34 天狗は高転びする以外に悟れないのだ。
35 学歴自慢は犬も食わない。
【大川隆法 箴言集『人生への言葉』より抜粋】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。全国・全世界の信者の信仰心を結集し ①10:00~、②13:00~、③19:00~(各回約50分)と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
風薫る五月となりました。五月研修がただいま支部で開催されています。
オーダーも開催も致しますので、ご希望の方は支部までお問い合わせください。
5月14日は新復活祭です。2004 年 5 月14
日に、主が死の淵からご復活された奇跡に心からの感謝を捧げると共に、主が大宇宙の造物主であられることへの確信を深め、あらゆる既成の常識を打ち破り、主のご復活への確信を強めてまいります。
当日は13
時より、教祖殿に最も側近き礼拝殿である東京正心館から、全国・海外の精舎・支部・拠点(HSU・学園含む)に中継開催します。そして、5/14(水)~5/18(日)まで、新復活祭を開催致します。皆様この機会にご来館ください。
この聖なる日に向けて、純粋なる信仰を「復活の祈り」と共に主に捧げると共に、信仰・伝道・植福に私たちの最大の感謝と報恩の誓いを捧げさせていただきましょう。
そこで、本日から経典『信仰のすすめ』の第四章に所収されています「愛は風の如く―Love Blows Like the
Wind」より、ヘルメスの愛について学びます。本御法話は主の新復活の直前となる2004年の4月29日に説かれています。
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■愛は風の如く―Love Blows Like the Wind
5 地球人としての悟りに目覚めよ
○ヘルメスの思想と仏陀の思想とを併(あわ)せた教え
幸福の科学の教えは、ギリシャのヘルメスの思想と、インドの仏陀の思想とを
併せたようなところがあり、この二つが中心になっています。
幸福の科学では、総本山・正心館(栃木県宇都宮市)をはじめとする精舎を全国各地に数多く建てていますが、それらの精舎の外見を見れば、その多くは紛れもなくギリシャ建築です。
「宗教というものは、建物を建てはじめたときに、そのルーツ(根源)がよく分かる」と言われていますが、当会の建物を見れば、「幸福の科学は、ギリシャが起源の宗教である」ということは、明らかに分かります。
「ギリシャ的な建物のなかで、仏教的な修行、インド的な修行を行っている」というのが幸福の科学の姿です。そのように、「外側はヘルメス的な姿をとっていて、内側に仏陀的な思想を持っている」というのが当会の姿であると考えられます。
こういうかたちで、現在の幸福の科学のあり方を理解していただければよいでしょう。
○西洋と東洋を融合させた「地球的規模の宗教」を
幸福の科学は、イエス・キリストも成し遂げることができなかったこと、すなわち、「愛と発展という二つの考えの融合、協調、そして、この世における実現」ということを求めています。さらに、地上で人生修行をしている人間の魂を磨くために、「悟り」という仏教的なことも強く訴えかけています。これは、いま西洋に欠けているものでしょう。
ヘルメスは西洋思想の源流になりました。仏教は東洋思想のなかの核とも言うべき存在です。その西洋の核と東洋の格が、実は、共にエル・カンターレという存在から出ているものであることを知ったとき、人類は地球人としての悟りに目覚めざるをえないのです。「西洋も東洋も元は同じだったのだ」ということを知っていただきたいと思います。
二つに分かれて発展した思想を、私は、いま、統一し、融合させようとしています。そして、次なる「地球的な規模の宗教」をつくろうと考えています。
いま、キリスト教とイスラム教は、対立する関係に近づきつつあります。仏教も十分な救済力を持っていません。
それぞれの民族を分かったものは基本的には宗教でしょう。宗教が民族を分かったのであるならば、民族を一つにまとめることもまた、宗教の仕事でなければなりません。
世界の人類を、一つのヒートピア郷に存在する人間として、幸福な世界に生かすために、私は活動を開始しました。
多くの人々が、この考えに賛同し、新しい救世運動に参画してくださることを望みます。
【大川隆法『信仰のすすめ』第4章「愛は風の如く―Love Blows Like the Wind」より抜粋】
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さて、ここからは、私たち仏弟子の生命ともいえる、「仏説・正心法語」について共に考える機会を得たいと考えています。本日は、『仏説・正心法語』第四の経文である『目覚めの言葉「次第説法」』についてです。
