新日本国憲法試案 第九条
公務員は能力に応じて登用し、実績に応じてその報酬を定める。公務員は、国家を支える使命を有し、国民への奉仕をその旨とする。
【大川隆法『新日本国憲法 試案 第九条』】
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おはようございます。「一日一生」。今日も、主のため、世のため、人のために、信仰に、伝道に、植福にさらに一歩進めましょう。
新しき日を 迎えるにあたり、
主エル・カンターレに
心より お誓いいたします
本日も
正しき心の探究と
愛と
知と
反省と
発展の
幸福の原理を実践し
一層 悟りを高め
地上ユートピアの建設に
力を尽くして まいります。
生命ある限り
この仏法真理を 弘めます。
どうか 私の
今日の誓いを
お聞き届けください
ありがとうございました(合掌)
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。本日も全国・全世界の信者の信仰心を結集し①10:00~、②13:00~、③19:00~と世界同時に主の奇跡を願い、復活の祈りを捧げさせていただきます。皆様の祈りの結集をお願いいたします。
2月11日は建国記念日を迎えます。建国記念日の由来は、明治時代、日本の建国を祝う日として紀元節(きげんせつ)がありました。初代天皇とされる神武天皇が即位した日が、紀元前660年の2月11日だったことから定められています。そして、1873年から第二次世界大戦後の1948年まで祭日として人々に親しまれていました。しかし、戦後の日本を占領していたGHQ軍の意向により、紀元節が廃止されています。
その後、国民の間で紀元節を復活させようという動きが高まり、建国を記念するための日が設けられました。その際に、「紀元節」から「建国記念の日」へと名称が変わりました。このようなことから、1966年に国民の祝日として制定され、翌年から適用されるようになっています。
本日は、主の『新日本国憲法 試案』から新しい日本の建国の精神を振り返ります。
経典をお持ちでない方は、全国の支部・精舎・書店にてお求めください。【税抜き1200円】
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第九条 公務員は能力に応じて登用し、実績に応じてその報酬を定める。公務員は、国家を支える使命を有し、国民への奉仕をその旨とする。
【大川隆法『新日本国憲法 試案 第九条』】
〇高木たる公務員にも「能力制」導入を
・能力に応じた公務員の登用
「公務員は能力に応じて登用し」とありますが、当たり前のことです。「能力に応じて」というのは、「採用試験だけで能力を判定する」ということではありません。公務員となって役所に入って以降、係長、課長補佐、課長、局長など、昇進の段階はいろいろありますが、「能力がある者を登用していく」ということです。
それから、「実績に応じてその報酬を定める。」とありますが、これについては、いま、幸福実現党からも提言していると思います。
法律によって、「一定の年齢になったら必ず報酬は上がっていく」というような俸給システムにはしないわけです。これは民間企業に近いスタイルだと言えます。
能力と実績に合わせて昇給や俸給等が決まるスタイルを取るため、もちろん、昇格だけではなく降格もありえます。
現在の公務員の場合は、事実上、降格はほとんどありません。降格ではなく、たいてい、「外に転出する」というかたちになっています。しかし、能力がなければ降格もありうるかたちにするわけです。
【大川隆法『新日本国憲法 試案』より抜粋】
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ここで、仏教の修業論に立ち返るべく、教典『沈黙の仏陀』を学びます。経典お持ちでない方は、ぜひお求めください。【1800円税込み】
―仏陀入滅して二千五百年。その教えは沈黙の中におかれた。しかし、その真意を解く鍵は、修業論のなかにある。沈黙の仏陀の声なき声がそこにある―『まえがき』より
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第3章 戒律とは何か
2 戒と律の違い
さて、「戒律」とひと言で言ってますが、では、「戒」と「律」は同じ意味なのでしょうか。違うのでしょうか。これはあまり認識されていませんが、厳密には違った意味を持つ言葉です。「戒」は、サンスクリット語でシーラ(sila)、「律」はヴィヤナ(vinaya)といい、もともとの言葉が違うのです。
