どもだ」「私の親だ」「私の家だ」「私の土地だ」「私のバットだ」「私のボールだ」「私のカメラだ」「私の財布だ」「私のお金だ」「私の貯金通帳だ」「私の名刺だ」「私の机だ」「私の椅子だ」「私のお墓だ」・・・。何でもあります。

まず「我」があって、「私のもの」というのが出てきます。これが執着の原因です。この「私のもの」というのがあって、そこに執着が生まれてきます。

ですから、この執着を断つためには、まず「私のもの」というのを切る必要があります。「私の私の」「我の我の」というのを、やめることです。

本来のあなたの存在というのは、いったい何でしょう。それは、大宇宙の根本の神仏が、光として人間を存在あらしめようとして出したのです。それが本来の姿でしょう。それを忘れてはいけません。その本来の姿を想い起こしたときに、人間は神仏と一体になれるのです。

この無我の教えは、二つの面から、もう一度点検されなければなりません。無我とは、物理的物体としての「我」が無いということを言っているわけではありません。無我なるものの本質の一つには、「あなたは神仏と一体にならなくてはいけない」という部分があります。己を空しゅうしなければ、神仏と一体にはなれません。「自分が自分が」と思う心が強ければ、神の光も射してきません。

神仏と一体となるためには、仏教的に言えば、もちろん反省、瞑想がありますし、キリスト教的に言えば、神への祈りもあるでしょう。ひとりで神に一生懸命祈るのもそうでしょう。「神仏と一体となる」、これが一つです。

無我になる方法として、もう一つは、「利他、愛他」があります。

他人のために生きる。
他人の苦しみを自分の苦しみとして、
他人の悲しみを自分の悲しみとして、
他人のよろこびを自分のよろこびとして生きる。
愛他の心を持って生きる。
これも無我になっていくための道です。

要するに、神仏と一体になるのも、他人と一体となるのも、両方、無我の教えなのです。「これが結局あなたがたを生かしていく道なのだ」ということを教えているわけです。

この教えに間違いはありません。死んであの世に還ってみると、地獄に行っている人はみな、「俺が俺が」「私が私が」というように、「私のもの」ということに執着しています。

そして、死んで迷っている者は、地上の人間に取り憑いています。遺された妻や夫、子供、あるいは家にしがみついている者もいます。

それから、土地にしがみついている者もいます。お墓にしがみついている者もいます。会社の机にしがみついている者もいます。地縛霊というのがこれです。・・・

このように、あっちもこっちにも執着しているのです。地縛霊はすべて執着の塊です。
その執着のもとは、すべて「我あり」です。「自分」というところがあるのです。これを否定しないかぎり、どうしても執着は断てません。

天国の世界に行ってみると、愛他、利他の世界です。天国の人たちは、人助けのために生きようとしています。これがすなわち無我です。自分のためではなく、人のために生きようとしています。こういう無我の思想があります。

【大川隆法『悟りの挑戦』(上巻)第四章「無我とは何か」より抜粋】
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●釈迦の説いた無我とは何か

釈迦の説いた無我とは、次のようなものです。「人間というものは、ひとりだけで生きていけるものではない。大勢が協調しながら生きていく存在なのだ。そのなかにいて、あなたがた一人ひとりが、牛や鹿のように角を出して生きていたら、その角がお互いに当たって傷つけあうだろう。ゆえに他の人びとと社会生活をしている人間であるならば、その角の部分をよく矯めなさい。よくそれを切り取って、統御しなさい。自己というものを整えなさい」これが無我の教えなのです。

それは「非我」といってもよいでしょう。「私がという存在は、自分ひとりで存在しているのではない。私というものは、多くの人があって存在しているのである。私という存在は、神仏がこの世にあらしめているからこそ存在しているのである。我ひとりでは存在できるものではない。『我に非ず』という気持ちで生きていくときに、自分を伸ばしながら他の人と調和して生きていく道がある」。これを教えたのです。

【大川隆法『悟りの挑戦』(下巻)第一章「中道からの発展」より抜粋】
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●無我中道とは何か

ですから、
無我の思想とは、どちらかに偏る思想ではなくて、現実に、本当の自己というものを知ったうえで、自己を伸ばし、「中道からの発展」をなしていくための、きわめて大事な思想なのです。