『智慧の言葉「仏陀の悟り」』を読誦して、自分が、「無我」や「空」の教えを通して霊存在であることを自覚した後に、私たちが読む経文が『目覚めの言葉「次第説法」』です。私たちは、この経文を毎日読むことによって、どのようにしたら私たちが、苦しみの世界から、「悟りの彼岸」に渡り、「解脱の道」へと進むことができるのかを次第、次第に知ることができます。私たちの人生の問題集の解決の鍵が『智慧の言葉「仏陀の悟り」』に埋蔵されています。この鍵を共に見つけてまいりましょう。
この次第説法の内容は、2600年前のお釈迦様の十八番(おはこ)のご説法であったと伝え聴いています。このお経に説かれているのは、「施論」―与える愛の実践・「戒論」―悟りを得るための心の修行をするための正しい生活習慣・「生天論」―来世に地獄に行くことなく、天国世界での幸福の生活への誘い―です。
お釈迦様が、在家の方々の「施論」「戒論」「生天論」を成就するために、正しい信仰【正信】としての「正見」と、「苦・集・滅・道」の四諦と八正道への道のりを論理的に指し示されています。この世とあの世の幸福を一致させるための説法でした。このお経の内容を伝道の道しるべとして、まず自らに熏習しながら、他人(ひと)にお伝えしてまいりましょう。
それでは『目覚めの言葉「次第説法」』はこのように続きます。
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■『目覚めの言葉「次第説法」』
善心 必ず 善行あり
善行 必ず 福徳あり
さすれば 施しを 忘れるな
貧しき 人には 分け与え
仏・法・僧には 喜捨すべし
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■Words of Awakening-Step-by-Step Teaching
Good thoughts always lead to good actions
And good actions
Invite happiness and fortune
Therefore, do not forget to make offerings
Share with the poor
And contribute to Buddha
Dharma and Sangha
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〇施論―尊いものに差し出す修行
次に、「善心善行、善行福徳」という因果関係があります。ですから、まず、「あなたがたには施しを忘れてはいけません。与える愛を忘れてはいけません。貧しい人には分け与えない」と説いています。これは、「そうした憐みの心、慈悲の心を持たなければなりません」ということです。
この「貧しい」というのは、必ずしも物質的にだけ貧しいということではありません。心が貧しい人も同じです。日本では、物質的には豊かな人が増えてきましたが、心の貧しい人は多いのです。
心の貧しい人に対しては何をしなければいけないかというと、法施(ほうせ・ほっせ)です。教えを説いてあげなければいけません。物質的に貧しい人には物施として物を与えることも大事ですし、財施として財を与えることも大事ですが、心の貧しい者には法施が必要です。これは普遍的な道徳ですから、よくわかる話です。
さにに、「仏・法・僧には喜捨すべし」と説いています。「三宝を信ずるならば、敬うならば、喜捨しなさい」ということです。「喜捨」というのは、惜しまずに与えることです。執着を断って、たとえば財施や物施をすること―これが喜捨です。「こうした尊い修行が、そこで成り立つのです。これによって、あなたがたは執着を断つことができます」ということです。
この「仏・法・僧」への喜捨を、僧団のほうで勘違いしがちなのは、対価関係で考えがちなのですが、これだと企業社会での経済原理になってしまいます。また、「教団がこれだけのことをしてくれたら、私はこれだけ教団に寄付する」という考えも違っています。これだと契約関係、ギブ・アンド・テイクなのです。そうではありません。これは修行の機会を与えているのです。
尊いものに差し出すことが修行なのです。ですから、説法や活動の対価として、金銭的なものや物質的なものを受けるのではないのです。これを間違わないでいただきたいと思います。
たとえ現在、当会の講演会やセミナー等に入場料その他があるとして、それは、対価ではないということを知らなければいけません。これは、現代の経済原理に基づいて行っていますが、そうした行事に参加する人は、あくまでも寄進の心、喜捨の心でもって差し出さなければいけないものなのです。
【大川隆法『仏陀の証明』幸福の科学出版 より抜粋】
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施論というと、難しい言葉ですが、要するに「与える愛の実践をしなさい」ということです。
「善い心を持っていれば、それが心の種子となって、必ず善い行いが生まれますよ。そして、善い行いを続けると、それがまた人生に蒔かれた数多くの種子となって、福徳を生み出しますよ」とわかりやすい、原因と結果の法則の教えとなっています。