「戒」というのは、あくまでも修行者個人が主観的な立場で、「これをこういうふうに守りたい」と思っている戒(いましめ)のことであり、自分が自主的に護ろうとすることです。したがって、これについては罰則がありません。ですから、これに対する反作用は、自分自身の反省あるいは悔恨ということになります。戒を破ったときの苦しみとしては、自分自身の良心の痛みがあるわけです。
これに対して、「律」というのは、はっきりとした罰則ルールです。「これに触れてはいけません。教団のなかでの共同生活ができなくなるので、はっきりと罰します」ということです。その罰にも、重いものから軽いものまで、もちろんいろいろな種類がありますが、「そのまま放置しておきません」ということです。
これはどの社会にもあることで、大きくは、国には法律があります。現代なら、刑法や民法といった様々な法律で、争いごとを裁いたり罰則を設けたりしていますが、当時はそれほど明確なものはありませんでした。少なくとも教団のなかというのは一種の自治組織になっていて、国の法律が適用できないのです。サンガー(僧団。サンガともいう)の自治というものがあって、サンガーのなかで生活しているものを国の法律で裁くことは、国王たりともできなかったのです。(現代となんと違うことでしょうか)。
だからといって、何でもしたい放題ということではなく、それだけにかえって、内部は内部できっちりとした罰則規定がありました。サンガーのなかにいる者は、法律に背くようなことは許されないわけです。そのような内部規律のことを「律」といいます。ただ、単純に「戒」と呼んでいるなかに「律」の意味を込めて言うこともよくあるので、その辺はよくわきまえていただきたいと思います。
「戒」というのは、自主的に守っていくものですが、なぜそれが要請されるかといえば、自主的に自分で守っていこうとする誓いであるからこそ、ここから菩提心、すなわち悟りを求める心が生まれて来るのです。そして、その結果、悟りの境地である涅槃が生まれてくるのです。すなわち、菩提心から涅槃への道に到るためには、どうしても「自分に対する戒(いまし)め」という自主性がなければだめなのです。法律のようにすべて規定だけしていればよいということではなく、自分で主体的に守っていくものがあるからこそ、それが菩提心になり、涅槃への道につながっていくのです。こういう意味で、「戒」は修行者にとって非常に大切なものなのです。
【大川隆法『沈黙の仏陀』第3章「戒律とは何か」より抜粋】
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本日も根本経典の「仏説・正心法語」と共に重要な祈りである。「エル・カンターレへの祈り」について共に考える機会を得たいと考えています。
まず、『エル・カンターレへの祈り』とは、私達が「仏」「法」「僧」の三宝に帰依した信者にしか持つことを許されない大変尊い経文です。支部では、三帰信者であれば、2000円の奉納目安でいただけます。
私も毎日、自分の信仰と、使命を新たにするために、ありがたく読誦させていただいています。
教義として主よりたくさんの御教えをいただいていますが、その中心にあるのが、「仏説・正心法語」です。七つの経文が収められていますが、「毎日、全編を繰り返し読誦してください」とお勧めさせていただいています。
一方、『エル・カンターレへの祈り』には、「エル・カンターレへの祈り」「伝道参加のための祈り」「植福功徳経」の三つが収められており、「信仰」「伝道」「植福」という、私たち仏弟子の救世運動の理念が凝縮されています。
ですから、私が支部活動で行き詰まる時、いつも原点回帰するのが「エル・カンターレへの祈り」です。そういう意味では、私たちの宗教活動の中心にある大変重要なお祈りです。
「エル・カンターレへの祈り」を深く学ぶために、主より経典『「エル・カンターレへの祈り」講義』をいただいていますので、ぜひ伊勢支部にて拝受して下さい。
詳しい解説は、この経典をご覧いただくとして、このメールマガジンでは、日々の活動にこの聖なる祈りをどのように生かしていくかという視点で、お届けしたいと考えています。
それでは前回の続きです。「エル・カンターレへの祈り」はこのように続きます。
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主 エル・カンターレよ
われらは
あなたが
人々を
真なる幸福へと
導かれることを
信じます。