結局、無我とは何かということを、もっとわかりやすく言うならば、「透明になれ」ということなのです。「不純物が多く、曇りガラスになりがちな人間であるならば、それをよく磨いて透明になりなさい。限りなく透明になりなさい。透明なる自己というものを発展させていきなさい」と言っているのです。

ですから、「透明になれ」ということは、存在がなくなるということではありません。曇りはなくなりますが、しかし、存在がなくなるのではありません。

要するに、無我の思想とは、「あなた方は、木っ端微塵に砕いて粉々にして消してしまいなさい」というような自殺の勧めてはなく、「透き通った水晶のようなあなたになりなさい」というのが「無我中道」、そして「中道からの発展」という思想なのです。

【大川隆法『悟りの挑戦』(下巻)第5章「無我中道」より抜粋】

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無我であることが、主と一体となり、なおかつ隣人を愛するための利他、愛他の原動力であるという、仏法真理の一つの姿を表しています。経典『メシアの法』の中心論点でありました、『汝の主なる神を愛せよ。その証明として汝の隣人を愛せよ』という仏言の根拠にこの『無我』の思想があり、その延長上に『無我なる愛』としての慈悲の姿を浮かび上がってくるようです。無私にして、無我であることは、私たちの隣人を心から愛する上でも重要な教えであることが分かりました。

『目覚めの言葉「次第説法」』に悟りへの道、真なる幸福の科学への道のりついて、仏の教えがぎっしり詰まっていますから、この経文を共に、毎日、繰り返し読み込んで、理解を深めてまいりましょう。

正心法語の全編読誦する時の心がけとして、皆様にお願いしたいのが、経文を読む前に、皆様の魂のきょうだいを全員召喚して、魂のきょうだい全員で正心法語を読むという気概で臨んでいただきたいということです。これはいま主に捧げている「復活の祈り」でも同様です。私は魂に熏習するという言葉を使うとき、これを意識して読経しています。魂の兄弟に主の教えを伝えることも立派な伝道です。意外と、この点は私たちにとって見落としがちなので常に意識しましょう。

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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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「神戸正心館エル・カンターレ像開眼祈念植福」について
2024年、主エル・カンターレを信じる皆様と共に救世活動に邁進できますこと、心より感謝申し上げます。
本年も、全国、全世界の天変地異調伏と疫病調伏と発展・繁栄の未来を創造する誓いを込めて、「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」に伊勢支部信者の信仰心を結集させていただいています。

【趣旨① 「神戸正心館建立」エル・カンターレ像開眼祈念植福を祈念して】                                                  
奈良時代に様々な内乱・大飢饉・疫病が流行った時には、聖武天皇が詔を発し、行基菩薩が勧進役となって、東大寺の毘盧遮那仏が建立されました。結果、様々な病気が無くなったと言われています。

災厄に対して信仰心と法力で戦うのは宗教の使命です。当時、お金や材木の布施・人夫などで携わった人々は延べ二百六十万人ものぼるとも言われており、人口の 半数にもあたりました。そのように、毘盧遮那仏建立は、国家を挙げて、国民にエル・カンターレ信仰を伝える一大伝道事業でもありました。
この度の神戸正心館建立は〈天変地異調伏祈念〉という願いが込められています。エル・カンターレ下生を全世界に告げ知らせ、数多の天変地異を調伏せんとする  信仰心の結集運動が神戸正心館の建立です。これは、あらゆる厄災から人々を護らんと願う大いなる愛の実践そのものでもあります。

【趣旨② 「神戸正心館建立」は一大霊場づくり】
また、昨年末には、<聖地>エル・カンターレ生誕館が別格本山となりました。   その光が淡路島を参道として本州に流れてくる神戸の地に、神戸正心館は建立されます。
神の戸が開き、聖地が一大霊場として大きく広がることで、主エル・カンターレ御降臨とその奇跡が日本全国、全世界へと広がって参ります。

【神戸正心館建立祈念―エル・カンターレ像開眼祈念植福―植福のご案内】
「神戸正心館建立祈念植福―エル・カンターレ像開眼祈念植福―」は、一口十万円目安から承ります。また、本植福の貢献者の皆様方は、神戸正心館建立時に芳名板を設けて、そのご貢献を顕彰させて頂きます。

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100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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文責:蒲原宏史 

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