ここで、注意したいのは、「与える愛」であるはずの、布施の心が、御利益を求めることで、「与える愛」ではなくて、「奪う愛」という偽りの愛・偽りの精進になってしまうという点です。与える愛とは無償の愛であり、菩薩の慈悲であり、菩薩の精進です。愛を与えるときには見返りを求めない心で与え切りましょう。
与えたものは、与えた人から直接お返しが来るのではなくて、与えた人(施者)の心に幸福感が増えることで、魂の喜びをすでに仏からいただいています。与える愛の功徳は、与える愛そのものに付随するものです。つまり、見返りを求めない与える愛の功徳は、次に再び見返りを求めないで愛を与えることができるという行為自体が功徳なのです。
これを逆から見れば、奪う愛に生きる罰は、次にまた人から愛を奪ってしまうという行為自体にあるということです。人から愛を奪うことが習慣化されることが地獄への道をひたすら歩くことになり、それ自体が苦しみであるということです。これを「悪因悪果」【悪い種が悪い果実を生む】の正体です。ですから、常々、布施の心を忘れないよう、私たちの持つよきものを他人に分け与えて、福を共有する生き方を心掛けましょう。
これが「植福功徳経」にある冒頭の聖句「功徳を求めぬ心こそ 無限の功徳の始まりなり」の意味するところです。
このように、布施行は、「この世の執着を断つ」という心の修行となります。
自らの幸福のために、隣人の幸福のために、執着を断つために「仏・法・僧」の尊いものに差し出す修業をいたしましょう。
まずは、邪見を排して、正見を得ること。「施論・戒論・生天論」を知ることで、天国世界への還るための道を知ること。そして次に我見を離れて、「苦・集・滅・道」の四諦を知ることで、人生の苦しみの原因が一体何であるのかを知り、解脱することを決意すること。最後に八正道によって自らの苦しみを滅して「中道」を得て、悟りの彼岸に至る・悟りの道へ至ること。このように悟りに至る道を段階的に説いているのが『目覚めの言葉「次第説法」』です。
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本日の経文の引用で「善心 必ず 善行あり 善行 必ず 福徳あり」とあり、
「善因善果」「悪因悪果」という言葉あり、冒頭の教えは「縁起の理法」といわれる原因・結果の法則について説かれています。
経典『釈迦の本心』では、
『縁とは「この世に偶然なるものはない」という考え方の表れであり、その奥には愛の思想があると言ってよいでしょう。すなわち、「人間は目に見えないえにしの糸によって結びつけられているのだ。この世で偶然に会ったように思っても、実は、そのえにしの糸によって、深いきずなで結びつけられていたのだ」という考え方です』
と教えていただいています。さらに、別の個所では、
「人生の成功、不成功も、実はこの縁に関係があります。人間関係はすべて「縁の連鎖」と言うべきものでできており、さまざまな人とのつながり合いのなかで、事業の成功、不成功も組織での出世、不出世も決まってきます。このように、縁は仏教における人間関係学であり、愛の思想の別の面からの探求の姿でもあるのです」
人生を好転させるのには、「どのようなご縁をいかに結んでいくか」ということがポイントになりそうです。これを聞いてピンとくるのが、「波長同通の法則」です。自分がどのように心の波長を出すか。その波長に様々なものが人生の途上で引き寄せられるのはやはり人生の真理であります。人生を成功に導く心の習慣づくりという点で重要なポイントですね。
それでは、成功する心の習慣作りという点では本日の論点では、「施し」の大切さに触れられています。これは与える愛の実践として幸福の科学においては極めて重要な教えの一つです。本日は、少し難しい論点ですが、六波羅蜜多のなかの一柱である「布施波羅蜜多」(ふせはらみた)について主の教えを引用します。すこし難しくなりますが、以下引用します。
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六波羅蜜多の最初には、「布施波羅蜜多」があります。これは、別名、「施しの完成」とも呼ばれています。
釈迦の思想では「施し」が非常に重要視されています。「施し」という言葉は、いかにも仏教的な響きを有していますが、その根本は愛の思想であると言ってよいでしょう。キリスト教における愛の思想が、仏教では、布施の考え方、「施す」という考え方のなかに流れているのです。
六波羅蜜多の筆頭に布施波羅蜜多があることは、釈迦が慈悲的な意味合いでの愛をいかに重視していたかを示す証左と言えるでしょう。
ここで「波羅蜜多」という言葉について、説明を加えておきましょう。
漢訳の「波羅蜜多」というのは、インドの言葉のパーラミター(paramita)の音写で、到彼岸、つまり「理想状態に達すること」という意味ですが、「波羅蜜多」意訳もよくできています。「波羅」は「内在する」、あるいは「心の奥底の」という意味にとり、「密」は「非常に価値のあるもの、値打ちのあるもの」、「多」は「こんこんと湧いてくるさま」に意訳すると、筋が通ります。