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「エル・カンターレへの祈り」は、主がどのようなご存在であるのかを定義することから始まり、それを受け取る私達仏弟子が、主への信仰を徹底して告白することを繰り返します。本日引用した箇所にも「信じます」という言葉が出ていますが、これが三度目の信仰告白です。祈りが、徹底的な信仰から始まっている点で際立っています。
経文の「あなた」とは、マスターである主なる神、「エル・カンターレ」のことです。
繰り返しになりますが、「われらは」とは私たち仏弟子であり、主に仕えるサーバントです。永遠の悟りを求めて修行を続ける、救済仏の助力者です。
私たち、エル・カン―レの弟子は、主なる神 エル・カンターレが私たちを真なる幸福へと導かれることを信じています。これは、私たちの信じる神が結論において、信じる者をどのように取り扱うのかという点において重要なことです。
たとえば、西洋キリスト教社会は、信仰とは神と人間との契約である側面が強く出ています。キリスト教の生みの親であるユダヤ教が契約思想の総本山のような存在だからです。聖書にある新約と旧約は神と人間との間で交わした契約をそれぞれ意味しています。
ちなみにユダヤ教では、新約・旧約という言葉自体ありません。あくまでも、モーゼの十戒を中心とした、モーゼ五書といわれる聖典が絶対であり、これに反する行いは、すべて神との契約違反ということで、徹底的に罰する。という特徴を持っています。ユダヤ教では、神様は信じる人を幸福に導く存在では必ずしもなく、契約を守る者を外護して、契約を守らない者に裁きを加える存在なのです。
エル・カンターレ信仰においては、主なる神が「裁きの神」ではなく、「許しの神」であり、私たちを真なる幸福へと導かれることを明らかにしています。大変ありがたいことです。
このことに関連して、大変印象的な御説法がありましたので、ご紹介いたします。
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●私自身が「幸福への道」そのもの
【ブラジル・ジュンジャイ支部御巡錫説法「幸福への道」】
ブラジルの高速道路には、ややデコボコがあり、またグニャグニャと曲がってもいたので、当初、「普通の道を走っているのだ」と思っていました。高速道路だと聞いて驚いたのですが、途中からスピードが出始めたので、やはり、そうであったようです。
そこを走っているときに、この演題とも関係があるのですが、私は、「私自身が『幸福への道』そのものだな」と、つくづく感じました。
道の気分になってみたら、「ああ、私の背中の上を、車が何台も通っているのだな。大勢の人が、この道を歩いているのだな」と感じたのです。
サンパウロに近い辺りでは、周りにゴミがたくさん捨ててありました。日本ではあまり見ない光景でしたが、「道は、ゴミが捨てられていることもあれば、トラックが走ることもできる。尊敬されない扱いを受けることもあれば、いろいろな役に立つこともあり、様々なことがあるものだな」と考えた次第です。
【大川隆法 『真実への目覚め』―幸福の科学入門―より抜粋】
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最後に、経典から抜粋いたします。
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〇この世とあの世の壁を超える
・なぜ信じる力が必要なのか
信仰とは、この世とあの世の壁を超えるための力であり、この世とあの世の壁を超えるための武器です。
信じるということによって、次元の壁が破られるのです。信じる力によって、次元の壁を越え、いろいろなものが行き来するようになるのです。いろいろなパワーがよみがえってくるのです。この世とあの世が一体化するのです。
強い信仰心のなかに生きているとき、みなさんは、三次元世界に生きていながら、多次元世界に生きているのと同じなのです。強い信仰心のなかにいるとき、みなさんは、如来界、菩薩界、光明界、善人界など、天国の世界にいるのです。
また、強い想念の下に、悪しきことをずっと考え続けている人は、生きながらにして地獄の世界に心が通じています。そういう人は、心の世界では、地獄の世界に通じていて、地獄とは行き来も自由なのです。そのようなあしき信仰も現に数多くあります。
そのために、いま大切なことは次のようなことです。
この世において、正しいものが成功し、正しさが確認されることは、もちろん大事なことであり、そうなることを望みたいと思います。しかし、それは百パーセント実現するものではないのです。
この世においては、正しいものが敗れ、正しくないものが勝つこともあります。この世は、もともと、そういうものなのです。この世は、正しいものがなかなかわからないような実験場として創られている面があり、試練の場でもあるのです。
したがって、「この世での勝ち負けだけでもって宗教の正邪は決まらない」ということを、片時も忘れてはいけません。
信じる力が必要なのは、この世の原理には、あの世の原理とは違っている部分があるからです。そのため、それを超える力が必要とされるのです。そこに、信仰というものが必要とされる時が来るのです。
〇信仰を支える「耐え忍ぶ力」
信仰を支えるもの、信仰を支える力とは一体なんであるかというと、それは耐え忍ぶ力です。
思いというものは実現します。それは必ず実現していきます。
しかし、その実現までには一定の時間がかかりますし、その手段、方法は、最初におもったものとは違った形になることがあります。それは受け入れなければなりません。
この世においては、自分が最善と思ったかたちではなく、次善、あるいは、その次と思っていたような形であらわれる場合もあります。・・・
しかしながら、強く長く思っていることは、しだいに必ず実現していきます。手段や方法はさまざまですが、やがて実現していくのです。
そのときに、信じている側の者にとって、いちばん大切なことは、耐え忍ぶ力です。耐え忍ばなければならないのです。耐え忍びの力によって、思いは実現していきます。
そして、「信仰というものは、最後は、この世において完結しなくともよいものなのだ」ということを知らなければなりません。「この世において信仰が完結しなければしないほど、その人は深く、強い、はるかなる信仰を持っている」と言うこともできるのです。
この世においては、「目先の成功が実現しなければ信じられない」と言うことは簡単なことです。しかしながら、何百年後、何千年後の成功を夢見て生きている人もいるのです。それが狂気であるか、それとも正気であるかは、時代が証明するのみです。・・・(中略)
〇もう一段の信仰心と勇気を
(中略)
さまざまなことを語りましたが、一言で結論を述べるとするならば、「信じるということは、この世とあの世の次元の壁を超えることである」ということです。
この世とあの世の次元の壁は、はっきりとあります。普通の人は、その壁を超えられずにいます。
それを超えるのは、信じるという行為です。信じるという行為を本当に手にするためには、次元の壁を超えなければならないのです。
次元の壁を超えることは苦しみを伴います。忍耐を伴います。そして初めて、この世にあって、この世ならざる人間になるのです。
あの世と同通した心の持ち主のことを、仏教的には「阿羅漢」(アルハット)といい、キリスト教的には「聖人」といいます。そういう世界に入っていくようになるのです。
みなさんが、もう一段の勇気を持つことを望みます。
大川隆法 『神秘の法』第五章「信じるということ」より抜粋
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本日も、皆様とともに主の新復活を祈り続けてまいります。
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Lord EL Cantare is my All. 主こそ私のすべて。
We are The One, with our Lord. 我々は主と共に一体である。
One for All. All for The One. 一人は主のため、隣人のために。みんなは主の悲願のために。
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◆映画「ドラゴン・ハート」伝道植福について
5月23日(金)に全国の映画館にて公開されます映画「ドラゴン・ハート」は大川隆法総裁先生制作総指揮による28作目の映画となります。この映画の大成功に伊勢支部信者全員の信仰心を結集させていただきます。皆様の尊い布施をどうぞ、この映画伝道植福に託して、私たちに縁ある方々の心と魂を救うべく、この映画を主の御名と共に、全国・全世界で広宣流布してまいります。映画伝道植福への喜捨を何卒宜しくお願い致します。
大宇宙の すべての根源であり 地球の創造主であられる
主エル・カンターレ 大川隆法総裁先生
映画『ドラゴン・ハート❘霊界探訪記❘』を賜り
心より感謝申し上げます