すなわち、「心の井戸を深く掘ると、こんこんと叡智が湧いてくる」という意味で、「波羅蜜多」という漢語訳を使っているのです。
したがって、「布施波羅蜜多」というのは、布施という行を通して、こんこんと湧いてくる叡智を味わい、それを身につけるための修行方法なのです。
布施にも様々なものがあります。
最も一般的なものとして、出家修行、仏教教団、貧窮者などに、衣食、田宅、財物などの物質的なもの施す「財施」があります。他の人に物を与えることも愛の行為です。(たとえ、貧しくて物を与えることが出ない場合でも、笑顔を与える「顔施」があります。笑顔を与えることも立派な布施です。顔施によって世の中がすばらしくなっていきます)
また、「法施」というものがあります。これは精神的でさらに高度な施しだと言えます。心が飢えていて道を求めている者、砂地が水を求めるがごとく法を求めている者に対して、法を施してあげること、教えを説いてあげること、その悩みに答えてあげることは、最大に布施なのです。
釈迦の時代には、人びとが修行僧に対して物品の布施をしていたのですが、そうした物施よりもさらに多くのものを、修行僧たちは人びとに与えていたのです。すなわち、法施という愛行によって、感謝、報恩をなしていたのです。もちろん、在家信者が、まだ信仰の開けていない人に対して教えを説明することも、法施でした。これも布施です。
さらに、「無畏施」があります。悩み、苦しみ、恐怖を感じている人に対して、恐れを取り除いてあげることです。心を安らかにし、人を厄難から救うことです。
以上の、財施、法施、無畏施のことを、「三施」といいます。
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『目覚めの言葉「次第説法」』では、まず初めに与えることの(布施)大切さを私たちに教えています。
人助けのプロとしての菩薩の修行方法には基本的に二つあり、それが「八正道」と「六波羅蜜多」です。菩薩修行における一番初めの修行課題も「与える愛の実践」としての布施波羅蜜多でありました。幸福の科学の大切な教えである「愛」は、仏教の布施の精神を種として生まれたものであるといってもよいかもしれません。
とにもかくにも、悟りへの道、真なる幸福の科学への道のりついて、仏の教えがぎっしり詰まっていますから、この経文を共に、毎日、繰り返し読み込んで、理解を深めてまいりましょう。
正心法語の全編読誦する時の心がけとして、皆様にお願いしたいのが、経文を読む前に、皆様の魂のきょうだいを全員召喚して、魂のきょうだい全員で正心法語を読むという気概で臨んでいただきたいということです。これはいま主に捧げている「復活の祈り」でも同様です。私は魂に熏習するという言葉を使うとき、これを意識して読経しています。魂の兄弟に主の教えを伝えることも立派な伝道です。意外と、この点は私たちにとって見落としがちなので常に意識しましょう。
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ここで、仏教の基本に立ち返るべく、教典『心の挑戦』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―本書は、神秘的な宗教の世界に憧(あこがれ)、仏教的世界観を探し求めている人生の旅人たちにとって、絶好の案内書となることでしょう。―『まえがき』より
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■『心の挑戦』
第6章 中道思想の実践
2 外を責める心と内を責める心
まず、心の問題について、踏み込んで考えてみることにしましょう。
みなさんが苦しみを感じるときは、どういうときでしょうか。両極端としてとらえるときに、外側に向かって責め立てているような気持ちと、内側に向かって自らを責め苛んでいる気持ち、この二つが、まずは極端として現われてきます。
外側に向かって責め苛(さいな)んでいる気持ちとは何でしょうか。
それは、自分自身の苦しみや不幸というものを、他の人のせいや、まわりのせいにしていく気持ちです。憎しみや怒り、嫉妬、羨望(せんぼう)、猜疑心(さいぎしん)、そのようなもので、目に見えない心の世界から見るならば、あなた自身の心から、あるいは口から、あるいは目から、常に他の人に対する攻撃の矢が放たれている状態、これが一つの極端であるわけです。
人を見ると悪人に見える。批判しないといられない。悪口を言わないといられない。中傷してしまう。「とにかく、あいつが悪いんだ」ということを考える。こうしたことが、その心を生み出していく中心です。もちろん、それはそれで、智慧をもって切り抜けていかなければならないことがあります。
しかもまた、世相においても、経済が悪いとか、いろいろな天変地異が起きるとか、私たちを苦しめるような事態には事欠かない昨今です。
地震のために不幸になった。津波のために不幸になった。大火事のために不幸になった。長雨のために不幸になった。日照りために不幸になった。食糧不足のために不幸になった。何かの事情で石油が入らなくなった。その職業の環境が悪くなった。業界が本当に駄目になってしまった―。
いろいろなことは、もちろんあると思いますし、それ自体について、みなさん個人の力ではいかんともしがたい不可抗力もあると思います。
ですから、「これが自分を苦しめている原因である」と認識すること自体には間違いがないことも、現実にはあります。現実には、そういう外部環境による苦しみもあることは事実です。
ただ、その外部環境を捉えるときに、それがあなた自身の力によって変えていけるものであるならば、それはまだまだ努力の余地があります。
たとえば、自分の幼子が、間違ったことをするならば、母親が叱ることによって、その誤りを正すことができるでしょう。「子供が悪い」ということだけを、毎日毎日、悔やんで悩んでばかりいるよりは、その子供の悪いところを積極的に指摘して叱ることによって、その行いを正し、心の安らぎを得ることも可能でしょう。
しかし、社会全体ということになってきますと、なかなか、そうはいかないものです。その際に考えるべきことは、大勢の人や環境に対する不平不満を持つよりも、そうした考えだけで自分の心を苦しめることが非生産的なことである、ということを悟ることです。そして「まず自分にできることは何であろうか。この苦しみの大河、氾濫のなかから、自分自身のオールを使い、櫂(かい)を使って、抜け出せる道はないのか。どうやったら岸辺に上がることができるのか。自分としてできることは何なのか」ということを考えることが、そうした者に対する不平不満を数限りなくあげることよりも、より生産的な道なのです。
また一方、内側に向かって、自分を責め苛む、自分自身を攻撃する心というものもあります。これがなぜいけないのかというと、結局、自分自身が仏の子であるということを信じない、という結果に陥ることがあるからなのです。
何度も何度も繰り返して述べておりますように、たとえ今、どんな惨めな状態にあろうとも、どんな苦しみや悲しみのなかにあろうとも、その一人ひとりの人が、すべて仏から大いなる愛を投げかけられている存在であることは事実なのです。
あなたが今どのような苦しみの淵のなかにあろうとも、そのあなたを必ず見つめている温かい眼があります。また、思いと行いにおいては、善人と悪人とに分類されることもありますし、あなた自身が悪人と言われる存在に転落することも、おそらくあるでしょう。しかし、そうしたときであっても、善人の上にも悪人の上にも同じく日の光を投げかけ、同じく雨を降らせる仏の存在というものは、たとえようもなく、ありがたいものです。
そういう、自分自身のほんとうの尊さというものを知ったときに、「自分自身の自己変革、自己改善、あるいは反省のために、自分自身の悪いところを直していこう」という念いは、非常に積極的でいいことではあります。しかし、それが度を超してしまって、「結局、自分はもう駄目な人間なんだ」という自己卑下をしたり、消極的で暗くなり、常に他人の同情を引き、劣等感の虜(とりこ)となり、人間不信となり、人を避けて、不平不満や愚痴のなかで、世捨て人となって生きていく―そうした人生になってもいけないのです。
前者の極端が、非常に攻撃的なところに特徴があったとすれば、後者のほうは、その反対で、どちらかといえば、外面的には消極的にも見えるでしょう。反省ということを説いているからといって、自分自身の尊厳に気がついていない人は、自分自身を、もう心の底の底まで、あの墨のように真っ黒な存在だとほんとうに思ってしまう人もいます。
キリスト教的な環境に育った人のなかには、「人間罪の子」という考えから逃れることができなくて、自分を真っ黒な存在だと思ってしまう人が良くいます。あるいは「サタンの子だ」と思ってしまったり、「サタンの血が流れている」というようなことを考えたりする人もいます。これは微笑に悲しい思想です。もし、自分自身の血のなかにサタンの血が流れているということを考えたら、その人が幸福になれる道はほとんどない、と言ってもよいと思います。しかし、真実は、そうではありません。
このように、外を積極的に責める念いも、また自己卑下的になって、いたずらに精神的な自殺をなしていく傾向も、ともに、あなたがたを幸福にする道ではありません。中道とは、この両極端を離れた境地です。
まず、具体的な心の持ち方としては、このことを知ってください。結局は、「幸・不幸を、あまりにも他の存在に依存させてはいけない。だからといって、自分自身の責任を大きく捉えすぎて自己を破壊していく、あるいは、その仏性、神性を否定していく方向に自分を苛(いじ)めてもいけない。どちらも誤りである」ということなのです。
【大川隆法『心の挑戦』第6章「中道思想の実践」より抜粋】
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き
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文責:蒲原宏史
(5/9-1)129『目覚めの言葉「次第説法」』を読む ⑤施論―尊いものに差し出す修行―ヘルメスの思想と仏陀の思想とを併せた教え