本作は 未知なる世界に飛び込む勇気を与え
人類に真実への目覚めを与える映画です
全世界の人々に
霊的真実と主エル・カンターレの御存在を
弘めてまいります
仏弟子一同 力を合わせて
一人でも多くの方を 主のもとへと誘(いざな)ってまいります
■映画『ドラゴン・ハート―霊界探訪記―』四つのポイント■
①「天国・地獄」の存在を知らしめ、全人類の魂を救済する映画です。
映画では、霊界探訪記として現代の地獄の有様を詳細に描いています。つまり、今死んで地獄に落ちるとしたらどんな世界なのかということがリアルに映像体験できる映画です。死後の世界を詳細に紹介することで、「あの世はない」「霊界なんてばかばかしい」と考える人の間違えた考えをカブト割りする映画です。この映画は、このままでは地獄に落ちてしまうたくさんの方々に救いの縁を届ける「魂の救済」映画です。正しい霊界観や信仰を持たない人にこそ届けたい映画です。
②地球の霊的中心地・シャンバラの危機を救う映画です。
今、地球の霊的中心であるシャンバラは、地上世界で、信仰心が薄れ、神仏や霊的世界を信じない人が非常に増えていること、巨大な唯物論科学国家である中国が、インドやネパール等への覇権を強めていることによって、非常な危機にあります。現に中国・洞庭湖のほとりにあるシャンバラの入り口は発見するのが相当難しくなっています。
シャンバラという地球の霊的センターが護られていることで、魂修行の場としての地上世界も安定いたします。もし、シャンバラが崩壊するようなことがあれば、地球を護る霊的結界が失われ、宇宙の邪神やダークマターの悪想念による更なる地球介入を招く事態となります。
本映画は、霊界思想を地球の霊的センターとしてのシャンバラの存在を全世界へと知らしめることによって、崩壊への危機にあるシャンバラを護るという「神の戦い」そのものを描いた映画です。
③全世界の人々が主なる神エル・カンターレと出会い、一つなる道を示す映画です。
この映画は、全世界の人々に造物主エル・カンターレのご存在を知らしめる映画であり、本年の幸福の科学の活動テーマである「日本全国・全世界にエル・カンターレ信仰を打ち立てよう。なお、一歩を進める」の中心となる作品です。
主人公たちの地獄巡りは、現代社会の諸相そのもの。しかし、そうしいた人類の、かつてない混乱、混迷の先には、大いなる規模、救い主の存在があることを示す映画であり、宗教の違いや、民族や国家の枠を超えて、全人類が、主なる神への共通認識の下、一つになる道を示される希望の映画です。
④仏弟子(まだ気づいていない仏弟子)たちがドラゴン・ハートに目覚め、霊的覚醒をうながす映画です。
この映画は、川で河童を追って溺れた主人公の二人が、霊界の天日鷲神に出合い、「霊界探訪で本来の自己に目覚めることができたなら地上に還してあげる」と告げられ、地獄巡りなどの一種の修行を経て、魂の親エル・カンターレと出会い、本来の自分の使命に目覚めるという、宗教的なメッセージが込められた映画です。
純粋な信仰心、そして、救世への本物の念いの確立が求められている今、私たち仏弟子や、まだ目覚めていない一般の方たちの中にいる仏弟子予備軍に対して、霊的覚醒を促す導きの映画であり、私たちのドラゴン・ハートに導かれた旅は、映画公開までに、すでに始まっていると言えるのが本年の活動です。
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。゜+. With Savior 。゜+.
100%エル・カンターレ信仰
―天御祖神とともに―
伊勢から世界に伝える強い信仰
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E-mail:ise@sibu.irh.jp
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https://hsise.com/
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TEL:0596-31-1777
■□■
FAX:0596-31-1778
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エル・カンターレ・大好き
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文責:蒲原宏史
(2/4-1)35経文「エル・カンターレへの祈り」を読む ④真なる幸福への道―新日本国憲法試案⑪
